2020年1月31日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1708を読んで

2020年1月24日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1708では
ハンガリー生まれの経済人類学者、カール・ポランニーの『経済の文明史』から、次の
ことばが取り上げられています。

   人間の経済は原則として社会関係のなかに埋
   没しているのである。

このことばの中の、‟埋没”についての私の解釈が正しいかどうかは分かりませんが、
以下私なりの理解で話を進めて行きます。

私はこのことばの中の‟埋没”の意味を、本来は埋もれてしまって表面には現れない
ものと、解釈しました。従って従来の社会では、市場の価値があらゆる価値の公分母
とは決してならず、経済的尺度を最優先する社会ではなかった、ということになります。

確かに従来の社会では、宗教、因習、血縁や所属する組織の中での人間関係が、
価値の尺度として最も優先される社会であったと、推察されます。

ところが私たちの暮らすこの国の現代社会では、何にも増して経済的尺度が最優先
されているように感じられます。その端的な例として、葬儀などの宗教行事や婚礼の
簡素化や、贈答習慣の簡略化などが挙げられると、思います。

つまり、宗教心や人間関係にまつわる習俗が、経済的合理性を優先する余りに切り
捨てられて、衰退して行っているように、感じられるのです。

勿論時代の移り変わりに合わせて、人間の習慣や価値観も変化して行くものですし、
科学、医療、通信技術や、交通手段の飛躍的に発達したこの社会では、自ずと
人のものの考え方も合理化に傾くものでしょう。

しかし私には、この資本主義的価値観に従属させられているような我々の日々の
暮らしは、本来の豊かな精神世界や人間関係が長年築き上げて来た生活を、どん
どん浸食して行っているように感じられます。

そうは言っても、現状をすぐに改善する処方箋はありませんが、自分自身で実践
出来ることとしては、金銭では替えられない心を豊かにする経験を、出来るだけ
多く積むように努めることではないかと、私は考えています。

2020年1月29日水曜日

乙武洋匡氏インタビュー「快も不快も分かち合う」を読んで

2020年1月8日付け朝日新聞朝刊オピニオン面では、「多様性って何だ 快も不快も
分かち合う 」と題して、身体障害を持つ作家・乙武洋匡氏へのインタビュー記事が
掲載されています。その発言に私の心に響く箇所がありましたので、以下に記して
みます。

乙武氏は周知のように、22年前に「五体不満足」という本を著して、その本はベスト
セラーになりました。インタビュアーから、その著書が日本社会が障害者の存在を
再認識するきっかけになった、と水を向けられて、彼はしかしその影響には『功罪』
があったと応じます。その『罪』の部分とは、この本を通して人々が、『明るく元気
な乙武くん』を全障害者の代表と受け取って、障害者の抱える問題の多様性に顧慮
することなく、障害者問題の入り口で立ち止まってしまったこと、というのです。

さて、ここからが私が考えさせられた部分ですが、彼が滞在した経験から語るところ
によると、日本より障害者理解という意味で先進国と思われるイギリス、ロンドンで
は、例えばゲイのカップルに対して理解を示す人が8割いる反面、拒絶し、暴力を
振るう人もいる、ということです。それに対して日本では、遠巻きに眺めるだけで
決して暴力を振るうことはないけれど、そのカップルが人々に本当に受け入れられ
ている訳でもない、といいます。

更には、ロンドンはバリアフリーは進んでいないが、障害者が困っている時に手を
貸す健常者が普通にいて、その結果積極的に外出する障害者が多く存在し、他方
東京ではバリアフリーがかなり進んでいるが、障害者を手助けする健常者はあまり
見かけないので、障害者が外出することに困難を感じる場合が多い、というのです。

このインタビュー記事を読んで、私はこの国では、健常者と障害者が互いを理解
しようという意思が欠けていること、またマジョリティーの健常者が、表面的な部分
でのマイノリティーの障害者理解で事足りると考えていること、を知りました。

この問題は、何も障害者問題に限らず、現代の日本社会を広く覆う功利主義、事
なかれ主義、人間関係の疎外も、深く関わっていると感じられます。乙武氏という、
障害を持ちながら社会に積極的に関わろうとする人の発言を通して、日本人が
抱える現代の病がくっきりと浮かび上がったことに、感銘を受けました。

2020年1月27日月曜日

「新春きもの茶話会」に参加して

1月26日に、「新春きもの茶話会」が京都国際マンガミュージアムで開催されました。
私もスタッフの一員として、着物姿で参加しました。

参加者の大多数は着物姿で、午前10時に同ミュージアムの2階和室に集まっていた
だき、中谷委員長の講話からスタートしました。話の内容はまず、戦国時代からの、
龍池学区の位置する地域の歴史から始まり、明治時代に至る頃までのあたりの様子
について。

ここで印象に残ったのは、豊臣秀吉が学区の地域内に、南北に走る両替町通りを
設けて全国の金貨、銀貨の品質を一元管理し、江戸時代には徳川家康が貨幣の
製造所を設置し、明治時代にも初期には一時的に紙幣をこの場所で作ったという
ことで、地域の歴史を具体的に知ることが出来たと、感じました。

引き続き、この地域の先人達が大切にした「暮らしの智恵と作法・道しるべ」につい
て、更には物事の善し悪しを計る「心の物指」について、昔から語り継がれる
ことわざを例にとっての説明がありました。

講話後には和室で、ちおん舎の西村さんご夫婦のお点前によるお茶と和菓子と、
1階連合会会議室に準備された京料理堺萬さんの京風お雑煮を順次いただき
ました。和菓子は梅の花を模した華やかな生菓子、お雑煮は白みそ仕立てで、
丸餅が適度な柔らかさで、まったりとした味わいを楽しむことが出来ました。

その後は和室で杉林さんの「龍池カルタ」で遊び、お正月気分を満喫し、最後に
ミュージアムグラウンドで全員で記念撮影をして、午前12時過ぎに解散となりま
した。

天気は朝方は曇りがちで雨が心配されましたが、昼頃には空も晴れて気温もこの
時期としては暖かく、絶好の着物日和になりました。参加者はスタッフも含め約30
人、新たに歌声サロンのメンバーが参加してくだっさたり、今回初めて着物を着用
した京都外国語大学の学生さんからは、着物の魅力を知った、という声も上がり
ました。同外大生の中には、エルサルバドルからの留学生も2人ふくまれ、彼らに
とっても、着物着用での今回の催しは、かけがえのない体験になったようです。

2020年1月24日金曜日

呉座勇一著「陰謀の日本中世史」を読んで

「応仁の乱」で大ヒットを放った著者の、日本中世史における代表的な陰謀論を読み
解き、最新の歴史学の知見に基づきその是非を分かりやすく解説する書です。

一般的に私たちは、歴史的事件を陰謀論で理解しようとすることが好きです。歴史的
事件の原因は、私たちにとって霧の彼方に存在するように謎に包まれており、それで
いて結果だけは明白に後世に残されているので、ついついその原因を究明したくなり
ます。

しかも結果から原因を推測するに当たって、我々は知らず知らずに分かりやすさ、
意外性を意識したり、歴史的ロマンを介在させたりしてしまうので、話は陰謀論に傾き
勝ちになるのではないでしょうか?

また歴史を題材とした物語の作者や、歴史的事件を素材として自らの主義主張を
展開したい論者も、受け手のそのような要望に応えるため、あるいは持論を補強する
ために、自然と陰謀論にし勝ちであるように思われます。そして昨今は大衆迎合と
いう意味で、その傾向は更に顕著になって来ているように感じられます。

歴史学者である著者は、歴史をそのように歪めて理解しようとする態度に、学問的
誠実さから警鐘を鳴らし、歴史の正しい理解を広く浸透させるために、本書を執筆し
たと思われます。

本書の具体的な記述に触れると、私はテレビの時代劇でよく目にしている影響か、
第六章本能寺の変以降に、特に興味を覚えました。本能寺の変では、明智光秀が
織田信長を討つに当たり、その単独犯行の動機として、信長への恨みによる怨恨説、
天下を取りたい野望説、光秀の朝廷や室町幕府への忠誠心による勤王家説、幕臣
説が挙げられ、単独で決行するのは無理ではないかという憶測から生まれた、朝廷
黒幕説、足利義昭黒幕説、イエズス会黒幕説、秀吉黒幕説が紹介されています。
そして歴史的資料を駆使して、千載一隅のチャンスに打って出た、戦国武将光秀の
野心と結論付けています。

第七章関ヶ原の合戦では、豊臣秀次の事件から語り起して、秀吉の死後、関ヶ原
合戦に至る経緯を検証し、この合戦が巷に流布しているように、徳川家康が石田
三成を誘導した結果戦われたのではないことも、解説しています。

全体を読んで現代と違い中世の社会では、陰謀を企む当事者にとって、共謀のため
の連絡手段が圧倒的に貧弱であり、従って共謀が成り立ちにくかったこと、また人と
いうものはしばしば過ちを犯すということが実感出来て、印象に残りました。

2020年1月22日水曜日

鷲田清一「折々のことば」1684を読んで

2019年12月30日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1684では
17世紀フランスの公爵、ラ・ロシュフコーの『箴言と考察』から、次のことばが取り上げ
られています。

  智は、いつも、情に一ぱい食わされる。

確か以前に、堀田善衛による『ラ・ロシュフコー公爵伝説』という本を読みました。公爵
であり、人文主義者であった、ということなのでしょう。このことばも、短いながら核心
を突いている、と感じます。

確かに人間は智をそなえた生き物である以上に、情に動かされる生き物なので、この
ような事態がしばしば起こります。私なども、頭ではこうしなければならない、これは
してはいけない、と判っているつもりでもついつい、特に付き合いのある人との関係に
おいては、感情に動かされて判断が鈍ったり、妥協をすることがあります。

でも漱石も『草枕』の中で、次のように語っています。「智に働けば角が立つ。情に棹
させば流される。」つまり、理性的に振舞い過ぎると、周りからは融通の利かない人
だと思われたり、冷徹な人間だと見なされされたりする。また逆に、感情に左右され
過ぎると、状況に流されて判断を誤り、失敗することになる。つまりいずれにしても、
上手く人間関係が築けない、ということなのでしょう。

ではどうすればいいのか?無論、智と情のバランスが肝要ということですが、ここで
かの公爵は、人間において智と情は対等ではなく、気を許すと情が勝るものなので、
その点に十分気を付けて、くれぐれも油断するな、と言いているのです。

特に人と人の結びつきが希薄で、変化の激しい現代社会に生きる我々は、智の方に
少し重心を置いて、情には注意を怠らないことが必要なのかも知れません。



2020年1月20日月曜日

京都観世会館「杉浦元三郎七回忌 追善能」を観て

私が謡、仕舞を習っていた時の先生の師匠であった、故杉浦元三郎師の追善能を
観に行きました。能楽堂で能を観るのは、本当に久しぶりのことです。

故杉浦先生が京都でも有力な観世流の能楽師であったので、その跡を継ぐ豊彦師
が主催するこの追善能も、観世流宗家・観世清和師、京都観世流の名門・片山九
郎右衛門師と、有力者が出演されましたが、この日の演目では何と言っても、豊彦
師がシテをつとめられた能・景清が印象に残りました。

この能のあらすじを簡単に記すると、源平合戦で平家が破れ源氏の世となった後に、
平家の武将であった悪七兵衛景清は、世をはかなみ自ら両眼をえぐって盲目となり、
流された日向で乞食同然の身と成り果てていたところ、その娘・人丸がはるばる訪ね
て来て、父の消息をそうと気付かず変わり果てた本人に尋ねるが、景清は我が身を
恥じて名乗らない。その後里人のとりなしで親子は感動の再会を果たし、娘の頼み
に応じて景清は屋島の合戦での自らの武勇を語り、亡き後の回向を頼んで人丸と
別れる、となります。

この能はシテが体の衰えた盲目の設定となっていて、舞台上に設えられた庵に座し
て最終盤まで身体の動きが少なく、面をつけた顔と上体の最小限の身振り、謡だけ
で複雑な感情を表現することになるので、大変難しい演技が求められます。豊彦師
は見事にこの景清を演じきって、感動的な舞台を現出された、と感じました。

またこの演目を、故元三郎師の子であり、後継者である豊彦師が演じることは、演者
が父に跡を託されたことを示すメッセージであり、息子にとってはその覚悟を余すこと
なく表す、正に相応しい舞台であったと感じられて、深い感銘を受けました。

ただ久しぶりに能を鑑賞して、この演目の中で少し疑問に感じたことは、終盤父と娘
が分かれる場面で、娘が父を振り切って舞台を去るように見えたところで、この曲の
謡本を参照して謡の内容を確認すれば、十分に理解出来ることだとは思いますが、
舞台だけを観ていると、謡の内容は聞き取りにくいところもあるので、そのように感じ
られたところです。

現代の観客に対しては、娘役のツレが舞台を去るまでにもう一度振り返るなど、分か
りやすい演出も、必要なのではないでしょうか。とにかく、久しぶりの能の鑑賞は、私
にとって、大変有意義なものでした。

2020年1月17日金曜日

京都国立近代美術館「ニーノ・カルーソ」展を観て

「記憶と空間の造形」というサブタイトルの付いた、イタリア現代陶芸の巨匠、ニーノ・
カルーソの展覧会を観てきました。

折しも成人の日の当日で、この美術館の近くで式典が開かれていたため、きらびや
かな振袖姿の新成人の女性たちを多く見かけ、気分が華やぎました。

ニーノ・カルーソについては、あまり予備知識がなく、単純に器などの陶芸作品が
展示の中心だと思っていましたが、なるほど器類にも日本の陶芸家の作品とは一味
違う、造形や彩色、地肌の感触を示すユニークなものが見受けられたとはいえ、なん
といっても彼の代表的な作品は、陶製のブロック状の造形物を積み重ねて、古代の
壁面や柱、門などを思わせる建築的な形態を生み出す作品で、それらの作品は造形
のスケールにおいても、他に比類ないものであると、感じまあした。

美術館の1階の展示スペースは、一面の広い空間にこれらの建築的な作品が並べ
られていて、このスペースの作品は写真撮影も許可されているのですが、まるで古代
ギリシャ、ローマの地に迷い込んだような錯覚を覚えます。しかもその感触が、単純
に遺跡に足を踏み入れたように感じられるのではなく、まさに当時のその場所に遭遇
したかのように思われるのは、それらの作品の制作方法が深く関わっているようです。

3階のメインの展示会場の一角に、ニーノ・カルーソ本人へのインタビューを通して、
この陶芸家と作品を紹介する映像が上映されていて、その中に代表作である建築的
造形作品の制作工程が示されているのですが、それによると、発泡スチロールの
ブロックを外形はとどめたまま複雑な形に切り分けて、一つのピースを作り、それを
様々に重ねることによって作品の構想を生み出し、それからそれぞれのピースを
原型として陶製のブロックを焼き上げ、出来たブロックを構想通りに積み上げるという
制作方法が、とられています。

この方法によって生み出された作品には、作者のルーツである古代ギリシャ、ローマ
の記憶が塗りこめられていて、なおかつ未来社会的な合理的で無駄のない形態をも
示しているのでしょう。

この作品展を観て、過去と未来を往還するような、一種独特の感覚を味わうことが
出来ました。

2020年1月15日水曜日

龍池町つくり委員会 65

1月14日に、第87回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

まず、1月26日(日)に開催する、「新春きもの茶話会」について。メニューは、中谷
委員長によるお正月談義、京料理堺萬さんによるお雑煮の振舞い、ちおん舎ご夫婦
によるお点前、龍池カルタなどによるお正月遊び、となっています。

会の段取りとしては、委員は午前9時集合、9時30分受付開始、10時スタート、中谷
委員長の講演が約45分間、参加者には順次お雑煮、お点前の席に入ってもらい、
並行してお正月遊びに参加してもらう、というものです。

また委員長より資料配布と共に、講演内容の説明があり、今回は、「三つ子の魂百
まで」など、よく知られたことわざを介して、私たちの町には、次の世代がより良く暮ら
せる様に、日常の暮らしに先人達の思いが「暮らしの智恵と作法・道しるべ」として
あったこと、昔はどの家にも、物事の善し悪しを計る「心の物指」があって、各家の
方針として大切にされてきたこと、について話されるということです。この内容につい
ては、1月23日の連合会理事会でも出席される町会長などに説明し、各町の住民の
参加を促したいということです。

次に大原郊外学舎の活用方法について意見交換が行われ、京都外国語大学の南
先生からは、来年度よりゼミで活用を検討するという御発言があり、具体的には藤棚
作り、御所南小学生の大原での田植えの校外学習の時に、並行して何か企画を行う
ことなどが提案されました。またゼミ生で郊外学舎に宿泊する時には、シャワー等の
設備を整えてほしいという要望もありました。

郊外学舎の活用では、京都外大の学生さんなど若い力を巻き込んで、龍池学区民
と大原の住民の交流の活性化を図るなど、思い切った取り組みが必要であると、
思われます。

2020年1月13日月曜日

「私の宝物」若尾文子編を読んで

2019年12月25日付け京都新聞夕刊、「私の宝物」では、日本映画の代表的な女優
たちに、「五つの宝物」を通して大切な作品や人との出会いを振り返ってもらう企画
の第1回として、若尾文子にまつわる「宝物」について記しています。

その「宝物」は西陣織の袋帯で、写真が添えられていますが、淡い緑や紫など多彩
な色彩が浮かび上がる金地に、七宝つなぎと花菱の模様をあしらった上品な帯で、
映画で共演した先輩女優、沢村貞子に紹介してもらった東京の呉服屋で購入した
もので、現在も大切に着用しているそうです。

また、若尾が着物の着方を学んだのは、1951年に大映に入社し、53年に溝口健二
監督の「祇園囃子」のヒロインに抜擢され、撮影前に祇園の置屋に住み込んで
役作りをした時で、映画完成後、原作者の作家、川口松太郎に褒められて、祇園で
着物、帯など一式を選んでプレゼントされたのが、初めての自分の着物であったと、
語っています。

私が感銘を受けたのは、着物の魅力について聞かれた彼女が、「洋服はスタイル
が良ければきれいに着られるが、着物は身のこなしで似合うように見えるもの」と
語っているところです。

これは全くその通りだと思われます。元来日本人は、着物が日常の衣服だったので、
自然に着物を着用した時の所作が出来ていましたが、最近は洋服での生活が普通
なので、そのような所作が忘れられている、ということです。

例えば着物は、背中から羽織って、体の前で左右の布を巻き付けて帯で締めるの
で、大きく手を振ったり大股で歩くと、着付けが乱れて、はだけてしまうことになり
ます。また、袴着用時を別として、座る時には左右の膝を合わせて裾に手をあてが
わないと、同じく裾がはだけます。その他にも、前方の物を取るときには、袖に手を
添えるなど、着崩れたり、着物を汚さないためのルールがあります。

そしてそのような所作が、日本人らしい礼儀正しさやしとやかさを、形作っていたの
です。日本の服装から生まれた文化についても、私たちはもう一度、振り返ってみる
ことが必要ではないでしょうか。

2020年1月10日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1674を読んで

2019年12月20日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1674では
文芸評論家・湯川豊の評論『大岡昇平の時代』から、次のことばが取り上げられてい
ます。

  「信じる」ということは、仮定形の上には成
  り立たないのではないか。

大岡の小説『野火』の中の、傷病兵として山中を放浪する一等兵が、疲労と飢餓で
意識が朦朧となり、ふと「神」らしき何かに見られていると感じ漏らした独白、「もし
彼が真に、私一人のために」にふれ、湯川が記したことばだそうです。

極限的な状況の中で、一等兵は何を見たと感じたのか?それは精神的な救いを
もたらすものだったのか?

私は幸い、これに類するような過酷な状況に、未だかつて追い込まれたことがない
ので、そのような状況での心理状態は分かりません。

でも状況を別として、「信じる」ということは、仮定形の上では成り立たない、という
ことは、実感として分かる気がします。

何かを信じる時、人はすでにその対象に、身をゆだねているのではないか?そう
でもしないと、信じることは難しいと思います。

例えば信じやすい人と信じにくい人がいます。信じやすい人は相手や対象を簡単に
信用する人、信じにくい人は疑い深かかったり、客観的に物事を判断しようとする人
であったりするでしょう。

でどちらが正しいかというと、それは状況次第、一概には言えないでしょう。思い
切って信じることが良い結果を生むことがあり、信じないことが自分を助けることも
あります。要は信じるべきか、信じざるべきかの、判断基準を持つことが大切で
しょう。

しかしいずれにしても、信じることは相手の懐に飛び込むことだと、私は思います。

2020年1月8日水曜日

あべのハルカス美術館「カラヴァッジョ展」を観て

以前から楽しみにしていた、カラヴァッジョ展を観に行きました。出品点数が全体で
約40点、そのうちカラヴァッジョ本人の作品が約10点と、数は多くはないのですが、
各作品に「テルマエ・ロマエ」で有名な漫画家ヤマザキマリのイラストや、分かり
やすい解説が添えてあり、ところどころに設置されている、彼を巡る人物相関図の
パネル展示も充実していて、彼の画業の背景や作品世界を十分に味わうことが
出来ました。

この展覧会を観て私がまず知ったのは、カラヴァッジョがたぐいまれな画才を有し
ながら奔放な性格で、短い人生の晩年にはとうとう殺人を犯して逃走するという
スキャンダルを起こし、そしてその自らが蒔いた種による過酷な体験が、かえって
彼の画境を深めるに至る、その複雑な人生模様です。

しかし彼の絵画は、そのような血塗られた人生にも関わらず美しく、いやその波乱
の人生に呼応するように、この画家の内面の揺れ動く情動を画面上に表出して、
観る者に感動を与えずには置きません。

彼のこのような絵画表現が生まれた背景には、彼の生きた当時のイタリアが、
カトリック改革運動の中心地として、宗教意識の高揚のために情熱的で劇的な
宗教画を求め、それに応えるために彼が、劇的な明暗の対比や、写実的で肉感的
な身体表現、訴えかけるような情動の表出という、独自の表現方法を生み出した
という経緯があります。

その絵画表現は当時としてはあまりにも革新的で、美術史上も彼をバロック絵画
の先駆者と見なす評価が定まっているようですし、本展の彼以外の絵画の大半
は、彼に影響を受けた画家たちの作品です。彼が晩年にイタリア南部に逃走した
こともあって、その絵画表現法の影響はこの地に広がり、彼の死後も、ますます
拡散して行ったようです。

また大阪展だけの出品作、「執筆する聖ヒエロニムス」を観ると、カラヴァッジョの
絵画の魅力は、上記のような様式だけではなく、たぐいまれな空間構成力や色彩
感覚によっても、裏打ちされていることが分かります。

2020年1月6日月曜日

正月に我が家の庭で、メジロの写真撮影に成功したこと

自然に恵まれた所にお住いの方には、笑止なことに違いありませんが、町中暮らし
の私としては、お正月から少し幸運に恵まれる体験をしました。それは我が家の
坪庭で、梅の木にやって来たメジロのカップルを、カメラでとらえることに成功した
ということです。

以前からこのブログに書いて来たように、私の家の町中の猫の額のような、ほんの
ささやかな庭にも、数種類の野生の鳥類がやって来ます。その中でも私は、いつも
つがいで訪れて可愛い聲でさえずりながら、梅や椿の枝の間を忙しそうに行き交い、
花の蜜などを探すメジロが好きで、一度写真に撮りたいと思って来ました。

しかし悲しいかな狭い庭なので、この小鳥を視界に収めるためにはかなり近くの
距離まで接近しなければならず、警戒心の強いこの鳥は、こちらがカメラを構える
前に私の存在に気づいてしまって、あっという間に飛び去ってしまうのです。

ですから私は、撮影にチャレンジしようと何回カメラを構え、その都度直前で逃げら
れるという悔しい体験を、繰り返したか分かりません。

しかし今回、正月期間で周囲の雑音も少なく、小鳥たちがリラックスしていたのか、
更には餌を探すことに熱中していて、幸いにも私の気配に気づかなかったのか、私
がカメラを構えて数回シャッターを押しても、彼らはそれに頓着せず、そこに居続けて
くれたのです。そして数分後、初めてこちらの視線に気づいたように、キョトンと首を
かしげて、大急ぎで飛び去りました。

その残像は私の脳裏にしばしとどまり、ほんのささやかなこととは言え心がほのぼの
として、いい歳をしてお年玉をもらったような気分になりました。

2020年1月3日金曜日

伏見稲荷大社へ恒例の初詣

1月2日に、伏見稲荷大社へ初詣に行って来ました。昨年は母の喪中で行けなかった
ので、実質2年ぶりです。

今年は気温もさほど低くはなく、穏やかなお正月でもあり、快適な参詣でした。神社の
人出も、私が行った午後2時頃には比較的少なく、まだしもスムーズに参拝することが
出来ました。

正月の参拝は私にとって、新たな1年に向かっての決意を確認することでもあり、また
過ぎ去った1年を顧みることでもあります。

昨年は仕事の上では、春に東京に出張に行って、まだしも和装業は捨てたものでは
ないという感触を得て、励まされると共に、伝統を守り続けることへの決意を新たにし
ました。また、東京の百貨店での接客を通して、増税後のキャッシュレス還元を見越
して、クレジット決済を導入することにもつながりました。

しかし現実に10月の増税後は、和装が既に必需品ではなく嗜好品になっていること
から、かなりの厳しさを実感しました。とはいえ年末に至って、その影響を徐々に緩和
され、新年には気持ちも新たに、この仕事に前向きに取り組んでいこうという、心を
奮い立たせる思いも、生まれて来ました。

このブログも、始めてから6年目に突入しました。最初は手探りの状態で、何について
発信するか、どれぐらいの頻度で発信するか、戸惑いの連続でしたが、そのうちに
ようやく安定した形が出来上がって、今日に至っています。

また、一体いつまで続けるべきなのかも、折に触れて自問してきましたが、何より私に
取っては書くことが励みになり、更には今日でも一定の数の方がこのブログにアクセス
してくださっているので、続けられる限り続けたいと、今は考えています。皆さんどうぞ
もうしばらく、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。

2020年1月1日水曜日

鷲田清一「折々のことば」1673を読んで

2019年12月19日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1673では
評論家・樋口恵子の『老~い、どん!』から、次のことばが取り上げられています。

   楽しくなくても楽しげに生きるのが、早く死
   んだ人への感謝で供養じゃないかしら。

ようやく両親を見取り、そこからやがて訪れる自身の老いに思いをはせることに
なる私にとっても、味わい深い老後への心得であると、感じました。

お年寄りには、その立場に身を置かない者には想像も出来ない、肉体的、精神的
ハンディキャップがあるはずですが、相当な高齢であっても若々しい人、元気な人
は、往々にその前提としてくよくよせず、朗らかであり、人生に対して前向きである、
という心の持ち方をしておられる人が大半であると、経験上も感じて来ました。

上記の言葉は正に、生き生きとして元気なお年寄りの気概を現わしているように、
私は受け取りました。

勿論まず第一に、肉体的に健康を保っていることが絶対条件でしょう。しかしその
健康を維持する秘訣としては、高齢になると、自覚的な健康管理だけでは十分で
はなく、健康であり続けようとする意志が必要です。

その意志を生み出すのは、生きることへの目的意識であり、楽観的な人生の捉え
方であり、些末なことに囚われない柔軟な心の在り様であると想像されますが、
更には、それらを補強するために、自分は周りの人々に、是が非でも楽しそうに
生きているように見せたいという、いい意味でのやせ我慢を通すことが必要なの
ではないでしょうか。

それこそが、《楽しくなくても楽しげに生きる》ことであり、自分が演じることで、周囲
の人たちも、幸せにすることではないかと、この言葉を読んで感じました。