2015年12月30日水曜日

漱石「門」における、子供に関する御米の心痛と罪悪感

2015年12月29日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第六十三回)に、折角子供を授かっても無事に出産出来ないことに
対する御米の苦悩と、一人で背負い込んでしまっている罪悪感に
ついて記する、次の文章があります。

「御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい
運命の厳かな支配を認めて、その厳かな支配の下に立つ、幾月日の
自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じた時、
時ならぬ呪咀の声を耳の傍に聞いた。」

御米にとっては、本当に気の毒なことです。出産に対する医療技術が
まだ未熟で、現在なら助かる命が失われてしまうという面もあります。

また当時の女性の社会的立場という意味においても、子供を産むことが
出来ないということに対しては、母親が一身に責任を感じなければ
ならないことにもなるでしょう。

その上に、宗助と御米の結婚が倫理観に背くものであり、さらには
この当時には、姦通罪というものが存在して、二人に対する世間の
風当たりが相当強かったことを勘案すると、彼女のプレッシャーは
並大抵ではなかったと想像されます。

宗助は御米のことを大切に考えていますが、その辺りの気遣いには
残念ながら疎いようです。男と女のどうしようもない隔たりということで
しょうか?

2015年12月28日月曜日

井上章一著「京都ぎらい」を読んで

旧洛外、嵯峨育ちの国際日本文化研究センター教授、井上章一による
愛憎入り混じる京都論です。著者ならではのユーモア溢れる、歯に衣着せぬ
物言いが、全編に心地よいリズムを刻みます。

私が本書を読み始めてまず感じたのは、何とも言えぬおもはゆい想いでした。
というのは、私は生まれも育ちも洛中の人間で、自分自身は洛中、洛外の
別をことさら意識していないつもりでいますが、今現在でも私より年かさの
周囲の洛中人の多くには、確かに強い洛中特権意識があるように感じられる
ことがあります。

それは伝統ある都の自治を担って来たという、町衆の誇りに由来するもので
あり、そのような気概によって連綿と町が支えられて来たのも紛れもない
事実でしょう。

しかし今日の交通、通信、情報の飛躍的な発展によってもたらされた開かれた
社会環境にあっては、古い都市住民に残る特権意識は、新しく入って来る
人々との間に、軋轢を生みかねません。

現に私の暮らす地域でも、旧来からの住民と最近急増するマンションに
引っ越して来た新住民との意思の疎通を計ることが、緊急の課題となって
います。もちろん、この場合においても、旧住民の特権意識だけが新住民との
交流を妨げているとは思いませんが、その要因の一つであることは間違い
ないでしょう。

さて同じ京都市の市民でも、洛外出身、在住の人が、洛中の人間に感じ取る
軽視されているという腹立たしさは、合わせ鏡としてこの地の保守性を焙り
出します。私は、その事実をこの本から突きつけられて、困惑したのです。

本書の前半、洛中人や僧侶の特権意識を語るくだりでは、著者は京都の
旧弊に物申す目的でこの文章を綴っていると感じられましたが、後半に入り
この都市の現在に至る歴史的経緯に話が及ぶと、京都が長い歴史を有する
都であるだけに、古い時代の時々の為政者が施した政策が、今なお
この都市の佇まいや住民の意識に影響を及ぼしていることが見えて来ます。

つまり長い風雪に耐えた歴史的建造物だけではなく、思考方法、倫理観、
美意識など京都人の気質のすべてが、長い有為変転する歴史の中で培われた
のです。

この部分まで来ると、本書は俄然読み物としての密度を増し、優れた都市論、
社会生活を営む存在としての人間論になっていると、感じられました。
井上章一、決して侮るべからず。

2015年12月24日木曜日

鷲田清一「折々のことば」257を読んで

2015年12月21日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」257に
評論家大宅映子の関西の私大での講演から引いた、次のことばが
引かれています。

 死ぬとわかっていてなぜ人は生きていけるのか。その根源的な理由を
 考えるのが、文学部というところです。

昨今は学生の間でも、工学系など実践的な学部がもてはやされて、どうも
文学部などの直接には社会に出てすぐに役立たない学問は、敬遠され勝ち
なようです。

先般も文部科学省から国立大学に対して、人文科学系の学部の廃止、
転換の通達が出て、少なからぬ反響を呼びました。

私自身は経済学部を出て、正直社会に出た時には、自分が携わる末端の
仕事とは余りにもかけ離れていると感じました。もっとも、当時としては
それほど将来の展望もなく、ただ就職に有利ということで、この学部を
選択したのが実情ですが・・・。

しかし今になってみると、無論経済学が身を立てるスキルになっているとは
到底思われませんが、経済学的なものの考え方や、その学部で一般教養
として学んだ知識は、確かな生きるよすがや、心の滋養になっていると感じ
られます。

とにかく近頃は、何につけても合理的かつ実践的なものが求められ勝ち
ですが、長い目で見る人生において、さらには社会全体の仕組みを円滑に
動かすためにも、人文科学系の学問も必要なのではないか?このことばを
読んで、そんな思いを強くしました。

2015年12月22日火曜日

田中康弘著「山怪 山人が語る不思議な話」を読んで

私たちはどうして今、伝承に基づく不思議な話、怪しい話に惹きつけられる
のでしょうか?

それは、今日の合理的価値観が支配する日常生活においては忘れ去られ、
一顧だにされないものです。しかしかつては人々は、これらの怪しげな
出来事を当然のことと感じ、それらの不思議を受容しながら生活して来ました。
それゆえ、これらの伝承は残ったのでしょう。

ではどうして、それらの伝承は生まれたのか?根本には、この世の事象の
すべてに人間の理解が及ぶ訳ではないという考え方が、広く人々に共有
されていたことが挙げられると思います。

そのような大前提があるだけに、人は簡単には説明のつかない自然の脅威、
因縁にまつわること、倫理観に基づくことなどを、このような伝承に仮託して
受け継いで来たのでしょう。そしてそれらの語る事柄は、人びとの心の深い
ところに留まり、知らず知らずのうちに各人の生活に影響を及ぼしていたに
違いありません。

近代化と科学技術の発達によって、私たちは次第に合理的に説明の付くもの
だけに信を置くようになり、それと同時に前述のような伝承は単なる迷信、
前近代的なものの考え方の残滓と、軽んじられるようになりました。

しかしそのような人の心の狭量化は、精神世界の奥行を狭め、殺伐とした
ものにして行ったように感じられます。つまり本来人間の生活は、目に見える
もの、合理的なものだけによって、成り立っているのではないからです。今
私たちがこのような伝承に心惹かれるのは、そんな背景があると思われます。

本書は、山人が語る不思議な話によって構成されています。山は、近代化に
よって平地の緑が急速に失われて行っても、まだ荒々しい自然が最後まで
残された場所で、狩猟など自然と直に対峙する生業を営む人々が、今なお
存在する地です。

そのような地域では、伝承の精神世界は彼らの日常生活の中に脈々と
受け継がれて来たのでしょう。つまり我々がこれらの話に魅せられるのは、
失われた自然に対する憧憬という部分もあるのでしょう。

日本のこのような性格の伝承には、狐や狸に化かされる話が多いのですが、
これらの動物が私たちにとって身近であったのはもちろん、特に狐は
稲荷信仰とも密接に関わるように、神の使いと見做されていたのか、
いずれにせよ狩猟対象にある種の禁忌や恐れがあることは、逆に健全な
ことではないかと感じました。

2015年12月20日日曜日

鷲田清一「折々のことば」253を読んで

2015年12月17日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」253に
作家山田稔の「八十二歳のガールフレンド」から引いた、次のことばが
あります。

 人は思い出されているかぎり、死なないのだ。思い出すとは、呼びもどす
 こと。

実は私は、それほど信心深くはありませんが、多少は霊魂の存在を信じて
います。

というのは今までに二度、私に目をかけて下さった方が亡くなった時に、
その事実はまだ知らされていないにも関わらず、二回とも丁度室内に
居たのですが、突然辺りが何とも言えないぬくもりと、かすかな温かい光に
包まれて、前方上方にけむりのようなもやもやしたものが、私を見守って
くれているような感覚を味わったことがあるからです。

それはあるいは、虫の知らせに近いものかも知れませんが、私は、亡くなった
方の私を思ってくださる気持ちの表れと、信じています。

同様に上述の経験とは、あの世に旅立った人と生きている者の立場は
逆転するにしても、亡くなった人を思い出し、話題にするということは、
今を生きる者の心の中に確実にその人が存在し続けている、ということで
しょう。

自分の体の血肉の一部となっているから、人はかけがえのない今は亡き人を
思い出すのに違いありません。

2015年12月16日水曜日

漱石「門」における、御米の症状を心配しながら家に帰る宗助

2015年12月16日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第五十五回)に、勤め先の役所から、御米の具合を気遣って早引けして
帰る宗助の心の働きを記する、次の文章があります。

「 電車の中では、御米の眼が何時頃覚めたろう、覚めた後は心持が大分
好くなったろう、発作ももう起こる気遣なかろうと、凡て悪くない想像ばかり
思い浮べた。何時もと違って、乗客の非常に少ない時間に乗り合わせた
ので、宗助は周囲の刺戟に気を使う必要が殆んどなかった。それで自由に
頭の中へ現われる画を何枚となく眺めた。そのうちに、電車は終点に来た。」

宗助の御米に対する思いやりや優しさが、よく描写されている文章です。
また彼が、これまでに御米の病状に接した経験にもよるのでしょうが、少し
楽観的であるようにも感じられます。あるいは、そのように考えて、自身で
自分を励ましているのかも知れません。

乗っている電車がいつもより空いているので、あれこれ想像の画像が浮かぶ
というのも、いい得て妙と感じさせられました。車内という閉ざされた空間の
中で、それでいて気にならない適度な人数の乗客がいて、また自身は体を
たとえば座席に預けて所在なく佇んでいる時、空想が頭を巡るということは
ままあることです。ましてや、気がかりなことがあれば、なおさらでしょう。

漱石が鉄道を描く場面には、しばしば登場人物の心の動きとからませて、
秀逸だと感じさせられることがあります。

2015年12月14日月曜日

滋賀県立近代美術館「生命の徴ー滋賀の「アール・ブリュット」」を観て

滋賀県では、福祉施設での長年の造形活動の取り組みによって、近年注目
される「アール・ブリュット」という美術概念に照らしても、独特の成果を収めて
来たといいます。

「アール・ブリュット」は、フランスの画家ジャン・デュビュッフェが提唱した、
正規の美術教育を受けていない人による純粋な美術活動及び作品ー生の
芸術ーという概念ですが、その中でも大きな位置を占める障がいのある人々の
造形活動において、この地は有力な作家を生み出しています。

2019年に、「アール・ブリュット」を新たにコレクションの核として加える計画の
滋賀県立近代美術館が、その指針を示す目的で開催した展覧会です。

私にとって、「アール・ブリュット」と名打つ、あるいは障がいのある人の
造形活動を、美術館で観るのは初めての体験で、正直なところどういう
受け止め方で作品に向き合うべきか、最初は戸惑いました。

当初、作品に添えられた作者や作品の説明書きも相まって、特別な存在の
人が、その創作活動なくしては自らの生を持続出来ないような切実な思いを
持って、文字通り身を削るように制作した作品という先入観が邪魔をして、
純粋にその場にある美術作品を楽しむという気分になれなかったのですが、
観つづけて行くうちに、作者自身の根源的な情動のいかなる雑念にもゆるがせ
られない吐露として、次第に驚きと感動を禁じえなくなりました。

その作品には、原始美術に通じるような大地に根差した力強さ、おおらかさが
あり、他方自分の身内より湧き出て来るものを、何としても形にとどめようと
する、気の遠くなるほどの執拗さ、ち密さがあります。

考えてみれば、文明の発達と共に私たちが失いつつある、原存在としての
人間の姿を、これらの作品はもう一度問い直して来る力を持っているのです。

近年は、鋭敏な感覚の持ち主である一部美術家も、その魅力に気付き、彼らと
障がいを持つ作家とのコラボ作品も生み出されて来ていることが、本展でも
示されます。この展覧会は、「アール・ブリュット」の芸術を先入観を排して
楽しむ術を与えてくれたという意味において、私にとって忘れられないものと
なりました。

2015年12月11日金曜日

漱石「門」における、宗助の家に同居し始めた小六の不安

2015年12月8日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第五十回)に、叔父の佐伯が亡くなって、最早そちらで学費や生活の面倒を
見てもらえなくなった小六が、やむをえず宗助の家に同居することになり、
将来への不安が御米との会話に顔をのぞかせる、次の記述があります。

「 小六はその時不慥な表情をして、
  「そりゃ安さんの計画が、口でいう通り旨く行けば訳はないんでしょうが、
段々考えると、何だか少し当にならないような気がし出してね。鰹船もあんまり
儲からないようだから」といった。御米は小六の憮然としている姿を見て、
それを時々酒気を帯びて帰って来る、どこかに殺気を含んだ、しかも何が癪に
障るんだか訳が分らないでいて甚だ不平らしい小六と比較すると、心の中で
気の毒にもあり、また可笑しくもあった。」

小六もようやく、佐伯の息子の安さんが夢ばかり追いかけて、実際にはあまり
頼りにならない人物であることに、感づき始めたのでしょう。

彼には自分の将来に対する不安、あるいは身のやり場のないことへの大いなる
不満があり、酒でも飲んで気を紛らわせるしかないのでしょう。

御米はその小六の気持ちが十分に分かっていて、しかし宗助や自分では救って
やれないことが不甲斐なく、またこの事態の遠因には自分たちのあの事件がある
ことも罪悪感を募らせ、ますます自らを苛むのでしょう。

何か彼女に同情を禁じえなくなって来ました。

2015年12月10日木曜日

鷲田清一「折々のことば」244を読んで

2015年12月7日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」244に
京都生まれの経済学者大竹文雄の次のことばが引かれています。

 まちの人が求めるのは、そこにないもの。よその人が求めるのは、
 そこにあるもの。

このことばの説明に、京都人は、夏は蒸し暑く、冬は底冷えのする気候
ゆえに、温和な気候や空調のきいたマンション生活に憧れる、と述べられて
いますが、現代の京都に暮らす私としては、最近は温暖化の影響か寒さも
随分ましになり、また町家といえどもエアコンが設置されているので、かなり
過ごしやすくなりました。

またこの頃は市の中心部に、どんどんマンションが建設されているので、
そこに住む人々には、暑さ、寒さの悩みもそれほどではないでしょう。

それよりも私は、古い町家暮らしのわずらわしさとしては、あちこち老朽化
した箇所を補修しなければならないこと、季節季節の設えをかなり手を
抜いているとはいえ一応準備しなければならないこと、植木屋さんに
手伝ってもらいながらも庭の手入れをしなければならないこと、であると
実感しています。

しかしそれらの日々の義務や雑務には、わずらわしさと同時に、ふとした
喜びや、安らぎもあり、まんざら悪くはないとも感じます。

ましてや、よその人からそれらのことに関して感心されたり、ほめられると、
なんだかおもはゆく、満ち足りた気分になります。

2015年12月7日月曜日

尾形光琳「風神雷神図」、酒井抱一「夏秋草図」両面復元複製屏風を観て

琳派400年記念のプロジェクトで、現在はそれぞれ独立した一曲一双の屏風
として保存されている、光琳「風神雷神図」と抱一「夏秋草図」を、コロタイプ
技法で複製して、本来の表面「風神雷神図」、裏面「夏秋草図」の一体の
屏風に復元した作品を、京都文化博物館で観ました。


画像は表裏を正面から写したもので、「風神雷神図」の右側の風神の裏が
「夏秋草図」の左側の秋草になっています。

コロタイプ作品に実際に接すると、実物に近い臨場感があり、写真撮影が
可能なのはもちろん、すぐ目の前まで近づいて観ることが出来、新たな
発見がありました。

まず風神におどろおどろしい存在感を発散しながら、同時に疾駆するような
軽やかさとスピード感が感じ取れ、同様に雷神の左足と右腕の不自然な
ねじれが、自然の法則を超えた躍動感を表現しているように感じました。
このような詳細なところは、この間実物を観た時には、ここまで近づくことは
出来なかったので、気づけなかったのだと思いました。

また金地の風神の裏に、銀地の秋風になびく秋草の図があり、雷神の裏に
洒脱な流水と夏草の図があるのも、抱一が私淑する光琳へ示した讃嘆と
親愛の情が十分に感受され、両者の響き合いは、まさに優雅の極致とも
いえる趣を醸し出していると、感じました。

2015年12月4日金曜日

漱石「門」における、抱一の屏風を坂井の家で再見した宗助の感慨

2015年12月2日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第四十七回)に、かつて自分のものであった抱一の屏風を、大家の坂井が
購入したらしいことを知った宗助が、坂井の家に確認するために赴いて、
それを目にした時の感慨を記する、次の文章があります。

「 けれども、屏風は宗助の申し出た通り、間もなく奥から縁伝いに運び
出されて、彼の眼の前に現れた。そうしてそれが予想通りついこの間まで
自分の座敷に立ててあった物であった。この事実を発見した時、宗助の
頭には、これといって大した感動も起こらなかった。ただ自分が今坐って
いる畳の色や、天井の柾目や、床の置物や、襖の模様などの中に、この
屏風を立てて見て、それに、召使が二人がかりで、蔵の中から大事そうに
取り出して来たという所作を付け加えて考えると、自分が持っていた時より
慥に十倍以上貴とい品のように眺められただけであった。」

何ともわびしい感慨です。宗助は自嘲気味に自らの境涯を見ているのか、
それとも人生を達観しているのでしょうか?

しかしその感じ方には全然卑屈なところはなく、何かさばさばした潔さも
うかがわせます。そんなところが、宗助という人物の魅力であるとも感じ
ました。

話は少しそれますが、彼からこの屏風を巡る顛末を聞いた坂井が、その
事実を笑い飛ばして、以降この二人がより親しくなったという記述は、
坂井の余裕と度量の大きさを感じさせて、この人物も好ましく思いました。

2015年12月2日水曜日

龍池町つくり委員会 23

12月1日に、第41回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

京都外国語大学の小林さんより、先日実施されたスタンプラリーの活動報告
があり、参加者は子供18人、保護者5人、ラリー終了後アンケート調査を
行い、「楽しかった。」「龍池について知ることができた。」など、おおむね
好評の感想をいただき、一定の成果を上げることが出来た、ということです。

また、今回の参加者のこれからの同様の活動への希望としては、「親子で
参加できる活動」というものが多く、参加者を増やすためにも、親子で楽しめる
企画ということが、キーワードになるだろう、ということです。

反省点としてはやはり参加者が少なく、開催時期のタイミング、広報活動の
工夫にさらに改善の余地がある、という結論になりました。

次に、龍池学区の緑の資産調査を卒論に企画する、同大学の能戸さんより
その調査の経過報告があり、彼女は町つくり委員の西村さんや、私のところ
にも先日聞き取りに来られたのですが、学区内をくまなく回って、緑の見られる
ところをマッピングした地図を作成され、披露いただきました。

その地図を見て、南先生より子供たちに学区内の緑を探してもらうスタンプ
ラリーの企画も考えられるというお話があり、我々の活動にも色々なものが
つながって、さらに発展して行く可能性があると、実感されました。

杉林さんのカルタ作りの企画もいよいよ具体化して来て、若手漫画家の集団
京トキワ荘のメンバーに協力を仰いで、カルタの絵札のベースを作成して、
来年2月28日午前中に、子供たちの参加するワークショップを開催することに
なりました。

今年の委員会はこれで終了しましたが、来年の活動の充実を予感させる、
活気に満ちた閉会となったように感じました。

2015年11月30日月曜日

鷲田清一「折々のことば」235を読んで

2015年11月28日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」235に
真並恭介著「セラピードッグの子守歌」から引いた、認知症を患う女性の
次のことばが取り上げられています。

 あんたが笑うと私も笑う

このことばは、認知症の女性がセラピードッグと接触を持つ中で徐々に
癒され、発したことばということですが、高齢の母と共に暮らし、仕事を
しながら見守りもしている私は、”介護を受ける立場の人が笑う”という
部分に感銘を受けました。

高齢者を世話するということは、先が見通せないうえ、転倒によるけがや
思わぬ病状の発症など、とかく負の現象が多く生起するので、介護する
側もついつい気分が沈みがちになります。

しかし浮かない顔や態度で接していたら、世話される人も面白くないで
しょうし、反対に介護を受けている人が痛がったり、不満を訴えれば、
こちらもさらに消沈します。

でももし年老いた母が、例えば夕食のおかずが美味しかったと喜んで
くれたり、床の間に活けた花がきれいだと笑ってくれたら、こちらも思わず
笑顔になって、そのような時には、どうやって次に母を喜ばせようかと、
知恵を巡らせていることがあります。

結局介護される人の笑顔が介護する者の喜びであり、逆に癒されている
のかも知れない。そんなことを考えさせられました。

2015年11月27日金曜日

鷲田清一著「「聴く」ことの力ー臨床哲学試論」を読んで

著者の阪神淡路大震災の体験を契機として、理不尽な苦しみにさいなまれる
人に向き合う時に、ただ「聴く」という行為が相手を癒し、ひいては自らにも
変化をもたらすということを、臨床哲学という概念を用いて明らかにしようと
する書です。

私は哲学的思考や方法論に疎いので、本書の語るところをどれだけ理解
出来たか甚だ心もとないのですが、著者の柔らかい説得力を持った語り口
から、漠然とした気づきとして、本書で展開される思考の核心には、触れる
ことが出来たように感じます。

まず臨床哲学という概念ですが、従来の哲学が門外漢から見ても、文字通り
形而上の学として、我々一般の人間が関わる社会的営みを超越した地点を
対象とする思考行為であったのに対して、少なくとも今を生きる人々に寄り添い、
そこに生起する問題を現場の人々と同じ目線で考えようとする姿勢に、好感が
持てます。哲学という学問分野においても、現代という時代に人々がより良く
生きるための方法を模索する試みが行われていることを、心強く感じました。

さてここからは、本書によって触発された「聴く」ことに対する私の感慨ですが、
若い頃の私は内気で、赤面癖があり、見知らぬ人、異性と一対一で向き合って
話すことが苦手でした。これは相手にとって自分がどのように見えるか、
あるいは自分の話す言葉に相手がどのような感情を抱くかということに過剰
反応して、冷静な自己を保てなかったということであったと思います。

その要因としては自分自身に自信がなかったこと、相手にどう接すべきかを
知らなかったことに集約されるのでしょうが、つまり自分というものが可愛く、
そんな自分を守ろうとしたのだと感じます。その時点において、私には自分の
問題で手いっぱいで、とても人の話を親身になって聞く余裕はありませんでした。

その後長い社会人生活を営むなかで、一応社会の中での自分の立ち位置も
確定し、それに従って役割の範囲内で自分の言動にある程度自信を持ち、
一対一で相手を戸惑わせず対応が出来るようになりました。そしてそうなって
初めて、相手の話をじっくりと聞く余裕が出来たのです。

少し論理はずれるかも知れませんが、鷲田が説く「聴く」は、私の個人的な
この体験に対応してはいないでしょうか?人の根源的な苦しみに寄り添う
ためには、「聴く」人の心の持ち方が重要になるでしょう。そのためにはもちろん、
相手を思いやる気持ちが不可欠ですが、それは同時に利己心を捨て、相手を
信じるために自分を信じる虚心坦懐の姿勢が、必要であるでしょう。

このような心の在り方、日頃の自分に照らし合わせても、なかなか至難のことと
感じながら、そうあるべき指針として、確実に心に響くものがあると思いました。

2015年11月25日水曜日

鷲田清一「折々のことば」230を読んで

2015年11月23日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」230に
哲学者マックス・シェーラーの論考「悔恨と再生」から引いた次のことばが
あります。

  (悔恨の)その光によって、悔恨することなければ思い出さなかった
 沢山のものごとを初めて具象的に思い出すことができる

最初、まったく意味が分かりませんでした。悔恨というのは、とにかく負の
イメージ。それがまさか光を放つなんて!

しかし次に続く解説で、ー悔いは後ろ向きの悲嘆や後悔ではないーと
いうなら、おぼろげながらこのことばの輪郭も、浮かび上がって来ます。

悔いるということは、とかく私たちの現代社会ではマイナスなものとして
受け取られ勝ちです。未来に向けて希望を持ち、積極的で肯定的な
物言いがもてはやされます。その結果ともすれば、反省や省察といった
自らの心の中に深く沈潜する姿勢が、おざなりにされやすいように感じ
られます。

でも実は、感情的にならず、冷静に、客観的に振り返ることが出来るなら、
悔恨の対象は自身が一度経験、もしくは思考を巡らせた事象であるだけに、
豊かな示唆や前回には気付かなかった新たな発見を、与えてくれるとも
考えられます。

時には内省的であること。現代に生きる私たちには、特に必要なことでは
ないでしょうか?

2015年11月22日日曜日

安部公房著「砂の女」を読んで

忘れ去られた海辺の砂丘の村で、理不尽にも蟻地獄のような砂底の
あばら屋に、閉じ込められた男の物語です。映画化もされた名作です。

まず驚かされたのは、この小説の特異な場面設定と尋常ならざる話の
運びを、破たんなくまとめる作者の構想力と筆力です。

読み始めは、余りに異様な物語の進み行きに、果たしてついて行けるのか
といぶかりましたが、作者の巧みな話術に、気が付けば知らず知らずの
うちに、男と一緒に怒り、戸惑い、悲しみ、喜んでいました。

小説が時に読者を、現実には体験出来ない世界へ誘ってくれることを、
端的に示す作品でもあります。しかしさらに読み進めて行くと、この物語の
異様な場面設定が、日常生活ではなかなか気づくことの出来ない、
人間存在の本質をあぶり出す、装置の役割を果たしていることが次第に
見えて来ます。その意味では、優れて演劇的な小説とも言えるでしょう。

この視点から見て行くと、彼が閉じ込められた四方を砂の壁に覆われた
家は、それ自体絶望的な閉塞感を催させる存在ですが、社会的、家庭的な
しがらみに支配された、現実生活を生きる人間というものを考える時、
その人が暮らす家は状況によって時には、砂底の家に匹敵する精神的に
閉ざされた空間となりうる可能性があります。

同様に主人公が落とし込まれた家が、絶えず四方の壁からの砂の崩落に
よる埋没の危機に瀕し、彼がそこで生活することを強いられる理由が、毎日
砂かき作業の肉体労働を、しなければならないということにあることも、
日常生活の中で現実の人間が、否応でも生活の糧としての労働に従事
しなければ生きて行けないことの暗示とも取れます。

また砂底の家で彼を迎える、夫、子供を失った村の女との葛藤が、
肉体関係から始まり、次第に愛情へと転化する疑似夫婦としての生活も、
日常世界における男女の相互理解と、愛情の深化のメタファーとも感じ
させます。

このように特異な状況の中で、人間の本性、運命をいやというほど見せつけ
られた後、それでもなお希望と救いがあると感じさせてくれたのは、結末部分で
彼が強制ではなく、この砂底の家で生きて行く意味を見出したことです。

逆境の中での不屈の意志と創意工夫が、人に生きる意欲を再生させるこの
描写は、それまでの重苦しい気分を一気に反転させてくれる、心に残る
結末でした。

2015年11月19日木曜日

漱石「門」の中の、風呂敷の包み方の描写について

2015年11月18日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第三十七回)に、大家の坂井の家に入った泥棒が、逃げる途中で
宗助たちの借家の裏庭に残していった、坂井家から盗んだ手紙入れの
文庫を、宗助が坂井に返しに行くに際して、持ちやすいように御米が
風呂敷で包む様子を記する、次の文章があります。

「御米は唐桟の風呂敷を出してそれを包んだ。風呂敷が少し小さいので、
四隅を対う同志繋いで、真中にこま結びを二つ拵えた。宗助がそれを
提げたところは、まるで進物の菓子折のようであった。」

風呂敷に使用する白生地を商う三浦清商店の店主の私としては、得意な
分野の題材です。

少し見づらいかもしれませんが、上の写真が正式な包み方、下が文章に
出てきたこま結びです。

説明しにくいのですが、正式な包み方には、心のこもった、行き届いた
雰囲気があり、こま結びの包み方には、少し無頓着か、おざなりな感じ
がします。最も今日では、風呂敷に包むだけでも十分に丁寧ですが・・・

つまり前者では、包む品物を大きさに余裕のある風呂敷で包み、後者では
ぎりぎりの大きさの風呂敷で包むか、ぶら下げて持ちやすいように包む
ということになります。

「門」の描写においては、宗助と御米の生活の慎ましさ、健気さを巧みに
表現しているようにも感じられます。

漱石の生きた時代には、このような風呂敷の包み方によるニュアンスの
違いが、まだ広く一般の人々に共有されていたのでしょう。

2015年11月16日月曜日

「ぶらりたついけスタンプラリー2015」開催

11月15日(日)に、京都外国語大学南ゼミと龍池町つくり委員会の共同企画、
「ぶらりたついけスタンプラリー2015」が開催されました。

前夜には時折激しく降って心配させられた雨も、開催に合わせるように上がって、
約20名ほどの子供たちと父兄の方が参加、四組にチーム分けしてそれぞれに
第1チェックポイントの地図を受け取り、担当の学生さんの先導のもと、出発
しました。

私は四組の中の一つ、「りょうがえまちチーム」に付き添い、10:00に集合場所の
国際マンガミュージアム内龍池自治連合会会議室を出発、最初のチェックポイント、
マンガミュージアムの正面入り口前に向かいました。

そこでクイズに答えてスタンプと新たな地図をもらい、次のチェックポイント「ホテル
オークラ1888」前の丸型ポストに向かいます。

そちらから同様にスタンプと地図をもらって、最後のチェックポイント「京都伝統
工芸館」に着きました。三つ目のスタンプをもらってから工芸館を見学させて
いただきました。「りょうがえまちチーム」はスタンプがそろうと、黄色い丸型ポストの
形になりました。

館内では金工、陶芸、木彫の実演を見学、子供たちは最近では目にすることの
少ない生の伝統工芸の現場を目の当たりにして、歓声を上げたり、興味深そうに
目を輝かせていました。

優れた伝統工芸品の展示を見学してから、12:00にマンガミュージアムの会議室に
帰り、全チームがそろってから、学生代表の小林さんの司会のもと、活動中に
撮影された写真を正面のスクリーンに映して、全員でにぎやかにスタンプラリーを
振り返りました。

会議室では、龍池学区やまちつくり委員会の活動内容、そして次回の催し「カルタ
プロジェクト」を予告するパネル展示も行われました。


2015年11月13日金曜日

京都文化博物館「レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展」を観て

本展は、ルネサンスを代表する巨匠ダ・ヴィンチがフィレンツェ共和国の依頼で、
フィレンツェの政庁舎(ヴェッキオ宮殿)の大会議室に描いたという幻の壁画
「アンギアーリの戦い」を、近年所在が明らかになったダ・ヴィンチ本人による
この壁画の下絵とも噂される、謎に満ちた名画「タヴォラ・ドーリア」によって
解き明かそうとする、ミステリー性も帯びたスリリングな展覧会です。

歴史上のアンギアーリの戦いは、1440年トスカーナ州アンギアーリで
フィレンツェ軍とミラノ軍によって繰り広げられた戦いで、フィレンツェ軍の勝利に
よって終わったそうです。

この壁画は、史実の顕彰を意図して企画されたに違いありませんが、
制作技法上の失敗や、フィレンツェ共和国を巡る政情の変化もあって、50~60年
後には失われることになったと言います。

しかしこの幻の壁画は、近年の「タヴォラ・ドーリア」の綿密な研究や、現在は
違う壁画に覆われている、かつて「アンギアーリの戦い」が存在した壁面の
科学的検証によって、次第にその相貌が明らかになりつつあります。

さて、そのような背景の中での本展です。まずこの展覧会のメインの作品
「タヴォラ・ドーリア」は、未完の部分も多く残す、制作途上を思わせる作品
ですが、軍馬、戦士一体となった躍動感と迫真性に富む描写は、画家の
並々ならぬ技量を雄弁に物語っています。その証拠に、同時に展示される
他の画家のこの作品の、もしくは壁画そのものの模写と比較した時、本作の
完成度の高さは一目瞭然であるように感じられます。

ダ・ヴィンチの「アンギアーリの戦い」は作品自体は失われても、その革新的な
表現法によって、本展でも分かりやすく具体的に例示されているように、後世の
戦闘画描写法に大きな影響を与えたと言います。正に天才ダ・ヴィンチの
面目躍如たるところがあると感じました。

さらに本展では、この壁画と同時にヴェッキオ宮殿の大会議室を飾る予定で
あった、ミケランジェロ「カッシナの戦い」の下絵模写も展示されています。

その場でしか観られる可能性がなかった二人の巨匠の競作は、もし完成して
おればいかばかりのものであったでしょう?ルネッサンスの豊饒に思いを馳せ、
しばし現実の時を忘れることの出来る、贅沢な時間を提供してくれる展覧会
でした。

2015年11月11日水曜日

鷲田清一「折々のことば」214を読んで

2015年11月6日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」214に
領家高子著小説「向島」から引いた、次のことばがあります。

 気持ちの素性さえ、しゃんとしてればいいんだ。

人の心は、とかくゆれ動くもの。ともすれば、あらぬ方向に流される恐れが
あります。

では、どういう心の指針を持って生きて行けばいいのか?前述のことばは、
母親の勝手気ままに振り回されたと嘆く若い芸者が、いっそ「決められた」
道を生きたいと訴えた時、女将が諭したことばだということです。

どのような道であっても、まず自分の意思で選ぶこと。そしてその想いに
沿った生き方をすること。女将はそう若い芸者に語ったのでしょう。

現実には人生は、そこを歩む者にとって重い手かせ足かせがはめられて
いたり、順調に見えて思わぬ障害が突然生起したり、知らず知らずの
うちに抜き差しならぬ事態に陥ったりするものです。あるいは、平穏な
日々の連続が、いつの間にか倦怠や不平に支配されてしまうこともある
でしょう。

そのような、誰にとっても計り知れない人生の道行きにあって、心の持ち方
こそ最後の命綱なのだと、私は感じます。最も、平常心の中にそれを保つ
ことが、きっと非常に難しいのでしょうけれど・・・

2015年11月9日月曜日

漱石「門」の中の、酒井抱一の屏風を巡る御米と道具屋の値段交渉

2015年11月6日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第三十一回)に、宗助の留守宅に、手放すつもりの抱一の屏風を見に来た
道具屋の主人と御米のやり取りを記する、次の文章があります。

「座敷へ上げて、例の屏風を見せると、なるほどといって裏だの縁だのを
撫でていたが、
 「御払になるなら」と少し考えて、「六円に頂いて置きましょう」と否々そうに
価を付けた。
 
 「じゃ、奥さん折角だから、もう一円奮発しましょう。それで御払い下さい」
といった。御米はその時思い切って、
 「でも、道具屋さん、ありゃ抱一ですよ」と答えて、腹の中ではひやりとした。
道具屋は、平気で、
 「抱一は近来流行ませんからな」と受け流したが、じろじろ御米の姿を
眺めた上、
 「じゃなお能く御相談なすって」といい捨てて帰って行った。」

売り手、買い手のお馴染みの虚々実々の駆け引きですが、それにしても
今や重要文化財に指定された屏風作品もある抱一が、随分安く見積もら
れたものです。

そういえば明治時代には、日本の美術品が多く海外に流出したということで、
これも価値観の大きく転換した時代の、なせる業なのでしょう。

ちょうど琳派400年ということで、抱一がまた脚光を浴びているので、ついつい
御米と道具屋のこの会話に目が止まりました。

2015年11月6日金曜日

秋の「京都非公開文化財特別公開」で浄土宗信行寺に行って来ました。

10月30日より秋の特別公開が始まり、伊藤若冲が描いた天井絵「花卉図」
がある信行寺(京都市左京区)に行って来ました。

この催しは、拝観料を文化財保護に充てることを目的に、寺社などの日頃
公開されていない文化財を、この期間に限り公開するものです。

私も、常には公開されていないということで、このお寺に若冲の天井絵がある
ことを、今回の新聞紙上の告知までついぞ知りませんでした。

この寺の所在地も今回初めて知ったのですが、東大路通り二条下る(南入る)
西側で、日頃岡崎の美術館に行く時などによく通るところです。

それほどにいつもは目立たぬお寺ですが、この日は特別公開に訪れた
人々で門の外まで行列が出来ていました。

待つことしばし、一回に「花卉図」のある本堂に入れる人数を通し、
一定時間で入れ替え制にしてあるので、思ったよりも早く本堂に上がることが
出来ましたが、まず天井絵の下に全員着座して説明を聞きます。それが
終わると、思い思いに天井にある絵を眺めながら、巡ることになります。

本堂の天井面の一画、たて約4m~よこ9mぐらいの部分が格子状に区切って
あって、全168面の1面を除いた167面(各38cm角)の中の円形の画面に、全て
異なる植物の絵が描いてあるということです。

まず最初に座った状態で眺めると、絵の具が薄れていて、あまりそれぞれの
絵を認識することが出来ませんでした。立ち上がって一枚ずつ注視すると、
ようやく図像が浮かび上がって来ました。

想像していたより絵が褪色していて、往時の面影はありませんでしたが、
よくよく観ると若冲らしい奇抜な構図やデザインを認めることも出来、また
想像を巡らすとかつての華麗さを思い浮かべることも出来て、一度観てみる
甲斐はあったと感じました。

2015年11月4日水曜日

龍池町つくり委員会 22

11月3日に、第40回龍池町つくり委員会が開催されました。

今回は、間近に迫ったスタンプラリーについて、この企画のリーダーの
京都外国語大学の小林さんより概要の説明があり、話が進められました。

日時などは前掲のチラシ通り、各チーム10人前後、5つのチームに分かれて
3か所のチェックポイントを巡ります。チェックポイントのうち最後の1か所では、
見学、体験を実施します。この訪問先としては、風呂敷製造販売の山田繊維
さま、手ぬぐい、和装小物を扱う永楽屋さまに各1チーム、京都伝統工芸館
さまに2チームが確定し、他の一か所は調整中です。

当日のタイムスケジュールは、9:30に参加者に集合してもらって受付、
チーム分け、10:00に各チーム第1チェックポイントの地図をもらってスタート、
チェックポイントに到着後クイズに答えてスタンプをもらい、次のチェック
ポイントの地図をもらって再びスタートという要領で進め、11:00に最終チェック
ポイントに到着して約30~40分見学、体験、12:00マンガミュージアムに到着、
全チーム到着後10~15分程度プロジェクターを使用して活動の振り返り、
参加者にアンケートを配布、回収してお開きとなります。

今回のスタンプラリーは、子供たちに楽しんでもらうだけではなく、地域の
人びとの交流の場ともしたいと考えているので、子供の父兄を含めた大人
にも参加していただき、地域のことを知ってもらうようにしたいと思って
います。そのために、ラリーの発着場所のマンガミュージアム内、龍池自治
連合会会議室には、地域のこと、町つくり委員会の活動をもっと知っていただく
ために、パネル展示を計画しています。

2015年11月2日月曜日

中野重治著「斉藤茂吉ノート」を読んで

戦前期からの国民的人気を誇る歌人で歌壇の重鎮、それゆえ戦後、その
文学活動に対する戦争責任を問う声も上がった斉藤茂吉を、他方、
治安維持法違反で投獄され、転向した文学者中野重治がいかに論ずるか?
私が本書を手にした主な理由は、それを知ることにありました。

一つ重要なことは、本書が執筆されたのは第二次大戦開戦直前で、言わば
なお当局の監視下にあり、その言論活動を厳しく制限されていた中野が、
文字通り文学における時代の気分を代表する存在であったろう茂吉を、
俎上に載せたということです。

そのために本書では、私には残念ながら当時の時代背景、文学状況に
対する無知、また読解力の欠如もあって読み取ることが出来ませんが、
茂吉への批判を巧みに避けながら、なおかつこの歌人を冷徹に見据えて、
自らの文学的信念に沿った歌論を展開している、といいます。

そのような中野の企図が計らずも、この茂吉論を奥行きの深いものにして
いるのかも知れません。

私が本書を読んでまず感じたのは、中野が茂吉の人と歌を決して嫌いでは
なかったということです。いやそれどころか、恐らく当時の歌壇では抜きんでた
才能と、高く評価していたことです。

考えてみれば、中野が茂吉に敵意を持って挑みかかる構図は、私の稚拙な
先入観による思い込みで、よしんばこの歌人を論ずるに足る存在と認識して
いなければ、文学的良心に則した著者は、到底本論の筆を執らなかったで
しょう。

それゆえ本書では、茂吉の優れた歌人としての資質を表す、歌に込められた
鋭い感性、深い内省、人柄としての純朴さ、真摯さ、熱情が的確に示されて
いますが、同時にそれらの特質を併せ持つことによる、時流に押し流される
危うさも、浮かび上がらせているように感じられます。

私が中野の茂吉に対するこのような示唆から連想するのは、戦争画を描き
戦後同じく批判された藤田嗣治で、彼のこれら一連の作品を観た時、
画家自身が結果としては時代に迎合しながらも、恐らく本人にとっては、純粋に
芸術表現として戦争というモチーフに立ち向かった末に、出来上がった絵画で
あると感じたことです。

それゆえそれらの絵画は、時代背景や成立の前提を排除すると、今なお
観る者の心に深く訴えかける力を持つのでしょう。茂吉の歌の魅力を
解き明かすと共に、芸術家の戦争責任についても、考えさせられる好著です。

2015年10月30日金曜日

店の玄関のたたきに長火鉢を出しました。

ここのところ急に寒くなって来たので、思い切って店に長火鉢を出して
みました。私の記憶をたどると、およそ30年ぶりぐらいでしょうか。

最近家でも炭の効用を見直して、魚や肉を焼く時に時々使っているので、
店にも出してみたらお客さまにも喜んでいただけるのではないかと、考え
たのです。

思い起こすと、かつては冬になると長火鉢が毎年用意されて、あの頃は
今ほど暖房器具も整っていないで、店内の空気もひんやりとした中に、
いかにも寒そうな様子の訪問客が店先の引き戸を開けて入ってこられて、
いすに座って長火鉢に手をかざしながら、商売や世間話が弾むという
光景がよく見られたように記憶します。火鉢に五徳を据え付けてやかんで
湯を沸かしたり、炭から直接タバコに火を着ける仕草も思い出されます。

さて店に火鉢を置いてみると、まず気付いたのは燃える炭が発する香り
でした。懐かしいような何とも言えない、ほのかではあるがこうばしい
芳香が鼻をくすぐります。これはすっかり忘れていたことの、嬉しい再発見
でした。

またまだ真冬ではないので、他の暖房器具は使っていない中で炭火を
いれると、店の空気がじんわりと温まりました。この暖かさも、ガス、電気の
暖房とは違って、皮膚が昔から覚えているような郷愁を誘う温もりと、感じ
られました。

来店されたお客さまにも好評なので、しばらく続けたいと思います。

2015年10月28日水曜日

祇園甲部歌舞練場内八坂倶楽部「フェルメール光の王国展」を観て

フェルメールの残した作品全37点を、リ・クリエイト ー「フェルメール・センター
・デルフト」より提供を受けた画像素材を最新技術によりフェルメールが
描いた当時の色彩を求め、原寸大で鮮やかに再創造ー 作品で一堂に
展観する試みの展覧会です。

まず特筆すべきは、会場が祇園甲部の芸舞妓が毎年都おどりを披露する
ことでおなじみの、歌舞練場内八坂倶楽部ということで、純和風で日本庭園を
有する会場に、17世紀オランダの画家の絵画が一斉に並ぶということです。

しかし会場に入ってみると、木造畳敷きの室内に、展示の工夫もさることながら、
西洋絵画が違和感なくしっくりと溶け込んで、美術館で観るのとは異なる
落ち着きと華やぎを醸し出すようです。

17世紀オランダが交易によって栄え、フェルメールと同時期に活躍した
レンブラントも、版画に日本製の和紙を使用したということなども考え合わせる
と、フェルメール作品が和風の部屋に飾られるということも、絵画鑑賞に
世界史的な背景を加味するという意味でも、面白い試みと感じられました。

本展を監修した生物学者福岡伸一は、フェルメール好きで知られ、この
展覧会と同タイトルの本も上梓していますが、私がその本を読んで大いに心を
啓発されたのは、絵画を科学的な視点で観ることの魅力についてでした。

とりわけ17世紀のオランダが、市民階級の台頭と市井の人々の科学的なもの
への興味の芽生えによって、近代科学への助走期に位置し、絵画と科学的
好奇心が強い結びつきを持っていた時代である故に、観る者を惹きつけて
やまない、しかし謎の多いフェルメールの絵画の秘密を、解き明かすための
説得力のある説明の必須の条件として、科学的な視点が必要だったといえる
でしょう。

このような前提のもとに、本展ではフェルメールが科学的な探求心を持って、
世界の有りのままの情景を一瞬間において捉えようとした画家という解釈に
立って、構成されています。

この解釈にとって重要な要素は、フェルメールの絵画における光の取り扱い方
ということで、その点リ・クリエイト作品は、もちろん実物の存在感からは多分に
劣りますが、制作当時の状態を再現された、経年の曇りを払拭した色彩は、彼が
光の粒子を精巧に表現する手段を獲得して行く過程を、端的に示してくれます。

特に画面上に施された一点の濁りない光の表現が、あたかも魔法でもかけた
かのように画面全体を光り輝かせる様子は、フェルメールの天賦の才を余す
ところなく示しているように感じられました。

2015年10月26日月曜日

兵庫県立美術館「船越桂 私のスフィンクス展」を観て

船越桂は、私の最も好きな現代彫刻家です。しかし今まで、版画作品には
親しんで来ましたが、木彫作品はあまり目にする機会がありませんでした。
それで今回兵庫県立美術館で、彫刻作品中心の彼の展覧会が開催される
とあって、大きな期待を持って会場に赴いたのです。

ちなみにこの美術館を訪れるのも、私にとっては初めての体験で、海沿いの
ロケーションを活かした、広々としてモダンな堂々とした佇まい。屋外に設置
された、コンクリート製の重厚な螺旋階段が印象的です。展示室もゆったり
としたスペースで、船越の静謐で洗練された彫刻作品の展観にうってつけ
でした。


さて彼の作品のファンであるとはいえ、まとまった数の木彫作品を、しかも
至近距離からじっくりと観るのは初めてということで、悦びも含め様々な
感慨が心に浮かびました。

まず作品の質感、佇まいの気配が、私に働きかけたものについて。船越の
彫刻は、美術雑誌、図録などに掲載された写真で見ていると、一般に
都会的で洒脱、無機的な雰囲気が強調されます。しかしその作品を直に
観てみると、その土台となる楠の肌触りが俄然浮かび上がって来ます。

初期の作品では、温もりを内に秘めた、硬質な外貌のアンバランスの中の
均衡が、何とも言えず魅力的でした。さらに彼の代名詞となった大理石の
玉眼、この遠くを見つめる澄み切った美しい目は、現実と非現実の間を
観遥かしているようです。これも実際に作品に接しなければ、味わえない
美質です。

次に彼の創作活動の進展について。本展では、1980~1990年代初めの
第一期、1990~2000年代初めの第二期、2000~現在の第三期に分けて
展観していますが、彼の創作の深化が手に取るように分かります。

初期の一体の人物像として完結していた作品が、次第に一個の人体内に
収まり切らなくなって異形へと変貌を遂げ、遂には人間の殻を脱ぎ去って
直接宇宙と交歓する宗教的存在となる。

船越の非凡さは、明治の近代化以降、西洋美術の圧倒的な影響力を払拭
出来なかった我が国の彫刻界にあって、その桎梏を易々とすり抜けた
ところにあると、改めて感じさせられました。

2015年10月23日金曜日

漱石「門」における、御米に遺産の顛末の報告をする宗助

2015年10月21日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第二十回)に、小六の学資に充てる目的で、亡き叔父に預けてあった
父の遺産の行方を尋ねるために、叔母の下を訪ねた宗助が、最早それが
一文も残っていないことを告げられた事の顛末を、帰宅後御米に報告する、
次の記述があります。

「 「小六の事はどうしたものだろう」と宗助が聞くと、
  「そうね」というだけであった。
  「 ・・・・・      」
  「裁判なんかに勝たなくたってもいいわ」と御米がすぐいったので、
 宗助は苦笑してやめた。
  「つまりは己があの時東京へ出られなかったからの事さ」
  「そうして東京へ出られた時は、もうそんな事はどうでもよかったん
 ですもの」
 夫婦はこんな話をしながら、また細い空を庇の下から覗いて見て、
 明日の天気を語り合って蚊帳に這入った。」

現代社会の金銭感覚や損得勘定から考えると、随分呑気な話です。
今の物言いからすると、叔母に体よく丸め込まれたことになるでしょう。

ただ、当時の人びとの目上の親族に対する心情や、宗助と御米の夫婦に
なってからの人生の来し方を鑑みて、このような結果も已むおえないと
いう諦念が、二人を納得させているのでしょう。

しかし、このような承服しがたい災難に直面しても、じっと寄り添う彼らの
姿が、何かいじらしくも見えます。


2015年10月21日水曜日

鷲田清一「折々のことば」198を読んで

2015年10月21日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」198に
ヴィクトール・E・フランクルの次のことばが取り上げられています。

 すなわち最もよき人々は帰ってこなかった

精神科医フランクルが、ナチスの強制収容所で過ごした日々を、思索的に
綴った名著「夜と霧」(霜山徳爾訳)より引いた言葉です。

私も若き日にこの本を読んで、極限の体験の中でもなお、冷静かつ
理知的な思考法を持って、生きる希望を失わない著者の姿に随分と
励まされ、勇気を与えられたものでした。

さて、前述のことばから私が思い浮かべたのは、生きるか死ぬかの
切羽詰まった状況の中で、人はどうしようもなく、本性をあらわにする
ものであり、また心の中の利己心が頭をもたげるものである、という
ことです。

さらには、強制収容所が看守が囚人を奴隷化し、死を決定するという
ような、人が人を絶対的に支配する場所であるならば、囚人の中に
支配者にすり寄る者が生まれ、より弱い立場の同僚を容赦なく犠牲にする
者が生まれるということでしょう。

人間とはかくも悲しき者。フランクルはそのような現実を冷静に見つめながら、
命を絶たれた人々の尊厳にも思いをいたすことを忘れません。人間という
存在そのものに寄り添う姿勢に、改めて敬意を抱きました。

他方、シベリア抑留から帰還した石原吉郎の「最もよき私自身も帰っては
こなかった」の言葉は、さらに自分自身の心の罪をも見つめて、粛然とさせ
られます。

2015年10月19日月曜日

「京都国際映画祭2015」アート部門を観て

今開催されている、「京都国際映画祭2015」のアート部門を観て来ました。
これは、映画祭の映画上映と並行して実施されている美術イベントで、
漫才コンビ「おかけんた・ゆうた」の、美術に造詣が深いおかけんたが、
企画したということです。

まず市役所前広場で、オランダの芸術家テオ・ヤンセンが制作した、風を
動力として駆動する「ストランド・ビースト(砂浜の生命体)」の
パフォーマンスを見学しました。

女子プロ野球選手たちが扮する風の送り手が、大団扇で送る風を体内の
ペットボトルにため込んで、沢山のきゃしゃな足を持つこのビーストが
ぎこちなく、しかしある意味颯爽と、広場の数メートルを無事歩き切りました。

風というものの力、それに対して人間の造形物の思うにまかせぬ頼りなさ、
健気さ、じっさいに砂浜で自走する姿を想像しながら、思わず宮崎駿監督の
映画「天空の城ラピュタ」のロボットたちを空想しました。

次に新京極の誓願寺へ。ここでは「又吉直樹x<文学>の世界」が開催
されていて、特に会場一番奥のお寺の仏間とおぼしき部屋に、又吉作品
「火花」の表紙を飾った西川美穂の絵画「イマスカ」が、額装されない
キャンパスの状態で照明を落とした空間に浮かび上がり、部屋の天井の
片隅には、はかない花火がまたたく映像が映写されて、この小説に通底する
独特の雰囲気の中に観る者を誘う展示が、強く印象に残りました。

最後に元立誠小学校で現代美術作家河地貢士の「うまい棒」を観ました。
この作品は教室中央に二万五千本の金色の包装素材に包まれた菓子
「うまい棒」を積み上げ、壁面の黒板にチョークで名前を書けば一本もらえる
というもので、積み上げられた「うまい棒」のきらめき、背後に書き込まれた
黒板の文字のち密さが、古い教室に何とも言えぬ彩りを添える作品です。
ここでの私は、自身の出身校ということもあって、失われたものを思い起こす
ようなノスタルジーを感じました。

2015年10月15日木曜日

同窓生の通夜に参列して

友人から突然メールが届き、しばらく会っていなかった元同級生の一人が
亡くなったということで、交流のあった数人で申し合わせて、お通夜に
行くことになりました。

開会の15分ぐらい前に現地に着くと、そのホールの中でも恐らく最も大きい
式場に座席が整然と設えてありましたが、すでに半分以上の席が参列者に
よって占められていました。

亡くなった友人は、女子高の社会科教師を長年勤めていて、同時に
その学校の名門と言われるバスケットボール部の顧問も、続けて来たと
いうことです。

そのような経緯もあって、参列者には学校関係者、女子高の卒業生と
推察される各年代の女性たち、制服を着た現役の女子高生が多く見受け
られました。

お焼香が始まり、係員の誘導で着席の参列者が次々と正面の焼香台に
向かいますが、式場内の全員が焼香を済ませても、場外に待機していて
焼香に向かう参列者の列がなかなか絶えず、結局1時間余り続きました。

列席していた多くの女性たちの沈痛な表情、まだ幼さの残る女子高生
たちのしかつめらしい立ち居振る舞いを間近で見ていると、教育者と
いうものの影響力の大きさを強く印象付けられました。

自分の人生を改めて振り返って、果たして私はたとえ少しでも、人に希望や
喜びを与えることが出来たのだろうかと、思わず考えてしまいました。

自身の年齢も還暦に近づき、ともすればそんな感慨を抱く時分となったの
かもしれません。

2015年10月12日月曜日

京都高島屋グランドホール「第62回日本伝統工芸展京都展」を観て

本展に出品されている工芸家の方より招待券を頂き、伝統工芸展を
久しぶりに観て来ました。以前は入場料が無料でしたが近年有料となり、
かえって盛況ということです。

仕事に関係の深い染織を中心に作品を観て行くと、東日本大震災から
まだ日も浅い時期に見た時には、作家の方々も、この大きな災厄を
創作活動の中でどう受け止めるべきか、戸惑っておられるところが
あったのだろうと推測されるほどに、あえて華美さを控えめにしたり、
目立たないように技巧を凝らしたりというような、作為的な部分が目に
付くきらいがありました。

しかし今回観てみると、多くの出品作で作家自身が、工芸における
創作行為とは何かということを、自問自答しながら作品を丹念に作り
上げているような、伝統工芸らしい落ち着きが戻って来たように感じ
られて、好ましい心持でじっくりと鑑賞することが出来ました。

染織に話を戻すと、友禅染の作品群は多色の華やかな色使いや、
大胆なあるいは、シックで洗練された意匠などで、随分と目を楽しま
せてくれますが、現代的な価値観を意識してか、伝統的な意匠を
用いたものがほとんど見当たらないのが、寂しく感じられます。現代の
社会に伝統意匠を適合させることの難しさは、十分理解出来ますが、
敢えてそういう困難な道に挑戦する作家が現れてくれたらと、私は
思います。

染織のパートに刺繍作品が2点しかないのも、一般の人々の習い事と
しての刺繍の広がりを思うと、物足りなく感じます。ただ、各地の
織物技術、染色技法など、そのままにしておけば失われるかもしれない
伝統工芸品を、このような多くの鑑賞者が目にする場で、展示する
ことの意義も、本展を観て改めて感じさせられました。



2015年10月9日金曜日

漱石「門」における、宗助と御米の諦観について

2015年10月9日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第十四回)に、宗助と御米の家庭生活を支配する、諦めの念や、何かを
耐え忍ぶような感情をうかがわせる、次の夫婦の会話の記述があります。

「 「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と
思い切って投げ出してしまう。細君は漸く気が付いて口を噤んでしまう。
そうして二人が黙って向き合っていると、何時の間にか、自分たちは
自分たちの拵えた過去という暗い大きな窖の中に落ちている。
 彼らは自業自得で、彼らの未来を塗抹した。だから歩いている先の方
には、花やかな色彩を認める事が出来ないものと諦めて、ただ二人手を
携えて行く気になった。」

「門」が「それから」の続編的な性格を持った小説と知らない読者にとっては、
のっけから謎に満ちた物語の運びと思うでしょう。他方、あらかじめ了解の
ある私にとっては、宗助の感情に「こころ」の先生との類似性を感じます。

「こころ」から、「それから」、「門」と読み進めて行くと、漱石作品には
過去の過ちから来る罪の意識を重荷として担い続けながら、じっと耐え忍ぶ
主人公が描かれます。

また信頼を寄せる年長者の親族に裏切られるのも、「こころ」、「門」に共通
しています。

漱石の実生活の仔細を私は知りませんが、彼には頼るべき人に裏切られた
という思いがあり、人間不信の感情を常に抱きながら、その上に自らの心の
どうしようもない弱さとも向き合い、それでいて究極的には他者に対して
誠実であり続けようとする、焦げ付くような魂の葛藤があったように感じられ
ます。

2015年10月7日水曜日

龍池町つくり委員会 21

10月6日に、第39回龍池町つくり委員会が開催されました。

今回も、京都外大プロジェクトから始まりました。能戸さんの卒論企画は、
前回の委員会での討論も参考にして、まず学区内の町家の内庭などに残る
自然(緑の資産)を、聞き取り調査によって明らかにすることになり、
あらかじめピックアップしたお宅を彼女が訪ねる方法で、進められることに
なりました。

スタンプラリーは11月15日(日)開催。同時に当日、自治連合会会議室で
町つくり委員会の活動報告のパネル展示も行い、ラリーに参加する子供の
父兄にも当委員会をもっと知ってもらえるように、働きかけることになりました。

カルタプロジェクトも、ラリーの時の子供たちの訪問先、活動の様子を
写真に収め、その場面に相応しい言葉書きも考えて、それらをベースにして、
12月ごろ再び子供たちに集まってもらってカルタを作るというプランが、
杉林さんより示されました。

11月8日(日)に京都国際マンガミュージアムを会場として、恒例の龍池学区
総合防災訓練が実施されますが、町つくり委員会としては、防災訓練に
隣近所の助け合いを促進するような訓練項目を取り入れられないかという
ことで、学区の自主防災会の訓練準備会議の時にお願いしたところ、今年の
訓練ではその提案も考慮して、防災器具の使用訓練の時、町内単位で
実際に救助行動の体験をしてもらうなど、力を合わせることの大切さを
再認識してもらう一助となる訓練方法が、取り入れられることになりました。

2015年10月4日日曜日

京都市美術館「マグリット展」を観て

20世紀を代表するマジック・リアリズムの画家、ルネ・マグリットの大規模な
回顧展です。

約130点で、その不思議な世界を堪能しましたが、正直観終った後、かなりの
疲労感を覚えました。作品は一見明快で曇りなく、その実描かれた内容は
謎に包まれています。直感やイメージで作品の雰囲気を楽しめばいいと心に
言い聞かせながら、ついつい無意識に画中の謎、不条理に込められた
画家の意図を考えてしまって、疲れるのでしょう。それこそ、マグリットの
思うつぼに違いありません。

私は、シュルレアリスムの理念についても詳しくないので、以下、本展を観て
感じたことを、率直に記してみたいと思います。

まず、彼の絵の中の個々の対象が、大変精巧にリアリティーを持って描かれて
いることについて。彼の絵画のように、現実にはあり得ない事柄、光景を描く
場合、その中に配置された個々の対象がリアリティーのあるものでなければ、
その絵はちぐはぐで、破たんしたものになってしまいます。

ところで彼は、画家として自立する以前には、商業デザインを手掛けていたと
いうことなので、その影響も多分にあると思われますが、彼の絵には観る者に
対して、非日常の光景を納得させる訴求力があります。

つまりマグリットの超現実的な絵画は、この画家の個々の事物に対する鋭い
観察眼と、天性の対象把握力、その表現を可能にする画家としての技量に
よって成り立っているということです。

次に、マグリットが画中に表現する謎、不思議は、おそらくどのような方法論に
よっているのかということについて。私なりに少なくとも、その一つの謎を解く
ヒントは、画中画の風景画が周りの風景と溶け合っている作品にありました。

現実の世界では、このようなシチュエーションの絵画の背後には、それによって
隠されている違う光景が広がっているはずであり、前景を切り取り、背後を
白日に晒す、あるいは、切り取ったものをまったく別の画面にはめ込むことに
よって、現実の時間軸をずらしたり、実在しながらも肉眼では見えないものを
眼前に現すことで、人間の感覚、認識がいかにあいまいで、不確かなもので
あるかを、明らかにしようとしたのではないか?

とにかく、自らの認識を超えたところに、彼の絵画の魅力の秘密があると、
私には感じられました。

2015年10月1日木曜日

漱石「門」の中の、伊藤博文暗殺事件に対する宗助の感想

2015年9月30日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第八回)に、五、六日前新聞が報じた伊藤公暗殺事件の感想を、宗助が
御米と小六に語る次の記述があります。

「 御米は、
  「そう。でも厭ねえ。殺されちゃ」といった。
  「己見たような腰弁は殺されちゃ厭だが、伊藤さん見たような人は、
哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ」と宗助が始めて調子づいた口を
利いた。
  「あら、何故」
  「何故って伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。
ただ死んで御覧、こうは行かないよ」
  「なるほどそんなものかも知れないな」と小六は少し感服したよう
だった・・・ 」

この会話には、現代との時代の隔たりを感じます。何故なら、今の社会に
生きる我々なら、国際舞台で渡り合う政治家の突然の悲報を、多分
このように受け止めることはないと、思うからです。

今日と比較してこの時代は、封建社会の終わりからまだ日が浅く、
アジアを取り巻く社会情勢も混沌として、誰か偉人の犠牲の上に日本が
発展して行くという意識が広く共有されていたのだと思います。

私の想像するところ、恐らく第二次大戦への道を歩む過程においても、
このような意識はまだあまねく日本人に浸透し、世論を沸き立たせる要因
にもなったのだろうと、感じます。

敗戦後の長い平和の中で、このような論理への違和感は、持ち続け
なければならないと、この文章を読んで改めて思いました。

2015年9月29日火曜日

桂米朝著「落語と私」を読んで

人間国宝で落語家初の文化勲章受賞者、最近亡くなった桂米朝による
落語入門の書です。

著作者としても、優れた仕事を残したと聞いていましたが、本書はそれを十分に
感じさせます。やさしく、分かりやすい文章で落語の奥義に触れ、読む者を飽き
させません。

私が本書を通読して強く感じたのは、米朝が落語の卓越した演者であると同時に、
優れた鑑賞者でもあったということです。それゆえにこの本では、演じる者の
視点と観客の視線がほどよく交差して、落語という一口に説明することの難しい
芸能の本質を、立体的に浮かび上がらせることに成功しています。

私が本書で一番興味をひかれたのは、講談、漫談などとの違いから明らかになる、
話芸としての落語の特色についてです。落語家が、日本人が和装で暮らした
時代の一般庶民と同じ服装で、扇子や手ぬぐいだけを身に着けて高座に上がり、
座布団にかしこまって正座して、おもむろに話し始める・・・

その話のスタイルは、説明を極力避け、幾人もの登場人物に成り切って、
変幻自在に立場を変え、それぞれの人物の仕種、声色、表情を再現しながら
話を進めて行きます。つまり、噺家本人の素の技量だけで物語を演出し、観客を
その世界に引き込んで行きます。

また高座と客席は、落語家が着座して物語るだけに、息遣いが触れ合うほどに
隣接して、演者は観客と言葉のやり取りをし、客席の雰囲気を直接感じながら、
その日の口演を行うという具合に、庶民的で演者、観客一体となって舞台を作り
ながら、その実、落語家の技量が全てを差配するというところです。

それゆえ落語の長い歴史の中で、幾多の名人が出現し、その名人の人気に
引っ張られて、庶民に寄り添う芸能としての落語は、幾度もの隆盛の時期を迎えて
来ました。

ところで、大正末期頃から映画の出現や、娯楽の多様化によって、落語の人気は
陰りを見せ始め、日中戦争以降の長い戦乱、戦後復興期の急速な価値と風俗の
変化によって、その凋落は顕著なものになったと言います。ことに上方(関西)では、
この芸能は存亡の危機に立たされました。

本書が文庫になってから約30年、今日では落語専用の寄席、天神天満繁昌亭も
誕生して、上方落語は新たなブームを迎えようとしているように見えますが、
他ならぬ今回の隆盛の基礎を築いたのは、桂米朝その人であり、本書を読みながら
その巨大な足跡に改めて思いを致したところです。

2015年9月25日金曜日

京都国立近代美術館「北大路魯山人の美 和食の天才展」を観て

和食がユネスコの無形文化遺産に登録されたことを記念して、催された展覧会
で、書や篆刻、料理、陶芸と多彩な才能を発揮し、ついには自らの理想の
料理を提供するために、「美食倶楽部」「星岡茶寮」を開いた伝説の美食家、
北大路魯山人の展覧会です。

本展では、主に魯山人が「料理の着物」として重視した器を中心に展示し、彼の
美意識を養った先人の作から、彼自身が制作した作品へと辿ることによって、
彼のもてなしの精神、料理哲学を明示し、また京都の著名な料亭を
日本人写真家が独自の視点で捉えた写真、映像を展示の所々に配することに
よって、普遍的な和食の魅力を明らかにしようとするものです。

料亭で和食を食べるということは、非日常の場で特別の御馳走を食べることに
よって、心を楽しませることです。しかし、その瞬間にいかに満足を得ても、
料理を供される者は受け身の立場にあるだけに、それは一時の快感として
受け流され勝ちです。

ですが本展のように、料理をプロデュースする立場の人間の考え方、視点に
触れる時、料理は新たな相貌を持って私たちに語り掛けて来るように感じられ
ます。いやそれどころか、今私たちが料亭に行くという行為から想起する
イメージ自体、魯山人によって生み出されたかも知れないと思わせるのです。

彼は料理を、客を満足させるための総合芸術であると考えていたに違い
ありません。相応しく設えた場で、相応しい時節に、相応しい食材を用いた
料理を、相応しい器に盛りつけて提供する。それが魯山人のもてなしの精神で
あり、料理の哲学であったのではないでしょうか?

彼の器はそのポリシーから発想され、それゆえに美しく、観る者を惹きつけます。
一つの統一された目的のために制作された器たちは、様々な技法が用いられ、
時には用途に合った斬新な形が試されているにも係わらず、何か奥底で
共通したリズムを奏でているようにさえ感じられました。

観終えた後心地よい余韻が残ったのは、そのためではないでしょうか?また
日本の工芸美術というものが、本来鑑賞のために鑑賞するものではなく、
あるいは場を演出し、それを用いることによってより魅力を発するものである
ことにも、新たに気付かされた気がしました。


2015年9月23日水曜日

モクモクファームに行って来ました。

今年の秋の大型連休、シルバーウィークは連日好天に恵まれ、せっかくだから
一つドライブへでもということで、三重県伊賀市の「伊賀の里モクモク手づくり
ファーム」まで行くことに決定しました。

この施設は、伊賀市の養豚家が共同出資して始めたハムソーセージ工房が
前身で、広く農産品の生産、販売、手作り教室、それにちなむアトラクションを
行う、体験型の農事公園で、今日では各地に直営レストランも運営し、広く
知られるところとなっています。

さて実は十年ほど前に、学区の自治会の行事でこの施設を訪れたことがあり、
その時には皆の乗ったバスが確か名神の栗東インターで高速道路を降りて、
その後は国道を通って、かなり時間がかかったような記憶があるのですが、
今回は新しく出来た新名神の甲南インター経由で自宅から約1時間、予想して
いたより随分早く到着し、快適なドライブが楽しめました。

もうすでに昼食の時間だったので、まず「農村料理の店もくもく」でトンカツの
定食を食べました。皿に金属製の網を重ねた上に載った、ふっくらと揚がった
衣に包まれた、肉の厚いところが3センチ近くはありそうな揚げたてのトンカツは、
脂身もしつこくなくジューシーで、豚肉のおいしさを堪能しました。

公園内には、地ビール工房、パン工房、体験施設、子豚のダービー会場、
温泉などもあり、老若男女がそれぞれに楽しめる場所だと、感じました。
前回よりさらに、施設も充実しているようです。秋の一日、満ち足りた
時間を過ごすことが出来ました。

お土産に買って帰ったハムソーセージ、パンもおいしくいただきました。

2015年9月21日月曜日

朝日新聞朝刊の漱石「門」再連載に寄せて

2015年9月21日より、朝日新聞朝刊で夏目漱石「門」の105年ぶりの再連載が
始まりました。

この小説は、「三四郎」「それから」に続くいわゆる「前期三部作」の最後を
飾る作品ということで、「それから」の代助、三千代のその後を描いている
ようですが、私にとっては初めて読むことになります。

先の見えない混乱の中で終わった「それから」の主人公たちが、これから
どのような人生を送るのか、楽しみに読み進めて行きたいと思います。

また、印象に残った回には、このブログで感想を綴っていきたいと考えて
います。

さて第一回は、とても穏やかな場面の描写で始まります。本作の主人公
宗助が、ある秋の穏やかな好天に恵まれた日曜日、自宅の縁側でごろりと
寝転がって日向ぼっこをしています。障子の向こうでは彼の妻が
つつましやかに裁縫をしていて、何気ない拍子に、障子越しの会話が
始まります・・・

平日といえば目まぐるしく時が過ぎ去り、せっかくの休みといえども、何かを
していないと落ち着かない、二十一世紀の高度情報社会化したこの国に
生きる私にとっては、うらやましいような情景です。

また縁側から覗く空の様子の表現は、「それから」の同じような場面と比較
しても、主人公の心の状態を反映してか、悠揚迫らぬ雰囲気を醸し出して
いるようです。

しかし最後の方に来て、宗助にも心の憂いがあることがほのめかされます。
とにかく、おもむろに物語は始まりました。



2015年9月18日金曜日

又吉直樹著「火花」を読んで

漫才コンビ「ピース」の又吉直樹による、第153回芥川賞受賞作です。

受賞を知った時にはまず、感性豊かな漫才師の余技というイメージが浮かび
ましたが、実際に読んでみると、作者のこの小説を書かなければならない
という切実さがひしひしと伝わって来て、物語の世界にすっかり引き込まれ
ました。小説家としての紛れもない才能を感じました。

小説の舞台は、著者も籍を置くお笑い芸人の世界です。主人公徳永は
駆け出し、あるいは売れない芸人の悲哀がにじむ、祭りの花火大会の
付け足しの余興の簡易舞台で、挑むような芸を披露する先輩芸人の神谷と
運命的な出会いを遂げます。

徳永は神谷の才能に心酔して、その場で弟子入りを志願しますが、神谷は
漫才でしか生きて行くことの出来ない、それでいて笑いの感覚が世間一般と
ずれている、破滅型の芸人だったのです・・・

何にしても、明日をも見えない状況でありながら、自身の目標に向かって
懸命にもがく人間は、その姿に触れる多くの者たちに共感を与えるもので、
徳永と神谷の交流が、芸人らしいばかばかしい言動と破天荒な行為に満ちて
いても、この小説の読者は、その一つ一つにけれんみのない清々しさを感じ
させられます。

殊に、神谷が時に吐く珠玉の名言は、まるで泥沼に咲く一輪の蓮のように、
読む者を感動させずにはおきません。

例えば、徳永が芸人を引退することを告げた時に、芸人の笑わせる技術を
ボクサーのテクニックにたとえて「ただし、芸人のパンチは殴れば殴るほど
人を幸せに出来るねん。だから、事務所やめて、他の仕事で飯食うように
なっても、笑いで、ど突きまくったれ。お前みたいなパンチ持ってる奴
どっこにもいてへんねんから」

今日の高度にシステム化され、役割が細分化された社会では、私たちは
ともすれば人生における目標を見失い勝ちであり、また高度情報社会の
進展は、人と人の生のつながりを次第に希薄にして来ているように見えます。

芸人という特殊な社会とはいえ、いやそれゆえに一瞬の輝きを求める
人びとの、大多数は満たされない喜怒哀楽は、その愚直さにおいて、そして
師弟の固い絆において、私たちを勇気づけてくれると、本作を読んで感じ
ました。

2015年9月16日水曜日

鷲田清一「折々のことば」163 を読んで

朝日新聞朝刊一面に毎日連載されている鷲田清一の「折々のことば」、
2015年9月15日付け第163回に、女優杉村春子による次の言葉があり、
考えさせられました。

「何が足りないのかっていうふうに思うわけです。女が女をやるのにね。」

私はもち論役者ではないので、深いところはわかりませんが、人を演じる
ためには、その対象をある意味客観的に把握しながら、なおかつ、
相手の立場に同化することが求められるのではないでしょうか。

そう考えてみると、演者が演じる人物に物理的、社会的に近い存在で
あることは、かえって演じにくいことなのかも知れません。

日本の伝統芸能に思いを巡らせると、男が女を演じるものが多くあります。
長年の慣習ということが一番の理由でしょうが、異性が女を演じることに
よる特有の情趣、色気があり、それがその芸能の魅力でもあります。

この妖艶さは、肉体的に異なる立場の演者が、どうしても越えられない
はずの差異を自らの芸一つによって克服するところと、さらにはその芸の
奥底に女を客観的に見る目を持ち続けていることによって、滲み出て来る
ものではないかと、私には感じられます。

前述の言葉で杉村は、そのあたりの伝統芸能の背景も踏まえて、自身が
同性の女を演じる心得を語っているように思います。

でもこの言葉は、役者の心構えとしてだけ必要な言葉ではないでしょう。
例えば私たちが何か物事を考える時、一歩離れた客観的な捉え方が
なければ、正しく判断することは出来ません。やや唐突かもしれませんが、
この杉村の言葉から、そんなことを考えました。

2015年9月14日月曜日

西加奈子著「サラバ!㊦」を読んで

自己顕示欲が強くわがままな母、劣等感の塊で奇行に走り、ことごとく母と
対立する姉、二人の間をおろおろしながら揺れ動き、遂には逃げ出して
しまった優しい父。そんな家族に挟まれてひたすら受け身に、我慢強く
生きて来た歩は、家庭崩壊後、鋭い感性によってようやく、フリーライターと
して社会での居場所を見つけたかに見えます。

しかし㊦では、彼の存在価値が音を立てて崩れて行きます。自分の頼む
ところであったものに陰りの兆しが見え始め、仕事はスランプに陥り、
次第に自信を失って、心を許す友人の親身になった言葉さえ疎ましく
感じられ、世間との交渉を絶つようになります。

しかしそこで、彼が目を見開くきっかけを与えてくれたのは、見違えるような
落ち着きと自信を身にまとってアメリカ人の夫と帰国した、誰あろう姉だった
のです。

家族というものは、なまじ血を分け合った複数の人間が、一軒の家に同居し
長く一緒に暮らすだけに、往々にして同一の価値観を共有し、互いの考える
ことをそれぞれが十分に理解していると考え勝ちです。またそれゆえに、
とかく相手の行為を自己の価値基準で判断して賛否を判定したり、自分の
思い込みで相手の行動を解釈したりすることになります。

姉の示唆によってまず歩が取り掛かったのは、両親の離婚の真相を知ること
でした。そして離婚の原因が特異な家族関係にあるのではなく、また両親の
一方に根本的な非があるのではないことを知ります。

次に彼が向かったのは、「アラブの春」の動乱に揺れる、小学生時代を
過ごしたエジプトのカイロでした。そこで彼は、かつて「サラバ!」の合言葉で
友情を深め合った、ヤコブの年月を経ても変わらぬ姿を見出します・・・

人は生まれながらにして社会的存在であるだけに、様々な人間関係の干渉、
軋轢の中に成長を遂げます。さらに経済成長後の少子化が進む我が国では、
子供の人格形成に強い影響を与える親子の関係が、ますます単純なもの
ではなくなって来ているように感じられます。

おまけに社会は高度情報化時代に突入して、価値の変転が目まぐるしい。
今を生きる若い人は、生きて行く上で自分のよって立つところを、なかなか
見出せなくなって来ているのではないでしょうか?

本書の主人公が「サラバ!」を再発見する旅は、彼らへの応援歌となる
でしょう。同時に若かりし日の我々の逡巡を思い起こさせて、私たちを
鼓舞する歌にもなり得ると、感じました。

2015年9月11日金曜日

西加奈子著「サラバ!㊤」を読んで

第152回直木賞受賞作です。西加奈子を読むのは初めてで、本作は主人公歩が
どうしても物語らずを得ない、自らの家族の歴史をとうとうと語る独白体様の
小説で、読む者は思わず、この家族の遍歴に引き込まれてしまいます。

歩は父親の赴任先のイランのテヘランで生を受け、帰国後また小学校一年生の
時期より、同じ理由でエジプト、カイロの日本人学校で過ごすことになるという、
いわゆる帰国子女ですが、本書を読んでいると、近年は経済活動の
グローバル化に伴い、海外勤務の日本人ビジネスマンも多く存在し、それに従い
外国に滞在する駐在員家族も多数に上ることから、彼や彼の家族が決して
特別な立場ではなく、この小説もある意味普遍的な日本人家族の物語に
思われて来ます。

上巻で私の最も印象に残ったのは、カイロでの歩たちの生活を記した章で、特に
彼と現地の子供との関わり、交流を描いた部分です。内省的で優しい心の
持ち主である歩は、まず現地の子供と自分の境遇の経済的格差に戸惑います。

同じ年頃の子供でありながら、生まれた国、置かれた立場が違うだけで、どうして
これほどの貧富の差が生じるのか?現地の子らが人懐っこく、また裕福である
人間から恵みを得ることに積極的であるだけに、歩は彼らへの対応に苦慮し、
自らの特権的立場に次第に罪悪感を募らせて行きます。

そのような中で、彼が出会ったのがヤコブです。ヤコブは同じ現地人の子供で
あり、決して経済的に豊かではないのですが、自らの境遇に誇りを持ち、
特権階級にも映る当地の日本人の子供である歩に対しても、臆するところが
ありません。

彼らはたちまち親友になり、二人が互いを励ます合言葉「サラバ!」が生まれる
契機となるののですが、この顛末の記述には、国際的な視野に立てば、
満ち足りた島国に暮らす私たち日本人の読者に対して、少し世界の現実に目を
開かせてくれる効用があるように、感じられました。

2015年9月9日水曜日

漱石「それから」の連載が終わって

2015年9月7日、朝日新聞朝刊の夏目漱石「それから」の再連載が、第百十回で
終わりました。

この連載を読み終えて話の筋を振り返ってみると、果たしてこの小説で漱石は
一体何を描きたかったのか、という問いに思い至ります。

話の大筋はある意味シンプルです。しかし、細部の説明は意図的にか、随分
一面的、あるいは微妙にぼかされているので、多様な解釈が可能なように
感じられます。

例えば、代助が様々の困難を乗り越え、三千代との愛を貫く恋愛小説か?
あるいは、モラトリアム人間の彼が愛によって人生の意味に目覚める
教養小説か?体制順応的な一人の男が社会の秩序に反逆する社会派小説
か?代助と平岡の男の友情と背信を通して、人生の不条理をあぶり出す
辛口の物語か?などです。

物語の中にそれぞれの要素が含まれ、それだけ全体のふくらみ、奥深さを
生み出しているのでしょう。

最終回も考えてみれば、不思議な終わり方です。果たして代助と三千代の
愛は本当に成就するのか?平岡は彼女を手放さないかも知れませんし、
平岡の下で病気のために亡くなるかもしれません。あるいは、よしんば
二人が無事結ばれることが出来ても、実社会の生活に疎い代助が、病弱な
三千代を抱えて生活して行くことには、並々ならぬ困難が伴います。それにも
もかかわらず、物語は代助の混乱の極致で終わります。

解釈においても、結末においても、謎だらけの小説ですが、それでも最後には
腑に落ちないとはいえ、何とも言いようのない解放感がある。言い知れぬ余韻を
残す作品であると、感じました。

2015年9月7日月曜日

京都市美術館「ルーブル美術館展 日常を描くー風俗画にみるヨーロッパ絵画の神髄」を観て

ルーブル美術館の膨大なコレクションの中から、特に風俗画に焦点を当てて
企画された展覧会です。本展のように風俗画という限定されたジャンルを
前面に打ち出す展覧会を目にすると、西洋美術における絵画ジャンルの
意味について、改めて考えさせられます。

さて、本展のプロローグⅡ「絵画のジャンル」のパートで分かりやすく展示、
説明がされているように、西洋絵画には従来から宗教画、歴史画、肖像画、
風景画、静物画、風俗画のジャンル別けがあり、一般に風俗画、静物画は、
他のジャンルより低い評価しか与えられて来なかったといいます。

それ故絵画の正統の歴史においては、亜流ということになるのでしょうが、
風俗画が画家たちにとって、肩ひじ張って描かなければならないジャンル
ではなかっただけに、かえって日々の人間の営みを生き生きと描き出した、
あるいは、その時代の風俗を有りのままに伝える、魅力的な作品も多く
見受けられるように感じます。

また16~18世紀ごろの風俗画は、描かれた図像によって観る者に教訓を
与え、また画中の事物が何かの象徴的存在として描きこまれている場合も
多いので、その謎解きも隠された楽しみの一つです。

さて印象に残った個々の作品について触れると、まずクエンティン・マセイス
「両替商とその妻」、風俗画として比較的初期の作品であり、ルネサンスの
香りを放つ理知的な表現法の目立つ絵ですが、金を数える両替商の男と
聖書を手にした妻の間に流れる一途な雰囲気が、画家が意図したに違い
ない教訓を越えて、一種祈りに通ずる敬虔さを醸し出しているところに強く
打たれました。

そしてヨハネス・フェルメール「天文学者」、周知のように「物理学者」と
一対の作品ですが、よく言われるように、同一人物をモデルにしている点に
おいて、特定の人間の肖像画ではなく、天文学者とはいかなる種類の
人間かを描いた作品だろうということです。

画中にその人物の職業を暗示する品物を配置し、いかにもそれらしい
人物がそれらしいポーズを取る。しかしその成りきりの絵は、永遠の時間を
一点に凝縮して限りなく美しく、しかもこの世の真理を描き出すことにも
成功しているように感じられます。思わず見入ってしまう名画です。

2015年9月4日金曜日

漱石「それから」の中の、兄に事の次第の説明を求められ、窮する代助

2015年9月4日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第百九回)に、平岡から実家の父宛に届いた手紙の、事の次第を確かめる
ために、急ぎやって来た兄と代助のやり取りを記する、次の記述があります。

「「御前だって満更道楽をした事のない人間でもあるまい。こんな不始末を
仕出かす位なら、今まで折角金を使った甲斐がないじゃないか」
 代助は今更兄に向って、自分の立場を説明する勇気もなかった。彼はつい
この間まで全く兄と同意見であったのである。」

まさにその通りでしょう。代助は経済的にすこぶる恵まれた環境の中で、親や
兄家族の機嫌を損ねることなく、適当にあしらいながら、気ままに好きなことを
して、暮らして来たのですから。

彼の処世術というのは、学識によって自身の周りに鎧を巡らせ、適当に欲望を
充足させながら、煩わしいものを避けて、気楽に生きて行くことだったはずです。

しかし、そのような生き方に虚しさも感じ始めていた矢先、彼は再び三千代と
運命的な出会いをしたのでした。

まるで失ってしまった青春の熱情を取り戻すかのように、彼は彼女にのめり
込んで行きます。これは最早、理に適った説明のつく話ではありません。

兄に問い詰められても、代助にはただ絶句することしか出来なかったでしょう。

2015年9月2日水曜日

龍池町つくり委員会 20

9月1日に、第38回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

協議事項としては、9月以降の事業計画についてということで、京都外大
関連のプロジェクトの説明が、学生さんより3点ありました。

1番目は、外国語学部ドイツ語学科4年の能戸さんよりの、卒論テーマと
しての龍池学区の小学生を対象とした、「街中にある身近な小さな自然に
気づいてもらうプログラム」の説明と協力要請でした。このプログラムは、
小学生たちと学区内の木や土が多い箇所と、アスファルトの多い箇所を
歩いて、生き物を探し写真を撮ることによって、子供たちに小さな生き物が
生活するためには、土や草木が必要であることを気づかせることを目的と
するプログラムで、ひいては環境問題に目を向けるきっ掛けを作ろうという
ものです。

この提案に対しては、委員より一見自然の少なく見える私たちの学区内
には、まだ内庭のある町屋がある程度存在し、御所、鴨川、二条城が近い
こともあって、町中ににしては意外なほど生き物が生息しているので、
子供たちとそのような家の庭を訪問して、身近な自然を再認識する企画に
してはどうか、という再提案がありました。次回への検討課題ということに
なりました。

2番目は、「たついけスタンプラリー 2015」で、地域の次世代を担う
子供たちはもちろん、次世代に継ぐ世代の人たちにも、まちつくり活動に
興味をもってもらうということで、今回は小学生親子を対象とすることに
決定したそうです。訪問先の選定も徐々に進んでいます。

3番目は、京都外大と町つくり委員会のこのような取り組みを、京都市が
募集する「きょうと地域力アップ貢献事業者等表彰制度」に自薦しては
どうかというもので、この件は学校側にお任せすることになりました。

2015年8月31日月曜日

漱石「それから」における、平岡に謝罪しながら開き直る代助

2015年8月31日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第百五回)に、平岡に三千代との関係を明かし、友人としての裏切りを
侘びながら、それでも自分には譲歩出来ない立場が有ることを語る、
代助の次の言葉があります。

「「矛盾かも知れない。しかしそれは世間の掟と定めてある夫婦関係と、
自然の事実として成り上がった夫婦関係とが一致しなかったという矛盾
なのだから仕方がない。僕は世間の掟として、三千代さんの夫たる君に
詫まる。しかし僕の行為その物に対しては矛盾も何も犯していないつもり
だ。」」

平岡にとっては、大変な屈辱でしょう。何故なら、お前は三千代の夫に
相応しくないと、宣言されたのですから。さて彼はどんな反応を示す
のやら・・・

他方代助は、三千代の法律上の夫に対して、随分押し強く出たものです。
愛情という面で、自分の方が夫に相応しいと高唱しているのですから。

世間知らずで純情な代助の一途さが、直に伝わって来るセリフです。
もし平岡から三千代を譲り受けたいのなら、もっと相手に対して下でに出る、
他のものの言い方が有るはずです。しかし彼の愛情とプライドがそれを
許さない。はたで聞いている者はハラハラさせられます。

代助が、三千代との関係を自然と言っていることも、心に引っかかりました。
何故なら、とかく世間という場では、往々に自然さというものが、すんなりと
はまり込まないように感じるからです。

代助はやはり、突飛な行動に出てしまったのでしょう。

2015年8月27日木曜日

漱石「それから」における、平岡宅へ使いに遣った門野の返事を聞く代助

2015年8月26日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第百二回)に、手紙を送ったにも拘わらずなかなか返事をよこさない平岡に、
とうとうしびれを切らした代助が、その催促に遣わした門野の報告を聞いて、
感じた心の内を記する、次の文章があります。

 「代助は少し安心した。
  「何だい。病気は」
  「つい聞き落しましたがな」
 二人の問答はそれで絶えた。門野は暗い廊下を引き返して、自分の部屋へ
這入った。静かに聞いていると、しばらくして、洋燈の蓋をホヤに打つける
音がした。門野は灯火を点けたと見えた。
 代助は夜の中になお凝としていた。凝としていながら、胸がわくわくした。
握っている肱掛に、手から膏が出た。」

代助はどうして、わくわくしたのでしょうか?この記述だけでは、推測し兼ね
ます。

あえて想像を巡らせると、前途の困難さが増して、武者震いしたのか?
あるいは、三千代が平岡との関係を清算しやすいように、病気を装っている
と考えたのか?もしそうであるなら、彼女が自分の勇敢な行動を後押しして
くれていると、代助は感じたのかもしれません。

あくまで私の手前勝手な憶測ですが、はたせるかな、この時点での情報が
乏しいだけに、クライマックスへと向けた緊張感は、益々高まります。

2015年8月24日月曜日

辻惟雄著「日本美術の歴史」を読んで

著名な美術史家である辻惟雄の、縄文時代からマンガ、アニメを含む広義の
現代美術に至るまでを概観する、言わば日本美術史の入門書です。

本書を私が読むにあたり特に期待したのは、日本美術全体を通しての固有の
特質を知ることであり、もち論少し重なり合う部分もありますが、かつて我が国
美術史の中で忘れ去られていた、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪といった
奇想の画家に再び日の光を浴びせさせた仕掛人の一人である著者が、
いかなる視点を持って日本美術史を指し示してくれるのか、ということでした。

さて縄文時代から本書を読み進めて行くと、最近の歴史研究でも次第に明らか
になり始めていることですが、従来からイメージされて来たように日本民族と
いう独自の民族が日本列島に太古より存在し続けているのではなく、往古の
それぞれの時代に文化的特色を持つ民族が大陸より流入し、この島で個々の
文化を発展させたことが分かります。

それが大別すると、縄文美術を擁する縄文文化であり、弥生美術を有する
弥生文化なのです。以降両者の文化的特色が混ざり合い、干渉し合うという
形で日本文化が形成されて来たように読み取れます。

以後、辺境地である日本の美術は、先進地である大陸から新たな美術が
もたらされる度にその影響を受け、それを我が国特有のものに彫琢するという
ことを繰り返して来ました。明治以降も、移入先が中国から西洋に入れ
替わっただけで、その基本的パターンは変わらないのです。

辻は日本美術の固有の特質を探るヒントとして、「かざり」「あそび」「アミニズム」
の三つのキーワードを上げます。

「かざり」は、対象を美しく見せる趣向として、江戸期以降町人文化の発達と共に、
より洗練され繊細さを増し、庶民の美意識の中にも確立されて行ったと思われ
ます。

「あそび」は、あどけなさ、純粋さへの日本人の憧れと、私には感じられます。

「アミニズム」は、神道、修験道に代表される自然への畏敬、親和感を示す
でしょう。

江戸時代後期、日本美術が一つの到達点を迎えた爛熟期において出現した、
伊藤若冲を始めとする奇想の画家たちの作品も、これら三つの傾向を極端な
形で表わすものに他ならないと、著者は説くのです。

本書は日本美術史の教科書の役割を担う概説書として企図されたものであり、
それだけに著者の嗜好を優先するよりも、全体を万遍なく取り上げようという
意識が感じられますが、現代美術の分野において、マンガ、アニメを大きく
取り扱っているところなど、既存の価値観に囚われない、辻の面目躍如たる
ところがあると、感じました。

2015年8月21日金曜日

漱石「それから」の中の、告白後再び、三千代の訪問を受ける代助

2015年8月21日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第九十九回)に、三千代に自分の思いを告白し、その帰結として父に強く
勧められていた結婚話を断ったために、将来への大きな不安を抱えることに
なった代助が、自分の呼んだ三千代の再度の訪問を受ける様子を描く、
次の記述があります。

「代助はすぐ団扇を出した。照り付けられた所為で三千代の頬が心持よく
輝やいた。何時もの疲れた色はどこにも見えなかった。眼の中にも若い沢が
宿っていた。代助は生生したこの美くしさに、自己の感覚を溺らして、
しばらくは何事も忘れてしまった。が、やがて、この美くしさを冥々の裡に打ち
崩しつつあるものは自分であると考え出したら悲しくなった。彼は今日もこの
美くしさの一部分を曇らすために三千代を呼んだに違いなかった。」

女性は、一旦信じ込めば強いものです。最早後戻りすることなど考えず、
一途に信じる道を追い求める傾向があるように、感じられます。

そして愛し、信じる女性はこの上なく美しいことでしょう。もしもその女性を
憎からず思っているなら、どんな男にとっても、その佇まいは限りなく愛しい
ことでしょう。

代助は、しばし三千代に見とれます。しかし彼には、父の意に背いたことに
よる、経済的な苦境が待ち受けています。ただでさえ、親の庇護のもとに
何の苦労もなく生きて来たお坊ちゃん育ちです。

甘美の瞬間と、迫りくる懊悩、彼の心の揺らぎが、前後の庭や空の情景描写
も含めて、心憎いほど巧みに表現されています。

2015年8月19日水曜日

漱石「それから」における、父に結婚話の断りを告げる代助

2015年8月19日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第九十七回)に、実家を訪れて父に結婚話への断りを述べるに際しての、
代助の並々ならぬ決意を記する、次の文章があります。

「けれども、今の彼は、不断の彼とは趣を異にしていた。再び半身を埒外に
挺でて、余人と握手するのは既に遅かった。彼は三千代に対する自己の
責任をそれほど深く重いものと信じていた。彼の信念は半ば頭の判断から
来た。半ば心の憧憬から来た。二つのものが大きな濤の如くに彼を支配
した。彼は平生の自分から生れ変ったように父の前に立った。」

今まで父に面と向かっては、はぐらかすのが精いっぱいで、はっきりと
自分の意志を述べることが出来なかった代助が、今日は父の意に背く
ことをきっぱりと言おうとしています。

上記の文章の直前には、これまでの代助なら、三千代との関係を曖昧に
して、父からの結婚話を承諾することも考えられたと記しています。しかし
今回の代助は違います。

彼には、目覚めた三千代への愛情がある。父に真っ向から背けば、今だ
経済的に依存する自分の立場が、どのような不都合に見舞われるのかは、
目に見えています。しかし彼は、決然とした態度を示す覚悟をしました。

それは頭で判断した、三千代への責任の取り方であり、心の中から
湧き起る、どうしようもない恋情のなせる技なのでしょう。

2015年8月17日月曜日

細見美術館「琳派四百年古今展 細見コレクションと京の現代美術作家」を観て

琳派四百年に因み、京都縁の3人の現代美術作家、名和晃平、山本太郎、
近藤高広が、美術館コレクションから自ら選んだ作品をモチーフとして
それぞれの作品を制作、コレクション作品の「古」と現代美術作品の「今」の
競演を楽しむ趣向の展覧会です。

まず細見美術館は岡崎の文化ゾーンに位置し、大阪の実業家細見家の
個人コレクションの保存、展示という目的から出発した、瀟洒な佇まいの
こじんまりした美術館で、私が実際に中に入るのは今回が初めてでした。

入館料を払うと小さなシール状のチケットが手渡され、洋服の胸の部分
など見えるところに貼り付けて入場するという手順が、堅苦しくなくて、
何とも微笑ましく感じられました。

展示室は地下に設けられ、それぞれが個別のスペースとして独立していて、
第1展示室を出ると下方に向かう階段を降りて第2展示室に入り、またそこを
出ると階段を下って第3展示室に至るというふうに、最下部にある吹き抜けの
地下のカフェの側面を下降しながら辿るように配置されています。何か
秘密のスペースに潜り込むような、あるいは色々な趣向の茶席を巡るような、
独特の趣があります。

さて展示作品について触れると、第1展示室、名和晃平の担当コーナーでは、
細見コレクション「金銅春日神鹿御正体」(重文)と、名和作品「PixCell・Bam
bi#14」との比較が味わいがありました。南北朝時代に制作され、古色を
まとったどっしりとした鹿の姿の銅製の神像と、全身に泡のような透明の
球体をまとわりつかせた生身に近い小鹿の像。時の流れや、時代、時代の
空気、人びとの感性の相違まで示してくれるようで、深い余韻が残りました。

第3展示室、近藤高広のコーナーでは、細見コレクションの織部、志野の
名物茶碗と、近藤作「銀滴碗」の並立が目を引きました。交互の比較が、
それぞれの茶器の名品としての存在感を際立たせ、今だかつてなかった
時代を超えた取り合わせの妙に、美術品を観ることの新たな幸福感を
味わいました。

2015年8月13日木曜日

漱石「それから」の中の、代助の三千代への告白

2015年8月10日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第九十一回)に、遂に代助が三千代に思いを告白する、次の記述が
あります。

「「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を
貴方に話したいためにわざわざ貴方を呼んだのです」
 
 「僕はそれを貴方に承知してもらいたいのです。承知して下さい」」

代助らしい随分と理屈っぽい告白です。通常ならば、自分の思いのたけを
ストレートに相手にぶつけるのでしょうが、彼は自分の感情を至極客観的に
相手に伝えて、彼女の方からの判断を求めている。もしその女性が、世間
一般の価値観の持ち主ならば、この告白に対した時、戸惑いを覚えたに
違いありません。

しかし流石に三千代は、代助という存在をよく理解した上で、彼に好意を
抱く女性です。代助の持って回った告白は、彼女の心を揺さぶったようです。

ところで、代助の告白を受けて、平岡に嫁ぐ前にどうして打ち明けてくれな
かったのかとなじる三千代に、代助がその代わり自分は貴方に復讐を
受けていると答える台詞は、彼の屈折した心情を表していて、随分興味
深く読みました。

というのは、自分が犯した罪のために自身が苦しめられる事を、返って
慰みにしているような、心の働きを感じたからです。それでは自己満足
に過ぎないと私は思うのですが、そういえば「こころ」にも、そういう心情が
描かれています。漱石の嗜好でしょうか?


2015年8月10日月曜日

パトリック・モディアノ著「暗いブティック通り」を読んで

2014年ノーベル文学賞受賞作家の代表作の一つです。ゴングール賞受賞作
でもあります。

最初は単なる記憶喪失の男の自分探しの話と思いましたが、主人公が微かな
手掛かりの断片から試行錯誤を続けながら、ミステリアスな霧に包まれた
自分の過去に分け入って行く展開が、次第に濃密な愛の物語、第二次世界大戦
中のナチス占領下、抑圧されたフランス社会の状況を眼前に浮かび上がらせる、
忌まわしい物語へと移行して行くに連れて、主人公個人の行状を離れて、
普遍的な戦争の時代の市井の人間を描く物語へと昇華して行く。その鮮やかな
手並みにすっかり魅了されました。

まず愛の物語という点から触れると、主人公がその存在を追い求める彼の恋人、
あるいは妻ドニーズは、彼の記憶が戻って来る物語の最終盤に至るまで、その
佇まい、容姿が明らかになりません。しかしそのような中にも、主人公と彼女の
愛情のかたちは濃密な気体となって間違いなく偏在し、実は主人公は物語の
冒頭より、記憶はなくともこの追憶の痕跡に突き動かされていたように感じます。

その思慕の感情描写に、私はパトリス・ルコント監督の映画「髪結いの亭主」の
主人公の憧憬と通じるものを感じました。そういえばルコントは、モディアノ
原作の「イヴォンヌの香り」という映画も撮っています。現代フランス文芸に
特徴的な、一つの愛の表現とも感じられます。

主人公とドニーズを破滅に導いた事件は、作中には一言も触れられませんが、
ナチスのフランス進攻によってもたらされたものでした。しかし事件の顛末も含め、
全ては霧の中。ドニーズの以降の消息も判明せず、主人公の本名でさえ明らかに
なりません。さらには、あの狂気の時代の行く末も、明確には記されていません。

だがカオスのような記憶の断片がうねり、渦巻きながら、やがておぼろげな
かたちとなって立ち現われて来るものがあります。それは公式の記録では語られる
ことのない、個々の人間の生活の記憶が織りなす、集合体としての時代の気分
であり、そのようなかたちで掬い上げられたものこそが、その時代の社会の真実を
的確に指し示しているに違いない。モディアノはこのようなゆるぎない信念を持って、
本書を上梓したと、感じました。

2015年8月7日金曜日

漱石「それから」における、三千代に告白した時の魂の浄化を夢想する代助

2015年8月5日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第八十八回)に、呼び出した三千代の到着を待つ間に、代助が思いを
告白した瞬間を想像して満ち足りた気分になる、次の記述があります。

 「彼はしばらくして、
 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中でいった。こういい得た時、
彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故もっと早く帰る事が出来な
かったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は
雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を
見出した。その生命の裏にも表にも、欲得はなかった、利害はなかった、
自己を圧迫する道徳はなかった。雲のような自由と、水の如き自然とが
あった。そうして凡てが幸であった。だから凡てが美しかった。」

代助は自らの三千代への愛情を確信し、それを解き放った瞬間の幸福を
夢想します。それは彼の人生における、最も輝かしい空想の一つかも
しれません。

人は人生の中に、人間関係や経済的な制約、あるいは健康問題など、
様々な葛藤を抱え、とかくままならぬ思いをいだいて生きています。

もしその悩みを一気に解消することが出来たら、それは誰しも折々に
感じることです。しかしそれは、往々にして叶わぬこと。

でも代助は想像の力の助けによって、今その葛藤を振り払おうと
しています。その決断のための夢想は、飛び切り美しいものでなければ
ならないのは、言うまでもありません。

2015年8月5日水曜日

龍池町つくり委員会 19

8月4日に、第三十七回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

学区のラジオ体操最終日の8月1日に、会場にカルタのサンプルを持参して、
「京都上ル下ル廻ルカルタ」のデモンストレーションが予定通り行われ、
その報告が杉林さんよりありました。

いよいよ「カルタ」の企画も始まり、京都外国語大学の学生さんとの共同企画
「ぶらり龍池スタンプラリー」ともジョイントして、進められるということです。

昨年好評だった「スタンプラリー」も引き続き実施することが確定し、これから
新たな子供たちの訪問先を選んで行くことになりましたが、学区内の老舗、
京都独特の伝統産業に携わる方ということで、各委員の話を聞いていくと、
この地域には有名な、あるいは一般には知られていない魅力的な職種の
店が、随分あることが分かります。

例えば、江戸時代より続く茶道の世界では有名な和菓子店、風呂敷を
製造販売する店、京漆器に係わる店、扇子を製造販売する店、京唐紙を
扱う店など・・・

「スタンプラリー」を実施してくれる学生さんたちも、本日の話を参考にして
訪問先を選定されるそうですが、私のようなこの地域に住んでいる人間でも
知らないことがかなりあるので、このような企画によって、地域住民や
子供たちに、歴史を含めた地域のことをより深く知ってもらうことは、意義深い
ことであると、改めて感じました。

しかし伝統があるだけに、新たに入って来た人たちが地域になじみにくいのも
また事実で、歴史を踏まえながらも、旧来の住民も新住民に対して、より心を
開いて接するよう心がけることが大切であると、話を聞いていて同時に、感じ
ました。

2015年8月3日月曜日

漱石「それから」における、ついに兄嫁に思いのたけを語った代助

2015年8月3日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第八十六回)に、佐川の令嬢との縁談を断るために、自らの思いを兄嫁に
打ち明けた代助の、心の有り様を投影した次の情景描写があります。

「練兵場の横を通るとき、重い雲が西で切れて、梅雨には珍らしい夕陽が、
真赤になって広い原一面を照らしていた。それが向を行く車の輪に中って、
輪が回る度に鋼鉄の如く光った。車は遠い原の中に小さく見えた。原は
車の小さく見えるほど、広かった。日は血のように毒々しく照った。代助は
この光景を斜めに見ながら、風を切って電車に持って行かれた。」

代助は遂に、父に抗う自身の意志を、実家の人たちにぶつける決意を
固めたのです。それまでの彼は自らの気楽で、恵まれた境遇を守るために、
彼が早急にしかるべき結婚をすることを望む実父に対して、はぐらかす
ような曖昧な返答を繰り返して来ました。

しかし、自分が現実に愛する女性を見出した時、彼は一転保身のための
態度を振り払って、あえて不利な立場に身を置くことに決めたのです。

彼の退路を断った高揚した気分は、ちょうど前記の情景描写の中の
真っ赤な夕日を浴びた小さく見える車の輪として、表現されているのでは
ないでしょうか?

漱石の情景描写には、時としてハッとさせられるような詩的で、美しい
表現がひそんでいることが有ります。

2015年7月29日水曜日

漱石「それから」の中の、結婚話を契機に、初めて自分の将来に向き合う代助

2015年7月29日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第八十三回)に、見合い話を断ろうと実家に赴いた代助が、見合いの
推進派の兄嫁と交わす次の会話が記されています。

 「すると梅子は忽ち、
 「何ですって」と切り込むようにいった。代助の眼が、その調子に驚いて、
ふと自分の方に視線を移した時、
 「だから、貴方が奥さんを御貰いなすったら、始終宅にばかりいて、たんと
可愛がって御上げなさいな」といった。代助は始めて相手が梅子であって、
自分が平生の代助でなかった事を自覚した。それでなるべく不断の調子を
出そうと力めた。」

折しもの結婚話を契機に、代助は自分が三千代を愛していることに気が
付きます。しかし彼女は、かつての親友平岡の妻です。でも平岡は今や、
彼女に相応しい夫ではない。では、どうすべきか?代助は、思い悩みます。

この見合いに乗って、悩みから逃げることも考えますが、彼はその点
生真面目で、自らの意志に背く結婚がこの問題の解決にはならないと、
思い至ります。

折々適当な理由を付けて、これまでの人生をやり過ごして来た代助に
とって、今回の問題では初めて、自分自身と真剣に向き合うことを求め
られたのでしょう。

この場面での代助と兄嫁の会話は、その事実を示しているのだと、感じ
ました。

2015年7月27日月曜日

高野秀行著「恋するソマリア」を読んで

前回大きな反響を呼んだ謎の紛争地域、”アフリカの角”ソマリア潜入記第二弾
です。

すっかりソマリアに魅せられた冒険家高野秀行が、再び危険この上ない
その地域に赴きます。彼がこの地に惹きつけられるのは、ソマリ社会の
一筋縄ではいかない複雑さと多様性、彼を特別な客人として迎えてくれる
現地の人との濃厚な人間関係によると感じます。

今回高野が志すのは、現地と日本のつながりを模索することもありますが、
ソマリ人をその日常生活にまで踏み込み、より深く知るということ。彼は
そのためには「言語」「料理」「音楽」を理解することが必要と考え、まず
日本滞在の数少ないソマリ人兄妹から言語のトレーニングを受けた後、
ソマリランドでは早速、ソマリ世界で高名な詩人兼ミュージシャンに会いに
行きます。

その詩人との会話を通して、ソマリ音楽の原形が相聞の恋歌であることを知り、
次には現地の新婚家庭に初めて客人として招かれ、家人の心づくしの歓待を
受けて、一見荒っぽく、ぶっきらぼうなソマリ人の繊細で心優しい内面を知る
のです。

彼はイスラム教国では難しい一般家庭に入り込み、家庭料理を習うことにも
挑戦をして、ソマリ人が日常に食べる料理を知り、家庭内の女性の素朴さ、
純真さを知ります。

また私が感銘を受けた逸話は、父の仇に対して復讐をする代わりに、その娘を
嫁に迎えることによって周囲を納得させ、和解を成し遂げた長老の話で、ソマリの
かつての遊牧生活に基づく強固な氏族社会にあって、争いを解決するための
私憤を超えた知恵というものに、利己心に振り回され勝ちな現代社会に生きる
私たちが、考えさせられることがあると感じました。

とはいえ、南部ソマリアが戦乱の地であるというのは紛れも無い現実で、著者も
実際の戦闘に巻き込まれて、戦争の過酷を直に体験するのですが、いずれにせよ
目まぐるしく変化し、身の危険も付きまとうソマリ世界にあって、人びとが民族の
誇りを保持し、危機にあってもポジティブに、自分の問題は自身で解決しようとする
知恵とバイタリティーに、平和な世界に生きる私たちは、自己を振り返って学ぶべき
ところがあるのではないかと、感じました。

2015年7月23日木曜日

ヒオウギの花が咲きました。

祇園祭の時期となり、床の間に活けておいた、恒例のヒオウギの花が開き
ました。

ヒオウギは、かつて貴人が使用した檜扇に、葉の形状が似ていることより
命名されたというアヤメ科の植物で、悪霊退散のために用いられたこと
から、元来疫病を払うことを目的とする祇園祭に、欠かせない存在となった
といいます。

床に活けると、青々とした扇を開いたような葉の形が面白く、また梅雨明け
前の京都独特の蒸し暑さの最中に、その一角だけ、清涼な気分を添えて
くれます。

花は、葉の深い緑と鮮やかなコントラストをなす、赤い斑点を散りばめた
美しい黄味を帯びた朱色で、一輪の花はせっかく咲いても一日でしぼんで
しまいますが、それだけにようやくほころんだ花を発見した時、何かはっと
するようなときめきを感じます。

今年の祇園祭は天候に恵まれず、前祭りの山鉾巡行当日は、折しも四国、
中国地方を襲った台風の影響で、あいにくの激しい雨に見舞われましたが、
幸い、当初懸念された巡行中止という最悪の事態は免れました。

また後祭りの宵山も、不安定な天候が続き、午前中には強い雨足の時間も
ありましたが、明日の巡行は青天のもと、無事行われることを願っています。

2015年7月20日月曜日

細田守監督作品「時をかける少女」を観て

細田守監督の新作アニメーション映画「バケモノの子」の劇場公開記念
として、2006年作品「時をかける少女」のテレビ地上波放映があったので、
良い機会と思って観てみました。

「時をかける少女」というと、私にはやはり、大分記憶は薄れていますが、
1983年の大林宣彦監督、原田知世主演の映画のイメージがあって、
ミステリアスで感傷的な雰囲気と、主演女優の清新ではあるがはかなく、
頼りなげな、運命を受け入れざるを得ない、諦念を秘めた受け身な印象が
ありました。

さて今回のアニメーション映画は、前述の作品とは多分に雰囲気を異に
しています。主人公の紺野真琴は屈託のない現代的な女子高校生、
大学進学のための進路決定を控える難しい時期にも拘わらず、無自覚に
日々を過ごしているように見えます。また異性の友人に対しても、まだ
男女の別を意識しない呑気さで、学校生活を送っています。

さてその少女が、タイムリープ(時の瞬間遡行)の能力を得たらどうなる
のか?実際彼女は、自分のささやかな満足や、都合の悪いことを誤魔化す
ために、この能力をやたらと使用します。しかし彼女は、20年前の「時を
かける少女」であった叔母、芳山和子のアドバイスによって、自分にとっての
その能力の意味をもう一度考えます。

結局真琴にとって、タイムリープとは何だったのか?それは彼女が日常の
自分の行動を注意深く振り返り、周りの人の思いをくみ取り、自分の
本心を素直に表現するためのトレーニングであったような気がします。

この映画を見終えて、一人の少女の成長物語として、さわやかな感動を
得ました。

2015年7月18日土曜日

漱石「それから」の中の、取り戻した指輪を代助に見せる三千代

2015年7月17日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第七十五回)に、質屋から受け出した代助のプレゼントの指輪を三千代が
彼に見せる、次の記述があります。

 「「結構な身分ですね」と冷かした。三千代は自分の荒涼な胸の中を代助に
訴える様子もなかった。黙って、次の間へ立って行った。用箪笥の環を
響かして、赤い天鵞絨で張った小さい箱を持って出て来た。代助の前へ
坐って、それを開けた。中には昔し代助の遣った指環がちゃんと這入って
いた。三千代は、ただ
 「いいでしょう、ね」と代助に謝罪するようにいって、すぐまた立って次の間へ
行った。そうして、世の中を憚るように、記念の指環をそこそこに用箪笥に
しまって元の座に戻った。」

代助はどんな心持で、目の前の光景を見たのでしょうか?三千代の窮状を
慮って彼が彼女に渡した金は、彼女の夫には内緒のまま、質入れした代助の
指輪を受け出すために使われたのです。

彼は微かな満足を覚えながらも、平岡に対して後ろめたさを感じたのでは
ないでしょうか?しかし同時に、そもそも三千代をこんなみじめな行為に
及ばせる、ふがいない夫への憤りがある。

いずれにしても代助と三千代は、指輪と金を巡って、平岡に対する秘密を
抱えることになりました。

2015年7月15日水曜日

三浦しおん著「舟を編む」を読んで

私たちにとって一見親近感もあるが、実は縁遠い存在の辞書編纂の現場を
追体験出来る小説です。また、一冊の辞書が完成するまでの長い時間の
間に、各々の辞書編集部員が職能的にも個人的にも、成長する姿を描く
教養小説でもあります。 2012年度の本屋大賞受賞作です。

私にとっても辞書は、日常生活に欠かせない存在です。しかし何か書物と
いう認識はなくて、自分の拙い頭脳の不足分を補ってくれる便利な道具と
いう位置づけです。

さて、小型、中型の辞書でお目当ての言葉を引くと、必要最低限の意味が
簡潔に記され、その辞書の容量に合わせて、用例も過不足なく記載されて
いる印象です。その一見無機的で素っ気ない部分が、逆に親近感を与えて
くれるとも言えるでしょう。従って私には辞書の編集作業というものは、失礼
ながらただ慣例に従って機械的に進められる、あまり知的労力を要しない
営為というイメージがありました。

しかし本書を読むと、用例採集カードを作って日夜生きものであることばの
動向をチェックし、その辞書が出版される時点での、容量が許す限りの
最適の膨大なことば、語意、用例を統一感のある計算し尽くされた文章、
レイアウトで記載し、誤植がないようにぎりぎりまで校正を繰り返す、
辞書編集部員の過酷ともいえる知的労働の作業の様子が見えて来ます。

また辞書を編むという行為が、国家機関によってではなく、私企業である
出版社の編集部員によって行われることが、言論の自由にとっていかに
大切なことかということも感じられて来るのです。つまり優れた辞書は、
辞書編集部員の熱意とプライドによって初めて、生まれることを知るのです。

もう一点、本書における辞書作りを通しての編集部員の成長という部分では、
営業部員としてくすぶっていた馬締が、辞書作りの適性を見出されて自信を
深め、辞書編集の意義に無自覚であった西岡が、他の部署への移動が
決定して辞書作りの素晴らしさに目覚め、ファッション誌編集部のきらびやかな
部署から、地味な辞書のそれへと移動させられた岸辺が、周りの情熱に感化
されて辞書作りの喜びに気づくというように、人は人生において、自身の
存在意義を見出すことによって輝くということを、分かりやすく示してくれます。

現代社会において、生きることへの困難に直面しがちな私たちに対して、
勇気を与えてくれる好著です。





2015年7月13日月曜日

すももを頂きました。

河内木綿の産地問屋のご主人が、手土産にお家の庭で取れたすももの
実を一袋持って来てくださいました。

今年は一時に実がなったそうで、うかうかしていたらカラスや野鳥に
食べ散らかされるので、大急ぎで木に登って実を収穫したということで、
あわや滑り落ちそうになってすりむきましたと、右腕を見せながら
笑っておられました。

今年は天候不順で、梅の受粉の時期に気温が低くて、雨も多く、ミツバチが
余り活動出来なかったらしく、梅の名所の北野天満宮などでも、梅干しにして
参詣者に授与するための梅の実の収穫が少なかったそうで、神社には
頭の痛い問題だと報道されていました。

そういえば、我が家の庭の梅の木も、花は例年通り咲いてくれたのですが、
一向に実が生らないといぶかっていましたが、どうやら天神さんと同じく
ミツバチの働きに預かることが出来なかったためのようです。

すももを持って来て下さったご主人のところも、例年実るサクランボはだめ
だったけれども、すももは良く実が出来たということで、私たちもお相伴に
預かることとなったのです。

黒く熟して来たものから順番に食べて下さいということで、冷蔵庫に保存して
良く熟れた実から取り出し、皮も抵抗なくつるっとむけるので、一気に口に
ほお張ると、程よい酸味を伴う爽やかな甘味が口中に広がりました。

梅雨時のうっとうしさを一時忘れさせてくれる、最適の果物と感じました。

2015年7月10日金曜日

漱石「それから」における、午餐の席での佐川の令嬢の顔貌

2015年7月9日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第七十回)に、実家で席を設えられてフィアンセ候補の佐川の令嬢と昼食を
共にすることになった代助が、彼女の顔を観察する次の記述があります。

「代助は五味台を中に、少し斜に反れた位地から令嬢の顔を眺める事に
なった。代助はその頬の肉と色が、著じるしく後の窓から射す光線の影響を
受けて、鼻の境に暗過ぎる影を作ったように思った。その代り耳に接した方は、
明らかに薄紅であった。殊に小さい耳が、日の光を透しているかの如く
デリケートに見えた。皮膚とは反対に、令嬢は黒い鳶色の大きな眼を有して
いた。この二つの対照から華やかな特長を生ずる令嬢の顔の形は、むしろ
丸い方であった。」

代助は明らかに、一目見て佐川の令嬢を好ましく感じたように見受けられ
ます。そうでなければこのように仔細に観察しないでしょうし、おまけに
その表現には、彼女の顔の造作に魅入られている様子も感じさせます。

西洋絵画鑑賞の影響をうかがわせる、柔らかい外光によって浮かび上がる
令嬢の顔の輪郭、形の好い鼻、耳の描写、きめ細かく美しい皮膚の感触、
それに対して印象的な大きな鳶色の瞳がアクセントを添える。

何とも詩的な表現です。代助がこれまで結婚を考えなかった理由としては、
他人の妻とはいえ、恐らく三千代という存在が大きく影響していたでしょう。
しかし佐川の令嬢を目の前にして、彼は自分の結婚ということに対して、
改めて対峙しなければならなくなって行くのではないでしょうか。

2015年7月8日水曜日

龍池町つくり委員会 18

7月7日に、第36回龍池町つくり委員会が開催されました。

7月2日に開催した映画「オロ」上映会について、運営を担って頂いた
京都外国語大学南ゼミの学生代表の方より結果報告があり、参加者は24名、
募金は約43000円が集まったということで、依然チラシの配布数の割には集まりが
悪かったというきらいはありますが、講演、映画自体は有意義であったという
意見も多く聞かれ、一定の成果を収める事が出来たと考えられます。

以前に杉林真樹子さんより提案があった、学区内の子供たちによって、地域に
ちなむカルタを制作する企画「京都上ル下ル廻ルカルタ」が正式に京都市の
助成を受けることになり、いよいよ実際の活動を始めることになりました。

杉林さんより計画と手順の説明があり、それに対して谷口先生、連合会長、
各委員より実現のためのアドバイスが行われました。直近では、地域の子供が
集まる夏休みのラジオ体操の時に、説明とデモンストレーションを行ってみる
こと、また昨年好評で今年も実施することになった、京都外大の学生さんとの
共同企画「ぶらり龍池スタンプラリー」とうまくジョイントして、スムーズに行程を
進めて行けるるようにすること、などです。計画が予定通り実現することを、
協力しながら見守って行きたいと思います。

龍池学区と自治連合会活動の案内冊子、「わたしたちの町 たついけ」がいよいよ
刷り上り、7月8日より全戸に行き渡ることを目標に配布します。

2015年7月6日月曜日

漱石「それから」の中の、贈った指輪をはめていない三千代を見る代助

2015年7月6日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第六十七回)に、三千代が自分の窮状を示すために、代助に彼が平岡との
結婚に際して送った指輪さえ質草にしたことをにおわせるふうに、黙って
何もはめていない指を見せる、次の記述があります。

 「「貴方には、そう見えて」と今度は向うから聞き直した。そうして、手に
持った団扇を放り出して、湯から出たての奇麗な繊い指を、代助の前に
広げて見せた。その指には代助の贈った指環も、他の指環も穿めて
いなかった。自分の記念を何時でも胸に描いていた代助には、三千代の
意味がよく分った。三千代は手を引き込めると同時に、ぽっと赤い顔をした。
 「仕方がないんだから、堪忍して頂戴」といった。代助は憐れな心持がした。」

代助にとっては、切ない瞬間です。これまでの文脈から推察すると、彼が指輪を
贈ったこと自体に、特別な意味が込められているでしょう。指輪のような、相手が
肌身離さず着用する可能性のあるものを贈るということは、その相手に贈り主の
ことを忘れないでほしいという意味が潜められていると、思われるからです。

また三千代にとってもその指輪は、代助との交情を思い起こし、彼との記憶を
つなぎとめる大切な品に違いありません。いや私には、少し意地の悪い見方
ですが、彼女が自分の窮状を打開するために、例の指輪のことをわざと彼に
ちらつかせて、相手の気を引こうとしているようにも感じられます。

いずれにせよ、代助は三千代の置かれた状態を憐れに感じ、物語は新たな
局面へと向かって行くのでしょう。

2015年7月5日日曜日

中沢新一著「日本文学の大地」を読んで

中沢新一の著作には、たとえどのような対象を扱うにしても、読者の期待を
裏切らない雄大な構想力とビジョンがあります。この本で彼は、日本の
古典文学に立ち向かっています。

中沢は本書の「まえがき」で、我が国の近代以前の文学生成の背景として、
自然と文化が密接に結びついていたことを挙げています。明治以降、
近代化の名の下での西洋文化の導入によって自然と文化は分離され、また
記述文においても口語が用いられることになって、私たちにとって古典文学は
次第に敷居の高いものとなって来ました。

しかし我が国固有の思想の源流は古典文学にあり、現代社会に生きる我々が
もう一度足下を見つめ直すことの必要性が増している今日、古典に親しむ
ことは意義深いことであるでしょう。その意味においても本書は、平易では
ないが私たちの興味を絶妙にそそってくれるものとして、格好の古典文学の
手引書となっていると感じさせます。

この本を読んで私が一番心惹かれたのは「万葉集」の章で、万葉集が編纂
された時代は、日本語の表記法が確立された時期で、従来から初々しい
文字を用いて、ありのままの心からほとばしる言葉を筆記した趣があると
感じて来ました。

本書の中で中沢は「ことだま」という言葉を例に取って、万葉集の歌の言葉は、
直截的に霊的な力を帯びていると記します。また歌としてのリズム(定式)を
用いることによって「ことだま」の霊力を流動化させ、人の世界を豊かにする
ことが歌を作る目的であったとも記します。この呪術的な力が、今を生きる
私たちにも伝わって、理由の説明はつかなくとも、万葉集の独特の魅力を
感受させるのかもしれません。さらに、日本の詩歌が本来持つ霊的な力が、
平安時代以降洗練化されて行くにしても、この文芸が宮廷文化の中心であり
続けた理由ではなかったかと、感じさせられました。

このように、一つ一つの言葉に霊力が宿っていた時代から一環して、我々
日本人の心象には自然と文化が深く結びつきながら存在して来たのです。私が
古典を読む時、理解力はおぼつかないながらも、何とはなしに親近感を
感じるのは、根底に流れるこの思想によるところが大きいのではないかと、
思われます。本書に記された中沢の指摘を踏まえて、また古典文学を読んで
みたくなりました。

2015年7月3日金曜日

映画「オロ」ネパール震災支援チャリティー上映会に参加して

7月2日(木)京都国際マンガミュージアム会議室において、京都国際マンガ
ミュージアム、同志社大学ソーシャル・ウエルネス研究センター、京都外国語
大学南ゼミのご協力のもと、龍池自治連合会主催で岩佐寿弥監督作品映画
「オロ」のチャリティー上映会が開催されました。私も町つくり委員会の一員
として参加させていただきました。

主催者挨拶の後、お父さんがネパール人で、ハチミツ販売を通して現地の
環境保全活動に取り組んでおられる米川安寿さんより、震災後のネパールの
状況についてスライドも使った報告があり、いよいよ「オロ」の上映が始まり
ました。

この映画は、6歳の時一人チベットからインドに逃れた少年オロの日常を
通して、チベットが直面する深刻な問題を提示し、また彼が岩佐監督と一緒に、
ネパールに暮らす彼と同じ境遇のチベット避難民の集落を訪れることによって、
同胞の温かさに触れ、自覚を深め、人間的に成長して行く姿を描く作品です。

一見淡々とした描写の中に、監督のチベット問題への深い思い入れが伝わって
来たのですが、本日のチャリティー上映会の主旨に沿って、ネパールという
観点からこの映画を観ると、中国、インドという二つの大国に挟まれた決して
豊かではない小国ネパールの、難民をも受け入れる懐の深さが見えて来ます。

それは多民族共存の宗教的寛容さに発するものであり、またヒマラヤ山脈と
いう自然の要害が、外部勢力の干渉を拒絶することにもよるのだと推察され
ます。

大自然の厳しさと裏腹の風光明媚、エベレストに連なる峰々の美しさ、荘厳さ、
一度は訪れてみたくなるその魅力は言うまでもなく、私たち日本人に引き付けて
ネパールを考えてみると、大国に自然条件によって隔てられながら隣接する
小国、宗教的寛容、独特の伝統文化を有するなど、共通点も多いように感じ
られます。そのような国に私たちがもっと関心を持つこと。その必要性をこの
映画を観て感じました。

2015年7月1日水曜日

漱石「それから」における、代助のフィアンセ候補との邂逅

2015年6月30日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第六十三回)に、兄嫁に誘われて芝居に出かけた代助が、実はそれが父や
兄が彼に強く勧めている、見合い相手との出会いを演出するための口実で
あった事を知る、次の文章があります。

 「すると幕の切れ目に、兄が入り口まで帰って来て、代助ちょっと来いと
いいながら、代助をその金縁の男の席へ連れて行って、愚弟だと紹介した。
それから代助には、これが神戸の高木さんだといって引合した。金縁の
紳士は、若い女を顧みて、私の姪ですといった。女はしとやかに御辞儀を
した。その時兄が、佐川さんの令嬢だと口を添えた。代助は女の名を聞いた
とき、旨く掛けられたと腹の中で思った。が何事も知らぬものの如く装って、
好加減に話していた。すると嫂がちょっと自分の方を振り向いた。」

本日の回には、まるで一話の短編小説を読むような、構成の妙を感じ
ました。芝居にお供した代助が、その演目を観るのは二回目のために
無聊をかこち、一緒に行った兄の娘縫子との無邪気な会話から、観劇の
肝に思いを巡らし、周りの観客を観察しているうちに、この場が兄たちに
よって仕組まれた、自分を嫁候補の娘と引合すためのものであったことを
知る。

読んでいる私も、代助と一緒に一杯食わされた思いがして、そのはっとする
感触が何かときめきを伴う、心地よさを連れて来てくれました。これも漱石の
優れた作話術の賜物なのでしょう。

2015年6月29日月曜日

泉屋博古館「フランス絵画の贈り物ーとっておいた名画展」を観て

住友グループ各社が所蔵する絵画作品展示の第三弾です。今展は、
近代フランス絵画史上に名を残した画家の作品を展示します。

中国古銅器と鏡鑑の蒐集で有名な、住友家15代当主住友春翠は、西洋絵画
にも目を向け、現地でクロード・モネの二作品を購入、この2点は初めて
我が国に入ったモネの絵画だと言われます。またフランスに留学した画家
鹿子木孟郎を援助し、その見返りに当地での作品購入の手助けを依頼
しました。このようにして、住友家の近代フランス絵画のコレクションが始まった
といいます。

従って第一部「19世紀フランスアカデミズムと自然主義の台頭」では、鹿子木の
師ジャン=ポール・ローランスなどアカデミズムの画家の作品が、主要な位置を
占めています。アカデミズムの絵画は、確かな技術に裏打ちされて穏当、
いかにも西洋絵画という安定感があり、芸術の分野でも海外に門戸を開き
始めた日本にとって、受け入れやすいものであったと感じさせます。

第二部「印象派へ、印象派から」、現代に生きる私たちには最早見慣れた
タッチの絵画であっても、発表当時は革新的であった作品が展観されます。
モネの「モンソー公園」は、彼の作品らしく柔らかい光とおだやかさに満ちた
もので、心が癒される思いがします。このような絵画が論争の対象になったなど、
隔世の感がします。

第三部「フォービズムとエコール・ド・パリの時代」は、全体にそれぞれの特徴が
滲む、骨太の作品が並んでいると感じます。ルオー「一家の母」の線を刻印
しながら祈りを捧げるような描写、ヴラマンク「風景」の水彩であっても、彼らしい
荒々しさ、力強さを失わない表現に感銘を受けました。

第四部「フランスの現代作家たち」では、ビュッフェの作品が印象に残りました。
切り裂くような黒々とした鋭利な線が、孤独と緊張感と洗練を並列させます。
間違いなく、フランス絵画の系譜を引き継ぐ画家であると感じました。

泉屋博古館は、京都東山の麓に静かに佇む、こじんまりとした美術館で、
隠居所に紛れ込んで美術品を鑑賞する趣があります。今回の訪問では、折から
新緑が館に覆いかぶさるような風情で、一層情趣を誘われました。


2015年6月26日金曜日

母と暮らして

職住一体で、典型的な家族経営の小規模な店を営んでいる私たちは、
今も年老いた母と一緒に暮らしながら、日々の仕事を行っています。

母は父と力を合わせて長年この店を切り盛りしながら、私たち子供を育て、
養ってくれました。子供の側の立場からすれば、常に商売というものが
前提にあって、母にあまりかまってもらえなかったり、保護者参観などの
学校の行事にも滅多に出席してもらえなくて、さみしい思いをしたことも
多々ありましたが、私自身店に携わるようになって年月を経た今となっては、
親たちの商売への取り組みの真摯さが伝わって来るようにも感じます。

四年前に父が亡くなり、母は何か大きな荷を下ろしたように、次第に直接
仕事に関わることからも遠ざかり、店の諸々を気に掛けながらも、自分の
身の回りの世話を中心に時を過ごして来ましたが、近年は老いも目立ち
始め、昨秋脳梗塞を起こして約四か月間入院生活を送ってからは、膝が
不自由になって自宅で入浴が出来ず、入浴介護が実施されるデイケア
センターに通いながら、自宅兼仕事場で日々を過ごしています。

自宅にいる時は、私たちが働いているのを間近に見ていることで気持ちが
落ち着くらしく、店の奥まった片隅の指定席の椅子に座って、何やら自分の
こまごまとしたことをやっています。

最近は記憶も覚束なくなって来て、一緒にいると日々の飲み薬の管理や、
忘れ物探し、あるいは、急にとんちんかんな事を言ったり、行動をしたり、
驚くやら、はらはらさせられるやら、煩わしいことも随分と有りますが、
何かの拍子にふと、心を和ませてくれる瞬間も有ります。

それは母が美味しいものを食べた時の、欲得のない嬉しそうな顔であったり、
あるいは、私たちが仕事上のことで喧々諤々と議論し合っている時の、的は
外れているが、ついつい笑みがこぼれてしまう、母のアドバイスであったり
します。

そんな時、老人と一緒に暮らすことには、こんな美点もあるのだと、何だか
ホットさせられます。






2015年6月22日月曜日

「江戸川乱歩全集第一巻 屋根裏の散歩者」を読んで

日本の推理小説の代名詞と言えば、江戸川乱歩でしょう。しかし私は残念な
ことに、これまで彼の作品を読まずに来ました。それ故、どうせ初めて目を
通すならと、彼の著作活動の源流を探るべく、全集第一巻初期短編集を手に
しました。

冒頭の彼の処女作「二銭銅貨」は大正12年の発表ということですが、今の
時代にも決して色あせぬ素晴らしい作品です。まだ推理小説の主流が
輸入作品であった頃、乱歩が将来我が国の推理小説界の旗手となることを、
十分予見させるものであったでしょう。

理知的でスキのない簡潔な文章の運び、意表を突くトリックと綿密な暗号解読、
その上であっと驚くどんでん返しの後、そこはかとなく漂うユーモアが待って
いる。読者は二重三重に騙されたようで、読後一瞬狐につままれた思いが
して、文字通り推理小説の醍醐味を満喫することが出来ます。

またこの物語のきっかけとなる、紳士盗賊による電機工場の多額の給料用
準備金の窃盗事件は、私にすぐに昭和43年に実際に発生した、白バイ警官に
偽装した犯人が工場のボーナス資金を積んだ輸送車から、多額の現金を
奪い取った、いわゆる三億円強奪事件を思い起こさせます。

それほどに、乱歩の描き出す事件には細部に渉るリアリティーがあり、
あるいは犯罪者心理、被害者心理両面において、彼に深い人間洞察力が
あった故に、現実にも起こり得るような事件を作り出す能力を有していたの
ではないか、と推察されます。

乱歩の作品のもう一方の魅力である夢遊病、のぞき見、変身といった怪奇、
幻想趣味を扱う短編も、この作品集には収録されています。これらの
グロテスクな小説も、人間心理の奥底に潜む願望や恐れを、彼独特の詩的な
方法で具象化したものに他ならないでしょう。

彼の作品が長い時を経ても今なお読者を魅了するのは、彼が推理小説という
形を借りながら、人間心理の核心に触れようとする求道者であったからでは
ないか、と本書を読んで感じさせられました。

2015年6月19日金曜日

漱石「それから」における、代助にとっての再会後の平岡という存在

2015年6月19日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第五十六回)に、金を用立ててやってから初めて訪ねて来た三千代との
会話の中で、彼女の背後にかつての親友、夫の平岡の存在を感じた時の
代助の感慨を記する次の文章があります。

「三千代はあまり緩り出来そうな様子も見えなかった。まともに、代助の
方を見て、
 「貴方も相変らず呑気な事を仰しゃるのね」と窘めた。けれどもその
眼元には笑の影が泛んでいた。
 今まで三千代の陰に隠れてぼんやりしていた平岡の顔が、この時
明らかに代助の心の瞳に映った。代助は急に薄暗がりから物に襲われた
ような気がした。三千代はやはり、離れがたい黒い影を引き摺って歩いて
いる女であった。
 「平岡君はどうしました」とわざと何気なく聞いた。すると三千代の口元が
心持締って見えた。」

代助が平岡に対してこんな感情を抱いたのは、初めてのことではないで
しょうか?彼の平岡への思いは徐々に変わり始めている。殊に三千代との
関わりにおいて、それは好ましくないものとなり始めている。かつての代助、
三千代、平岡の三人の関係において、当時の代助にとって自身では意識
しなかったが、三千代の幸せこそが一番優先すべきことだったのでしょう。

東京に戻った平岡がこの体たらくでは、最早彼は三千代に相応しい夫では
ないと、代助は感じ始めているのではないでしょうか?それは代助が初めて、
彼女への自分の想いに気づくことにも、つながって行くのでしょう。

2015年6月17日水曜日

漱石「それから」に見る、三千代の天真爛漫さ

2015年6月17日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第五十四回)に、息を弾ませて代助の下を訪れた三千代のために、彼が
水を取りに行っている間に、彼女が代助がすでに使ったコップで、そこに
あったスズランを活けた大鉢の水を勝手に汲んで飲んでしまったことを
知って、彼が驚いて思わず言葉を発する、次の記述があります。

「 「何故あんなものを飲んだんですか」と代助は呆れて聞いた。
 
 「毒でないったって、もし二日も三日も経った水だったらどうするんです」

 代助は黙って椅子へ腰を卸した。果して詩のために鉢の水を呑んだのか、
または生理上の作用に促がされて飲んだのか、追窮する勇気も出なかった。
よし前者としたところで、詩を衒って、小説の真似なぞをした受売りの所作
とは認められなかったからである。そこで、ただ、
 「気分はもう好くなりましたか」と聞いた。 」

理知的で、自分の健康に人一倍留意する代助なら、とてもできっこない
三千代の行為でしょう。しかしおそらく彼女がするとなると、それほど
違和感のない挙動だったように推察されます。現に彼女は、その鉢の水が
汲みたてであることを確認しています。でも、自分の行為を思考で律する
代助には、とても思いもつかない行動なのです。

このエピソードで、三千代の性格が鮮やかに浮かび上がり、また彼女が
代助に随分気を許していることも、見て取れます。またうがった見方をすれば、
彼が自分にないものを持つ三千代に次第に惹かれて行く道筋も、暗示されて
いるように感じます。



 

2015年6月15日月曜日

京都国立近代美術館「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展」を観て

ユニークなネーミングの本展は、台湾の大手電子部品メーカー、ヤゲオ・
コーポレーションのCEO、ピエール・チェン氏が一代で築き上げたコレクション
から、現代美術の名品を展観するものです。

ネーミングの由来は本展の案内パンフレットによると、著名な個人コレクターの
蒐集品を通して、優れた現代美術作品が市場価格的、保険評価額的に
「世界の宝」であることを認識し、その前提の上で、鑑賞者一人一人に現代社会
におけるアートの意味について考えてもらおうというものです。

とかく現代美術は一般の美術好きにとっては、難解であったり親しみ易さに
欠けるように感じられて、敬遠されがちです。さらにオークションで、歴史的に
評価の定まった名画ならいざ知らず、現代美術家の作品が驚くほどの高額で
取引されているのを目にすると、益々縁遠い世界の出来事という思いに
囚われます。

さて、本展に展示された作品は著名なコレクターの蒐集品だけあって、優れた
作品が多いと感じられました。しかし作品それぞれの解説表示にしばしば登場
する個別の評価額を目にすると、美術的価値と市場価値の間で戸惑う自分を
感じました。つまり美術作品の価格は、一定以上の美的基準が前提であると
しても、最終的には市場の需給関係によって決定されるからです。

しかし経済的価値が存在するから、このような優れたコレクションが生まれるのも
また現実です。すなわち市場が活況を呈すれば、それだけ優れた現代美術作家、
作品が生まれる可能性も増すのです。

その事実は、文化芸術活動も高度資本主義経済の大きな渦に巻き込まれざるを
得ない現代社会の真実を示しているのでしょう。

しかし優れた現代美術家は、しばしば社会の矛盾を告発する批評眼を備え、その
作品に反映させます。自由な美術表現の場の存在は、社会の健全性の証明でも
あります。現代の社会が美術との関係性においても、一筋縄ではいかないことを
改めて感じさせられました。

2015年6月10日水曜日

山田風太郎著「人間臨終図巻①」を読んで

言わずと知れたことですが、人間は誰でもいつかは死にます。しかし私たちの
暮らす現代日本社会では、医療及び医薬品開発技術が著しく発達し、栄養価の
高い、豊富な食料の供給が可能となって、平均寿命が飛躍的に伸び、あるいは
宗教離れや人と人の絆が希薄になって来たことから、葬儀が簡略化される
などの理由により、個人の死がますます見えにくくなって来ています。

本書は古今東西の歴史に名を遺した著名人、私たちの記憶に残る社会を
騒がせた人物などの死の様子をのみ、死亡年齢の早い順に列挙する、大変
ユニークな本です。

そのユニークさに拍車をかけるのは、本書が取り上げる人物が偉人に限らず
犯罪者にも及ぶことで、この点に著者が稀代の大衆作家山田風太郎である
ことの面目躍如たるところがあり、この本が期せずして、いわゆる従来の偉人伝
のような社会の上澄みを掬うものではなく、扱う人物の死を巡る、広く庶民を含む
社会の気分を浮かび上がらせるものとなっていると、感じさせます。

さて①では死亡年齢の若い順ということで、十代で死んだ人々から四十九歳で
亡くなった人びとまでが取り上げられています。つまり現代の基準から見ると
夭折の部類に属する人々で、それだけにそれぞれの死は、病死、戦死、事故死、
自殺、刑死というような非業の死に当たります。

本書のページを繰ると、彼らの置かれた状況の悲劇性、心中の悲嘆、肉体的
苦痛に思わず胸の痛む場面もしばしば登場しますが、同時に死をもって彼らの
一生の形が完成したというような、一種の完結感の余韻が残ることもあります。

つまり人間は人生のある時期においてどれほど幸せであり、あるいはどの
時点においてどれほど不幸であっても、結局その一生の総体の幸、不幸は
完結してみないと分からないのです。同時に人の生はたとえ途中で中断される
ような結末を迎えても、その時点においてその人の一生は、見事に完結したと
いうことになるのでしょう。それこそ運命というものではないか?

長寿社会化に伴い、老後の不安が社会問題となって来ている昨今、最早昔日の
ごとく長寿こそが幸福というような単純な価値観はあり得ません。本書は
現代社会でこそ、死を相対化することが必要であるということを、読む者に
知らしめてくれる好著です。

2015年6月8日月曜日

漱石「それから」における、父の説法に対する代助の反発

2015年6月5日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第四十七回)に、父から呼ばれた代助が父と自分の道義心に対する解釈の
違いを考えるに当たり、その背景となる当時の時代の社会状況について
考察する、次の記述があります。

 「代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を
敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでいた。そうして、これを、
近来急に膨張した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈
していた。またこれをこれら新旧両慾の衝突と見做していた。最後に、この
生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯と心得ていた。
 この二つの因数は、どこかで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な
日本が、欧洲の最強国と、財力において肩を較べる日の来るまでは、この
平衡は日本において得られないものと代助は信じていた。」

明治維新というものは、日本人に色々な面で著しい価値の転換をもたらした
のでしょう。儒教や仏教的なものの考え方の中に、欧米の近代資本主義的な
価値観が一気に流入して来たことも、日本人を大いに戸惑わせたに違い
ありません。

あれから幾年月が経過し、一応の経済発展を遂げた私たちの現代社会に
おいても、我々はそれが当たり前と感じながら、実は伝統的なものの考え方と
西洋合理主義的な価値観の間で、引き裂かれているように感じることが
有ります。

私自身道義と物質欲という観点においては、今さら消費に対する後ろめたさを
感じてしまうことも有ります。しかし昔ながらの道徳心で、現代社会を生きては
いけないのもまた現実です。そこに折り合いをつけることは、今なお課題で
あり続けているのでしょう。

2015年6月5日金曜日

漱石「それから」における、梅子の情けについて

2015年6月1日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第四十三回)に、一度は平岡のための借金をきっぱりと断った兄嫁の
梅子から改めて手紙を受け取って、代助が感じた事を記する次の文章が
あります。

 「手紙の中に巻き込めて、二百円の小切手が這入っていた。代助は、
しばらく、それを眺めているうちに、梅子に済まないような気がして来た。
この間の晩、帰りがけに、向から、じゃ御金は要らないのと聞いた。貸して
くれと切り込んで頼んだ時は、ああ手痛く跳ね付けて置きながら、いざ断念
して帰る段になると、かえって断った方から、掛念がって駄目を押して出た。
代助はそこに女性の美しさと弱さとを見た。そうしてその弱さに付け入る
勇気を失った。この美しい弱点を弄ぶに堪えなかったからである。ええ
要りません、どうかなるでしょうといって分れた。それを梅子は冷かな挨拶と
思ったに違ない。その冷かな言葉が、梅子の平生の思い切った動作の裏に、
どこにか引っ掛っていて、とうとうこの手紙になったのだろうと代助は判断
した。」

このような女性の細やかな感情は、現代社会では顧みられないかも知れ
ません。逆に女性の社会進出が目ざましい今日、ビジネスの現場では
かえって、優柔不断とも受け取られかねません。

しかし勿論程度の問題ではあるのですが、女性の余韻を残すような深い
情けや、男の後くされのないさっぱりとした気風などは、社会生活や
人間関係に何とはなしの潤いを与えていたようにも思われます。

最近世の中が妙にカサカサして無味乾燥に感じられるのは、そのような
ものが失われたことにもよるのではないかと、この文章を読んで改めて
考えさせられました。

2015年6月3日水曜日

龍池町つくり委員会 17

6月2日に、第35回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

まず、新住民を初め全学区民に配布することになった、龍池学区を成り立ちも
含め、より多くの住民に知ってもらうための案内冊子「わたしたちの町たついけ」の
見本が完成し、各委員に回覧しながら、委員長より説明がありました。
学区内各町の歴史や自治連合会活動の紹介等充実した内容になっていて、その
基本線のまま刷り上げて配布することに決定しました。

次に一部町内で現実の問題となっている、新しく出来上がるマンションの既存の
町内会への加入問題ついて話し合われました。というのは、ある町内がその
域内に出来るマンション住民の町内会への加入を拒否し、旧住民とマンション住民の
間に感情的なトラブルが発生しているということで、そのマンションの総会に連合会
より説明に赴き、マンション内で加入を希望する住民の中から班長を決めてもらって、
その町内とは別個に加入に向けた手続きをしてもらうことになったそうです。

自治連としては、域内に出来たマンションは大規模なもの以外は原則として、
既存の町内会に加入してもらうという方針で、そのためにも各町に町則の制定を
促し、町内会に属するそれぞれの住民の町内自治の意識を高めてもらうために、
これからも粘り強く活動を続けて行くことが確認されました。

またある委員より、学区の行事が高齢者向けに偏っているところがあり、もっと
若い人向けのものにも力を入れるべきではないかという意見が出て、多くの委員から
賛同の声が上がりました。この点も、新たな課題として浮かび上がったと言えます。

前回の委員会で提案された、ネパールの大震災被害支援の映画「オロ」上映会が
7月2日(木)に、マンガミュージアム内の連合会会議室で、午後7時より開催される
ことに決定しました。

2015年6月1日月曜日

後藤正治著「天人 深代惇郎と新聞の時代」を読んで

私はこの30年来朝日新聞の愛読者で、この新聞を選んだ理由の一つには
「天声人語」が掲載されていることがあります。

本書の主人公である深代惇郎は、約40年前のごく短い期間「天声人語」を
執筆しただけなので、私は残念ながら彼のコラムを新聞紙上で読んだことが
ありません。しかし私自身この名物コラムを読み続けて来ても、筆者にまでは
思いが至らない中にあって、わずか2年半の担当でこのコラムの名声を
高めた人物が、いかなる人であったのか強く関心を引かれ、この本を手に
しました。

まず「天声人語」が朝日新聞の看板コラムであるという性格上、著者は少なく
とも文章表現において、この新聞のイメージを体現する人物でなければ
ならないでしょう。本書を読み進めるうちに、深代惇郎が新聞文化華やか
なりし頃の朝日を、人間的にも表現者としても、一身にまとうような人物で
あったことが次第に明らかになって来ます。

海軍兵学校を経て、戦後東京大学法学部政治学科入学。朝日新聞社
入社後はロンドン、ニューヨーク特派員、本社社会部次長、論説委員(教育
問題担当)、ヨーロッパ総局長、再び論説委員となって「天声人語」を執筆。
46歳で急性骨髄性白血病で急き立てられるように生涯を閉じます。

新人の頃の警察回りは性に合いませんでしたが、持ち前の明晰さ、
人当たりの良さで上司、同僚に愛され、同業他社の同輩にも人脈を広げ、
面倒見の良さで後輩にも慕われ、海外経験を積んで文名を上げ、満を持して
「天声人語」の担当者になる。まるで絵に描いたような経歴です。

本書の文中に要所要所に挿入される彼の「天声人語」は、新聞人としての
矜持を保ちつつ、反骨心、当意即妙さ、ウイット、人間的温かさをバランス良く
配し、何より独特の詩情を醸す。本書中のコラムで見る限り、深代「天人」の
魅力は著者の卓越した見識と共に、知と情の絶妙の配合に因ると感じられ
ました。

ただ本書を読み終えて何か物足りなく感じたのは、多数の深代の関係者が
彼にまつわるエピソードを語り、本文中に配された彼の残した文章を読み
重ねてみても、一向に生身の人間としての彼の肉声が伝わってこないため
でしょう。著者後藤正治はあえて深代の内面には踏み込まず、外堀を埋める
ようにして、伝説のコラムニストと新聞の時代を浮かび上がらせようと
したのか?あるいは新聞記者というものは職業柄、内面を韜晦すべきもの
なのか?判断は付きかねますが、力作ゆえに私にはその点が少し残念でした。

2015年5月29日金曜日

漱石「それから」における、映像が眼前に浮かぶような情景描写

2015年5月28日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第四十一回)に、実家で兄嫁から金を借りるのに失敗した代助が、自分の
住まいに帰る途中の情景を描写した次の記述があります。

「その夜は雨催の空が、地面と同じような色に見えた。停留所の赤い柱の
傍に、たった一人立って電車を待ち合わしていると、遠い向うから小さい
火の玉があらわれて、それが一直線に暗い中を上下に揺れつつ代助の
方に近いて来るのが非常に淋しく感ぜられた。乗り込んで見ると、誰も
いなかった。黒い着物を着た車掌と運転手の間に挟まれて、一種の音に
埋まって動いて行くと、動いている車の外は真暗である。代助は一人明るい
中に腰を掛けて、どこまでも電車に乗って、終に下りる機会が来ないまで
引っ張り廻されるような気がした。」

目的を果たせず意気消沈した代助の心模様を反映した、彼の孤独と
寂寥感がにじみ出たような、幻想的な情景描写です。宮沢賢治の
「銀河鉄道の夜」や、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の中の主人公が
列車に乗るシーンが思い浮かびます。

汽車や電車といった乗り物は、特に車窓から見える風景が闇に包まれて
いる夜においては、漆黒に閉ざされた前景を切り裂くように伸びる鉄路を、
ただひたすらに進んで行く、乗客にとってはある意味他人任せの道行が、
心細さを感じさせることが往々にあるものです。漱石は、そのような人間の
心情を繊細に、見事に描き出していると、感じました。この文章に続く地震の
描写も、印象的です。

2015年5月27日水曜日

漱石「それから」における、代助が結婚に興味を示さない理由

2015年5月27日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第四十回)に、嫂の梅子に一刻も早く嫁を迎えるようにと勧められて、代助が
なかなか乗り気になれない理由に思いを巡らす、次の記述があります。

「ただ、今の彼は結婚というものに対して、他の独身者のように、あまり興味を
持てなかった事は慥である。これは、彼の性情が、一図に物に向って集注
し得ないのと、彼の頭が普通以上に鋭どくって、しかもその鋭さが、日本現代の
社会状況のために、幻像打破の方面に向って、今日まで多く費やされたのと、
それから最後には、比較的金銭に不自由がないので、ある種類の女を大分
多く知っているのとの三ヶ条に、帰着するのである。」
「 代助は今まで嫁の候補者としては、ただの一人も好いた女を頭の中に指名
していた覚がなかった。が、今こういわれた時、どういう訳か、不意に三千代と
いう名が心に浮かんだ。」

人間は往々にして、自分の本心が自分では分からないものです。代助は
自身が結婚したいと思わない理由をあれこれと考察していますが、梅子の
問いかけからふと、三千代のことが心に引っ掛かっていたことに気づかされます。

知識人の代助の結婚に対して淡白な理由付けは、なかなか論理的でたいそう
ですが、実は三千代のことが心の奥底にわだかまっていたのです。

人は何気なく、思いもよらぬ自分の心情に気づかされた時、その印象は鮮やか
なものとして、心にずっととどめられるということが、よくあるように感じられます。
代助の心の化学反応はいかに進展するのでしょうか?

2015年5月24日日曜日

庭のアジサイが今年初めて咲きました。

正確にはガクアジサイのガクが色づき開いたということでしょうか?アジサイは
日本原産の植物ということで、全体が装飾的な花序に覆われているいわゆる
一般的なアジサイよりも、私は慎ましやかな日本の野草木の面影を残す、
ガクアジサイが好きです。

アジサイは落葉樹の一種で、葉が硬く、しっかりしている外見にも関わらず、
冬には全ての葉を落とし、裸木になります。前年の花が終わった時点で、
次年の花芽を残して剪定し、翌年の開花に備えます。

それ故に、翌春に新しい葉が元気に伸びて、蕾が付いた時にはその年の花の
開花も約束されて、何がしかほっとした気分になります。それでも、小さな粒の
ような花の塊と花序がほんの少しずつゆっくりと成長して行く中で、私は花序が
色づき開くのを知らず知らずのうちに待ちわびていたのでしょう。今朝それを
発見した時には、思わず嬉しくなりシャッターを切りました。

さて今年の五月は、ゴールデンウィークこそほぼ晴天に恵まれましたが、、
季節外れの早すぎる台風到来と、不順な天候であった印象が強く残っています。

その中で来週には六月となるこの時期に、今年もアジサイが花開いてくれた
ことは、季節の確実な過ぎ行きを実感させてくれました。

梅雨はどんよりと曇って、じめじめとした日々が続きますが、アジサイの涼やかな
姿を見ていると、たまにはしとしとと降る雨を眺めて、終日ぼんやりとしているような、
ちょっとした贅沢な時間を夢想してしまいます。

2015年5月22日金曜日

京都文化博物館「今日に生きる琳派の美」を観て

2015年は、本阿弥光悦が徳川家康から鷹峯の地を拝領して400年ということで、
京都では琳派400年の様々な行事が開催されています。この展覧会はその一環
として、京都日本画家協会と京都工芸美術作家協会に所属する作家約200名が
「琳派」をキーワードに制作した新作を展示する合同展です。

「琳派」というと私たち京都人にとっては、誰もが知っているようで、いざそれを
定義するとなると、漠然としていてなかなか難しいように思われます。そこで
私なりの「琳派」に抱くイメージを言葉にしてみると、町人の美意識から生まれた、
時代を隔てて受け継がれる、装飾的で優れたデザイン性を持つ美術工芸潮流
ということになります。この基準から本展の出品作を観て行くと、興味深く感じ
られる部分が多くありました。

それはそれぞれの作家が、「琳派」というテーマをどのように捉えて制作して
いるかという部分です。私は大きく分けて三つの捉え方があるように感じました。
一つは金銀箔に花鳥風月という形としての「琳派」を踏襲しようとした作品。
二つ目はわれ関せずと日頃の作風通りを貫いた作品。三つ目は現代における
「琳派」の意味を自分に引き付けて考え、琳派的美意識と自らのそれを融合させ
ようと試みた作品。それぞれに優れた作品がありましたが、私にとって印象的な
作品は三つ目のものに多く見受けられました。

いずれにせよ、それぞれの作家が与えられた命題にどのように対応して制作
しているのかということは、恐らくその作家の創作姿勢や作風とも密接に関係して
いると想像されて、よく見慣れた作家の今まで知らなかった一面を垣間見るようで、
興味が尽きませんでした。

2015年5月19日火曜日

宮澤正明監督 映画「うみやまあひだ」を観て

伊勢神宮の二十年に一度の式年遷宮を通して、日本人の根底にある自然観、
宗教心を明らかにしようとする、ドキュメンタリー映画です。

二十年毎に社を全て新しく建て替えて神霊を移すという儀式は、現代人の
感覚からすると随分無駄が多いようにも感じられますが、本作品を観進めて
行くに連れ、次第にその儀式が長い年月を基準とする視点に立つと、自然の
循環という意味合いにおいて、理に適ったものであることが明らかになって
行きます。

すなわち伊勢神宮は、広大な神域の森の中に社殿が置かれているのですが、
その森は社殿の用材を恒久的に供給するために、絶えずきめ細かい手入れが
行われています。

具体的には、上質のヒノキ材を産出するために育成環境を整え、気の遠くなる
年月をかけて育て上げます。ようやくその木が伐採されると、次々代のために
新たな成育が始められるという具合です。その結果神域の森は理想的な
植生を備え、多様な生き物を育み、豊かで美しい水を下流域に供給することに
なるのです。

さて、その豊かな森から流れ出した水は海へと至り、沿岸部にもう一つの
海中の森ともいえる豊饒な海藻の植生を作り出します。その海水はまた、
多様な生物を養うのです。つまり伊勢神宮の式年遷宮が、結果として長い
サイクルの自然循環を守り、そのような仕組みこそが、日本人の古来の
自然観に基づく信仰となっていたのです。

この映画を観終えてまず私が感じたのは、我が国固有の宗教である神道という
ものが、明治時代以降二度に渡って歪められたのではないか、ということです。
すなわち、明治政府は欧米に伍する急激な近代化を推し進めるために、天皇を
中心とする中央集権的な国家神道を生み出し、第二次世界大戦敗戦後には
そのような神道の在り方が、侵略思想の元凶として処断されたその結果、
私たちは神道が本来有する森羅万象あらゆるものに対する謙虚さ、その心の
持ち方から生まれる礼節といった徳目を見失ってしまったのではないか?

この映画は忘れがたい美しい映像、音楽と共に、この重い問いを観る者に
投げかけて来るように感じました。

2015年5月17日日曜日

漱石「それから」における、代助の鬱屈と諦念

2015年5月14日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第三十一回)に、代助がここ三、四年の心境の変化について語る、次の
記述があります。

「代助が真鍮を以て甘んずるようになったのは、不意に大きな狂瀾に
捲き込まれて、驚きの余り、心機一転の結果を来たしたというような、小説
じみた歴史を有っているためではない。全く彼れ自身に特有な思索と
観察の力によって、次第々々に鍍金を自分で剥がして来たに過ない。
代助はこの鍍金の大半をもって、親爺が捺摺り付けたものと信じている。
その時分は親爺が金に見えた。多くの先輩が金に見えた。相当の教育を
受けたものは、みな金に見えた。だから自分の鍍金が辛かった。早く金に
なりたいと焦って見た。ところが、他のものの地金へ、自分の眼光がじかに
打つかるようになって以後は、それが急に馬鹿な尽力のように思われ
出した。」

この三、四年で、代助も変われば、平岡も変わりました。漱石は真鍮、鍍金、
金、地金と、言い得て妙の巧みな比喩を駆使して、代助の倦怠と諦観を
表現しています。

漱石自身が、「それから」の代助は「三四郎」の主人公のそれからの姿である、
という趣旨のことを述べているところから推し量れば、さしずめ「三四郎」が
屈託ない青春時代の悩みを描く小説であれば、「それから」は挫折した後の
若者の悩みを描く小説と言えるでしょう。

そんな代助の心がこれからどのように波立って行くのか、だんだん楽しみに
なって来ました。

2015年5月15日金曜日

漱石「それから」に見る、当時の社会状況

2015年5月13日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第三十回)に、失業している平岡が東京で見つけた借家の様子について、
代助が印象を語る次の記述があります。

「平岡の家は、この十数年来の物価騰貴に伴れて、中流社会が次第々々に
切り詰められて行く有様を、住宅の上に善く代表した、尤も粗悪な見苦しき
構えであった。とくに代助にはそう見えた。
 門と玄関の間が一間位しかない。勝手口もその通りである。そうして裏にも、
横にも同じような窮屈な家が建てられていた。」
「今日の東京市、ことに場末の東京市には、至る所にこの種の家が散点して
いる、のみならず、梅雨に入った蚤の如く、日ごとに、格外の増加律を以て
殖えつつある。代助はかつて、これを敗亡の発展と名づけた。そうして、
これを目下の日本を代表する最好の象徴とした。」

代助の感想は、漱石の思いでもあるでしょう。1900年代初頭の日本は、
日清、日露と続いた戦争の結果対外債務が膨張し、深刻な不況に陥って
いたそうです。また急激な工業化のひずみも生じて来ていたようです。
貧富の格差は広がり、中間所得層も次第に苦境に立つ人が増えていったと
いいます。

翻って私たちの暮らす今日の我が国を見てみると、長引く不況の中、中間
所得層の没落と貧富の格差の増大が言われて久しい状態です。時代は
違い経済条件も違えど、私たちは不況に直面し、平岡と同じような苦境に
直面する人も多く存在する。

人間の社会とはそういうものだ、とも言えるでしょうし、漱石が「それから」を
通して私たちに訴えかけて来るものは、100年を隔ててなお色あせない
とも言えるのではないでしょうか?

2015年5月12日火曜日

母の日は近江牛のヒレステーキで祝いました。

話はさかのぼりますが、ゴールデンウィークの休暇中に一度はドライブに
出かけようと考えて、湖東の近江八幡市まで行くことに決めました。

当日は、文字通り五月晴れと言えるほどの好天に恵まれ、道中の新緑も
とても美しく、往路は八瀬、途中、琵琶湖大橋を渡って湖岸沿いという
ルートを選びましたが、大原で地域のお祭りに遭遇して道が渋滞したのと、
琵琶湖大橋の入り口が少し混雑した以外は、比較的スムーズに車も
進んで、特に大橋から見晴らす光り輝く琵琶湖湖面の情景や、湖岸沿いに
吹き渡る爽やかな微風を堪能しながら、ドライブを楽しみました。

さて、近江八幡まで行くことにしたもう一つの目的は、ステーキ肉を買うこと
でした。この地は近江牛の本場で、ネットで調べた、創業明治二十九年の
カネ吉山本でヒレステーキ肉を買おうと思ったのです。

それというのも、今年は母の日に、母に美味しいステーキを食べてもらおうと
考えたからです。目的地に到着すると早速、そのお店に向かいました。肉を
注文して、クール便で母の日前日に家に着けてもらうように依頼します。

当日、冷蔵庫から取り出した肉の包みを開けると、一つずつラッピングされた
美味しそうなステーキ肉が顔をのぞかせました。塩、胡椒をして、30分ほど
寝かせてからフライパンに並べて焼き上げます。

ミディアムに焼き上げると、美味しそうな香りが鼻をくすぐり、口にほおばると
適度ななめらかな歯ごたえと共に、くせのない豊かな旨みがパッと広がり、
すっかり牛肉の味を堪能しました。母も大変喜んでくれて、少し出費は痛い
所ですが、家庭で楽しめる良い母の日になりました。

2015年5月10日日曜日

京都文化博物館別館「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015」を観て

今回は、京都文化博物館別館の会場に足を運びました。

この建物は、1906年完成のどっしりとしたレンガ造りの洋風建築で、
1965年まで日本銀行京都支店として使用され、国の重要文化財に指定
されています。内部も当時のままに保存されていて、その時代を感じさせる
木製カウンターを通して迎えてくれるのが、森村泰正の8点連作「侍女たちは
夜に甦る」です。

この連作は、ベラスケスの名画「ラス・メニーナス」が飾られた閉館後の
プラド美術館を舞台にした作品で、歴史上の名画の登場人物などになり切る
セルフ・ポートレイトの写真作品で有名は森村が、謎多き名画と言われる
「ラス・メニーナス」に挑んだ作品です。

このベラスケスの絵画は周知のように、スペイン王族の肖像を描く画家本人が
描きこまれているという、入れ子状の複雑な構成になっていて、画中に
描かれている王女を始め、彼女を取り巻く人びと、あるいは鏡に映る国王夫妻、
はたまた画家本人と、絵画の主題とその関係性に今なお多様な解釈が
存在しますが、森村は8点の背景、場面設定、登場人物の配置を微妙に変えた
「ラス・メニーナス」とその周辺において、生真面目ゆえにユーモアを湛えた扮装、
面立ちで、それぞれの人物に代わる代わるなり切ることによって、観る者に
知らず知らずのうちに親近感を抱かせ、私たちの既存の権威主義的な価値観を
巧妙に転換させてくれるように思われます。

また彼が画面中の誰に扮装するかによって、個々の「森村ラス・メニーナス」の
印象は不思議な変化を遂げ、観る者は上質のミステリーを読むような胸の
ざわめきを感じさせられます。

さらに今回の展示は、歴史的な空気を湛えた場の雰囲気が作品に影響を及ぼす
部分も大きく、作者もそれを計算し尽くした展観に違いありませんが、謎多き
「ラス・メニーナス」と閉館後のプラド美術館という設定、時間を閉じ込めたような
旧日本銀行京都支店の佇まいが反響して、私にとって忘れがたい、森村作品を
観る機会となりました。

2015年5月8日金曜日

漱石「それから」に見る、代助の世間知らず

2015年5月6日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第二十六回)に、代助が三千代のために兄の誠吾に金を無心する場面で、
次のような会話が交わされます。

 「で、私も気の毒だから、どうにか心配して見ようって受合ったんですがね」
といった。
 「へえ。そうかい」
 「どうでしょう」
 「御前金が出来るのかい」
 「私ゃ一文も出来やしません。借りるんです」
 「誰から」
代助は始めから此所へ落すつもりだったんだから、判然した調子で、
 「貴方から借りて置こうと思うんです」といって、改めて誠吾の顔を見た。
兄はやっぱり普通の顔をしていた。そうして、平気に、
 「そりゃ、御廃しよ」と答えた。

代助は平岡夫妻への義理立てを、兄から金を借りることによって、簡単に
済ませようと考えています。自分自身が実家に養われる身ですから、当然
かもしれません。しかし世慣れた兄の方は、こんなことのために安易に金を
貸すべきではないことを、しっかりとわきまえているのです。

私の人生を振り返ってみても、若い頃にある親しい友人が起業をすることに
なって、保証人になるよう頼まれたのですが、随分考えた末、もしもの時に
負担すべき責任額が当時の私の能力を超えていたので、断った経験が
あります。

その時は大変悩み、その友人に対して申し訳なく思うと同時に、自分の
無力さを恥じましたが、結果として起業後彼が急逝して、彼への信義に
対しては弁解仕様がなくとも、当時の私の判断は間違ってはいなかったと、
感じたことを思い出します。

そのような過去の自分の経験に照らしても、この場面での代助は随分と
無責任で世間知らずと、感じました。

2015年5月6日水曜日

龍池町つくり委員会 16

5月5日に第34回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

まず委員長より、学区の新住民に配布する、案内冊子の素案についての
説明がありました。委員長の意向としては、学区の歴史を知ってもらう
ことに重きを置くべきということで、引き続きそのような形で冊子作りが
進められることになりました。

その中で委員の一人から、印刷物等を配布してもマンション住民には
なかなか行き渡らない現状から、ホームページなど、インターネットを利用した
広報活動も合わせて行うべきではないかという意見が出ました。
谷口先生より、他学区のネット利用の取り組みの事例の説明を頂いて、
私たちの学区でも活用すべきという意見が大勢をしめましたが、問題は、
現状ではそれを担当する適当な人材が見当たらないということで、新たな
委員会メンバー、あるいはボランティアで参加してくれる人を早急に見つける
必要があるという、新しい課題が浮かび上がって来ました。

また谷口先生より、チベット難民の少年を描いた「オロ」というドキュメンタリー
映画を、先日ネパールで発生した大地震の被災者支援チャリティー上映会
として、この龍池学区内で開催出来ないかという提案があり、学生さんに
お手伝い頂いている京都外国語大学、谷口先生の同志社大学、そして龍池
町つくり委員会の共催で実施出来るよう、前向きに進めることになりました。

最後に先日開催された「大原たついけ茶話会」の結果報告が行われ、
龍池側を上回る35~36名の大原地元住民の方の参加があり、地域に伝わる
八朔踊りをご披露頂くなど、新たな交流の始まりを感じさせる兆しが生まれた
ということです。

2015年5月5日火曜日

京都市美術館「PARASOPHIA:京都国際現代美術祭2015」を観て

京都初の国際現代美術祭、PARASOPHIAが市内8か所を会場として開催
されています。その祝祭気分の一端を味わってみたいと、メイン会場の
京都市美術館に向かいました。

まず気付かされたのは、この美術館の場合通常の美術展では、館内の
一部の区画が限定されて会場として使用されているのに、本展では、一階、
二階はもちろん、一部地階、エントランスに至るまで会場になって、
バラエティー富む作家の作品がゆったりと展示され、祭りに相応しい
華やかさを醸し出していることです。

しかも展示のテーマの一つには、「美術館の誕生」というこの美術館
そのものの歴史を跡付ける企画もあって、言わば会場そのものが展示物と
いう重層的な構成になっています。それゆえに観る者は、この
京都市美術館という普段慣れ親しんだ建物の良さ、有り様を再発見する
ことにもなるのです。

さて本展の展示の中で、一番私の印象に残ったのは蔡國強のコーナーです。
北京オリンピック開会式の花火の演出などで有名な蔡の展示は、一階正面
入り口から入ってすぐの中央の広いスペースにあり、会場の真ん中には
竹材を使って六角形七段に組み上げられた塔(パコタ)が聳えています。

この塔は、平安京が都市計画策定においてモデルにした、長安の大雁塔を
イメージしているといいますが、無論竹組の素朴で簡素な作りゆえに、
威圧感はみじんもありません。しかもパコタの竹材には、派生プロジェクト
「子供ダ・ヴィンチ」で、地元の子供たちが身の回りにある材料で自由に制作
した作品が飾られ、いかにも軽やかで華やいだ雰囲気を演出しています。

その塔の周辺には、中国各地の農民が日常の身近な素材で自作した、
「農民ダ・ヴィンチ」のプロジェクトのユーモラスなロボットなどが展示されて
います。

また私が特に感銘を受けたのは、蔡がブラジルの貧困地域の子供たちと
一緒に凧を制作し、揚げて遊ぶ様子を記録した映像で、子供たちの瞳の
輝きと蔡の屈託ない笑顔に、ものを作り用いることへの純粋な喜びが溢れて
います。

展示全体から発散される和やかな気分に、この世に生き続けることへの
希望をもらう思いがしました。

2015年5月2日土曜日

漱石「それから」における、代助の色彩感覚と青木繁

2015年4月30日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第二十二回)に、代助の色彩の好みを記する次の文章があります。

「代助は何故ダヌンチオのような刺激を受けやすい人に、奮興色とも
見做し得べきほど強烈な赤の必要があるだろうと不思議に感じた。
大助自身は稲荷の鳥居を見ても余り好い心持はしない。出来得るならば、
自分の頭だけでもいいから、緑のなかに漂わして安らかに眠りたい位で
ある。いつかの展覧会に青木という人が海の底に立っている脊の高い
女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持ちに出来て
いると思った。つまり、自分もああいう沈んだ落ち付いた情調におりたかった
からである。」

漱石が、作品発表当時の芳しくない世評に反して、青木繁の絵画の
理解者であったことは、青木の回顧展の解説で目にしたことがあります。
早熟の天才画家青木繁は、その短い絶頂期には、それまでの日本の
西洋画とは一線を画する独自の光輝を放つ作品を生み出したと、
その展覧会を観て改めて感じさせられました。

しかし上述のように、早く生まれ過ぎた天才は世間の理解を得られず、
その不遇が彼を死へと駆り立てることにもなります。彼の絵画が、今日の
評価を確定させるのは、死後時を経てからのことでした。

漱石は独自の慧眼で、発表当初の青木の作品に、まったく新しい日本的な
西洋画を見出したのではないでしょうか?そして、自身西洋的な価値観と
日本的なそれとの間で苦悩していた彼は、青木の絵画に共通の問題意識を
感じて、共感を覚えたのではないかと、私は想像します。

また、イタリア人で激情家のダヌンツィオが赤と青を好むのに対して、代助が
自分は緑を好むと告白する作中の場面は、彼の日本人的な情緒を表している
とも感じました。

2015年4月29日水曜日

漱石「それから」の中の、三千代の黒い瞳

2015年4月28日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第二十回)に、旧知の平岡の細君三千代の訪問を受けて、代助が彼女の
顔貌に対して抱いて来た印象を記する、次の文章があります。

「三千代は美しい線を綺麗に重ねた鮮かな二重瞼を持っている。眼の
恰好は細長い方であるが、瞳を据えて凝と物を見るときに、それが何かの
具合で大変大きく見える。代助はこれを黒眼の働きと判断していた。
三千代が細君にならない前、代助はよく、三千代のこういう眼遣を見た。
そうして今でも善く覚えている。三千代の顔を頭の中に浮かべようとすると、
顔の輪廓が、まだ出来上らないうちに、この黒い、湿んだように暈された
眼が、ぽっと出て来る。」

「三千代は顔を上げた。代助は、突然例の眼を認めて、思わず瞬を一つ
した。」

私は以前に映画で見たので、おおよその話の筋を知っています。しかし
それを差し引いても、この場面での代助の三千代に対する思い入れは、
少なくとも彼が、彼女に対して好意を抱いていることを、如実に示して
います。

眼は心の窓、その眼差しに惹きつけられる。ましてや彼女の顔の輪郭が
思い浮かぶ前に、潤んだ黒い瞳が現れるなんて、何をか言わんや、です。

漱石の語りは、淡々と話を進めるように見えて、時にこのような情感豊かな
表現を紛れ込ませる。これも、彼の小説の忘れることの出来ない魅力でしょう。

2015年4月27日月曜日

中村文則著 「教団X」を読んで

中村文則の作品を読むのはこれが最初ですが、まず現代の私たちの
社会において、宗教を主題に小説を書くことの難しさを改めて感じました。
というのは、このような重い主題を正面に据えながら、エンターテイメントの
肌触りを有する小説を読むのは、初めての経験だからです。

それゆえに、深遠で多義の解釈を内包するテーマを、駆け足で通り抜ける
ような消化不良の読後感に少し戸惑いましたが、本書に散りばめられた
人が宗教に求める諸要素をもう一度反芻することによって、本作が語り
掛ける宗教の意味を考えてみたいと思います。

本書に登場する現代の広い意味での宗教指導者の一人松尾は、その
講話の中で最新の分子生物学の概念に触れます。つまり、地球上に
存在するあらゆる物質は分子の結合体であり、生物も決して例外では
ないのです。

生命活動とは、分子の結合体である細胞が新陳代謝によって絶え間なく
入れ代わり、つまり動の中の静として維持されているものです。そして
生物は死を迎えると、その体は構成体である分子に分解して、いずれ
新たな物質を形作ることになります。

このように、人間にとって長い間各個人の主観的な問題であった死に、
科学による客観的な事実が突きつけられた時、その死と密接に関わって
来た宗教は、どのように対処すればよいのか?本書の命題は、この一点に
尽きるように思われます。

本書の四人の宗教指導者の内、戦後の高度成長期を生きた鈴木は、悪を
引き受ける者を作ることによって善を広めるという思想に陥って自壊し、
アフリカの武装宗教組織「YG」のリーダーは、人を飢えさせないことを教義と
してメンバーを引き付けます。カルト教団を組織することになる沢渡は、
性的快楽によって信徒を支配しますが、虚無に耐えられず自滅します。

最後に、松尾自身の死後も受け継がれることになる、互いを思いやることに
よる緩やかな連帯を訴える彼の教えは、月並みなようですが、最早宗教的
狭量がなじまない現代社会に相応しいのかもしれません。

無論、命題の根本的な解決が見出される訳ではありませんが、難しい
問題に取り組んだ著者の意欲は、買いたいと思います。