2023年9月22日金曜日

島田裕巳著「性と宗教」を読んで

宗教の特性といえばまず道徳を思い浮かべますが、「性と宗教」という表題に意表を突かれた思いで、本書を 手に取りました。しかし「はじめに」を読んでいて、人間の根源的な欲望の一つである性欲を、共同体の単位 の中でいかに制御するかということが、社会生活を営む上での切実な問題であることに気づかされて、その 解決策を担うものとしての宗教の存在の重要さに思い至りました。 またそういう観点からユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、神道といった代表的な、あるいは私たち 日本人に身近な各宗教を見ると、それぞれの特徴がよく分かることも理解できました。 まずユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同一の神を信仰する一神教であると、私たちこれらの宗教の起源 の地から遠く離れた東アジアに住む仏教徒には思われます。しかし世界史を振り返り、現在の世界情勢を見て も、これらの各宗教を信じる人々は、近親憎悪と言うべき互いへの深い不信感を抱いているように感じられ ます。 ではどうしてこのような対立が起こるのかということを知ろうとすれば、全てではないにしても、それぞれの 宗教が持つ性に対する価値観が大きな要因となっていることを、本書を読んで理解することが出来ました。 つまりキリスト教には、性に対する罪悪感に基づく原罪という根本的な価値観があり、それを償う贖罪意識が 信仰、あるいは生きるための指針となっているのです。これに伴う特権的な意識が、国際社会を動かす主要な 勢力であるキリスト教徒が、他の宗教を信じる人々との間に軋轢を生み出す要因となっている、と推察され ます。 またイスラム教の特徴で私にとって興味深かったのは、この宗教が性を肯定しているということで、このよう な一見自由な宗教が、厳格な女性差別を内包していることの複雑さを感じました。 一方仏教は、基本的には性に対する厳格な規制を教義としていますが、ヒンドゥー教の影響などもあり、肯定 的側面もあって、発生地から遠く離れた日本では、土着宗教である神道的な価値観も相まって、性の禁忌の 意識が曖昧になって今日に至っています。このような傾向が日本人の宗教意識を更に薄れさせて、今日では 倫理観の後退をも生み出しているように思われます。 いずれにしても、今日の資本主義社会では、宗教の存在感が一見目に見えにくくなっていますが、人々の心 の奥底にはその価値観が確実に存在し、行動や思考に影響を及ぼしていることを改めて感じさせられました。

2023年9月7日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2784を読んで

2023年7月7日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2784では 「朝日新聞デジタル」(6月11日)から、NHKの連続テレビ小説「舞い上がれ」の脚本家・桑原亮子 がドラマの登場人物の架空の詩画集で編んだ、次の詩歌が取り上げられています。    縫ひしものに針の残りてをらぬこと確か    むるごとメール見返す この歌は、作者が電子メールに向き合う時の心配り、相手に対する優しさを如実に表していると 感じます。 メールでは、相手の顔が見えないだけに、またそれでいて、こちらの送る文字が瞬時に相手に伝わ るだけに、送り手は自分の意が十分に相手に伝わっているか、言外のこちらの気持ちが理解される かと、発信する側は懸念を抱きがちです。 そこで作者は、自分の作成した文章を細心の注意をもって見返して、それから相手に発信すると いうことなのでしょう。その注意深い振り返りを、縫物に針が残っていないか確かめるように確認 すると表現しているのです。 着物の手縫いの縫製などが盛んにおこなわれていたころ、縫い上がった着物に針が残っているとい うことは、時々ありました。縫製をする時に、仕付け針で生地が動かないように固定して縫う方法 が採られていたので、ついつい仕立てあがった後に、その針を取り忘れるということがあったので しょう。 その着物を着用する人の気持ちになって、針が残っていないか、丁寧に確認する。同様の気持ちで メールの文章を吟味する、ということなのでしょう。 この心の持ち方は、工芸作品を制作する時の心構えにも通じる、と思います。つまり、その作品を 使用する人の気持ちを想像して制作する、という意味において。 発信者の受け手への思いやりを端的に表現する、素晴らしい言葉だと思いました。

2023年9月1日金曜日

小川哲著「地図と拳」を読んで

第168回直木賞受賞作です。日露戦争から第二次世界大戦終結まで、中国東北部で繰り広げられた、 満州国建国とその崩壊を巡る、知略と殺戮に満ちた歴史ロマン。スケールは極めて大きく、また ロシアのウクライナ侵攻という、現実の衝撃的な出来事もあって、国家とは何か、戦争とは何か を問う、問題小説でもあります。 また、この大作に読者を引き込む導入部が、とても秀逸であると感じました。例えば序章では、 日露戦争前夜ロシアの動向を探るため、中国東北部におけるロシアの勢力圏である満州に、軍の 密名を受けて侵入した高木は、同行する一見ひ弱そうな通訳細川を苦々しく感じていますが、 実際に二人がロシア軍に拘束された時に細川は、並外れた知略と交渉術を発揮して、高木を窮地 から救います。そして、その時に鍵になった高木のナイフは、物語全体の結末までも重要な役割を 果たし、高木と細川の縁は全編を通して、物語を牽引して行くのです。 あるいは第一章では、満州国に布教のために派遣されて来ていたロシア人宣教師クラスニコフは、 義和団の変で排外機運が急激に高まる中で、自分を襲った孫悟空を信仰によって救い、孫は後に 満州国繁栄の象徴となり、クラスニコフは、日本軍への中国民衆の抵抗運動の精神的支柱となり ます。このような巧みな導入部を得て、長大な物語は一気に進んで行きます。 上記のように、全編に通底する物語の駆動力にはかなり強いものを感じ、読者に長い物語を読み 通させる持久力を生み出していますし、途中に挟まる出来事の冷徹でリアルな描写には、戦争の 残酷さや傀儡国家の虚妄、日本軍の非道や被占領民の悲惨が、克明に描き出されていると感じま した。 しかし、現実に起こった歴史的事件を全体像として把握するには、あくまで断片的で、観念論に 偏っている思われて、空想領域を出ない小説と感じられました。 ここでもう一点付け加えたいのは、この小説は主要登場人物それぞれの視点から物語を語ること によって、公平な立場を堅持しながら、ストーリーを展開しようと努めているいると思われます が、読者である私は戦闘場面などで読んでいてついつい、日本軍に肩入れしようとしている自分 に気づくことがありました。過去の日本の愚行や過ちは肝に銘じているはずなのに、戦闘的な 場面に遭遇した時の人間心理の性には、考えさせられるところがありました。