2024年2月29日木曜日

富岡多恵子著「水上庭園」を読んで

先般亡くなった詩人で小説家の著者の、恋愛という切り口で紡ぐ、1960年から1990年に至る詩的回想を 巡る小説です。従って筋道立てたストーリーはほぼありませんが、個人の体験を超えたその時代の空気が背景 から浮かび上がり、忘れがたい印象を残しました。 まずこの恋愛の主人公の一人A子が、著者の分身であることは間違いないとして、もう一方のドイツ人Eが誠に 非現実的で、存在感も希薄です。なぜならA子より十歳以上年下のEとA子は、A子の新婚旅行の途次のシベリア 鉄道の列車内で出会い、二人の恋愛が30年ほどのモラトリアムを経て、かりそめの形であれ刹那成就すると いう物語の展開であるからです。 A子はEに好意を抱きながら、あくまで自分の既婚者としての立場を堅持し、それでいてEに甘え、時には姉のよう に振る舞います。このような話の成り行きを見ていくと、Eとは著者がドイツ人に抱くイメージを具現化した存在 と思われて来ます。そしてそのように考えると、この間の著者のドイツに対する想いの蓄積が、浮かび上がって 来ます。 1989年ドイツでは、東西対立の最前線であった、ベルリンの壁崩壊という大きな歴史的変化がありました。 それ以前には、同じドイツ人が東西に分かれ、思想的対立を余儀なくされる緊張と閉塞を経て、一気に悲願が成就 される形での統合が実現したのです。 この解放されたドイツにA子はEを訪ねます。Eは以前に比べて思想的な理屈っぽさや、若気の衝動性は影を潜め、 随分落ち着いているけれども、一所に止まることを望まない漂白の精神を失っていません。それを確かめたA子は、 安心したのではないでしょうか? この物語の中の印象的なシーンは、A子がEの車でベルリンへ向かう途中、映画の野外撮影現場に行き会う場面です。 映画のシナリオも執筆するA子(著者)は、現実と夢想の境界が次第に曖昧になって、目の前で演じる女優に自らを 同化させて、場面も近松の「道行き」に変化していく、幻想的なシーンが現出されます。 この描写には、文学者富岡多恵子の詩情の核心を、浮かび上がらせるような切迫感があると、感じられました。

2024年2月22日木曜日

沢木耕太郎著「深夜特急1 香港・マカオ」を読んで

若き沢木耕太郎の代表作「深夜特急」三部作の第一部、『深夜特急第一便」の前半部分、“インドのデリー からイギリスのロンドンまで、乗り合いバスで行ってみたいと思い立ち、26歳で仕事をすべて投げ出して旅 に出た”著者の、最初の訪問地香港・マカオでの体験を記した書です。 行動派の著者特有の当たって砕ける無鉄砲さが清々しく、それでいて自分を客観視出来る冷静さや思慮、行 きずりの人をも思い遣る優しさがあって、この紀行文に独特の魅力を添えています。 今から約50年前のことなので、本書に記された現地の状況もかなり変化していると推察されますが、その 土地や現地の人々が醸し出す、今に変わらぬ特色や気質が活写されていると思われ、また当地での著者の 体験の中に、人間という存在の普遍的なものが顔をのぞかせていると感じられて、興味深い読書体験でした。 さて香港到着後著者はひょんなことから、「黄金宮殿」という立派な名前の宿屋を紹介されて泊まることに なりますが、直にこの宿はラブホテルと思しき安宿であることが判明します。しかし、現地の庶民の隠れ家 的な安価な宿に潜り込めたことによって、滞在中腰を落ち着けてゆっくりと住民と交流し、名所を巡り、 食事、酒を楽しむことが出来たのでした。 これはツアーで回る一般の観光客には絶対に味わえない体験で、本書の大きな魅力の一つになっています。 この宿にまつわるエピソードの中で、一番心に残るのは、宿に入り浸る21歳の娼婦が著者に興味を抱き、彼 の部屋を訪れる場面で、互いに言葉は通じず、手探りで相手の気持ちを知ろうとするところが初々しく、 結局体を触れ合うことも無く、彼女が部屋を出て行く姿に、甘酸っぱい余韻が残りました。 しかし本書におけるハイライトは、著者がマカオのカジノでゲームに興じる場面で、彼は「大小(タイスウ)」 という器具を用いたサイコロ賭博を試みるのですが、やっているうちにディーラーの駆け引きの癖や、場に 居合わせる他の客を含めた勝負の雰囲気から、次第にサイの目が読める手応えを感じ、どんどんのめり込んで 行きます。著者は幸い、最後に巻き返してわずかな損失でその場を切り抜けることが出来ましたが、臨場感溢 れる描写で、賭博のヒリヒリするような魅力、恐ろしさを、たっぷりと味わわせてくれました。 今まで賭博に惹かれる人の心理が全く理解出来なかった私は、本書のこの場面を読んで、賭博の醍醐味は、我々 の人生において大きな決断をしなければならない場面を、疑似体験させてくれることにあるのかも知れないと 感じました。

2024年2月15日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2917を読んで

2023年11月22日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2917では 作家幸田文の随筆集『老いの身じたく』から、次の言葉が取り上げられています。    くろうとはどの道の人も、みなあと片付    けがうまい。 いけ花の先生の、花を生け終えた後の、的確な後始末を見て、この作家の感じた感慨だそう です。 確かに私の体験でも、総じて腕の立つ職人の人は、立つ鳥は跡を濁さずとでもいうのか、 あと片付けがきれいで、上手だと思います。大工さん、植木屋さんなど。 逆に私が若い頃、家族の留守中に急に思い立って、家の台所で料理のまねごとをしたら、本人 は家族の帰宅後に喜んでもらえると高をくくっていたのに、台所が大変散らかっていると、 大目玉を食らった経験があります。正に自分の未熟さをさらけ出していたのでしょう。今 思い出すと、赤面ものです。 このことからも分かるように、プロの技は後始末も含めての技で、技の研鑽の基礎の根底に、 後始末があるのでしょう。だから技術の上達を焦って、いくら表面的な修練を積んでも、 片付け、整える心が育っていなければ、本当の意味での技の習得は出来ないのだと思います。 一つの仕事にきっちりときりを付けて、次の仕事に移る。そのような仕事上のメリハリも大切 だと思われますし、職人仕事に限らず、何か物事を行うときの心構えとしても、必要なこと だと思います。

2024年2月7日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2916を読んで

2023年11月21日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2916では 哲学者和辻哲郎の『倫理学』から、次の言葉が取り上げられています。    人間の成り方、それを我々は「存在」と    いう概念によって現そうとする 和辻によると、個人は「もの」として何か実体のようにあるのではなく、さまざまな行為の連なりの 中にあるといいます。つまり、社会的生き物である人間は、単なる生物の個体と違って、生まれて から現在に至るまでの、経歴や行為、思考の後によって特定されるべきである、ということでしょう か? 確かに、私たちは他者をそのような尺度によって見定めますし、反対に他者からも、そのような尺度 によってどのような人間であるか見なされているのでしょう。 だから、人間は生まれてから固有名としての自分を形作るのであって、理想論を言えば、生まれた 環境によってあらかじめ優劣が付けられるべきではないのでしょうが、現実は生育環境によって人生 が規定される部分も大きいということでしょう。 それ故、恵まれた環境に生まれて能力を発揮する人よりも、恵まれない環境に生まれたにも関わらず、 逆境を乗り越えて能力を発揮する人の方が、更に尊いように感じられます。 少なくともこの社会が、人をその成し遂げたことによって評価出来る社会であってほしいと思います。