2014年12月30日火曜日

京都市美術館「改組新第1回日展京都展」を観て

年末の慌ただしさを縫って、上記の展覧会を観て来ました。

昨年の不正審査問題を受けて、旧来の「日展」から名称を変更した
展覧会の第1回展です。

長い歴史を有する、我が国の代表的な公募展の一つですが、連綿と
受け継がれた伝統を継承する過程で、かねてより組織の硬直化の
噂は、私も耳にしたことがありました。

その問題が一気に噴き出したということでしょうか?今回より、
審査方法などを改革して、新たな出発を計るようです。

色々な批判、好き嫌いもあるでしょうが、長年観つづけている
一美術ファンの私は、実は「日展」の醸し出す独特の雰囲気が
好きでした。

毎年観に行くことによって、看板作家のその年の出品作がどのような
出来栄えであるかに期待し、若手の作家が年を追うごとに作品を
成熟させて行く過程を楽しむ。そんな鑑賞方法もありました。

さて、改組ということで、この展覧会にどんな変化が生まれたか?
私は期待を胸に会場に向かいました。

ここでは、いつも重点的に観る、日本画、工芸美術に絞って感想を
述べると、日本画には、表現において現状を変えようという意欲が
垣間見える作品が見受けられ、特に新入選作品には、従来にはない
選考基準が用いられていると感じられるものがありました。

工芸美術、特に私が注目する染色には、若手作家を中心に、色彩が
明るく、生き生きとした作品が多いように感じました。この現象も、前を
向いて進もうという作家の姿勢を示していると受け取れました。

いずれにしても、改革の効果がはっきりと現れて来るのはこれから
でしょう。今後の楽しみの芽生えは少し感じられた、と思います。

2014年12月24日水曜日

店戸棚の棚卸

12月23日、年末の祝日を利用して、恒例の店の戸棚の白生地の
棚卸をしました。

私たちの店では、白生地の切り売りもしているので、棚卸といっても
生地の点数を数えるだけではなく、切り売り用の生地は心棒や
巻板からほどいて、長さを差しで測り、残っている量を確かめ、
帳面上の在庫と照合しなければならないのです。

それで年に一回決算に合わせて、主に店先の棚に置いてある
切り売り用の生地を、仕入先の人にも一人手伝いに来てもらって
全て棚からおろし、ほどき、長さを測り、数量を控え、また巻き直して
棚の元の位置に納めるという作業を行います。

店先の商品だけで、朝9時から始めて夕方5時終了と、丸一日の
時間を費やすので、私たちにとっては一仕事です。ことに幅広の
生地は長さを測るのにも、棒や板に巻くのにも大変手間がかかり、
翌日には慣れぬ筋肉の使い方をして、肩や腕が痛くなるぐらいで、
手伝いに来て下さる仕入先の人にも、毎度ご苦労様と頭が
下がります。

そんな事情で、毎年年末が来ると、よしんば在庫が合わないような
ことがあっても大変ですし、私にとって棚卸は一つの億劫の種に
なります。

しかし今年も無事棚卸が終わり、数量もそこそこ合っているようです。

棚卸は確かに手間がかかりますが、いざ始めてみると一つ一つの
生地を手にすることによって、今年どんな生地が売れたか、また
その商品をめぐってお客さまとどんなやり取りがあったかを、もう一度
振り返ることができます。いわば商売上の一年を回顧することにも
なります。

棚卸終了後のすがすがしさは、達成感とともに、その作業に含まれる
そんな意味合いにもよるのかもしれません。

2014年12月21日日曜日

続 雪の朝です。

この冬初めての雪が積もりました。考えてみれば、年の始めの頃以来
久しぶりです。ふと、その時分のことを思い出しました。

ブログを始めてまだ間がなく、何を書いたものやら思い悩んでいました。
一方で、新しいことを始めた高揚感もありました。結局、時々に感じた
ことを素直に、ありのままに記すことに落ち着きました。

それからずい分月日が流れたような、あっという間だったような気も
します。それでどうなんだと言えば、正直何も変わらないのですが、
一年間近い月日を、目標を立てたことが続けられたということは、
無形の自信になっているような気はします。来年も書き続けたいという
新たな活力が湧いて来ました。

雪の朝は寒さに震えながらも、心が研ぎ澄まされて凛とした気分に
なります。それは私にとって、常日頃、都会の人工的な環境の中で
ぬくぬくと暮らしながら、突然自然からのメッセージを直接に受け取った
ように、感じられるからかも知れません。

ですから雪で様相の一変した景色は、例え小さな庭であっても、
自然によってリセットされた世界のように思われるのです。新生の気と
いうものは、どこか身の引き締まるような、すがすがしい雰囲気が
あります。

その白く輝く景色を眺めながら、来たるべき年に臨む決意を、新たにした
ところです。

2014年12月19日金曜日

漱石「三四郎」における、三四郎と美禰子が小川のほとりで空を眺める場面について

2014年12月17日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第53回)には、菊人形見物に疲れた美禰子と三四郎が小川のほとりに
出て、草の上に腰かけて空を眺めるシーンで、空の様子を描写する次の
表現があります。

「ただ単調に澄んでいたものの中に、色が幾通りも出来てきた。透き徹る
藍の地が消えるように次第に薄くなる。その上に白い雲が鈍く重なり
かかる。重なったものが溶けて流れ出す。どこで地が尽きて、どこで雲が
始まるか分からないほどに嬾い上を、心持黄な色がふうと一面に
かかっている。」

まるで詩の一節のような、美しく、リズム感のある文章です。小説の中の
漱石の文章は、ずい分巧みであることは私なりに認識していましたが、
現実を客観的に描写する場合が多いので、抽象的なものの表現を
試みる時、ここまで詩的になるとは思いませんでした。何か新しい発見を
したような、嬉しい心地がしました。

一方この一節を読んでいると、明治の文明開化の匂いがするように
感じられます。以前、日本の油絵の先駆者である司馬江漢、高橋由一
の展覧会を観に行ったことがあって、その解説に、江戸時代までの日本の
絵師には、空の色を描くという発想がなかった。従って司馬や高橋は
我が国において初めて空を発見した画家ともいえる、という趣旨の説明が
ありました。

漱石はイギリスに留学して、ターナーなどの風景画を鑑賞したといいます。
その見聞の成果は、彼の小説の中にこのような形で結実しているに違い
ありません。


2014年12月17日水曜日

京都市美術「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展」を観て

この秋京都では、19世紀後半から20世紀初頭にかけて西洋の
美意識を揺り動かした、「ジャポニズム」に焦点を合わせた展覧会が
二つ開催されました。先ごろ観た「ホイッスラー展」と本展です。

「ジャポニズム」というと、私たち本家本元の日本人にとっては従来、
いわゆる異国人による自分たちの文化の評価ということで、表面的な
捉え方、分かり切ったことを今更と感じて、軽視するきらいがありました。

しかし当時の西洋美術をより深く味わうためには、その影響関係を
理解することが不可欠でしょう。さしずめ我が国で「ジャポニズム」を
主題とした展覧会が開催され、話題を集めたということは、私たちの
西洋美術を鑑賞する目が成熟を迎えて来ている、と捉えてもいいのでは
ないでしょうか。

さて本展は、五つのパートに分けて展観されます。

冒頭の(1)日本趣味 では、まず西洋人が日本美術に初めて触れた
驚きが再現されます。賞賛を形に表わすべく、初期の「ジャポニズム」は
模倣として登場します。

(2)女性 では、浮世絵に描かれる着飾った遊女の華やかさ、女性同志、
母子の打ち解けた親密な様子の描写が、日本女性を理想的なものとして
受け止めさせたといいます。洋の東西を問わず、人間は自らの身近に
ないものに憧れを抱く傾向があるのでしょう。

本展の目玉、モネの「ラ・ジャポネーズ」は大画面と色彩の迫力、着物の
刺繍の盛り上がりを絵筆で表現する巧みさで、私に従来のイメージとは
違うモネを感じさせてくれました。

(3)シティー・ライフ は、錦絵に見える風俗表現の西洋絵画への影響、
逆に西洋風俗の錦絵への反映を見せ、(4)自然 では、日本美術の
工芸意匠の西洋美術への影響を見ます。

(5)風景 において、浮世絵の風景画に表現された斬新な構図が、西洋の
画家たちに与えた影響を見せるのですが、ここに至り「ジャポニズム」は
それぞれの画家の血肉となるまで深化して、日本美術に
インスピレーションを得た新たな西洋独自の表現法として、確立された
のだと感じられました。

文化の融合について、私たちに深く考えさせてくれる展覧会でした。

2014年12月14日日曜日

漱石「三四郎」における、三四郎が周囲の人びとに見る,都会人気質について

12月11日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第50回)に、東京の光源寺の前で物乞いをする乞食を評しての
広田先生、野々宮さん、美禰子、よし子の会話を聞いた三四郎の
感慨を記する、次の文章があります。

「三四郎は四人の乞食に対する批評を聞いて、自分が今日まで
養成した徳義上の観念を幾分か傷けられるような気がした。
けれども自分が乞食の前を通るとき、一銭も投げてやる料簡が
起らなかったのみならず、実をいえば、寧ろ不愉快な感じが
募った事実を反省して見ると、自分よりこれら四人の方が
かえって己に誠であると思い付いた。また彼らは己に誠であり
得るほどな広い天地の下に呼吸する都会人種であるという事を
悟った。」

これは漱石一流の諧謔でしょうか?四人の会話は、皮肉を込めた
傍観者の物言いです。彼らはこのような乞食を見慣れていて、
その物乞いの仕草が多分に演技性を帯びたものであることを
十分に承知した上で、このような会話を楽しんでいるのでしょうが、
そうではあっても、私はあからさま過ぎて好きではありません。

もしそれが都会人の気質なら、現代社会に向かうにつれて益々
高じることになる、高慢や疎外感、利己主義の先触れであるように
感じるからです。

それに対してまだ都会生活に慣れない三四郎は、この乞食と
遭遇したことによる、自らの心の葛藤と矛盾に素直に思い悩んで
いる。その方がずい分人間的だと感じるのは、私だけでしょうか?

2014年12月7日日曜日

京都文化博物館「野口久光シネマ・グラフィックスー魅惑のヨーロッパ映画ポスター展」を観て

野口久光の名前は知りませんでしたが、博物館前の掲示板の
展覧会予告のポスターに示される、彼の映画ポスターに見覚えがあり、
懐かしく感じられたので会場に足を運びました。

それらの映画ポスターを会場で改めて観ると、原画が手描きという
こともあって、温かい肌触りは無論、現代の映画ポスターと比較して
はるかに奥行き、広がりがあるように感じられます。

これは作者の感性、筆力と共に、対象とする映画に対する理解力、
そして映画そのものに寄せる愛情によるところが大きいのでしょう。
人物、背景の描き方、色彩のトーンは作品によって自ずと違い、作品名、
キャスティング等の文字デザインも、それぞれ野口が相応しいと考える
字体、色で構成されています。また作品の多くの上方の隅に、あまり
目立たないように書き加えられた短文の映画の説明書きも、簡潔な
文章で、観客を誘います。

視点を変えて、本展には彼が描いた映画スターのポートレイトも多数
展示されていますが、それぞれのスターの醸し出す雰囲気が的確に
捉えられて、魅力的な作品となっています。

このことからも明らかなように、野口の映画ポスターは総合芸術とも
言える映画のその作品全体の佇まい、その作品の中での俳優の演技
までも、丸ごと写し込んでいるゆえに、いつまでも観る者を魅了して
止まないのではないか。その証拠にトリュフォーは、野口の制作した
自身の映画「大人は判ってくれない」のポスターを、生涯愛したと
言います。彼のポスターには、元の映画の監督さえ虜にする、作品と
しての力があるのでしょう。

野口は映画ポスターの他にレコードジャケット、本の装丁などにも
優れた仕事を残しました。彼はさしずめ、戦後日本への西洋文化の
伝道者と言えるのではないでしょうか。

2014年12月5日金曜日

龍池町つくり委員会 11

12月2日、第29回龍池町つくり委員会が開催されました。

冒頭、谷口先生のご紹介により、京都市中京区主催の「まちづくり
仕掛け人養成講座」を受講された杉林さんによって、我が委員会
活動のための来年度の企画についてのご提案がありました。

これは、「多世代同窓会in元龍池小学校~思い出をカルタに残して、
楽しく後世に伝えよう~」と題して、世代を超えた様々な人々が一堂に
集い、学区の歴史にちなむカルタを共に制作することによって、地域の
魅力を再発見し、学区の住民間のコミニケーションを深めよう、という
企画です。

この企画を採用するかいなかの委員たちの話し合いの中で、果たして
我々が今現在進めているような各種催しが、新住民と旧住民の融合に
とって即効性があるのかどうかという問いかけがあり、議論は白熱
しました。

大勢の意見は、このような一見地道に見える企画によって、息長く
コミニケーションの糸口を見つけていくしかないというもので、杉林さんの
提案も採用されることとなりました。

一つの企画の採否の話し合いが、思わぬ根本的な問いを巡る議論に
発展しましたが、私たちの活動の意味を再確認するという点において、
価値あるものだったと思いました。

議論の中で、新住民、旧住民と色分けするのではなく、人と人との新たな
絆を結ぶという視点が必要ではないか、という意見があって、大変新鮮に
感じました。



2014年12月2日火曜日

街の中に紅葉を探してみました。

しばらく何かと忙しく、なかなか昼間に散歩をする時間を取ることが
出来なかったのですが、先日の日曜日にはたまたま少し空き時間が
あって、遅ればせながら紅葉を求めて、街の中を歩いてみました。

私の住んでいる京都は紅葉の名所も多く、ピークだった11月後半の
連休は大変な人出だったようで、その時ちょうど通りかかった
二条城の前は、入場を待つ人の列が外堀に沿って延々と続き、
中に入れるのは2時間以上後という有り様でした。

近郊も含め、名だたる名所の紅葉は確かに素晴らしいのですが、
在住の人間としてはあえて人混みに分け入らず、街の片隅に季節の
移ろいを求め、秋を感じることにしたのです。

歩いてみると、そこここの街路樹や、建物の前に植えられた木々の
中には、もう大部分葉を落としてしまったものも多いのですが、時折
まだ鮮やかな紅葉の余韻を残している木もあって、見慣れた街の
日頃気付かないところで、そのような光景に出合うと、何か得をした
心地がします。

歩道に散り敷いた落ち葉も、滑りそうで歩きずらさがありますが、前方に
一面に広がる情景を目にすると、秋の深まりをしみじみと感じさせられ
ました。

公園の銀杏の黄葉も美しく、木々の輝くような黄色と、地上の落葉の
黄色に縁どられた空間で、遊具で無心に遊ぶ子供たちの佇まいは、
まるで画中の中の世界のようにも感じられました。

限られた時間ながら、私なりの秋を楽しむことが出来ました。

2014年11月30日日曜日

山田洋次監督「幸福の黄色いハンカチ」を観て

俳優 高倉健が亡くなり、追悼放映としてテレビの地上波で上映された、
1977年主演作品「幸福の黄色いハンカチ」を観ました。

若い時分に任侠映画が苦手だったので、その流れからも、この日本を
代表する俳優の映画を今まで観ないで来ました。でも「幸福の黄色い
ハンカチ」と「鉄道員」は、是非一度観たいと思っていたので、この機会に
チャンネルを合わせました。

この映画自体は最早語り継がれた存在で、ストーリーも自明ですが、
高倉健はやはり存在感がありました。

心の底にどうしようもない重いものを背負い、じっと耐え続ける男の
演技は、この俳優の独壇場だと感じました。

武田鉄矢、桃井かおり演じる行きずりの軽佻浮薄なカップルのドタバタと、
健さんとその元恋女房の互いをじっと想う心は、見事な対比をもって
描き分けられます。それは古き良き日本への挽歌でもあるでしょう。

高倉健が晩年までぶれることなく、ストイックな役柄を演じ続けられたのは、
先日のNHKのインタビューの追悼放送でも本人が語っておられましたが、
彼のたゆまぬ研鑽の賜物だったのでしょう。なぜなら、寡黙の中に耐える
男を身体で表現するには、実生活においても何らかの制約を自らに課し
続けるほかなかったと思われるからです。見事な役者人生だったのだと
推察します。

高倉健は在りし日の良き日本男児を体現する俳優だったでしょうが、
同時にこの映画は今日の世相から見ると、一方的な男の思い入れを
美化した部分があるようにも感じられました。

そういう意味でも、健さんは日本人の郷愁を演じ続けた役者だったので
しょう。

2014年11月27日木曜日

中野重治著「村の家、おじさんの話、歌のわかれ」を読んで

私は今まで、いわゆるプロレタリア文学にあまり興味を持たなかった
ので、中野重治についても、その名を聞いたことがある、というほどの
知識しかありませんでした。ただ中野というと、その経緯は知らなくとも、
転向という言葉がすぐに結び付きます。今回本書を読みたいと思った
のも、その転向というものがどのようなものであったのかを、知りたい
という気持ちが大きく働いています。

本書中の「春さきの風」は、私に当時、主義者と家族が置かれた過酷な
状況を冷徹に示してくれます。公権力の横暴によって、幼い命をいとも
簡単に失うことになった主義者の無垢な赤ん坊に象徴されるように、
主義者の家族は貧しく高潔、対して公権力の手先は狡猾で滑稽に
描かれているのがやや類型的ですが、悲惨さの中に矜持を失わない
主義者の生き様に迫真性があります。

「村の家」は、中野自身がモデルの投獄され転向したプロレタリア作家と
昔気質の父の葛藤を通して、自らの転向の経緯と転向後の心の有り様を
描く作品です。主人公は弾圧に屈せず、思想、信条を保持し続けようとする
思いと、獄中における肉体的な衰え、また家族の置かれた困難な状況に、
苦悶の末転向を決意し、出獄帰省後、頑固な父に責任の取り方としての
絶筆を勧められながら、書き続けることによる責任のまっとうを決意します。

作者の生き、考え、行動する全てのことに、現代社会に生活する
私たちとは比較にならない、責任、重圧があるように感じられます。我々
日本人は、法律上自由と権利を保障され、また本書に描かれた第二次
世界大戦前に比べて、経済的にもずい分豊かになって、肉体的、精神的な
生の実感が希薄になったのかも知れません。反面、脳内の仮想空間での
煩雑さは確実に増しているに違いありませんが、それを私たちは意識と
して感じることは出来ないのでしょう。本書を読んで、そんな取り留めもない
ことを考えさせられました。

2014年11月24日月曜日

佐々涼子著「紙つなげ!彼らが本の紙を造っている」を読んで

2011年3月11日、東日本を襲った大震災の惨禍から早や3年以上が
経過し、被災現場との距離的な隔たりもあって、この震災の現実感が
徐々に薄れ始めている私にとって、本好きという自身の嗜好からも、
本書の扱う題材の親しみやすさ、具体性は、あまたの震災本の中でも
とりわけ興味をかき立ててくれるものでした。

日本製紙石巻工場が、この国の出版用紙の生産において重要な
役割を担っているということ。これは本書によって初めて知った事実で、
この工場の被災が、震災直後、用紙不足の懸念が囁かれる主な
原因であったことも、この本を読んで納得出来ました。

さて、被災した石巻工場の従業員それぞれの体験談は、当事者にしか
語ることの出来ない具体的真実と迫真性に満ち、読む者の心にぐっと
迫って来るものがあります。

生きるか死ぬかは紙一重で、もちろん運命的なものも大きいのですが、
最も甚大な被害をもたらした津波が、地震の揺れから一定時間を置いて
襲来したこともあって、起こりうる災厄に対してより慎重で危機感を持ち、
いち早く高所へ避難した人が、死を免れたとも言えます。

また私たちの心を打つのは、生き延びた人の多くが、死んだ人々を
見殺しにしたという罪悪感を持っていることで、それほどに生死を分かつ
現場は、生き残った者と犠牲者が手の届きそうな地点にいながら、
絶望的な距離に隔てられていたという厳然たる事実です。

震災による津波で壊滅的な打撃を受けた日本製紙石巻工場は、半年での
一部稼働再開という奇跡的な復興を遂げます。到底不可能と思われた
ものを可能にする!これはひとえに、全従業員の出版用紙の供給を途絶え
させないという使命感とプライド、そして彼らの熱意を持続させた指導者の
ぶれない、明確な目標設定と、鼓舞によるところが大きいと思われます。
日本の企業もまだ捨てたものではない、そういう思いを抱かせてくれる
好書です。

2014年11月21日金曜日

今年もボージョレ・ヌーウ‘ォーの季節、到来

11月20日(木)はボージョレ・ヌーウ‘ォーの解禁日です。

一時は東の端に位置する日本では、世界で一番最初にボージョレを
楽しむことが出来るということで、一種のお祭り騒ぎのようにもてはや
されましたが、最近はその狂騒もずいぶん落ち着いて、ワイン好きが
静かにその時期の到来を待つという雰囲気に、変わって来たように
感じます。

ボージョレというと、私は毎年決まった店で決まった銘柄のワインを買って、
その年の出来具合を味わっています。

京都御苑の南に位置する(有)海老名商店は、元造り酒屋という歴史を
持ち、その店のご主人はワインブーム以前から、自らの造詣の深い
ワインを専門的に取扱い、今日に至っています。

何時頃からか私はその店を訪ねるようになり、ワインの楽しみ方について
いろいろと教えて頂きました。

そしてボージョレの時期に是非にと勧めていただいたのが、今も飲み続けて
いるこの一本です。

これはビジョー社製の新酒で他のものとごこが違うかというと、樽のままで
輸入してこの店で瓶詰めしているということで、出回っている幾多の
ボージョレと比べても、新鮮な味わいがまったく違うように感じます。

さて、今年海老名商店から届いた樽出しボージョレは、色もしっかりとして
新酒にしては力強い味わい、それでいて例年のみずみずしさはもちろん
顕在です。

杯を重ねるほどに、極東の島国に居ながらにして、新酒に沸く現地の気分を
充分味わいました。

2014年11月18日火曜日

龍池学区総合防災訓練、実施

11月16日(日)、京都国際マンガミュージアムをメイン会場として、
龍池学区の総合防災訓練が実施されました。

私は龍池学区の自主防災会の役員をしています。この防災訓練は
私たちの主催する、年一回の主要な行事です。

当日は第一次訓練として震災発生を想定して、各町内の
自主防災部長である町会長さんを中心に「地域の集合場所」に集まり、
第二次訓練として避難場所であるマンガミュージアムに、各町ごとに
避難してもらいます。

続いて今年は第三次訓練として、マンガミュージアムに備え付け
られている防災器具の使用方法の説明、AEDを使用した心肺蘇生法の
説明、三角巾の使用方法の説明と、それぞれの実際の使い方の
体験学習を行いました。

私は防災器具を担当し、停電時に使用する簡易発電機の使い方、
備え付けのテントの設置方法、タンカの使用方法を、体験をしてもらいながら
説明しました。

約70名の地域住民に参加して頂きましたが、まだまだマンション住民の方の
参加は少なく、学区内の広い層の方々に防災意識を高めてもらうことが
相変わらずの課題です。

2014年11月15日土曜日

漱石「三四郎」における、広田先生の自然と人間を巡る講釈について

2014年11月14日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
第三十一回に、広田先生が三四郎に自然と人間の関係について語る
次の言葉があります。

「君、不二山を翻訳して見た事がありますか」

「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうから面白い。崇高だとか、
偉大だとか、雄壮だとか」

「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳する事の出来ない
輩には、自然が毫も人格上の感化を与えていない」

最初、広田先生が何を言おうとしているのか、私にはよく分かりません
でした。でも考えてみると、これは当たり前のことです。

人間も所詮、自然の中の一部でしかないのですから、そんな存在が
自然を表現しようとしても、自分たちの存在する世界の思考の範疇から
抜け出すことは出来ないということでしょう。

もしそんなことが出来ると考えるのなら、それは人間の思い上がり
でしょう。当時にはそういう風潮が広がっていたのか、いやともすると
現代に生きる私たちも、人間本位のそんな思考に陥り易いに違い
ありません。そういう意味において広田先生の言葉は人間への警句と
受け取るべきでしょう。

しかし、ー人格上の言葉に翻訳する事の出来ない輩には、自然が
人格上の感化を与えていないーということは、自然に対して不遜に
なる以前の無知を戒めているのでしょうか。広田先生の言葉は、
なかなか奥深いと感じました。

2014年11月14日金曜日

フローベール著「ボバァリー夫人」を読んで

19世紀フランス文学を代表する恋愛小説です。

恋に恋する美しい人妻エマの奔放な恋愛遍歴と、その果てに自らの人生を
破滅させる様を描きます。夢と愛に生きるエマは魅力的で、彼女の
喜怒哀楽が精緻で客観的でありながら、詩情豊かな表現の積み重ねの中に
描写されて、ページを繰る者は荘厳な白日夢の中を彷徨い、ようやく
抜け出して来たような読了感を味わいます。

エマの抑えきれない熱情に、時として理性では対処出来ない人間の欲望の
性を感じますが、読み終えて一番私の心に引っ掛かったのは、彼女の夫
シャルルの何が、美しい妻を無軌道な生活へと貶める要因となったのか、
あるいはシャルルに一体彼女に対する罪はあるのかということでした。

私にヒントを与えてくれたのは、二人に子供が授かり、エマが再び夫を
愛する努力をする場面。シャルルが薬剤師オメーに勧められて、足の
不自由な村の旅館の下男に最新の矯正手術を行い、結果無残に
失敗をして下男は片足を失うことになります。エマは新しい治療に積極的に
取り組もうとする夫に頼もしさを感じ、失敗後の彼の狼狽と卑屈に、一層
幻滅を深めます。

またシャルルは、妻の不貞に気付くチャンスはいくらでもあったのに、あえて
目をつむり、現実を見ないように務めました。家政は一切妻に任せ、家計の
財政的危機にも無頓着でした。この事実は彼自身が自分の一方的な妻への
愛情に酔いしれる、呑気で夢想家の男であったこと示しているのかも知れません。

ボバァリー家の悲劇は、多情多感な妻と彼女を御することの出来ない内向きで
非現実的な夫の相乗効果によって引き起こされたと感じられます。

人はそれぞれに夢や幸福を追い求めながら、現実は往々にままならぬものです。
その世知辛い世の中で、成功を収めるのはオメーに代表される利にさとい
狡猾な人間です。この人生の不条理をこそ、フローベールは読者に語り掛けた
かったのではないでしょうか?


2014年11月11日火曜日

「ぶらりたついけスタンプラリー」開催

11月9日(日)、「ぶらりたついけスタンプラリー」が開催され、繊維コースを
選んだ子供たちが私たちの店の見学にやってきました。

まず最初に、絹、綿、麻の天然繊維の白生地を実際に手で触れて、
感触を比較してもらってから、それぞれが由来するカイコ、綿花、麻の
写真を見せて特徴を説明しました。

用途の違いなども解説して、絹生地については染上り後の品物も見せて、
白い生地がどのように変化するかも確かめてもらいました。

我が店を訪れた6人の子供たちは、おそらく彼らにとっては初体験の
白生地に触れて、わくわくしている様子がこちらにも伝わります。

質問を受け付けると、目を輝かせて素直な疑問を投げかけてくれました。

最後にあらかじめ用意をしておいた、3枚の厚紙にそれぞれ名前を
伏せて絹、綿、麻のサンプル生地を貼り付けたものを、一人一人が
比べたり、感触を確かめながら、どれがどの生地か当ててもらうゲームを
しました。

あいにくの雨模様でしたが、それぞれにカッパを着た子供たちは、
元気な声で礼を言って、店を出て行きました。

私は自店で対応したので、スタンプラリー全体の様子はその時点では
分かりませんでしたが、後日挨拶に来てくれた京都外国語大学の
学生代表の藤村君のお話では、合計27名の子供が参加して、私たちの
店の体験学習も好評だったということで、胸をなでおろしました。

2014年11月9日日曜日

この秋初めての椿の花が咲きました。

朝庭に下りると、白い椿の花が一輪咲いていました。

この秋は寒暖の差が激しく、通りの街路樹などを眺めていても
着実に葉が色づき始め、季節の移り行きが早いように感じます。

そのためでしょう。我が家の椿も例年より一足早く、花を咲かせて
くれました。

亡くなった父が椿が好きだったので、またこの花樹は町中の手狭な
坪庭の日当たりの悪い場所でもよく花を付けるので、我が家の
庭には椿が多く植えてあります。それ故、全般的に花の乏しくなる
冬に向かうこの季節、殺風景になりがちな庭に華やぎを添えて
くれます。

椿の木は花の色もはっきりとして、葉が常緑で肉厚なので力強い
印象があります。一枝だけ花瓶に活けても様になり、手軽に床に
飾って楽しむことができます。

また庭に咲くこの花には、町中といってもメジロなどの野鳥が訪れ、
愛くるしい姿とさえずりで、私たちの心を和ませてくれます。

あるいは、椿の花が花の形のままに落ち敷くのも、何とも言いようの
ない風情があります。

季節は移り、また椿が私を楽しませてくれる時候となって来ました。

2014年11月7日金曜日

龍池町つくり委員会 10

11月4日、第28回龍池町つくり委員会が開催されました。

今回のメインテーマは、11月9日(日)に迫った「ぶらりたついけスタンプ
ラリー」です。京都外国語大学の学生さんより、当日のスケジュールが
以下の通り発表されました。

午前9時45分  始めの挨拶とルール説明
午前10時    スタンプラリー開始
午前11時ごろ 子供たちが各コースの最終地点に着き、体験学習
午前11時30分 体験学習を終えて、マンガミュージアムに集合
午前11時35分 各コースのタイム、写真集計の後、結果発表
午前11時55分 終わりの挨拶
午前12時    参加賞を配布して、解散

スタンプラリーの詳細は以下の通りです。

薬コース    最終地点 薬神社  体験学習 薬神社の説明
和菓子コース 最終地点 亀屋伊織さん 体験学習 和菓子の説明
歴史コース  最終地点 仲さん宅 体験学習 歴史的建造物の見学
繊維コース  最終地点 拙宅 体験学習 白生地の見学
呉服コース  最終地点 八代仁さん 体験学習 染物体験、蔵の見学

勧誘のチラシは、御所南小学校で約1300枚配布し、また龍池学区の
5年生を中心とした子供たちの自宅には個別宅配した結果、現在の
参加予定者は20名です。これを当日25名ぐらいにはすべく、最後の
勧誘を行っています。
  

 
 

 

2014年11月5日水曜日

漱石「三四郎」における、轢死体を見た三四郎の感慨について

2014年11月4日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第二十四回)に、鉄道へ飛び込み自殺をした若い女の無残な轢死体を
目撃した三四郎が、その感慨を述べる次の下りがあります。

「三四郎の眼の前には、ありありと先刻の女の顔が見える。その顔と
「ああああ・・・・・」といった力のない声と、その二つの奥に潜んでおるべき
はずの無残な運命とを、継合わして考えて見ると、人生という丈夫そうな
命の根が、知らぬ間に、ゆるんで、何時でも暗闇へ浮き出して行きそうに
思われる。」

「三四郎はこの時ふと汽車で水蜜桃をくれた男が、危ない危ない、気を
付けないと危ない、といった事を思い出した。危ない危ないといいながら、
あの男はいやに落付いていた。つまい危ない危ないといい得るほどに、
自分は危なくない地位に立っていれば、あんな男にもなれるだろう。
世の中にいて、世の中を傍観している人は此処に面白味があるかも
知れない。」

若い三四郎にとっては、さもショッキングな出来事であったに違い
ありません。人の生のはかなさ、むなしさを感じたのもむべなるかな
と思います。さぞゾッとしたことでしょう。

しかし次の瞬間、彼は件の水蜜桃の男のことを思い出して、このような
おぞましい出来事も第三者の目で傍観できる人間になれれば、
慌てふためくことなく自らの人生を味わうことが出来るのではないかと
かんがえます。

ここには、作者漱石の諧謔を好む性癖が、色濃く反映されているでしょう。
なお、「危ない危ない」など同じ言葉の繰り返しが、文章に独特のリズムを
生み出していることも、見逃せません。

2014年11月2日日曜日

京都国立近代美術館「ホイッスラー展」を観て

19世紀中葉の画家、ホイッスラーの名前は知っていましたが、このように
作品を体系立てて観るのは初めてです。期待に胸を膨らませて、会場に
向かいました。

最初に目に付いたのは、版画作品の精巧さ、美しさです。彼は地図版画の
画工から出発したといいますが、それ故でしょう、対象を捉えるデッサン力と
確かな版画技術が融合して、端正で優美な作品に仕上がっています。
彼がその後に展開する色彩の諧調を重視した、決して大仰ではない優雅で
感覚的な絵画の素地が、これらの版画作品から十分にうかがえると感じ
ました。

人物画で興味を惹かれるのは、ラファエル前派との影響関係です。彼は
ロンドン、パリを行き来して絵画を制作したといいますが、画業の盛期の
人物に往々に見られるものうげな姿態や表情には、その影響が色濃く
現れていると感じました。事実彼は、ラファエル前派の中心的な画家の
一人ロゼッティとも、親交を持っていたといいます。同時期のフランス絵画、
イギリス絵画の影響を受けながら、独自の画境を開いた様子が
見て取れます。

次に、ホイッスラーの絵画を語る上で重要な要素であるジャポニズムに
ついて。私は東洋的な文物や衣装を描き込んだ人物画より、構図上に
影響を感じさせる風景画により、彼の美的価値観と東洋的な意匠の
見事な融合を感じます。「青と金色のノクターン:オールド・パターシー・
ブリッジ」では、広重の浮世絵の橋を描く大胆な構図にヒントを得ながら、
全体を覆う藍色の濃淡の上にほの見える印象的な黄色で町の灯と
花火の瞬きを表して、幻想的で詩的な情景を描き出すことに成功して
います。彼は日本美術の外見の特徴だけではなく、ただ無心に、形や
気分のおもしろさ描き出そうとする美意識の核心を、感受していた
のではないかと思わせられました。

ホイッスラー展は、一口に西欧近代絵画といっても様々な価値を求める
絵画があり、また19世紀は美術においてもグローバルな関係が生じ
始めた時代であることを、改めて感じさせてくれました。

2014年10月29日水曜日

漱石「三四郎」における、与次郎の小さん論について

2014年10月27日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第十八回)に、与次郎が三四郎に、当時の落語家小さんについて語る
次の記述があります。

「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。
何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と
時を同じゅうして生きている我々は大変な仕合せである。今から少し前に
生まれても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。」

小さんはとても優れた落語家だったのでしょう。でも残念ながら私にとって、
想像の域を出ません。しかし与次郎のこの言葉は、広く舞台芸術、芸能を
鑑賞する心構えとして、心に残りました。

今日では映像、音響メディアが発達し、演劇、音楽、伝統芸能なども、
実際に生で鑑賞するのではなく、テレビ番組で見たり、DVDやCDで
間接的に楽しむことが多くなりました。

しかしこのような間接的な鑑賞は、本来現場で観客との一体感の中で
演じられる種類の芸術にとっては、ともすれば本質を味わうことの
出来ない疑似体験に陥ってしまうのではないでしょうか?

もちろんこれらのメディアの存在は、この種の芸術を身近にしました。
その効用は無論否定できません。しかしその手段で楽しむ時は、
ライブとは違うことを心の隅に置いておく方が、その芸術に対する
感じ方に深みが生まれるのではないでしょうか?

明治時代の与次郎の物言いとはある意味逆説的ですが、この文章を
読んでそんなことを感じました。
                


2014年10月26日日曜日

滋賀県立美術館「世界の名画と出会う」-ピカソ、マチス、ウォーホルの版画からーを観て

この美術館の開館30周年を記念して開催された、所蔵の版画作品を
展観する館蔵名品展の第一弾です。

本展の冒頭の展示作品は、船越桂「Quiet Summer」です。船越は人物の
木彫作品で世界的に評価される作家ですが、版画においても意欲的な
創作活動を続けていて、この作品は木彫で注目され始めた初期の
時期の作品です。

白をベースにしたモノトーンの中で、着用するジャケットの深い黒が
鮮やかに浮かび上がり、肖像の頭部を取り囲むような多数のほの黒い
かすれは、この人物を粘土などでこねあげて造形した痕跡のように
感じられます。平面でありながら、彫刻家の制作らしい立体的な作品に
仕上がっています。

ピカソの版画作品は、キュビスムの立体を解体した幾何学的な描写に、
新聞の印刷文字のコピーを加えることによって、作品にリアリティーを
獲得するための工夫を見せ、マチスのそれは、色彩豊かな油彩画とは
違って、線描ゆえのデッサン力の素晴らしさ、造形感覚の豊かさを
示します。

現代美術に移って、ポップ・アートのウォーホルは、ロゴだけが違い、
他は寸分たがわぬキャンベルスープ缶の作品をずらっと並べることに
より、大量消費時代に伴う無機的な社会を告発し、彩色のそれぞれ
違うマリリン・モンローの顔写真を縦、横に配列することによって、
現代社会におけるシンボルというもののはかなさ、虚構性を明らかに
します。

多様な展開を遂げる版画の魅力を目配りよく示す、好企画でした。

2014年10月23日木曜日

時代祭 藤原公卿参朝列

10月22日に、京都市内で110回目の時代祭が行われました。

あいにくの雨模様でしたが、無事滞りなく執り行われて、よかったと
思います。

時代祭行列は、京都全市域の市民組織「平安講社」によって
運営されていて、私たち龍池学区民は平安講社第三社に属し、
9学区の輪番制で、平安時代の摂関政治全盛期に宮中へ向かう
行列を再現した、藤原公卿参朝列を受け持っています。

今年は9年に一度の担当年に当たり、祭り当日を期して準備が進め
られて来ました。

当日は早朝より、旧龍池小学校(現京都国際マンガミュージアム)で、
行列参加者は衣装付けを済ませ、学区内を巡行後京都御所に到着し、
正午から始まる時代祭行列に臨みます。

写真は、学区内を通り御所に向かう参朝列を写したものです。

私も9年前に参加しましたが、慣れない衣装に四苦八苦しながら、
学区内では顔見知りの人々の励ましに意を強くし、本番の行列では
多くの見物客に晴れがましさを感じました。

それまで年中行事の一つとして、漫然と眺めていた時代祭が、私たち
市民によって長きに渡り担われて来たことを、初めて実感した経験でも
ありました。

2014年10月21日火曜日

最相葉月著「セラピスト」を読んで

社会的ストレスは増大し、人と人の絆はますます希薄になって、
生きることに何かと緊張を強いられる現代社会。心の病の問題は
より身近で切実なものとなって来ています。

本書は、自らも精神的な不調を抱えるノンフィクションライター
最相葉月が、河合隼雄、中井久夫という今日の日本の心理療法の
礎を築いた二人の巨人の足跡を跡付け、自ら被験者となって
セラピストとクライエント(患者)が形作る世界を明らかにする、
体当たりの書です。

私は本書を読んで、治療者としての河合と中井の、クライエントへの
接し方に感銘を受けました。つまり彼らは、自らがすすめる箱庭療法、
絵画療法といった心理療法を、被験者の適性を見極めた上に、
あくまで実際に受けるかいなかは本人の意思に任せ、当人が制作、
作画を始めてからも極力口出しはせず、するがままを忍耐強く見守る
のです。そこにはクライエントを信頼し、病気は本人があくまで自分の
力で治癒するものだという、明確な意志と思想があると感じました。

また心を病む人は、回復直前に突然悲しみに襲われ、自殺する
者さえあるといいます。これは精神障害を抱える人にとって、病んで
いる状況とはいえその精神状態こそが日常であり、自らの心が
治療に向かうということは、普段の心の状態が大きく組み替えられる
ことになって、本人に不安や孤独を感じさせるようです。

人間の心の不思議さであり、それゆえセラピストはクライエントに
最後まで添い遂げる覚悟が必要なのでしょう。

2014年10月19日日曜日

高校野球観戦に西京極へ  

10月18日に、久々に高校野球を観にわかさスタジアム京都に行って
来ました。

来春の甲子園での選抜高校野球大会の選考基準となる、秋季近畿
高校野球大会が開催されていて、ゆかりのある立命館宇治高校を
応援するため、野球部員の応援団席に近い、三塁側内野席に座り
ました。

神戸国際大付属高校との試合は、互いに四死球が多く、やや大味
でしたが、二転三転の手に汗握るシーソーゲームで、八回に再逆転
した立命館宇治が11-7で勝利を納め、応援側としても大いに
満足しました。

久しぶりに訪れた野球場は、好天に汗ばむ陽気で、芝の緑も美しく、
しばし浮世の雑事も忘れて、目の前に展開するスリリングなゲームに
集中させてくれます。

野球部員の応援団は、太鼓をたたき、一人が道路工事用のコーンの
先っぽを切った巨大メガホンを口に当てて、選手を鼓舞する勇ましい
言葉、応援席を奮い立たせる、ある時はひょうきんなフレーズ、また
ある時は力強い言辞を絶叫し、チャンスには全員立ち上がり、歌い
踊って、チームと応援席に一体感を演出します。

また、野球観戦自体も、テレビでカメラの視点で一部を切り取って
観ているのとは違い、スピード感、迫力は無論のこと、全体の選手の
連動した動き、遠目にも選手のたたずむ雰囲気からにじみ出る個々の
息づかいが直に感じられて、試合を堪能することが出来ました。

たまには球場での野球観戦もいいものだと、改めて思いました。



2014年10月17日金曜日

漱石「三四郎」における、三四郎の孤独感

2014年10月16日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
三四郎(第十一回)に、三四郎が東京帝国大学の構内の池の端に
しゃがみながら感じる孤独感について、以下の記述があります。

「三四郎が凝として池の面を見詰めていると、大きな木が、幾本となく
水の底に映って、そのまた底に青い空が見える。三四郎はこの時
電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠くかつ遥な心持がした。しかし
しばらくすると、その心持のうちに薄雲のような淋しさが一面に広がって
来た。そうして、野々宮君の穴倉に這入って、たった一人で坐っている
かと思われるほどな寂寞を覚えた。」

三四郎は、今まで感じたことのない寂しさに囚われいます。

まず彼の心に浮かんだ遥かなものへの思いは、科学的探究心に対する
憧れでしょうか?しかし同時に彼は、世間とは離れて学問に没頭する
野々宮君を尊敬しつつも、自分自身は世俗的なものから逃れられない
ことを感じています。

例えば、なまめかしい女性の魅力もその一つです。それら人との関わり、
あるいは人間的なものへの絶ちがたい思いが、寂寥感となって彼に
覆いかぶさって来ているのではないでしょうか?

私自身、高校生の頃、大学生の頃には、一人でいる時、しばしば孤独感に
苛まれていました。自分が世間から孤立しているような感覚に、囚われて
いたのです。

今から振り返ると、この心の状態は、人間が社会的な存在になるための
準備段階の心象風景かもしれません。

三四郎の心も東京へ出て来て一気に、大人の仲間入りをしようとしている
のに違いありません。


2014年10月15日水曜日

京都国立博物館平成知新館オープン記念展「京へのいざない」を観て

京都国立博物館の新しい平常展示館、平成知新館が完成したました。
それを記念して同展示館で展覧会「京へのいざない」が開催されたので、
行ってみました。

同展は、絵画、書跡、彫刻、工芸、考古から選りすぐりの名品を展観する
ことによって、京文化の粋を明らかにしようとするもので、通期で国宝
約50点、重要文化財約110点を展示する豪華な展覧会です。

さて展示室に入ると、まず私たちを迎えてくれるのは仏像彫刻群です。
このコーナーでは、僧形の顔が中央より二つに裂けて、中から十一面
観音が顔をのぞかせる様をリアルに形作った、宝誌和尚立像(西往寺蔵、
重文)が最も印象に残りました。この像が建立された時代に、SFと見紛う
ような表現が試みられたという事実は、人間の発想の時を超えた遥かな
広がりの可能性を示しているように思われます。

私の今展の目当ては、肖像画、伝源頼朝像(神護寺蔵、国宝)で、実際に
目にしてみると、線と面の表現がゆるぎない存在感を持って迫って来ます。
西洋絵画のような肉感的な量感はないのに、シンプルな構成だけで、
確かな実在感を現出しているのです。またそれは同じ東洋の絵画でも、
自在な筆勢と墨の濃淡で奥行やふくらみを表現する、中国の水墨画とも
違う、簡潔さの中に存在そのものを凝縮したような、抑制の効いた禁欲的な
表現となっています。

この表現手法には、以降の日本の文化、美意識全般に通じるものを感じ
ました。

なお京都国立博物館では、10月7日より明治古都館(本館)で、特別展覧会
「修理完成記念、国宝鳥獣戯画と高山寺」も開催されていて、両館の
展覧会を楽しむことが出来ます。

2014年10月13日月曜日

龍池町つくり委員会 9

10月7日、第27回龍池町つくり委員会が開催されました。

今回は冒頭、第二回龍池茶話会in大原の結果報告がなされ、次回の
活動である「ぶらりたついけスタンプラリー」のより具体的な説明が、
この催しを企画した京都外国語大学の学生さんより行われました。

この企画は、参加する地域の子供たちが、学生たちと一緒に
スタンプラリーをしながら龍池学区内を巡り、最終的には地域に
ゆかりの深い歴史、繊維、薬、織物のコース別の該当の場所で
体験活動を行い、この町の魅力を発見してもらおうというものです。

日時は11月9日(日)、9:30国際マンガミュージアム集合、
スタンプラリーをしながら地域を歩いたのち、ミュージアムに戻り、
結果発表後、12:00解散予定です。

繊維コースでは、子供たちが私たちの店を訪れ、我々が取り扱う
白生地の種類やそれぞれの特徴について私が説明し、実際に手に
触れて違いを確かめてもらう予定なので、私自身が何かわくわくして
います。

この催しの広報活動としては、御所南小学校の協力を得て、校内でも
勧誘のチラシが配られ、また、龍池学区の区民運動会でも、この催しを
告知する町つくり委員会の広報誌「たついけ・まちつくり2」が配布された
ので、一定の参加者が集まることを期待しています。

漱石「三四郎」における、汽車で乗り合わせた謎の男の言葉

2014年10月10日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第八回)に、三四郎が初めて東京に出て行く時、汽車に同乗した
見知らぬ男が彼に語る、次の言葉があります。

 「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より・・・・」でちょっと
切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
 「日本より頭の中の方が広いでしょう」といった。 「囚われちゃ駄目だ。
いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」

有名な文句です。漱石の思いは三四郎にも、この男にも投影されている
ように感じられます。

ロンドンに留学した時漱石は、浜松の駅で見かけた美しい西洋人に
対する三四郎の感慨と同様のものを感じ、劣等感を抱いたのでは
ないでしょうか?

また「三四郎」執筆当時の漱石は、留学という経験によって随分視野を
広げ、日本という国と日本人を客観的に見ることが出来るようになって
いたと、推察されます。

それにしても、明治という時代にありながら、驚くほど卓見です。

日露戦争戦勝直後の日本は戦勝気分に沸き、西洋何するものぞという
気分が広がっていたのでしょう。

一つの目標のために一致団結し、勤勉で誠実に努力するのが日本人の
美質と思いますが、またその場の気分に踊らされやすいのも、歴史が
証明する事実でしょう。

その日本人の特質を踏まえて、漱石は若い三四郎に跡を託す形で、
もっと客観的で広い視野を持てと語り掛けます。

2014年10月10日金曜日

丹波黒枝豆を求めて篠山までドライブへ

先の日曜日、丹波篠山までドライブに行きました。

京都から亀岡経由、湯ノ花温泉、瑠璃渓そばを通って篠山市まで、
約一時間四十分ほどの道のりです。

台風が近づきあいにくの曇り空でしたが、幸い雨にはならず、道も
比較的すいていて、車は快調に進みました。

亀岡あたりからは、道々に時折かたまって咲くコスモスが、不意に
目に飛び込んで来て、秋を感じさせてくれます。

篠山市は歴史のある落ち着いた城下町で、篠山城跡は私の
気に入りのスポットですが、今回のドライブの一番の目的は、何と
言っても黒枝豆を手に入れることでした。

黒枝豆は、正月におなじみの黒豆をまだ若く柔らかいうちに食べる
もので、収穫期間は二週間ほどしかありません。

収穫期には篠山近郊の農家がテントを出して販売していて、私も
その中の一軒で枝付の一束を買いました。

家に帰って、早速枝から豆のさやを一つづつ切り離し、ボールに
入れてよく洗い、塩もみして大鍋でゆでます。

購入した農家の主人に教えてもらった通り、水からゆでて、あくを
取りながら沸騰後十五分、ざるで水けをきって、皿にもって
出来上がり。

熱々の枝豆は、大粒で柔らかく、ほのかなコクがあって、絶妙の
味わいでした。


2014年10月8日水曜日

漱石「三四郎」における、三四郎の臆病さについて

2014年10月6日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第四回)に、事の成り行きで、三四郎と一つ寝床で休むこととなった
初対面の女が、翌日別れ際に彼に語る、次の言葉があります。

「女はその顔を凝と眺めていた、が、やがて落付いた調子で、
  「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」といって、にやりと笑った」

さて困りました!なぜなら、三四郎と同じ年頃の自分を思い返して見ても、
女性に奥手の私もこのような状況になったらきっと、彼とあまり変わり映え
しない行動に出たに違いないと思うからです。

女性に興味はあるけれども、何か自分とは異質なものとして、はれものに
触るようにしか接することが出来ない。

だから、三四郎の狼狽は手に取るようにわかります。

でも女の言葉は、彼にとっても突拍子もなく、予想外だったでしょう。
郷里から東京の大学に向かうという自負を持ちながら、その実はまだ
うぶで世間知らずな若者です。自分の驚愕によって図らずも、これから
否応なく巻き込まれることとなる、大人の世界の複雑さと、待ち受ける
前途多難を、ひしひしと体感したというところでしょうか。

以降の彼の女難をも想起させるニュアンスを含んだ、なかなか絶妙の
物語の導入部分です。

2014年10月5日日曜日

初秋の味覚カボスを頂きました。

大分県のお客様より、恒例のカボスが届きました。

カボスはおもに大分県で産し、よく似ているスダチよりも少しおおぶりで、
甘味がやや強く、酸味もまろやかに感じられます。

焼き魚や天ぷらに搾りかけたり、鍋の薬味、みそ汁、吸い物に皮ごと
薄く切って浮かせたり、様々な楽しみ方がありますが、私の気に入って
いるのは、何と言っても、焼酎のカボス割りです。

氷入りのグラスに焼酎を中ほどまで注ぎ、横に半分にスパッと切った
カボスをぎゅうっと搾りかけます。たっぷりと注ぐのが私の好みです。

一口含むと、さわやかな酸味と甘みのハーモニーが一瞬のうちに
口全体に広がって、アルコールとの絶妙の取り合わせで、心地よい
気分に誘ってくれます。

例年、この最初の一杯の味わいが忘れられなくて、また来年が
待ち遠しくなります。

おっと!その前に今年のカボスを十分に味わわなければ・・・
ついつい杯が進みます。楽しい秋の夜長です。                   

2014年10月2日木曜日

渡辺京二著「幻影の明治」を読んで

「逝きし世の面影」で、私が従来抱いていた江戸時代のイメージを、
庶民の視線から心地よく覆してくれた渡辺京二が、明治という
時代の一大転換期を、今度はどのようなものとして開示するのか、
期待を胸にページをめくりました。

冒頭彼がそのための手掛かりとするのは、山田風太郎の大衆小説
です。風太郎は通俗的な小説家として名の知られた存在ですが、
先日私が読んだ「同日同刻」などからも明らかなように、歴史資料を
広い目配りで丹念に調べ上げ、独特の目線と嗅覚で物語る、時代の
気分を巧みにすくい上げた作品を書いたということです。

風太郎の大衆小説には、渡辺の語るところによると、旧価値の
呪縛から逃れられない人々、欧米的な合理主義、功利主義の
広がりに対して、義理人情や倫理観から抗う人々が頻繁に登場
します。

時代の転換は人々の精神世界において、決して予定調和的に
実現された訳ではないのです。

他方渡辺は、風太郎の作品に息づく庶民性と比較して、批判的に
司馬遼太郎「坂の上の雲」を取り上げます。第二次世界大戦の
失敗を前提に、明治期ナショナリズムの高揚を牧歌的に謳い上げて
いるからです。そこでは、明治の近代化の成功を際立たせるために、
江戸期の遺産が意図的に貶められているといいます。

私たちを高所から心地よく鼓舞するものには、常に冷静に一定の
距離を置いて対することが望ましいということを、示唆してくれている
ように思われます。

2014年10月1日水曜日

漱石「三四郎」106年ぶりの新聞連載によせて

2014年10月1日付け朝日新聞朝刊から、夏目漱石「三四郎」の再連載
が始まりました。

「うとうととして眼が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を
始めている。この爺さんは慥かに前の前の駅から乗った田舎者で
ある・・・」

私は、漱石の小説は「吾輩は猫である」、「ぼっちゃん」そして「こころ」
を読んだだけなので、-森田芳光監督の映画「それから」は観ました
ーこの再連載を非常に楽しみにしています。

「こころ」は一度読了してから、新聞連載という形で再読し、新たな
魅力を見出すことが出来ました。

それに対して、「三四郎」はまったく初めて読む上に、しかもこの小説が
発表された当初と同じ新聞連載で読み進めることになるので、
どのような読後感を得られるか、期待に胸がふくらみます。

さて「三四郎」の始まりは、漱石の作品らしく快調な独特のリズムで
滑り出しました。まるでオペラの序曲のように、読むものは自然に
物語の世界に入って行けます。

連載前の予告から、三四郎と女性を巡る物語という予備知識も
あるので、その点も意識しながら読み進めて行きたいと思います。

冒頭から戦争批判も飛び出して、漱石の硬派な部分も垣間見えます。

2014年9月29日月曜日

第二回龍池茶話会in大原学舎

9月23日に第二回龍池茶話会in大原学舎が開催されました。

当日は大原郊外学舎に集合。薪の斧を使った細断から始め、
参加した子供たちに薪くべを手伝ってもらって、コッヘルでご飯を
炊きました。

炊き上がった白米を、子供たちに素手で握ってもらっておにぎりを作り、
あらかじめ用意した豚汁を副菜に、楽しく昼食をとりました。

午後は子供たちは、大原の外れの音無の滝までハイキング。残った
大人は、地元の自治会長佐竹様より、大原の歴史、散策ガイド、
地域の抱える問題等のお話を伺いました。

大原地区は朝市の活況、地元在住のハーブ研究家ベニシアさんの
活躍などにより知名度も上がり、農産品の販売も順調に推移している
ということですが、反面一帯が市街化調整区域のために新たな家も
建てられず、これからの人口減少が懸念されているようです。

また、シカによる獣害が深刻で、周囲を囲う大規模な金網の柵を
巡らせたということですが、そのメンテナンスも大変なようです。

ところ変われば、それぞれの地域の成功した試み、また切実な課題も
あり、私たち龍池町つくり委員会のメンバーにとっても、有意義な
お話でした。

今回の茶話会の問題点としては、広報誌の発行等告知活動を
充実させたにも関わらず、新住民の方の参加がなかったことで、
これからも地道な取り組みが必要と、改めて感じました。

2014年9月26日金曜日

漱石「こころ」の再連載が終わって

2014年9月25日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(110)で、この小説は終わりました。

「こころ」をこういう形で再読して、新たな感興も生まれ、また前回よりも
深く味わうことが出来たと感じました。

その要因として、一つはあらかたの筋を知り、それをなぞることが出来た
事、もう一つは、前回は文庫本で一気に読み通したものが、今回は
新聞連載という形で一回づつを丁寧に味わうことが出来た事を、
上げられると思います。

今回再読して新たに感じ、気づいたことは、先生のKや御嬢さん、
奥さんとの接し方は、肝心なことを伝える言葉の欠如という点で、今日の
意思疎通が重視される社会の慣行にあっては欠点が際立ち、事実、
先生のこの沈黙が重大な悲劇を生みだしたのですが、先生がお嬢さん
との結婚後も、一方的に周りの人間を不幸にする独りよがりで、だめな
人間かというと、それは違うのではないかと思いました。

つまり先生は、自分の中に人間の原罪としての利己心を見出し、愛する
妻の純真を自己犠牲をもって守ろうとしたのではないか、と感じたのです。

自らの罪を認識し、贖罪の意識を貫き通すことは、並の意志では不可能
でしょう。それほど芯の通った人間であるという意味で、先生は私たちの
良心を常に鼓舞してくれる存在であると感じました。

2014年9月24日水曜日

漱石「こころ」の中の、先生の普遍的なものとしての罪の意識について

2014年9月23日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(108)に、次の記述があります。

「私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私を
Kの墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。
そうしてその感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私はその感じの
ために、知らない路傍の人から鞭たれたいとまで思った事もあります。」

先生が終生Kの死について、妻に対して沈黙を守ったのは、普遍化された
罪の意識の自覚によるということが、ここで明らかになります。

最初は、自尊心や羞恥心、また保身のために語らなっかのが、ついには
人間が生きていく上で避けることの出来ない、罪というものを正面から
見据え、自らを罰するためにあえて語らないという心境に至った
のでしょう。

もしそうならば、先生がKの秘密を守り通した理由も、私なりに少しは
理解することが出来るような気がします。

先生は自分一人が罪を引き受けることが、Kの心を慰謝し、妻の母と
妻の心の平安を守ることになると考えたのでしょう。

ここに、先生の自己犠牲を伴う優しさが見えて来ます。

2014年9月22日月曜日

漱石「こころ」における、先生の孤独

2014年9月22日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(107)に、先生が自らの孤独について語る次の記述が
あります。

「私は心のうちで悲しかったのです。それでも私は妻に何事も説明する
気にはなれませんでした。」

「理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うと
益悲しかったのです。私は寂寞でした。何処からも切り離されて
世の中にたった一人住んでいるような気のした事も能くありました。」

事情を説明する手段はあるのに、先生は恥ずかしさとプライドに
邪魔されて、妻にKの自殺の経緯を語ることが出来ません。

そのために、愛する妻に理解されないと感じる先生の孤独は、どんどん
深まっていきます。

なんという矛盾、理不尽、悲しい事態でしょう!ついには、厭世的な
気分にもなって行きます。

では、そこまで自らの立場を貶めながらも、先生をして最後まで語ることを
思いとどまらせた原動力は、一体何だったのでしょうか?

そこがなかなか解らない。その思いは今も続いています。

2014年9月19日金曜日

漱石「こころ」における、先生が妻にKの死の真相を語らなっかった理由

2014年9月19日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(106)に、先生が妻にKの死の背景を語らなっかった
理由について、自身の思いを語る次の記述があります。

「私は一層思い切って、有りのままを妻に打ち明けようとした事が何度も
あります。しかしいざという間際になると自分以外のある力が不意に来て
私を抑え付けるのです。」

「私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明け
なかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、
私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。」

先生が妻に事の真相を語ったなら、先生とその妻の家庭は、随分違った
ものとなったでしょう。二人の絆は強いものになったに違いありません。
事実先生も、もし語ったら妻は理解してくれるに違いないと考えて
いました。

ではなぜ話さなかったのか?その理由として先生は、妻の記憶を
汚したくなかったと言います。でも本当にそうでしょうか?私には
それは建前でしかないように思われます。

確かに先生は、自身を高潔に保とうとする強い意志を持っています。
その価値観からすると、先生のもの言いは筋が通っています。

でも私には、先生が自分の威厳を失うことを恐れて、語らなかった
のだと見えます。なぜなら、妻をいたわるそぶりをみせながら、実は
妻の思いにまったく頓着していないからです。

それとも、これは自分がたとえ悪者になっても意思を押し通す、明治の
男のやせ我慢!そう考えると、明治と現代、彼我の時代の違いを
感じずにいられません。

2014年9月17日水曜日

漱石「こころ」における、先生の罪の意識と贖罪観

2014年9月17日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(104)に、Kの遺体をとにかく安置し終えた先生の心の働き
について、次の記述があります。

「事件が起こってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時漸やく
悲しい気分に誘われる事が出来たのです。私の胸はその悲しさのために、
どの位寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の
心に、一滴の潤いを与えてくれたものは、その時の悲しさでした。」

「私も今その約束通りKを雑司ヶ谷へ葬ったところで、どの位の功徳に
なるものかとは思いました。けれども私は私の生きている限り、Kの墓の
前に跪まずいて月々私の懺悔を新たにしたかったのです。」

悲しさによって心がくつろぐという感覚が、最初解りませんでした。

先生はそれほどまでに罪の意識にさいなまれ、身を締め付けられて
いたのでしょう。さらには、わが身を守ろうとする本能的な危機感もあった
と思われます。

しかしそのようなこころの状態の中で、親友Kの死に対して悲しみを感じる
ことが出来たということは、自分の人間的な心情の発露にわずかな救いを
見出したということでしょうか?

それでは、あまりにも悲しすぎます。先生が自らに課したKの墓参も、
贖罪のための苦行のように思えてきました。

2014年9月15日月曜日

秋の味覚、秋刀魚の炭火焼きに挑戦しました。

新鮮な生の秋刀魚が手に入り、徳島から今年収穫したスダチも
いただいたので、せっかくなので炭火焼に初挑戦しました。

軽便なコンロと備長炭を買って来て、まず火を熾します。

ところが、着火剤を使ってもなかなか炭に燃え移りません。
時間も限られているので、金属製の火熾し器を利用しました。

炭を火熾し器に入れてガス火にかけると、間もなく炭の表面が
赤く熾って来て、その炭をコンロに移します。

小さいコンロなので、秋刀魚に火がまんべんなく行き渡るように、
一匹づつ交互に並べて焼き始めました。

コンロの中は炭がだんだん赤く熾るだけで炎が上がるでもなく、
熱が充満して来て、秋刀魚の火に当たっている表面が、本当に
ゆっくりと色づいてきました。

突然、魚から出た脂が炭に落ちて、ジュウという音と共に白い
煙が上がり、香ばしいにおいが漂って来て、しばらくそのまま火に
かけてから、同様に反対の面も焼いて出来上がりです。

その間約三十分、待ちに待った秋刀魚の炭火焼きに大根おろしを
乗せ、スダチを搾りかけ、しょう油をたらして食べると、熱々の
脂ののった秋刀魚の身のホクホクした味わいと、大根おろしの
苦味、スダチの酸味と香り、しょう油のコクが一体となって、
得も言われぬおいしさを楽しむことが出来ました。

2014年9月13日土曜日

漱石「こころ」における、Kの死について

2014年9月12日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(102)に、Kの死に直面した先生の衝撃と心の揺れが
記されています。

「私が進もうか止そうかと考えて、ともかくも翌日まで待とうと決心したのは
土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。
私は今でもその光景を思い出すと慄然とします。」

「その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時の
それとほぼ同じでした。私の眼は彼の部屋の中を一目見るや否や、
あたかも硝子で作った義眼のように、動く能力を失いました。」

私は、前回この小説を読んだ時にはまったく思い浮かばなかったのですが、
学卒後就職して間もなくのある出来事を思い出しました。

新入社員研修を終えてとある地方の支店に配属された時、少し遅れて
もう一人の新人がその支店にやってきました。

小さい支店で新入社員は私と二人だけ、上司は私たちを競わせて、
一人前の販売員にしようとしました。

数か月後、私がとにもかくにも見習い販売員として数件の得意先を
任された時、もう一方の新人の彼は、まだ自信がないと言って一人で
職務を行うことを躊躇していました。そうして間もなく、突然彼は自殺して
しまったのです。

青天の霹靂でした。その時の驚愕は今でも鮮やかに思い出します。原因が
わからないだけに、私の存在が彼の死の引き金になったのではないかと、
ずいぶん悩みました。後に私がその会社を辞める遠因の一つにもなった
くらいです。

身近な若い人の自裁はそれほど衝撃的で、ましてや親友Kに対して
後ろめたいところのある先生の罪の意識は、いかばかりでしょう。

2014年9月12日金曜日

漱石「こころ」における、先生の結婚申し込み

2014年9月9日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(99)で、ついに先生が御嬢さんとの結婚を奥さんに
申し込み、奥さんは次のように答えています。

「宜ござんす、差し上げましょう」

「差し上げるなんて威張った口の利ける境遇ではありません。どうぞ
貰って下さい。御存じの通り父親のない憐れな子です。」

「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子を遣るはずが
ありませんから」

実にあっけなく、はたして御嬢さんも先生のことを好きかどうかという、
先生の疑念が晴れました。

これほど持って回った手続きを取らなくてもよかったら、Kとの間の
悲劇も生まれなっかたことでしょう。ここが前回読んだ時、もっとも
じれったく感じたところです。

しかし、明治という時代の男女の関係、先生の若さ、誇り高さ、内気さに
思いを巡らせると、決して不自然ではないように、今は思います。

このように考えるとこの小説が、ずいぶん時代がかったものに感じられ
なくもありませんが、人の心の弱さ、もろさ、あるいは一見立派に見える
人の信条、思想というものも、個人レベルに還元すると、いとも簡単に
ゆがめられ、くつがえるものであるということを明確に示す点においては、
現代にも十分に通じる普遍性を有していると、私は思いました。

2014年9月9日火曜日

中秋の名月の瓦屋根に照り映える光が美しくて、

中秋の名月の夜、なにげなくベランダに出てみると、こうこうと輝く
月の光が目の前に広がる離れの屋根瓦を美しく照らして、思わず
カメラを取ってきてシャッターを押しました。

私の技量も、カメラの性能もいい加減なものなので、うまく
捉えられているかははなはだ疑問ですが、これがその写真です。

久々に晴れ渡った夜空に、透き通った輝きを放つ名月そのものも
素晴らしかったのですが、その美しさは織り込み済みとして、
屋根瓦と月の光の取り合わせは私にとって予想外で、思わず
はっとさせられたのです。

夜の闇に静まる鈍色の屋根瓦が、仄かに銀色をおびる月の光に
照らされて、その幾重にも繰り返される輪郭を浮かび上がらせる
有様は、えもいわれぬ趣があります。

月は欧米ではしばしば、狂気をはらむ尋常ならざるものと見なされ
ますが、日本では中秋の名月に代表されるように、その風流を
めでる対象として広く親しまれているように感じられます。

彼我の自然に対する感受性の違いでしょうか?そんなことも
ふと、思い浮かびました。

2014年9月7日日曜日

丸谷才一著「女ざかり」を読んで

新聞社の新任女性論説委員を主人公に、贈答という言葉をキーワードと
して、マスコミ、政界そして広く日本文化の何であるかをあぶり出そうと
する、構想豊かで野心的な小説です。

本書の論旨は、我が国の社会関係が、いにしえより神と人間、男女の
交わりに至るまで、贈答によって成り立っているということでしょう。

主人公弓子の人事抗戦を通して、この国の社会システムの中に
あまねく浸透する、贈答行為の有り様が明らかになって行くのですが、
その様々な形のやり取りの中で、特に感銘を受けたのは、若き日の
現首相が、同棲相手の弓子の伯母に人を介して渡した手切れ金を、
受け取った後のこの女性の感じ方で、渡した相手の気持ちを察して、
迷惑ながらも受け取って寛容に事を納めなければならないという
心の静め方には、古くからの日本の美徳の一端が感じられました。

本書が上梓されてから20年以上が経過し、確かに贈答の習慣は
急激にすたれましたが、私たちはそれに代わる人間関係のより所を、
まだ十分に見出していないように思われます。

そこに社会全般における、人の絆の希薄化の要因の一つもある
のではないか?

女性を主人公にしながら男目線の小説ではありますが、深刻さを
増す少子高齢化問題も含めて、今日の私たちの社会を予見する
ようなところもある、優れた小説です。

2014年9月5日金曜日

龍池町つくり委員会 8

9月2日に、第26回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

9月23日(秋分の日)開催の、第二回龍池茶話会in大原学舎の詳細が
決定しました。

参加費 1000円、 参加対象 龍池学区または近隣学区の学童、
住民です。

午前10時30分大原郊外学舎集合、災害に備えた「炊き出し体験」
ということで、参加者に鍋と薪の火を使って実際に握り飯を作って
もらいます。副菜として豚汁を用意するということです。子供たちには、
貴重な体験です。

その後大人は、大原自治会長佐竹様より大原のお話を伺い、
学童には、音無しの滝までの里山ハイキングを準備しています。

午後3時解散予定です。

龍池町つくり委員会が発行する広報紙「たついけ・まちつくり1」が
いよいよ刷り上って、配布されました。

この広報紙がくまなく学区民に行き渡って、掲載されている
第二回龍池茶話会in大原への反響が大きいことが期待されます。

2014年9月4日木曜日

漱石「こころ」における、Kの覚悟

朝日新聞2014年9月4日付け朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(96)の中で、先生がKの様子を次のように語っています。

「すると彼は卒然「覚悟?」と聞きました。そうして私がまだ何とも
答えない先に「覚悟、-覚悟ならない事もない」と付け加えました。
彼の調子は独言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」

Kは自らの思想上の問題として、御嬢さんへの恋情を断ち切るために、
死をも覚悟したのでしょう。しかし一方、先生と御嬢さんの関係に
ついては、まったく気づいていないように思われます。

他方先生は今や、なりふり構わず現実にうといKをそそのかして、
御嬢さんへの恋を諦めさせようとしています。

Kとの友情を尊重し、自身の高潔を必死に保とうとしていた先生は、
御嬢さんに対する自分の恋心が彼によって脅かされるに至り、
ついわれを忘れて保身に走り始めたたのです。

先生にも、自らの行為が卑劣であるという認識はあります。
しかし人は往々にして、精神的に追い詰められた時、利己心に
身を任る誘惑に流されやすいものなのでしょう。

Kにしても、自身の信条だけが至上の価値で、彼の心の中には、
お嬢さんの思いや、先生の気持ちなど入り込む余地はありません。

人間とはかくも、やるせないものかと思わされます。

2014年9月3日水曜日

漱石「こころ」における、先生の恋の臨戦態勢について

2014年9月3日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(95)に、以下の記述があります。

「私は丁度他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。
私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを
五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは
穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当な位に無用心
でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を
受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事が出来たも同じ
でした。」

今や先生の心は、Kの御嬢さんへの思いをはっきりと悟って、
そうはさせじと臨戦態勢に入りました。

これまでKに対して疑念を抱きながらも、彼への友情と彼という
人格への敬意から無理に信じようとしてこなかった、Kが自分の
恋敵であるという事実に対して、開き直って覚悟を決めたのです。

しかしこういう戦いにおいては、あの意志堅牢なKもいたって無力で、
一日の長のある先生が、彼をもてあそぶような様相を呈して来ます。

結局、先生が御嬢さんへの自分の恋情を、Kに打ち明けなかったことが、
裏目に出てしまいました。

でも不器用な若い男同士の間では、女性をめぐり往々に起こりうること、
今はそのように思います。

2014年8月31日日曜日

高校の同窓会に参加して

私の出身高校の、卒業40周年に当たる第10回同窓会に参加しました。

この同窓会は、私たちが卒業した1974年にちなんで、「1974会」と
称しているのですが、前回までは3年ごとに開催されていたのを、
今回担当の幹事の発案で、初めて2年目で開催することになりました。

それで当初は、メンバーの集まりが懸念されたのですが、総数350人
余りで140人ほどが参加して、盛況な会となりました。

まず改めて気づかされたのは、メンバーの内16人がすでに亡くなって
いるという事実で、その中には親しかった友人も含まれています。

開会後最初に、これらの人々に参会者全員で黙とうを捧げましたが、
月日の経過を否応なしに痛感させられました。

私の出身校は中高一貫の学校で、とかく華やかな雰囲気もあり、
高校時代は内気で目立たない存在であった私は、その延長として
今までの同窓会では何か落ち着かないところもあったのですが、
今回は素直に楽しく感じられました。

それは、それぞれのメンバーが人生の後半を迎え、例えば
勤めている人もそろそろ退職後のことを考え、私のような自営業者、
あるいは主婦も、人生の区切りとして来し方を振り返るというように、
ただ前に進むだけではない、一種の余裕のようなものが出てきた
からかもしれません。

私自身も今回は、構えることなく自分の来し方を同窓生に語ることが
出来たように思いました。

2年後、還暦の同窓会がまた楽しみになりました。

2014年8月29日金曜日

鈴木大拙著「禅とは何か」を読んで

欧米に広く仏教、禅思想を紹介した、我が国近代を代表する
仏教思想家、鈴木大拙の講演記録をまとめた禅入門書です。

私自身、仏教の教えは日常のものという意識があって、ことさら
その教義に興味がある訳ではありませんが、禅というとなぜか
触手が動きます。

これは禅宗が私にとって、信仰というよりも修行、悟りといった
心身鍛錬による思想的営為というイメージが強いからで、大拙の
禅哲学書が欧米社会で大きな反響を呼んだのも、禅に不可欠の
ものとしてそのような側面があるからだと思われます。

さて、そのような認識を持つ私が本書を読むと、冒頭から私の
予想は裏切られて、禅が自らの修練と覚醒だけを求めるものでは
なく、得た正覚を広く大衆に広めることを目的とするものである
ことを知りました。

つまり、浄土宗、浄土真宗が念仏によって、仏の道に近づくもので
あるならば、禅宗は悟りを開くことによって、仏の道を体得する
ものであるといいます。その語るところを知ると、禅がことさら
特別ではなく、身近なものに感じられて来ました。

本書が刊行されてから60年余りの時が経過し、その間我が国では
医療、科学技術の目覚ましい発達によって死の概念は希薄化し、
さらに物質的豊かさの高まりによって、精神的、宗教的な価値が
急速に力を失う中で、今なお禅僧が一般向けに語る著作が版を
重ね、禅寺での座禅体験が人気を保つのは、現代人の宗教を
求める心にとって、禅というアプローチが抵抗感少なく、受け入れ
られ易いことを示しているのではないでしょうか。

禅というものを、国際的に通用する哲学的思想として語った
鈴木大拙は、そのような未来を予見していたのかもしれません。

2014年8月27日水曜日

漱石「こころ」の中の、先生の恋愛観

8月25日(月)付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(88)に、先生が自身の恋愛観について語る、以下の
記述があります。

「こういう嫉妬は愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、
この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代わり
愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。」

「こっちでいくら思っても、向こうが内心他の人に愛の眼を注いで
いるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。
世の中では否応なしに自分の好いた女を嫁に貰って嬉しがって
いる人もありますが、それは私たちよりよっぽど世間ずれのした
男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、
当時の私は考えていたのです。」

先生は一見、相手の立場を尊重しているように見えます。しかし
よく考えてみると、以上の文章は先生の強烈な自己愛を示して
いるのではないでしょうか。

先生は自らが相手を愛すると同等に、自分を愛してくれる女としか
結婚したくないと語ります。

私たちの今生きる現代の感覚からすると、それは自然なことに
思われます。しかし、先生の生きた明治という時代の慣習に
照らしてみるとどうでしょうか?

一般的に女性が男性に従属するという習わしの当時にあって、
女性からの先だった意思表示を求めるということは、先生の
傲慢と私には感じられるのです。

しかし反面、明治を生きた漱石がこの小説を書いたと思い至ると、
このような恋愛観を持ちえた人が当時いったい、どれだけ存在
したのかと、はなはだ心もとなくなります。

先生の悩みは、一人未来を生きる悩みだったのかも知れません。

2014年8月24日日曜日

地蔵盆

私たちの町内では、8月23日に地蔵盆をおこないました。

この行事は一般的に、お盆明けの24日前後に、町内のお地蔵さんを
祀るもので、石造りのお地蔵さんを飾り付けた祭壇に安置し、僧侶に
法要を営んでもらい、その前にしつらえたご座の上で、子供たちを
遊ばせます。

今年は、回り持ちの町内の役員の当番に当たっているので、私も
地蔵盆の世話役を務めました。

私たちのの町内では朝、壬生寺に預かってもらっているお地蔵さんを
有志でお参りし、寺の住職に読経をして頂きました。

町内に引き返して地蔵菩薩を描いた屏風を中心にお飾りをし、
ご座を延べ、子供たちの名前の入った提灯を飾り付けて準備完了
です。

子供には、スイカ割り、福引、ゲーム等楽しいプログラムが待って
います。

私たちの町内にも一時はほとんど子供がいなくなって、さみしい
地蔵盆風景でしたが、最近少しずつ増えてきて、また賑わいが
感じられるのは有難いことです。

自分の子供時代を振り返っても、地蔵盆の独特の華やいだ雰囲気は
忘れられない思い出となっています。



2014年8月20日水曜日

漱石「こころ」の中の、お嬢さんを巡る先生とKの心の葛藤

夏目漱石「こころ」100年ぶり連載、朝日新聞8月18日(月)付け朝刊
先生の遺書(83)に、Kにお嬢さんへの思いをなかなか打ち明け
られない先生のためらいを記する、次の文章があります。

「貴方がたから見て笑止千万な事もその時の私には実際大困難だった
のです。私は旅先でも宅にいた時と同じように卑怯でした。私は終始
機会を捕える気でKを観察していながら、変に高踏的な彼の態度を
どうする事も出来なかったのです。」

「或時はあまりにKの様子が強くて高いので、私はかえって安心した
事もあります。そうして自分の疑いを腹の中で後悔すると共に、同じ
腹の中で、Kに詫びました。詫びながら自分が非常に下等な人間の
ように見えて、急に厭な心持になるのです。」

前回読んだ時には、これらの記述にもずい分じれったさを感じました。
しかし今回改めて読んでいると、ふと、遠い学生時代の自分の体験が
よみがえって来ました。

私は大学生の時に旅先で知り合った、遠方に住む女性と文通を
続けていて、久々に彼女に会いに行くのに、ドライブを兼ねて友人を
同行しました。

実際に会うまでは、そんなことは露ほども考えていなかったのですが、
彼女と彼女の女友達、私と友人の四人で話したり、彼女の地元の名所を
めぐっているうちに、彼女と友人がいい雰囲気に思えて来たのです。

当時私は、彼女に好意を持っていました。しかしその友人にはっきりと
そのことを伝えたわけではありません。でも彼は当然分かっていると
思っていました。

私は彼女に対しても疑心暗鬼になり、彼女に冷たく当たりました。別れる
時にも、彼女の親切に報いる態度を示しませんでした。

以降彼女との関係は終わり、友人に真相を質したわけでもないので、
彼女と友人の間にどんなことがあり、あるいはなかったのか、今でも
分かりません。

優れた文学は、読む人の心のひだに分け入り、忘れてしまった遠い記憶を
呼び覚ますこともあると、改めて感じました。

2014年8月17日日曜日

京都平安ホテル「大文字送り火観賞ディナー」に参加して

他府県出身の大学時代の友人たちのリクエストもあって、テニス
同好会の同窓会を兼ねて、当日参加出来る10名が京都平安ホテル
「大文字送り火観賞ディナー」に参加しました。

北海道、九州から久々にやってきた友人もいて、なかなか楽しい
集まりとなりました。

当日の京都の天候は、あいにくの荒れ模様で、昼前後には
大雨洪水警報が出て、果たして無事送り火行事が実施されるのか
危ぶまれました。

昼過ぎに鴨川の三条大橋を通りかかった時には、川の水かさが
以上に増して濁流が坂巻、普段は散策出来る河川敷も水没して、
飲食店が鴨川に並行して流れるみそそぎ川に張り出して設置
している名物の床の支柱も、あふれた鴨川の水にじかに洗われて
いる有様です。

午後も時折激しい雨が降って、懸念はふくらみました。

さて、京都平安ホテルに集合すると、午後6時よりバイキング形式の
夕食をとって、8時前に屋上にむかいます。

幸い雨もほとんどあがって、若干火の燃えあがり方が遅いようにも
感じられましたが、大の文字が無事夜空に浮かび上がりました。

続いて、御所の立ち木によって一部しか見えませんが、妙法の火が
ともされ、船形がくっきりと夜空を焦がし、大文字より少し小さい
左大文字がゆっくりとその形を現わしました。

初めて見た友人たちも満足したらしく、余韻に浸りながら会場を
後にしました。

2014年8月15日金曜日

漱石「こころ」の中の、先生と御嬢さんの恋情の機微

朝日新聞8月13日付け朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(80)の中に、御嬢さんが先生の心を試す、次のような
記述があります。

「御嬢さんも「御帰り」と座ったままで挨拶しました。私には
気の所為かその簡単な挨拶が少し硬いように聞こえました。
何処かで自然を踏み外しているような調子として、私の鼓膜に
響いたのです。」

「御嬢さんはただ笑っているのです。私はこんな時に笑う女が
嫌でした。若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れ
ませんが、御嬢さんも下らない事に能く笑いたがる女でした。
しかし御嬢さんは私の顔色を見て、すぐ不断の表情に帰り
ました。」

「なるほど客を置いている以上、それも尤もな事だと私が
考えた時、御嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。
しかし今度は奥さんに叱られてすぐ已めました。」

御嬢さんは、自分に好意を抱いているはずの先生が、なかなか
自身の意思を彼女に示さないので、先生の友人のKに気のある
そぶりを見せたり、意味ありげに笑って、先生を挑発しています。

一方先生は、気位の高さや気恥ずかしさ、自分の下宿に
一緒に住むようにKを誘った手前、御嬢さんに告白するのが
ますます困難になっていきます。

本当に窮屈で、じれったい閉塞状況のなかで、先生と御嬢さんと
Kの古風な悲劇の三角関係が、まさに形作られようとしています。

2014年8月12日火曜日

滋賀県立近代美術館「手塚治虫展」を観て

手塚治虫の展覧会というと、今までにも色々な切り口で開催されて
いますが、本展は、原画、映像、写真、資料、愛用品などから、彼の
広大な作品世界のエッセンスと作品に込められた思いを、明らかに
しようと試みるものです。

まず感銘を受けたのは、漫画家になる以前の手塚の少年期、
青年期の資料展示で、当時の居住地宝塚の豊かな自然の中で、
昆虫採集に熱中し培われた科学への興味、漫画への目覚めと
医師を目指す中での心の葛藤、戦争の惨禍に直面して人生観の
変更を余儀なくさせられた体験というような、後の彼の漫画の
ストーリー、思想の原点がすでにここに凝縮されている事実です。

また手塚は、漫画の革新という点においても、従来の枠を軽々と
飛び越えるクリエイターでした。かれの生み出したものは、後に
続く作家に多大な影響を及ぼします。

その最たるものがストーリー漫画の創造です。これは、情景説明的で
単調な記述になりがちな漫画表現に、映画を参考にした明確な
ストーリー性と、その表現を可能にするために、躍動感があり、読者の
感性にストレートに訴えかける様々な作画法を駆使して、まさに
眼前に物語が展開するような漫画作品を作り出すものです。

このストーリー漫画の誕生により、以降の漫画家は、表現の飛躍的な
広がりの可能性を獲得したのです。

手塚の漫画、アニメ作品が没後20年以上を経てなお、多くの支持を
集めるのは、彼の作品のキャラクターの魅力と、物語に込められた
思想が現代に生きる人々にも、共感を呼ぶためだと感じられます。

彼は心から自然を愛し、人間を愛した漫画家であったのだと、本展を
観て改めて思いました。

2014年8月10日日曜日

龍池町つくり委員会 7

8月5日に、第25回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

本年度最初の龍池茶話会、第2回龍池茶話会in大原の日程が、御所南
小学校の行事の関係で、9月28日(日)から9月23日(火)秋分の日に
変更されました。

今回は恒例のバーベキュー交歓会のほか、地元大原の自治会長に
お越しいただいて、この地域にまつわるお話をうかがうということで、
従来、とかく疎遠になりがちであった校外学舎地元の方々と、新たな交流が
生まれることが期待されます。

今回の委員会で特筆すべきは、広報誌「たついけ」のプロットが
出来上がったことで、カラー印刷で見やすく、わかりやすい、簡潔な見本が
手元に提示されました。誌面の中の「たついけ数珠つなぎひと紹介」という
コーナーも面白く、この話題をきっかけに、学区内の人の輪が広がれば、
と思います。

この広報誌をいかにくまなく学区内の住民に配布し、興味を持って目を
通してもらうことが出来るかということが、これからの課題です。

本年は、龍池学区が八年に一度の時代祭への奉賛当番の年にも当たり、
自治会活動にとっては、多忙な秋となりそうです。


      

2014年8月8日金曜日

漱石「こころ」の中の、精神主義と物質主義

2014年8月7日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載、
先生の遺書(77)の中に、先生がKを評する次の文章があります。

「仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢をいうのを
あたかも不道徳のように考えていました。なまじい昔の高僧だとか
聖徒だとかの伝を読んだ彼には、ややともすると精神と肉体とを
切り離したがる癖がありました。肉を鞭撻すれば霊の光輝が増すように
感ずる場合さえあったのかも知れません。」

精神主義も行き過ぎると偏狭なものになります。我が国の歴史上の
事象を振り返ると、第二次大戦の戦前、戦中には、このような考え方が
抑圧的に働き、人びとを一つの絶対的な価値観へと、集約して行った
ように感じられます。

これは明治維新後、西洋の圧倒的な産業資本、軍事力に対して、
個人の生活の質を犠牲にしても、富国強兵をスローガンに追いつき
追い越すことを目指すという、為政者の方針の延長線上の出来事とも
思われます。

大戦後は物質的窮乏の反動として経済的な豊かさが求められ、私たちは
アメリカの繁栄を手本に、高度な資本主義社会を築き上げました。

その結果今日では、ともすると物質的な価値観が何にも増して幅を
利かせ、人びとの疎外感を増幅しているように感じられます。

精神主義と物質主義、私たちの心に中で、ほど良い調和は実現しないの
でしょうか?

2014年8月6日水曜日

バオバブの花を見てきました。

京都府立植物園の観覧温室で、バオバブの花を見てきました。

バオバブの木というと、すぐに思い浮かぶのは、サン・テグジュベリの
「星の王子様」です。この本の中では、三本の立派なバオバブが、小さな
星の地表を埋め尽くしている挿絵が印象的です。

’90年に大阪で開催された「花の万博」でも、少し離れたところから見た、
孤高の姿でたたずむバオバブの木が、何にもまして記憶に残っています。

ずんぐりとしたその形状が独特で、まるで上下逆さまに地面に突き刺さり、
地中に向かって伸びているかのような、微動だにしない雰囲気があります。

さて、お目当てのバオバブの花は、思い描いていたよりもかわいく、
ーといっても立派ですがー白い花弁が電燈の笠のようにぶら下がって、何か
微笑ましい感じがありました。

バオバブの木は、観覧温室の砂漠サバンナ室にあるのですが、
温室内には他に、ジャングル室、ラン・アナナス室、高山植物室などがあり、
順路に沿って進んで行くと、各スペースによって温度、湿度がまったく
異なります。世界の自然環境の多様さを、ちょっと疑似体験した気分でした。

高山植物室はこの季節には心地よく、温室の外にでてもジャングル室と
変わりばえしない気温に、うんざりしました。

2014年8月3日日曜日

島田雅彦著「優しいサヨクのための嬉遊曲」を読んで

島田雅彦のデビュー作にして初期代表作です。

60年安保から70年安保闘争に続く時代、いわゆる政治の季節として、
左翼学生たちによって、一般市民も巻き込んで時の政権の
日米安保条約改定、延長を阻止すべく、激しい抵抗活動が行われました。

しかし70年を過ぎると、追い詰められた先鋭的な左翼活動家の組織が
無残な自壊を遂げ、それとともに学生の左翼運動も急速に衰えて行きます。

本書はそのような時代の、左翼的な問題意識を持つ大学生のサークルの
メンバーそれぞれの行状を、パロディをふんだんにまぶして描きます。

最早、切実に国の現状を変える目標もなく、大衆の支持もない彼らが、
時代錯誤という目に晒されながら、いかに自らの思想を行動や生活に
結び付けていくか?

ソ連の反体制活動家の支援活動は、膠着した現状を打破するために、
彼らにとってまさに打って付けの政治行動です。

彼らの活動は、冗談まじりにあくまで柔らかく、時には恋の誘惑にあっさり
宗旨替えし、消費社会に毒されて目的と手段が転倒します。

でも時代に流されて何も考えない、問題意識を持たない人間になるよりも、
その方がよほど良いのではないでしょうか?


柔軟な生活、思考活動の勧め。私には本書が、主人公たちの未熟さ、
浅はかさへの皮肉ではなく、彼らへの応援歌に読めました。

そしてもしそうであるなら、この小説は現代の硬直した私たちの社会への
問題提起にもなります。

2014年7月31日木曜日

漱石「こころ」における、先生の運命的な決断について

7月31日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載、
先生の遺書(72)に以下の記述があります。

「自白すると、私は自分でその男を宅へ引張って来たのです。無論
奥さんの許諾も必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、
奥さんに頼んだのです。ところが奥さんは止せといいました。私には
連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの
方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。だから私は私の
善いと思う所を強いて断行してしまいました。」

先生が後に、自らの運命に重大な影を落とす決断をするところです。

物事を選択する時、私たちは往々に明確な理由を求めます。その方が
決断しやすいのは、確かです。ところがことは一概に、そう単純に
進んで行くものでもないのです。

えてして、理由のあることが思うように運ばず、意外な方向に進む
ことがあります。そのような場合後から振り返って、理屈よりも予感や
雰囲気、あるいは経験豊かな人のアドバイスに従っておけばよかった
ということが、えてしてあります。

私も漱石のこの文章を読んで、先生ほど衝撃的なな結果は招かなかった
にしても、若い時には幾度か、こういう経験をしたと思い返しました。

漱石には、私たち人間の泣き笑いを誘う性を見事に描いていると、感じ
させる瞬間があります。

2014年7月29日火曜日

野球観戦の楽しみ

7月27日(日)、第96回 全国高校野球選手権は各地で地方大会の
決勝戦があり、熱戦が繰り広げられましたが、特に石川県大会では、
8点を追いかける星陵高校が9回裏、一挙9点を奪って逆転サトナラ
勝ちするという、奇跡的なドラマがありました。

その記事を翌日、新聞のスポーツ欄で読んで、野球を観る楽しさ
について考えました。

私は子供の頃から阪神タイガースファンで、時間のある時には、
もっぱらテレビ観戦で応援しています。

長いシーズンを決まった相手と繰り返し対戦するプロ野球は、特に
そうでしょうが、野球の試合は相手を想定して戦う情報戦で、また
確率を重視するゲームです。

不動のレギュラーは別として、打率、防御率などを参考にして、
対戦相手との相性で選手起用を決定し、自球団の戦力を最大限
有効に使う試合運びを心がけます。

それだけ厳密に数字が支配する世界なのですが、鍛え上げられた
選手がプレーするといっても、なんといっても、生身の人間が
することですから、期待通りの働きが出来なかったり、時には
期待以上の結果が出ることもあります。

また、団体スポーツでもあるので、チームの雰囲気、試合の流れに
よって、予想外の結果を生むことがあります。

この星陵高校の逆転サヨナラ勝ちも、合理性を追求しながら人間的な
ものが時に奇跡を生む、野球というゲームの醍醐味を体現している
のでしょう。

2014年7月25日金曜日

漱石「こころ」における純愛考

7月25日(金)付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(68)に、「もし愛という不可思議なものに両端があって、
その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性慾が動いている
とすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。
私はもとより人間として肉を離れる事の出来ない身体でした。けれども
御嬢さんを見る私の眼や、御嬢さんを考える私の心は、全く肉の
臭いを帯びていませんでした。」という記述があります。

この箇所を読んで、純愛ということについて考えました。

確かに先生の御嬢さんへの恋情は、一見清らかなものに感じられます。
また、恋愛結婚が一般的ではなかった当時、恋愛感情というものは、
ある意味後ろめたいものであったかもしれません。

しかし私たちの現代社会に、このシチュエーションを当てはめてみると
どうでしょうか。私には先生のいわゆる愛の高い極点は、一人よがりの
ものに感じられます。

先生がいくら心の中で御嬢さんを思っていても、肝心の相手にその
思いは伝わっていたでしょうか。私の感じ方では、先生は自分の恋愛に
一方的に酔いしれていないで、少なくともその意思を何らかの方法で
御嬢さんに伝えるべきだったと思います。

その時点で初めて、純愛は成り立つのではないでしょうか。それゆえ
先生の純愛に、私は純愛未満のじれったさを感じました。

2014年7月24日木曜日

祇園祭リポート 3

後祭りの宵山に行って来ました。

後祭りの宵山には露店も出ず、歩行者天国も予定されなかったので、
当初、前祭りのそれのように賑わうか懸念されていましたが、ふたを
開けてみたら大勢の人出で、幸いにも盛況でした。

新町通りをずっと下がって行きましたが、露店の煩雑な明かりがない
だけに、北観音山の駒形提灯の光の集まりがはんなりと、雅やかに
浮かび上がって、町屋からもれる灯りとも呼応して、古都の祭りらしい
風情を醸し出していました。

奏でられる祇園ばやしも、心なしかゆったりと聞こえます。

鳴り物入り、150年ぶり復活の大船鉾はさすがにすごい人だかりで、
なかなか近寄ることが出来ません。大船鉾と墨書された提灯を
目当てに、たくさんの人にもまれながら、少しづつそばに近付いて
行きました。

目の前にした大船鉾は白木も真新しく、船を模した独特の曲線が
優美で、鉾の巨大さ、力強さとその造形の優雅さが絶妙に
溶け合って、闇を背景に神々しい姿を横たえていました。


2014年7月21日月曜日

京都市美術館「バルテュス展」を観て

「20世紀最後の巨匠」と呼ばれたバルテュスの、没後初の回顧展
です。

私がバルテュスの作品を観るのは、30年前にやはり、この美術館で
開催された、大規模な彼の展覧会以来で、当時その独特の
作品世界にすっかり魅了されましたが、それが何に発するものか
判然としませんでした。それで今回は、その秘密をさぐってみたい
という思いもありました。

そのような目的意識をもって出品作を順に追っていくと、まず彼は、
様々な絵画の表現方法が模索された20世紀前半のパリにあって、
どうして一見オーソドックスに見える具象という表現方法を選択した
のか、という問いに行きつきます。

つまり自ら描きたいものを、もっとも上手く表現出来る方法を
探究したに違いない周到なこの画家が、この表現方法を確立した
ということは、その絵画は従来の意味での具象ではない、という
ことです。

バルテュスの具象が、どのようなものを目指したものであるかという
ことについては、彼が一時、シュールレアリスムの画家グループに
近付いたという事実が、ヒントを提供します。

彼の具象絵画は、目に見えない情緒や雰囲気までを描き出すことを
指向し、それでいて、現実とは完全に離れてしまう絵空事に
なることは、回避しようとしたのではないでしょうか。

その物事の”あわい”を描き出そうとする態度は、彼の絵画の主題にも
見受けられます。

バルテュスの描く少女は、子供から大人になる”あわい”の、中空に
浮かび上がったかのような、不安定ではかない魅力の一瞬を捕えます。

彼の好むネコは、人間界を皮肉を込めて斜めから見て超然としている
ような、それでいて妙に人間臭くもあります。

もちろんバルテュスの作品には、ヨーロッパの長い絵画の伝統を踏襲した
重厚なたたずまいが、基調低音として存在することを忘れてはなりません。

しかしその魅力の核心は、私たちが日常感じ取ることが出来ない、現実の
”あわい”に宿る美を描き出したことにあると、私には推測されます。

2014年7月18日金曜日

祇園祭りリポート 2

前祭りの山鉾巡行が行われた7月17日、夕食に京料理堺万から、
鱧の落とし、鱧寿司の仕出し料理を取って祝いました。

鱧料理は、祇園祭りにつきもので、内陸に位置し、かつては
新鮮な魚がなかなか手に入らなっか京都で、生命力が強く、
なおかつ、この時期にちょうど脂が乗って美味しい鱧は、祭りに
欠かせない食材であったといいます。

絶妙の骨切りを施して、さっと湯に通した鱧の落としは、ほんのり
白くふっくらとした外見からも、一見あっさりとしているような印象を
受けますが、ワサビと刺身醤油をからませて口に含むと、鱧の
濃厚な脂がワサビの香りと刺激、醤油の辛みとコクに引き立て
られて、絶妙の旨みが口の中に広がります。

またこの鱧の落としを梅肉たれで食べると、今度は鱧の脂が
梅肉の酸味にほどよく中和されて、さわやかな食感とともに、
鱧の身の適度な歯ごたえを楽しむことが出来ます。

鱧寿司は、たれを十分にしみこませて香ばしく焼いた鱧の身と、
山椒の香り、引き締まった酢飯が一体となって、重厚な味わいを
堪能出来ます。
やはり祇園祭りには、鱧料理が似合います。

2014年7月16日水曜日

泉屋博古館「ちょっとパリまで、ず~っとパリまで」を観て

明治期以降、国の近代化に呼応して、多くの洋画家が本場の絵画を
学ぶため、ヨーロッパに留学しました。住友財閥を築いた住友家は
これらの画家たちを支援し、その作品を購入、住友グループ各社で
所蔵して今日に至っているといいます。

本展は住友グループ各社収蔵の作品から、十九世紀末から
二十世紀前半にパリに留学し、帰国後日本の洋画を発展させ、
あるいは現地に滞在して、異邦人画家として活躍した画家の
作品に絞って展観する催しです。

ちょうど先日、黒田清輝展を観に行った後なので、この展覧会も
親近感のあるものに感じられました。本展でも、黒田の二作品が
展覧されています。

黒田展で、この画家の初期からの研鑽、画境の成熟を観て行く
ことが出来たのに対して、この展覧会では、ちょうど初期作品、
後期作品が並べられていたこともあって、画家を見守る支援者の
視線が感じられたというのは、うがった見方でしょうか?

いずれにせよ、違う切り口で同じ画家の作品を観るという、貴重な
体験が出来たと感じました。

全体を観終えて、公立の美術館の大規模な展覧会が、たとえて
言うなら、正式の舞踏会のように、襟をただして観ることを求められる
ものであるならば、この美術展は私的サロンの集まりというように、
親密で和やかな気分を漂わせる、くつろいだ雰囲気の展観であると
感じられました。

2014年7月14日月曜日

祇園祭リポート 1

今年も、祇園祭が始まりました。

今年の祇園祭は、四十九年ぶりに山鉾巡行が前祭りと後祭りの
二回に分かれるなど、話題も豊富です。

実は、私の住まいは、境界線ぎりぎりですが、八坂神社の氏子の
地域に当たります。何時もは端っこ過ぎて、あまり祇園祭の
実感がわきませんが、これから数回、身近ではありながら、
ちょっと離れたところから見た、祇園祭のリポートをお届けします。

今年は前述のように、山鉾巡行が7月17日の前祭りと7月24日の
後祭りに分かれて行われます。

山鉾巡行は本来、八坂神社のご神体を乗せた神輿が、神社から
御旅所に向かう17日の神幸祭と、御旅所から神社に戻る24日の
還幸祭の先駆けとして行われるものでした。

従って、17日と24日の二回行われるのが本来の姿ですが、
観光事業の振興という意味もあって、この四十八年間、一回に
まとめて行われていたのです。

しかし今年は、防災上の理由や、祭りを本来の姿に戻そうという
声も上がって、従来の二回巡行に立ち返ることになったのです。

7月13日、私は御池通りを下がったところから、新町通りを南に
望みました。以前ですと北観音山、南観音山が並んで見える
ところですが、今年は二つの山が後祭りに回ったので、四条通りに
近い放下鉾の雄姿が遥かにそびえていました。

いつもより、悠揚迫らず、落ち着いた雰囲気を感じました。

2014年7月9日水曜日

山田風太郎著「同日同刻ー太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日」を読んで

作家山田風太郎が、太平洋戦争開戦の一日、昭和16年12月8日と
終戦までの十五日、昭和20年8月1日から15日までの敵味方の
指導者、軍人、民衆の姿を膨大な記録の中から時系列に沿って
再現、個々の事象の総体から、この未曾有の戦争はいかなる
ものであり、その渦中に人間は、どのように生きたかを明らかに
しようと試みた作品です。

本作品は、開戦時、終戦時の人々の姿をただ羅列するものですが、
作者の取捨選択、並べる順序の決定の妙もあって、当時の人間の
息吹が生々しく伝わり、時代の様相が重層的、立体的に浮かび
上がります。

開戦時の記録で私の目を引いたのは、多くの日本国民が熱狂する
姿で、世相を反映する文学作家たちの述懐も、一部反戦的な
考え方を示すものはあっても、多数は開戦に高揚していたという
事実です。

これらの記録から見えてくるのは、アメリカとの戦争突入による、
我が国の鬱屈した状態からの一気の解放の気分です。最後は
有無を言わず、戦争になだれ込んだ様子がうかがえます。

終戦前の十五日間は、日本が最早弓おれ矢つき、米軍の
継続される情け容赦ない攻撃、ソ連の突如の参戦という状況の
中で、軍幹部の一部が狂気じみた徹底抗戦を唱え、クーデターが
画策され、一方満州では関東軍が住民を置き去りにして撤退、
民間人に多数の犠牲者が出ます。

満蒙開拓民の自決、原爆、空襲の被害の惨状には、心が痛みます。

国会で憲法解釈の変更による、集団的自衛権の行使が議題に
登る今日、非常事態に際して人は、往々にして判断を誤るものである
ということを、重々肝に銘ずべきでしょう。

2014年7月8日火曜日

我が家の梅だより 2

知らないうちに、梅の実が大きくなりました。

私は今まで、「梅雨」という言葉が、梅の実が熟すころという
意味をも、持つことを知りませんでした。

「梅雨」は、じめじめとして、カビがはえるようなうっとうしい
季節を表す言葉、とだけ考えていたのです。

しかし、この梅の実が熟すころという意味を知ると、すっかり
イメージが変わります。

蒸し暑い天候も、降り続く雨も、木々が緑を育み、自然の
恵みを用意するために不可欠のものです。

現に、ここのところの雨も、眼前の梅の実を太らせています。

他方、「梅雨」は例年、各地に豪雨被害の爪跡を残すという
厳しい現実もあります。

折しも、台風襲来の危険が迫り、激しい雨が懸念されます。

願わくば台風が予想進路をそれて、もうしばらく穏やかな雨が
続いたのち、カラッとした夏空を拝みたいものです。





2014年7月6日日曜日

染屋の林さん、お疲れさまでした。

6月いっぱいで、浸染職人の林弘さんが、キャリアを終えられました。

私たちが、林さんに仕事をお願いするようになって、15年ほどに
なります。

林さんは、この道60年。色合わせが得意で、ずいぶん助けて頂き
ました。

林さんにお願いする以前は、誂え染めというと、私の知る限り、
多少色が合わないのは当たり前で、それが当然と思っていま
した。

ちょうど、林さんに仕事を依頼するようになってしばらくして、
私たちの店でも次第に、誂え染めの仕事が増えていき、また
帯揚一枚から誂え染めが出来ないかという、要望も受けるように
なりました。

そこで林さんにお願いしたところ、こころよく引き受けて頂き、
微妙な帯揚の一枚一枚の色のトーンの違いも、ほぼ忠実に再現
することが出来て、多くのお客さまに満足していただけることと
なったのです。

今回、これを機会に、初めて仕事場に入れていただき、染色の
工程を見学しましたが、水の張られた染色槽に色見本に合わせて、
耳かき一杯ほどの染料を調合して入れていき、染める生地を浸し、
引上げ、一部を乾かして見本と合わせ、また染色槽に染料を入れ、
染めて色合わせという工程を5回ほど繰り返す、勘と根気の
作業でした。

幸い、新しい染屋さんも見つかって、従来と変わらず、誂え染めを
承ることが出来ますが、これまで多くのお客さまに、私たちの
仕事を支持して頂いたのは、間違いなく、林さんのお蔭だと思って
います。

林さん、有難うございました。

2014年7月4日金曜日

龍池町つくり委員会 6

7月1日に、第24回龍池町つくり委員会が開催されました。

9月の大原でのバーベキュー、11月の京都外国語大学との提携
プログラムである、地域の町歩き会の日程等が詰まってきました。

9月28日(日)、第2回龍池茶話会in大原として、大原郊外学舎で
大原周辺の散策、歴史風土を知る集い、そしてバーベキュー
交換会を催す予定です。その準備としては、大原の語り部に
なっていただく、地元の方を探すことも提案されました。

11月9日(日)、京都外大の学生さん主導で、「写真で探す龍池の
街並み」という、地域の児童生徒対象の町歩きイベントを、
マンガミュージアムと龍池学区で行う予定です。

それらを地域に告知する広報誌も、「たついけ町つくり」と
ネーミングされて、だんだん具体化してきました。

あとはこれらのイベントで、どれくらい参加者を集めることが
出来て、盛り上がることが出来るか、ということでしょう。

2014年7月2日水曜日

漱石「こころ」の中の、状況による人の言葉と心の機微

朝日新聞2014年7月2日付け朝刊、漱石「こころ」先生の遺書52回の中の
「母は父のために箒で背中をどやされた時の事などを話した。今まで
何遍もそれを聞かされた私と兄は、何時もとはまるで違った気分で、
母の言葉を父の記念のように耳へ受け入れた。」という文章に感銘を
受けました。

私の経験からも、年配の女性が、良きにつけ悪しきにつけ、永年連れ添った
夫が過去に自分に対して示した態度、その行為を繰り返し身内に語る
ことがあります。

それは一種、親愛の情を示すことなのしょうが、聞かされている方は
「またか!」と、少なからずうんざりします。

しかし、「こころ」の中の私と兄の場合のように、当の父が死を間近に
しているような特別な時には、その受け取り方も違います。

母の口癖は、息子たちを感傷的にさせ、切なく、懐かしい気分に浸らせる
のです。

人は日々、日常の繰り返しの中で、同じ意味の言葉を、状況に応じた
様々なニュアンスや抑揚を含んだ話し言葉として語ります。

時々に受け取り手の感じ方も違うということが、人のコミニケーションを
より豊かにしているのでしょう。

2014年6月30日月曜日

富岡製糸場について

朝日新聞2014年6月28日付け朝刊be、「福原義春の道しるべを
さがして」で、福原氏が「富岡製糸場と絹産業遺産群」がユネスコの
世界文化遺産に選ばれたことにちなんで記しておられる、以下の
文章が心に残りました。

「富岡製紙場も、建物や機械の物質としての価値だけではない。
かつてそこで働いた人々の息遣いや、美しい絹織物をまとって
豊かになった世界中の人々の生活までをも想起させるところに、
本当の意味があるのだ。」

富岡製糸場は、近代日本の産業振興のために、西欧の進んだ
技術を移入して、官営工場として設立されたそうです。

以降、絹産業が我が国の主要産業へと成長して行くのは、周知の
事実です。

絹糸生産の機械化は、絹織物の一般への普及につながります。

私たち和装業界に携わるものからいうと、多くの人々が絹の着物を
まとい、その美しさ、心地よさを愛でるようになったのです。

今日、生活習慣の変化や効率化の優先から、絹製品離れが急速に
進んでいます。富岡製糸場の世界文化遺産認定が、生活の豊かさを
見直すという意味で、絹織物の再評価つながればと願っています。

2014年6月29日日曜日

京都文化博物館「黒田清輝展」を観て

我が国近代西洋絵画の礎を築いた、黒田清輝の没後90年を
記念する回顧展を観ました。

黒田は当初、法律を学ぶためにフランスに留学しましたが、
現地で多くの優れた美術に実際に接することによって、絵画に
魅せられ、画家に転向したといいます。

明治期、先進の学問を学ぶためにヨーロッパに留学した
使命感に富む人物が、自らが学ぶ対象を180度変えることは
並大抵ではないはずで、彼の初期のデッサンを年代順に
追って行くと、その美術を学ぶひたむきさ、目覚ましい技術の
向上が見て取れて、感銘を受けます。

パリで基礎を集中的に学んだ後、近郊のグレー・シュル・
ロワンに滞在して画業に専心した時には、みずみずしい感性を
うかがわせる魅力的な作品を描き、画家としての地歩を築きます。

帰国後、本場仕込みの絵画は高く評価されて、以降日本の
洋画界をリードして行きますが、西洋と日本の文化、習慣の
違いは、裸体画を巡る軋轢も生じます。

この醜聞への解答として、黒田は、代表作の一つである
「智・感・情」という三枚一対の裸体画を描き上げたといいます。

この作品は初めて目にしますが、金を下地に、それぞれの画面に
象徴的なポーズをとる一人の均整の取れた美しい裸体の女性が
確固とした存在感をもって浮かび上がり、崇高な雰囲気さえ
たたえています。

京都と縁の深い「昔語り」も、作品は失われていますが、数々の
下絵、図画稿が残り、観る者に黒田が大作に取り組む時の
周到さを示します。

全体を観終えて跡付けられるのは、彼が実直、誠実に本場の
絵画を習得し、そのエッセンスを自らの感性を介してわが国でも
受け入れられ、発展して行くものえと大切に育てていった道程です。

いろいろ毀誉褒貶はあっても、彼が西洋絵画の伝道者として、
優れた資質を持ち合わせていたことは確かでしょう。

2014年6月27日金曜日

映画「さかなかみ」浜野安宏監督の試写会に行って

「さかなかみ」は、渋谷の「QFRONT」など数々の複合商業施設や、
東急ハンズのプロデュースで知られる、京都出身のライフスタイル・
プロデューサー、浜野安宏氏の初監督作品です。

彼のもう一つのライフワークであるフライフィッシングを題材にして、
監督自ら主演、北海道の原野の川にわずかに生息して、幻の魚と
呼ばれるイトウを追う一人の釣師を通して、人間の無知が自然を
蝕んでいく現実に警鐘を鳴らし、人間と自然のあるべき関わり方を
哲学的に考察します。

まず、ほとんどの北海道の河川では、漁業者以外サケを獲ることが
法律で禁じられており、一般人はサケを釣ることも出来ないという
ことを、私は初めて知りました。

監督は、その事実が釣り人を河川から遠ざけ、人びとの無関心を
助長し、ひいては自然を破壊して行くと、語り掛けます。

この映画で、失われてゆく大自然の象徴である巨大イトウを求めて、
山深い源流に分け入り、湿原、干潟を探索する釣師の姿を追って
行きながら、自然環境の現状を知り、危機感を共有するためには、
自然にじかに触れることが必要であることを、改めて教えられました。

この映画は、監督以下4人のスタッフで撮影されたといいます。
撮影機材、技術の発達によって、このように美しく、雄大な自然を
捕える映画の制作が、たった4人の力によって可能になったのです。
従来映画というと、多人数のスタッフと、大掛かりな道具立てが
一般的でしたが、これからは個人が、私的なメッセージを映像によって、
訴えることが可能な時代になりつつあるのでしょう。

上映後のトークショーも含め、監督の思想、信条、生活、仕事の
見事な一致には、感心させられました。

2014年6月25日水曜日

漱石「こころ」の中の、「おれが死んだら」という言葉に対する比較考察

朝日新聞6月24日(火)付け、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載、
先生の遺書(46)に、「おれが死んだら」という言葉をめぐって、
死をまじかにしての当人の態度と周りの反応について、考え
させられるところがありました。

腎臓を患い、死病にかかっていることを自覚している私の父が、
「おれが死んだら、どうか御母さんを大事にして遣ってくれ」と
言った時、私は東京を立つ直前、先生が奥さんに向かって
繰り返した、「おれが死んだら」という言葉を思い返して、
感懐にふけります。

私にとっては、この時点では、先生の死は悪い冗談で、それに
反して、父の死は現実味を帯びています。その言葉に対する
それぞれの周りの反応も、先生の奥さんは縁起でもないと耳を
ふさぎ、私は口の先では何とか父を紛らせようとします。

実際には、先生は体は頑健ですが、心は死に取りつかれており、
私の父は体は死に近づいていますが、心はもっと生きたいと
願っています。

つまり、先生と父の「おれが死んだら」は、私が気付かないだけで、
結局は死と生がせめぎ合う中で、同じ心情から発せられた切実な
言葉なのです。

漱石はこれらの込み入った表現を駆使して、人の死の理不尽を
巧みに書き表していると感じました。

2014年6月18日水曜日

高野秀行著「謎の独立国家 ソマリランド」を読んで

第35回講談社ノンフィクション賞受賞作です。

泥沼の内戦が続くソマリア、その一部に独自に武装解除し、民主的で
平和な暮らしを享受する、奇跡の独立国家が存在するといいます。
著者高野秀行は、持ち前の冒険心、好奇心に駆り立てられて、単身
果敢にその謎に満ちた地域に潜入します・・・

まず私がこの本を読んで、知的感興をそそられたのは、遠いアフリカの
地の、政情不安の地域の人びとの生活の実情を、つぶさに知ることが
出来たことです。

高野の単身潜入行から見えてくるのは、私たちの穏やかな気候風土や、
一応は秩序立った安定的な社会環境からは想像も出来ない、ソマリアの
厳しい自然条件の中で、身の危険や飢餓、貧困などに絶えず直面し
ながらも、氏族社会の張り巡らされたネットワークを介する相互扶助に
よって、宗教的戒律を日常生活に巧みに融合させたライフスタイルに
よって、さらには、遊牧民特有の楽天性を持って、たくましく生きる
人びとの姿です。

さて、戦乱が絶えず、内部分裂状態のソマリア共和国の中に、どうして
10年以上も平和を保ち、民主的自治を確立している小国家ソマリランドが
存在しているのか、ということについては、高野は取材の結果、以下の
結論に至ります。

ソマリランドは、ソマリア内の他の地域に比べて、氏族の伝統が維持され、
その枠組みが民主的政治の基盤を形作っていること。以前から絶えず、
氏族間のいざこざがあったので、紛争の解決に慣れていること。
この地域は資源が少なく、争うべき利権が生じにくいこと。そしてさらに、
ソマリランドの住民は、自らの独立を国際社会に認めさるために、国内を
平和で民主的な状態に保つために、不断の努力をしていること。

日本とソマリランドは、歴史も環境も、規模も違います。しかし、自己主張が
強く対立が絶えないソマリランド人が、自らの長所を活用し、短所を逆手に
取って、主体的に国家を構築していく姿は、豊かさに慣れて政治に無関心に
なり、現状に押し流され勝ちな私たちに、もう一度足元を見つめなおす契機を、
与えてくれるように感じました。

2014年6月16日月曜日

庭の「ハンゲショウ」の葉が色付きました。

我が家の庭の片隅の「ハンゲショウ」の葉が、白く色付いて来ました。

ハンゲショウは、ドクダミ科の多年草で、名の由来は、夏至から数えて
11日目にあたる「半夏生」の時分に花を咲かせるためとか、葉の
片面が白くなり、「半化粧」と呼ばれたためともいわれているそうです。

京都では、建仁寺塔頭の両足院の庭のものが有名です。

我が家のものは、10年近く前にどなたかに1株頂いて、庭の片隅に
植えておいたら、知らず知らずのうちに少しずつ増えてきて、
気が付いたらこの時期には、ささやかな群れの様相を呈してきた
次第です。

春に地面から顔を出した時には、雑草とあまり変わり映えしませんが、
成長して葉が白く色付く頃には、白と緑のコントラストがいかにも
涼しげで、ことにいくつかの株が群れると、緑のはざ間に浮き立つ
白が覗いて、独特の風情があります。

私は、我が家の私的風物詩として楽しんでいます。

2014年6月13日金曜日

京都国立近代美術館「上村松篁展」を観て

松篁芸術の魅力のエッセンスは、展示会場に入ってすぐのところに
掛けられている、2枚の鶏の絵にすでに現れているように思います。

どちらも、白黒まだらの羽根模様の数羽の鶏が、仲睦まじく戯れる
様子を描いていますが、片や市立絵画専門学校の卒業制作、
片や初期の帝展出品作です。

学校提出作品は、鶏の描写に早、並々ならぬ技量を感じさせますが、
画面に描きこまれている周辺の情景が何か説明的で、全体に
堅苦しく、散漫な印象をぬぐえません。

他方、帝展出品作は、前作に比べてそれぞれの鶏の形態がより
生き生きとして、存在感がましていますが、それは描写力の向上と
いうよりも、背景の書き込みを排した抽象的な空間に、対象を絶妙に
配置することによる効果という面が大きく、つまり、この画家の秀でた
空間把握力と構成力のなせる技と、思われるのです。

このことからも明らかなように、私は松篁芸術の一番の魅力は、
空間構成の洗練と近代性にあると思います。

松篁絵画のもう一つの特徴として、母松園譲りの気品を感じさせる絵
ということがあげられます。母は美人画、息子は花鳥画と描く対象に
違いはあっても、上品さは両者が最も大切にする価値観であったと
いいます。

私は松篁の作品に漂う得も言われぬ気品は、本人の研鑽は
無論のこと、対象に対する敬意を持った誠実で真摯な姿勢、そして
何より、自然の造形物としての花鳥を愛してやまない、画家の心情の
発露であると思います。

優れた絵を観て、作者の人間性の素晴らしさを感じるのも、日本の
伝統的な絵画鑑賞法から生まれる喜びでしょう。

2014年6月11日水曜日

漱石の死を巡る近代の憂うつと、現代の憂うつ

朝日新聞の夏目漱石「こころ」100年ぶり連載6月10日付け、
先生の遺書(36)に、”私”が腎臓病を患う父が待つ郷里に
帰省するに際して、二、三日前”先生”の宅に晩餐に呼ばれた
時の、「どちらが先へ死ぬだろう」という先生と奥さんの間に
起こった疑問を思い起こして、「(死に近づきつつある父を
国元に控えながら、この私がどうする事も出来ないように)
私は人間を果敢ないものに観じた。人間のどうする事も
出来ない持って生まれた軽薄を、果敢ないものに観じた。」
という部分があります。

この漱石の表現は、自身の心の働きを客観的に捉えるという
意味において、確かに人間に内在する”近代の憂うつ”を
示しているでしょう。

この文章は、死というものがいつ訪れるか分からないもので、
なおかつ、実際には突然にやってくるということを、もしその
兆候がきざしたら、人間の力では押しとどめようがないと
いうことを、前提に語られているのでしょう。

一方、私たちを取り巻く現代の社会に、この状況をおいてみると、
確かに、難病や突然死による予期せぬ死の訪れという不幸も
今もって存在しますが、医療の目覚ましい発達によって、
平均寿命は飛躍的に伸び、また場合によっては延命治療と
いうものも可能になってきました。

その結果、寿命と物理的な身体の衰えに手の尽くしようのない
ずれが生じるということも、まま見受けられるようになってきたと
思われます。

これはさしずめ、死を巡る”現代の憂うつ”ということでしょうか。
そんなことを、ふと考えました。

2014年6月5日木曜日

”さし”が決まる

私たち和装の白生地を商うものは、一般的に鯨尺単位の物差を
使います。

写真は右が1メーターざし、左が鯨二尺ざしです。1尺は約38cmで、
10尺が1丈となります。

現代に生きる我々は、小さい時からメーター表記に慣れていて、
尺という単位の長さはすぐにはピンときませんが、和装の世界では
着物の表に必要な生地の長さが約30尺で、その長さの反物が
三丈ものと呼ばれ、表に八掛を足した長さが約40尺で、その反物が
四丈ものと呼ばれるというように、尺という単位が呉服に密接に
結びついているので、その単位の感覚を体得することが、どうしても
必要になります。

さて私たちは、二尺ざしの端を利き手の指にはさんで、生地の耳に
沿わせながら繰り返し手繰って、生地の長さを測ります。

ところが、物差の扱いに慣れるまでは、あるいは、扱いにある程度の
慣れを感じるようになっても、その時の状況や気分の違いによって、
測る度に長さが変わってくることが、往々にあります。

例えば、急いでいるときには、さしが堅かったり(実際の長さより
長い目の値が出る)、気分が散漫な時には、さしが甘かったり
(実際の長さより短い目の値が出る)するのです。

実際には、生地を切り売りする場合、お客さまが必要とする長さより
短くなってしまうといけないので、私たちは少し甘い目に測ることを
心がけます。

しかし基本的なこととして、いつでもさしの運びが出来るだけ一定に
なって、なおかつ自分の測り方のくせを把握することが必要です。

そのような状態になることを、”さしが決まる”と言います。

さしの扱いと同時に、仕事を身体化することを意味するのです。

2014年6月4日水曜日

龍池町つくり委員会 5

6月3日に、第23回龍池町つくり委員会が開催されました。

今回の委員会の話し合いの中で、私の印象に残ったのは、新年度の
龍池学区の町内会長に、マンション住民の方や、学区内にある企業の
担当者が数名選ばれた、ということです。

この事実は従来のように、旧住民からだけ町会長を選んでいたのでは、
最早、町会運営が立ちいかなくなった、ということを示しているのでしょうが、
新旧住民が一つになって、学区の諸問題を考えていくためには、
好機到来ともいえます。

そういう観点から今年度より、自治連合会の理事会に、各町内会長にも
出席を請う機会を数回設けようということで、その成果を見守りたい
ところです。

茶話会は、9月に大原学舎でのバーベキュー、11月に京都外大の学生さん
企画による、地域の子供たちとの学区内探訪、来年1月に着物の着付け
教室、3月に花見と連動した企画を行うことが決まりました。

少しづつではありますが、着実に前進しているように感じられます。

2014年5月30日金曜日

庭木の手入れ

まだ5月というのに、真夏のような暑さが二日目に入った今日、
時を計ったように、例年より少し早く植木屋さんからのお伺いがあり、
庭木をさっぱりと刈り込んでもらいました。

気温の上昇と、日差しの強さが増すにつれて、若葉がしげり、
知らず知らずのうちに鬱蒼とした、むせかえるような、暑苦しいさを
あらわにしていた小さな庭が、見違えるほどすっきりして、涼しげな
風情になりなした。

自営業の日々の雑務に追われ、庭木の剪定、施肥、薬散布という
庭の手入れの重要なところは、少々贅沢ですが植木屋さんに任せ、
自分ではもっぱら、草引きと、落ち葉掃除のみを行っていますが、
プロの仕事の確かさのお陰で、庭の樹木は年中健やかに保たれ、
季節季節の花や、葉の色づきを楽しむことが出来ます。

ことに今日のような、剪定後の庭の整った、すがすがしい
たたずまいは、庭師の信頼に耐える技を示してくれます。

2014年5月28日水曜日

ジャック・ケルアック著「オン・ザ・ロード」を読んで

アメリカ、ビート・ジェネレーションの代表的作家の一人、ケルアックの
伝説的ロード小説です。

出版当時、多くの若者に多大な影響を与えたそうですが、50年以上の
時を経ての映画化を機に、再び脚光を浴びているということで、手に
取りました。

ケルアックがこの小説を上梓した1950年代は、経済的には米国が
名実ともに世界一位の国として繁栄を極め、他方国際関係においては、
ソ連との、冷戦と呼ばれる一触即発の軍事的対立が深まって、
国内では物質的豊かさを謳歌しながらも、思想的にはアメリカ的価値観を
一方的に強制するような、閉塞感が充満していたといいます。

そこに反逆児としてのビート・ジェネレーションが登場する訳ですが、
本作品では、怒れる反逆の体現者、ディーン・モリアーティが何より
魅力的です。

その魅力の秘密を探ると、まず彼の驚異的なタフネス、時を惜しむ
ように不眠不休で、時速150km近いスピードで車を操り、
アメリカ大陸を縦横無尽に駆け巡ります。

彼は無軌道、破天荒、節操もないが女性にもてます。底抜けの
優しさを持ち、面倒見も良いからです。

浮浪者、黒人、ヒスパニックら虐げられた人々に共感を持ち、
彼らの産み出す芸術を好み、アメリカという豊かで権威主義的社会で、
その恩恵を逆手にとって、道徳に抗い、秩序をもてあそびます。

最後に残るのは、狂騒の宴の後の寂しさではありますが、彼の人生の
軌跡は、現代人が生きる方便として飼いならしてしまった野性を解き放ち、
青春の炎を最大限に燃焼させた潔いまでのすがすがしさを残します。

また本書を読んで、反逆するものが存在するということが、正に社会の
活力を示すのではないか、ということにも思い至りました。

2014年5月23日金曜日

映画「リトル・ダンサー」スティーブン・ダルドリー監督を観て

1980年代イギリス北部の炭鉱町、ボクシング教室に通う11歳の
ビリーは、たまたま同じ会場で隣り合わせて練習をすることになった、
ダンス教室のレッスンに魅了されます。

炭鉱労働者の次男で、兄も炭鉱で働いています。男は強く、
たくましいが気風の家庭にあって、彼はめめしい女の習い事と
見なされがちなダンスを習いたいとは、とても切り出せません。

しかしボクシングの練習をしていても、体は勝手にダンスのリズムに
合わせて動き出し、最早、彼の意思ではどうすることも出来ません。

この場面の描写が秀逸です!この映画はきっと、この部分を
表現するために作られたのだ、とさえ思わせます。

主演ビリー役のジェイミー・ベルは、北部なまりが話せて、ダンスに
優れる、2000人余りの中から選ばれたといいます。

キャスティングが見事で、炭坑町の素朴な少年が、止むに止まれぬ
衝動に駆られてダンスにのめりこんで行く姿を、違和感なく
演じ切っています。

人生の中で人には誰でも、ことの重大さ、些細さは別にしても、
何かに魅了され、突き動かされる瞬間が必ずあるはずです。

しかし、その多くの場面において私たちは、様々な事情や制約、
あるいは諦観によって、その衝動に身を任せることを断念するのでは
ないでしょうか。

そのような一瞬に立ちはだかる障害を乗り越えて、ためらわず前に
進む意志こそ、純粋さであり、情熱であり、時によっては才能である
のかもしれません。

2014年5月19日月曜日

若狭小浜へドライブに

この日曜日、陽気に誘われて、若狭小浜までドライブに行って
来ました。

コースは鯖街道、八瀬、大原から途中を越えて、葛川、朽木、
保坂を過ぎて小浜に至る道です。

この街道は往時、鯖に代表される若狭の海産物を、京の都に
運ぶ重要な輸送路でした。

その名残として、道々に、名産の鯖寿司を生産販売する店が
見られます。

さて、山中を縫うように続く道の周囲は、文字通り新緑に溢れ、
様々な階調の緑が重なって、俳句の季語にもある「山笑う」
という表現がピッタリときます。所々に色をそえる、藤を初めと
する季節の山の花々も、私の心を和ませてくれます。

いっぱいに開けた車の窓から吹き込む、心地よい薫風ともども、
心浮き立つ、晴れやかなドライブでした。

さて、小浜でのお目当ては、新鮮で美味しい魚料理。この地に
行った時には必ず訪れる、いづみ町の大谷食堂で、
鰻と造りの
定食を堪能しました。

満ち足りた一日でした。

2014年5月16日金曜日

竹田武史写真展「ヘルマン・ヘッセに捧ぐ シッダールタの旅」を観て

去る5月6日、京都文化博物館で、竹田武史写真展を観ました。

この写真展は、ヘッセの「シッダールタ」を熱愛する竹田が、作品の
舞台であるインド各地をオートバイで回って、撮影した写真を
展観する催しです。

まず本展では、「シッダールタ」に導かれた写真家が実際にその地に立って、
ヘッセが感得したものの上に自らの思いを重ねるように、丹念に被写体に
向き合っている姿勢が印象的でした。

では、ヘッセというフィルターを通して、竹田はどのようなインドを写し取った
のでしょうか?

私にはそれはまるで、白日夢のように感じられました。

そこには有無を言わさぬ圧倒的な存在感の自然が写し取られ、その中で
繰り返されている、けし粒のような人間、動物の神聖な営みが描き出されて
います。

聖なる河での人々の祈り、沐浴、火葬、あるいは、鳥についばまれる牛の
亡がら・・・

しかしそのすべてがあまりにも美しく、生々しさがなくて、まるで夢の世界の
ようです。

表面的にいやされたという部分は別にしても、その真実の姿を一体どのように
受け止めたらいいのか、正直戸惑いました。

このもやもやを解消するには、実際に「シッダールタ」を読んでみるしか、
仕方がないのかもしれません。


2014年5月13日火曜日

芳澤勝弘著「白隠ー禅画の世界」を読んで

私は白隠の禅画の力強く飄逸なたたずまいが好きで、これまで
数回、展覧会に行っています。

禅画という性格上、白隠がそれらの絵を描いた時代背景、
それぞれに込められた禅的な意味合いを知ることが出来たなら、
より深くその芸術を賞味することが出来るのではないかと考えて、
本書を手に取りました。

この本を読み始めてまず驚かされたのは、一見飄逸の相を見せる
こともある彼の禅画が、時に時代に鋭く切り込む批評精神を示す
ものでもあるということです。

例えば、「富士大名行列図」は、富士山の聖性と大名行列の華美を
対比して、大名の奢侈を容赦なく批判しています。

白隠はこの絵によって、大名の行いを戒めているということです。

この批判行為が当時の世にあって、なみなみならぬ覚悟を必要と
するものであったことは、十分に推測がつきます。

なお、禅画を読み解くためには、画中の賛と呼ばれる詞書も重要で、
この「富士大名行列図」でも、賛が巧みな判じ言葉として画意を
示しているということです。

また、白隠の墨跡「南無地獄大菩薩」、禅画「十界図」の解説も、
私には忘れえぬものです。

彼のの考えでは、極楽と地獄は表裏一体で、心を磨き、修行を
積んで、極楽へと至る境地を見出さなければならない。この墨跡、
禅画はその教えを表しているのです。

白隠の禅画が発する烈しさ、強さ、伸びやかさ、そしてユーモア
さえも、彼自身の己を律する厳しさ、たゆまぬ研鑽の結果が、
自ずと滲み出たものなのでしょう。

2014年5月11日日曜日

龍池町つくり委員会 4

5月6日、第22回龍池町つくり委員会が開催されました。

今回は、新年度の具体的活動計画案として、中高年を対象とした
ピアノ講座の開講、そして、委員会活動に協力していただいている
京都外国語大学の学生さんによる、龍池学区の子供たちを対象とした
学区内探索、町歩きイベント開催の提案がなされました。

この子供の町歩きイベントは、学区内のマンション住民の子供たちに、
この地域の通りの様子や、そこにはどんな店があるかを知ってもらう
ことによって、この地域にもっと、愛着を持てるようにすることを目的と
するものです。

このように、現状の問題に即した具体的な活動案も出てきましたが、
次なる課題は、これらの活動をいかにして地域住民に、あまねく
行き渡るように知らせるか、ということです。

特に、マンション住民に対しては、プライバシーの問題もあって、
地域の催しや活動案内がおろそかになってきました。

町つくり委員会の中でも、広報活動の必要性を、多くの委員が
認識するようになってきています。



2014年5月9日金曜日

季節の花をめでる

ゴールデンウイークに上賀茂、大田神社のカキツバタと、雲ケ畑、
志明院のシャクナゲを見てきました。

大田神社は、境内に入ったところにある大田の沢に、2万株以上の
カキツバタが群生していて、訪れた日にはまだちらほらと咲いている
程度でしたが、五月にふさわしいのびやかな葉と茎のみずみずしい
緑色と、あざやかな花の青味を帯びた紫色のコントラストが美しく、
晴れ晴れとした気分にひたれました。

一方志明院を訪ねると、山深い風景の中に突然、薄ピンク色に
咲きほこるシャクナゲの花の絢爛たる景色が広がって、その
あでやかさに驚かされました。

見終えた後、どちらの花の美しさも、実は京都の、豊かな水の恵みの
たまものであると、思い至りました。

大田の沢は市街北郊の加茂川沿いの沼沢地にあり、志明院は
この川の源流の一つに位置するからです。

京都の文化は、市街を南北に貫く鴨川や、豊富に存在する地下水
という、潤沢な水の恩恵を受けて来ました。

そのことに改めて気付かされる、時候の花をめでる日となりました。



2014年5月7日水曜日

伝来の五月人形

端午の節句に、久しぶりに我が家の五月人形を飾りました。

この人形は父の兄が生まれた時に、お祝いとして祖母の実家から頂いた
もので、およそ百年ぐらい前に作られたものだそうです。

私が幼い時には、毎年飾るのが恒例だったのですが、近年は多忙に
かまけて、ついついしまい込んだままになっていました。

今年は母の提案で、久しぶりのお目見えとなりました。

一番立派な人形が神功皇后、横にひかえる従臣が大切そうに抱いて
いるのが御子の応神天皇です。

記紀によると、朝鮮遠征から凱旋した神功皇后が筑紫で後の応神天皇を
出産、後世この二人は、全国の八幡神社の祭神として祀られることに
なったそうです。

五月人形というと、兜や甲冑がまず思い浮かびますが、母によると、
祖母の両親が、大切な娘を嫁がせ、無事長子が生まれたことをことのほか
喜んで、母子一対の人形を贈られたと聞いている、ということです。

さらには、神功皇后と応神天皇の対の大将人形が、当時の流行だったのかも
しれません。

久しぶりにこの人形を目の前にして、大切なものを通しての人の心のつながり
ということに、思いを馳せました。

2014年5月4日日曜日

FUTURE BEAUTY「日本ファッション:不連続の連続」を観て 3

どちらかというと、前近代的なイメージがある、平面性を特色とする
衣服を発展させて、このような未来志向のファッションを創造した、
日本人デザイナーのイマジネーションの飛躍に感動しました。

「伝統と革新」、彼らは、それまで西洋ファッションに存在しなかった
美の探究を、新たな素材の開発にも求め、京都の伝統的なもの作り
技術の応用にも、積極的に取り組みます。

西陣の織物素材をドレスの一部分として使用し、伝統的な染色技術を
用いて染め上げた生地で洋服をデザインするのです。

このパートは、とかく業界内に閉じこもりがちな、私たち和装業界の
人間にとっても、刺激的な内容でした。

「物語を紡ぐ」、長い不況の後のファッションデザイナーは、個人の
ささやかな幸福感を体現する小さな物語の表現にも、目を向けて
いるように思われます。

自らの人生の中で着用してきた衣服の断片ををつなぎ合わせて、
新たな一枚の服を作り上げたり、自分が好きなもの、なってみたい
ものをイメージさせる洋服をを創作したり、あるいは、愛用している
洋服の傷んだ部分にお気に入りの刺繍を施し、ニットの小さな
アクセサリーを縫い付けてドレスアップするというものです。

このパートは、私たちの店が承っている、一枚づつからの帯揚げの
誂え染めとも、通じ合うものがあると感じました。

2014年5月3日土曜日

FUTURE BEAUTY 「日本ファッション:不連続の連続」を観て 2

「陰影礼賛」のコーナーに展示された黒い服は、ファッションの本場
ヨーロッパで、衝撃をもって受け入れられたということです。

しかしこの黒い色調は、あまたある色の洪水の中での特殊な黒、
果敢にチャレンジした日本人デザイナーの勇気に敬意を払いつつも、
やはり、新奇なものがもてはやされたという印象も、作品を観ていて
受けました。

そして「平面性」、日本人デザイナーはこうして華々しくデビューを
飾りましたが、平面性という特性を追求した作品を発表するに至り、
服飾という分野に初めて、芸術という概念を導入したように見えます。

立体を志向して裁断、縫製する西洋のファッションに対して、平面的な
構造を持つ着物の文化に慣れ親しんだ彼らは、平面から立体を形作る
折り紙の思考方法も加味して、平面性を追求したファッションを欧米に
もたらすのです。

特に、三宅一生の「プリーツ・プリーズ」の作品には、特筆すべ
造形的な美しさからも、感動させられました。

ファッション界の事情に詳しくない私にも、日本のファッションが
ヨーロッパで確かな市民権を得たように感じられました。

2014年5月1日木曜日

京都国立近代美術館 FUTURE BEAUTY「日本ファッション:不連続の連続」を観て 1

この展覧会は、20世紀後期以降世界に注目された「日本ファッション」を、
日本人デザイナーの作品と映像や写真を通して顕彰する展覧会です。

私はファッションには明るくないので、果たして観に行く意味があるのか、
少々躊躇しましたが、その心配は全くの杞憂に終わりました。

とても内容の濃い、素晴らしい展覧会でした。私の感じたことを、数回に
渡ってお話しします。

この展覧会は四つのパートに分かれています。「陰影礼賛」「平面性」
「伝統と革新」「物語を紡ぐ」です。

まず、「陰影礼賛」からお話しします。

’80年代、川久保玲、山本耀司がパリ・ファッション界にデビュー、一躍
注目されますが、彼らが好んで使った色は黒でした。このパートには、
黒い服がずらっと並びます。

従来の欧米ファッションには、黒い服という概念がなかったそうです。
ところが、日本では、谷崎の「陰影礼賛」や水墨画というような、黒い
色彩に対する豊かな感受性がありました。また和装でいうと、黒留袖
が慶事に着用されるなど、黒い服への違和感も少なかったのでしょう。

我が国ではすんなり受け入れられるものが、ヨーロッパでは衝撃的である。
その事実がとても面白く感じられました。この時代日本人は、経済の
発展とともに、ファッションという文化領域においても、自信を深めたのでは
ないでしょうか。

2014年4月29日火曜日

ユイスマンス著「さかしま」 澁澤龍彦訳を読んで

斜陽のフランス貴族の末裔、デ・ゼッサントが時代と社会に絶望して、
自らの趣味、趣向の限りを尽くしたパリ郊外の家に隠棲し、体験する
思索の日々をつづった小説です。

まず、作者の博識に舌を巻きます。それに伴う訳注の膨大なこと!
翻訳も、澁澤なればの仕事と思わせます。

主人公の思考も、審美眼も極端に偏っていますが、終始一貫している
だけに滑稽ではあるが、妙に説得力があります。

すなわち、近代ヨーロッパの急速な資本主義の発達に伴う、
新興ブルジョア階級の台頭によって、失われていく旧来のキリスト教的
価値観を、変質した形ではあっても守ろうとしたのがデ・ゼッサントであり、
この小説はかたくなな彼が時流に押し流されて、ついには、敗北する姿を
描くものでもあるのでしょう。

皮肉にも本作が、以降に象徴主義文学や世紀末美術を語る上で、
欠くことの出来ないものとなったのは、主人公の隠遁生活の顛末を通して、
デカダンスというものが本来持つ、滅び行く一瞬に光彩を放つという性質を、
的確に描き出している所以ではないでしょうか。

いずれにせよ、この小説の長大な叙述から浮かび上がる、西洋の学芸の
輝かしき歴史は、私のような、東洋の島国の一読者にも、彼我の文化の
違いをいやが上にも突きつけてきます。

2014年4月25日金曜日

私たちの現代社会をおおう緩慢な死について

父を看取り、老齢の母と暮らし、また周りの高齢の方のお話を聞いて
いると、最近、高齢化と死について考える機会が増えました。

高齢者からよく、「ここまで、生きるとは思わなかった。」という言葉を
聞きます。

今の高齢の方は、幼少時には結核に代表される死の病、あるいは
戦争による死というように、若年でも死というものが身近にあり、
生きるということに対して、現在壮年以下の私たちとは、違う価値観を
有しておられるように思います。

ところが、自分の思い描いていた人生計画以上に長生きしてしまって、
体の次第に衰えていく老後をどのように過ごそうか、戸惑っておられる
ように感じられるのです。

翻って私たちも、高齢者の困惑を目の当たりにして、近い将来、自分が
当事者とならざるを得ない、答えのない高齢化問題に不安を抱いて
います。

かつては、”メメントモリ”という言葉に代表されるように、死に対する
不安が第一の人生の苦だったでしょう。でも今日では、生き続ける
不安というものも、人生の切実な問題なのではないでしょうか。

では、この不安をどのように和らげたらいいのか?社会保障の問題、
個々の人生への処し方、心の持ち方等、様々な対策、対処法は
あるのでしょうが、根本的な解決方法は到底、思い浮かびません。

きっと、一生かかって考え続けるのでしょう。

2014年4月23日水曜日

京都高島屋グランドホール「円谷英二 特撮の軌跡展」を観て

我が国の映画、テレビに特撮作品というジャンルを築き上げた
「特撮の神様」、円谷英二の特撮技術の紹介を中心とする
展覧会です。

私自身も映画「ゴジラシリーズ」の迫力、恐ろしさに心震わせ、
テレビ「ウルトラQ」、「ウルトラマンシリーズ」の神秘的な
超現実の世界、怪獣退治のストーリーに胸躍らせた世代なので、
何か懐かしいものに再会するような思いで、足を運びました。

円谷が次々に開発していった特撮技術の展示を見て行くと、
まず最初に何を撮るかという目的があり、それを実現するために
方法を考案していったという事実が明らかになります。

彼は常人の思いつかない発想で、観る者をあっと言わせる、
あるいは、それが違和感のないものと感じさせる、トリックを
矢継ぎ早に創作していきましたが、まず観客に見てもらいたい
シーン、訴えたい思想があり、それを実現するために、人並み
外れた情熱を有していたことを見逃してはならないでしょう。

さらに、円谷の特撮作品の魅力を語る上で欠かせないものとして、
キャラクターの素晴らしさがあげられます。

日本文化の伝統である、森羅万象すべてに魂が宿るというものの
考え方、マンガのルーツとも言われる、鳥獣戯画に代表される
絵画の継承、妖怪、幽霊の図像化など、長く蓄積されてきたものが、
折しも近代科学の発達とともに、円谷という偉才のもとに一気に
花開いたと考えるのも、あながち間違ってはいないと思われます。

2014年4月21日月曜日

朝日新聞の夏目漱石「こころ」再連載に寄せて

4月20日より、朝日新聞紙上で、漱石の「こころ」連載開始100年を
記念して、再連載が始まりました。

実は私は5年ほど前に、「こころ」を一度読んでいます。それで今回、
もう一回読んでみるものかどうか思案しました。

それというのも前回読了した時、先生とKの関係に、現代の価値観とは
相容れないような、古臭く、じれったいものを感じたからです。

どうして先生はKに自分の思いを伝えられなかったのか?Kの死後、
なぜに終生、彼に対する罪の意識に苛まれ続けたのか?
読み終えた後も、以上の疑問がまるで澱のように、私の心に残りました。

しかし、あえてもう一度読み直してみようと思ったのは、再連載に合わせて
掲載された、大江健三郎氏による、「時代の精神」というキーワードのもとに
語られた言葉を、読んでみたことにもよります。

そこで語られた言葉から私が汲み取ったのは、その小説が連載された
時点に立ち返って、読み直してみるということです。

果たしてそんなことが可能かはわかりませんが、うまくいけば、私にとっての
「こころ」の新しい解釈が生まれるかもしれません。

さらにこのように考える私を励ましてくれるのは、今回は新聞小説という形で
再読することになるという事実です。読み方が変われば、印象も変わる
に違いありません。なんだか楽しみになってきました。

2014年4月17日木曜日

小林敏明著「廣松渉ー近代の超克」を読んで

正直、難解でした。おまけに私は、廣松がマルクス主義の論客で、
思想家であったことも、この本を読むまで知りませんでした。
したがって、この感想は読書ノートの域を出ません。

さて、本書の中で「近代」を定義する部分は、私にも明解な答えを
提示してくれるものとして理解出来ました。

曰く、「近代」とはまず、貨幣経済に支配された産業資本主義の
発達であり、これを支えるための国民国家の成立であり、それを
推進するための機械的合理主義の確立である、ということです。

その中で個人の主観が培養され、利潤の追求が至上の価値と
なり、個々の人間の間に疎外感が生まれる。

では、その「近代」を超克するためには、どのようにすれば
よいのか?

廣松は、第二次大戦中の思想哲学上の超克論を代表する、
京都学派の批判から、自らのマルクス主義に立脚した超克論を
展開する方法を選びます。

つまり京都学派は、西洋思想を超えた日本独自の東洋的思想の
確立を志向し、結果としてそれが戦争協力と見做され、他方廣松は
それを反面教師として、マルクス主義に希望を求めたのです。

私は本書から、廣松の解を読み取れませんでしたが、ソ連の崩壊、
現代の資本主義がマルクス経済学から多大な影響を受けている
という歴史的事実から、まだ明解な答えを見出せない、「近代の超克」
という来たるべき社会を、夢想するしかないのかもしれません。

2014年4月15日火曜日

京都文化博物館「光の賛歌 印象派展」を観て

ルノアール「ブージウ‘ァルのダンス」が目を引きますが、シスレー、
ピサロ、モネの水辺の風景画が中心の印象派展です。

「ブージウ‘ァルのダンス」は、さすがルノアールです。人生の
歓喜の時の一瞬を捉え、卓越したデッサン力、天性の色彩感覚で、
濃密な愛の賛歌を歌い上げます。その一点があるだけで、周辺の
空間まで、薄紅色の靄がかかっているかのように感じられます。

NHKの生命科学番組ではないですが、この作品は正に、
オキシトシンの生成を誘発する絵画と感じられました。

印象派の水辺の風景画は、常に流動する光のきらめきを描き、
その瞬間の時を写し取っているにもかかわらず、画面全体から
受ける印象は、落ち着いています。

今回、同じような構図の絵画が多く並べられた中で、改めて
気付いたのは、空のスペースが大きく取られていることによって、
画面全体の泰然とした秩序が構築されていることです。

印象派の絵画が、観る人に心地よさを感じさせる理由は、ここにも
あるのでしょう。

シスレー、ピサロ、モネの三人の画家の中で、モネの作品が一番、
その制作時期によって様相を大きく変えます。それぞれの時代の
作品の素晴らしさに、画家としての器の大きさを感じました。

2014年4月13日日曜日

名残りの桜

4月12日、植物園に隣接する賀茂川沿いの桜を観に行きました。

京都の町中の桜は、大半が盛りを過ぎているのですが、ここの
桜は枝垂れで、今が見ごろです。

市中の桜の見納め、言わば名残りの桜見物といったところです。

ほのかな赤みを帯びた桜で、枝垂れている様子が優しくたおやか、
今年も美しく咲きそろっていました。

この桜を見ると数年前、関東にお住いのお世話になった知人の方
親子が、この時期私のところをお尋ねになって、やはりちょうど
ここの桜が見ごろで、ご案内したことを思い出します。

お二人ともたいそう喜んでいただのですが、その数か月後、その日
訪ねて来られた娘さんがご結婚され、それを見届けるように、更に
数か月後、この日ご一緒のお父様が亡くなったということを、
その後知ったのでした。

桜は年々相変わらずに咲きながら、そこに私たちの特別な思い出が
重なって、私たちそれぞれの、このみやびやかな花に対する
イメージが、出来上がって行くのかもしれません。


2014年4月10日木曜日

仕事のこと 2

昨日お話ししたことに関連して、朝日新聞朝刊4月9日付け、京都面の
「四季つれづれ」大野洋太郎さんの言葉が、私の琴線に触れました。

以下に引用すると、「「職人技は盗んで覚えろ」。よく聞くセリフです。
しかし未熟な者に技は盗めません。飽きるほどの同じ作業の繰り返しの
末に、いつの間にか身に付くのが技、その上に謙虚さが伴って、初めて
他人の技を盗めます。」「単純な作業の繰り返しに耐え仕事がひと通り
こなせるようになった時、初心の謙虚さを忘れずにいられるか。それは
仕事が本当に好きかどうかにかかっています。器用さは二の次です。」

私たちの属する伝統産業には、マニュアルなどなく、経験の蓄積で
職能を磨いて行きます。私も、父の後について、見よう見まねで商売を
覚えて来ました。

ましてや、熟練の技術が必須の職人は、その技術を磨くために、長い
下積み期間を必要とします。しかし、昨今の和装業界は、せっかくの
その技がどんどん失われて行く事態に直面しています。

現代社会を生きるお客さまが、必要と感じられるお品物を提供する
ことによって、この職人技を少しでも残していくことができたら・・・

私たち、この店に携わる者一同の、切なる願いです。

2014年4月9日水曜日

仕事のこと

4月始めから、3月末で会社を閉めた仕入先と、6月いっぱいで
仕事をやめるという、永年お世話になった染屋さんのことで、
頭を悩ませていました。

どちらも、私たちの店にっとては掛け替えのない存在で、それに
代わるところが果たして見つかるのか、当初は、見当も付かな
かったのです。

和装業界は、永年の不況と後継者不足、それに伴う従事者の
高齢化で、深刻な様相を呈しています。

今回、私たちの店でも、その懸念が一挙に噴き出したという
ところです。

幸い、従来の他の仕入先と新規のところを当たることで、
当該商品の仕入に目処が立ったことと、さらには、
お客さまの要望に叶う誂え染めを、請け負っていただけると
感じさせる染屋さんが見つかったので、一応胸をなでおろ
しました。

その染屋さんのご主人には、まだまだ元気を出して、仕事に
精進しなければならないという、前向きな言葉もいただいて、
かえってこちらが、励まされた具合です。

私たちの店も、周りの方々に支えられながら、お客さまに
満足いただけるお品物を提供出来るように、これからも
努力していこうと、決意を新たにした次第です。

2014年4月8日火曜日

森敦著「月山・鳥海山」を読んで

月山は、昭和49年、第70回芥川賞受賞作。まるで、白昼夢を見て
いるような不思議な小説です。

ただし、その雰囲気を醸し出すのに、霊場月山の麓の雪に
閉ざされた集落という場所は、決定的な役割を果たしています。

次に、この人界と神の領域の中間に位置するような場所においても、
細々とではあれ、人間の生活が営まれていることが示されます。
そこをふらっと訪れ、荒れ寺に身を置いた主人公は、いやが上にも、
その地の人びとと交わることになります。

庫裏の階上、寒さしのぎの古い祈禱書の和紙を再利用した
蚊帳の中に寝むる主人公は、まるでこの地の歴史、風土に丸ごと
包まれながら、その非日常の空間の生活を静かに観察している
ようです。

取り留めもなく綴ってきましたが、読み終わってこの小説はやはり、
人間とはいかなるものかを、映し出していると思います。

月山の霊的な帳の下、即身成仏の因習も残る、厳しい気候風土の
中で、自然に寄り添うように生きる人び。、しかし時として、下界から
持ち込まれた欲望や狂騒によって、身を持ち崩すものが現れ、その
後遺症を引きずりながらも、何事もなかったように続く日常。

人間という存在の業を、静かに語りかけているように感じられるのです。

2014年4月3日木曜日

龍池町つくり委員会 3

4月1日、第21回龍池町つくり委員会が開催されました。

今回はまず、あらかじめ提出されていた事業活動案について、検討を
おこないました。結果、広報活動の充実、既存のイベントとの兼合いを
考慮した、主に子育て世代をターゲットとした、茶話会などの事業の
推進が再確認されました。

討論の過程で、各町内における町内会規約の整備と、規約作成の
促進を優先すべきとの意見も出て、各委員の考え方の温度差も
垣間見えました。

本来は、新旧住民、世代間のコミュニケーションを密にしてから、幅広い
意見を入れて規約を策定すべきなのでしょうが、現状は地域環境の
急激な変化のために、コミュニケーションの醸成も、規約の作成の促進も
待ったなしの課題となっています。

つまり、両方を並行して進めなければならず、なかなか難しい問題です。

2014年4月2日水曜日

映画「ペコロスの母に会いに行く」を観て

長崎在住の漫画家 岡野雄一の認知症の老母介護を題材とした、
ユーモア溢れるエッセイ漫画の映画化作品です。

私自身も80歳を越える母と同居し、老人介護は他人事ではない
切実な問題です。

バツイチの主人公雄一は、認知症の兆候が出始めた母を抱えながら、
会社に勤めつつ、漫画を描き、音楽活動に勤しむと、多忙な日々を
送っていますが、母の症状が進み、ケアマネジャーの勧めに従って、
彼女を介護施設に入れる決意をします。

母の施設入所までは、彼女の認知症を疎ましく思っていた雄一ですが、
施設で介護職員、他の入居者やその家族と知り合い、何より、母と
少し距離を置いて接することが出来るようになって、次第に、認知症も
悪いことばかりではないと、感じるようになります。

認知症を患った人は、未来に向かって生きるより、過去をもう一度
生き直すことを選択しているのかもしれません。しかし、それは一概に
退行とは言えないのではないでしょうか?

人は時の流れの中で、否応なく現実に押し流されながら、気がかりや
悔恨を残しつつ生きて行く。

生きることに忙しいうちは、それらの諸事を頭の片隅に押しやって、
すっかり忘れていますが、認知症を患って、脳が最早、未来について
考えることを放棄した時、過去の懸念や痛恨事が一挙に頭をもたげて
来るのでしょう。

それら諸々を、もう一度記憶の中に辿り直し、自分なりの納得を得た時、
その人の心は安らぎに満たされるのではないでしょうか。

介護は決して、きれいごとではありません。しかし、介護される人の心に
少しでも寄り添うことが出来た時、この絶望的に見える状況に、かすかな
光明はさすのかもしれません。

この作品は、そんなことを私たちに、気付かせてくれます。

2014年3月28日金曜日

連続テレビ「ごちそうさん」を見て 2

3月27日、「ごちそうさん」を見て、人をもてなすということについて、
考えさせられる場面がありました。

このドラマはご承知のように、美味しいものは人を幸せにするというのが
中心的な命題ですが、それに付随して、美味しい食事で人をもてなす
シーンがしばしば描かれます。

この日、ある事情でGHQの高官をご馳走でもてなさなければならなくなった
場面、次男を戦争で失っため以子は、わかっていても、アメリカ軍人に
料理を振舞うことに、抵抗を感じていたのですが、どうしても腕を
振るわなければならない。しかも、その直前の筋を見ていないので確信は
ないのですが、高官提供の、当時日本の庶民には到底口に入らない、
牛肉の塊を調理しなければならないのです。

さて、め以子はその肉の塊でローストビーフを作り、高官の目の前で切り分け、
炊き立てのご飯の上にもって、差し出します。

それを食べて感動した高官の口から、彼も息子をかの戦争で失ったこと、
これからは未来志向で、アメリカ人と日本人が手を携えて進んでいかなければ
ならない、という言葉をひきだすのです。

人をもてなすということは、相手の立場に立って、相手の求めるものを提供する
こと、場合によっては、相手の求める以上のものを用意することでしょう。
そのためには、時によって、目に見える形で誠意を示すことも必要でしょう。
相手に対して、割り切れぬ感情を持っていため以子にとっては、なおさら、
誠心誠意、相手を感服させる食事を提供する必要があったのです。

私も、学ぶべきところがあると、感じました。

2014年3月26日水曜日

神戸市立博物館「ターナー展」を観て

英国を代表する風景画の巨匠ターナーの回顧展を観ました。

彼の風景画にとって、{崇高}というキーワードは欠かせないもののようで、
彼は観る者に対して、畏怖と尊敬の念を抱かせる絵画を描くことを、目標と
したといいます。

それゆえターナーの風景画、特に大画面の油彩画は、力動感、無辺性、
崇高な意志の表象において、他の追随を許さないスケールに仕上がって
います。

他方彼の水彩画は、繊細なタッチで無駄を排した簡潔な表現、鋭敏な
色彩感覚による絶妙の配色によって、確固とした存在感を有しながら、
軽やかで詩情溢れるものに仕上がっています。

この二面性も、ターナーの芸術の掛け替えのない魅力でしょう。

彼の風景画のもう一つの特色は、物語性です。この特性を持つことに
よって、その風景画はより奥行きと広がりを獲得し、{崇高}の志向も
相まって、他の画家の風景画と一線を画する、独自の魅力的な作品に
仕上がっています。

また晩年の作品は、油彩においても、水彩においても、最早造形に
重きは置かれず、色彩の配置と階調を用いて、もっぱら雰囲気と
情趣を描き出すことに、腐心しているように感じられます。

風景を描き続けて大成した画家も、晩年には無我の境地を目指した
のでしょうか。