2023年10月26日木曜日

「鷲田清一 折々のことば」2833を読んで

2023年8月27日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一 折々のことば」2833では 19世紀ドイツの哲学者・ニーチェの『人間的、あまりに人間的Ⅱ』から、次の言葉が取り上げられて います。    所有が所有する。 所有は、個人の自由と独立を下支えするが、ある段階を越えると反転し、所有自体が目的と化して 人を支配しだす、ということだそうです。 確かに人は、生きて行く上で最低限のものは所有していなければならないでしょう。でも文明化して 行く過程で、その最低限のものは増えていったはずです。だから今日では、その最低限の所有物も かなり膨らんでいるのは間違いありません。 でも、その所有を増大させる欲求にはきりがない。これを持てば次が求められ、そこに至れば更に 次のものを欲してしまう。人間とはそのように出来ていて、それが高度な文明を築く前提にもなった はずです。 だけどそのような恒常的な欲求を持っている故に、その欲望が増大しすぎると、人はそのために縛ら れ、身動きがとれなくなるのでしょう。 それ故自分の欲望から離れ、客観的な目で自分を見つめ直すことも必要なのでしょう。無欲の精神、 無一物、無縁の思想の大切さは、そのようなところにあると思われます。

2023年10月17日火曜日

大江健三郎著「懐かしい年への手紙」を読んで

先般なくなった、ノーベル文学賞受賞作家大江健三郎の1987年発行の長編小説です。私は一時大江作品を 愛読していたことがあり、本書はその時期に連なる作品ですが、長編と言うこともあって読むのを躊躇して いたところ、今日に至って彼の訃報をきっかけに、ようやく頁を開くことになった次第です。 しかし実際に読んでみて、改めて今読むにふさわしい作品と感じられたのは、本書が大江の自伝的小説だから です。読者は本書を読んで、現代日本文学を代表する作家の一人である彼の、生まれてからこの時期までの 来し方、文学的精神生活の遍歴を辿ることが出来ます。 ですが難渋さを辞さず、西洋の古典文学に依拠して自らの内面を掘り下げる、この作家らしい文学手法によ って生み出されたギー兄さんという主要登場人物と、作家の分身と思われるKちゃんの関係性が途中まで分から ず、モヤモヤしたものを感じながら読み進めていたのが、ある地点からふとギー兄さん自体も可能性としての 作家自身に他ならないことに気がつき、読了後読んだ本書の付録の冊子で、大江自らインタビューに答えて、 ギー兄さんは、出身地の森に残るという選択肢を選んだ場合の自分自身であるという言葉に触れて、一挙に 物語の全体像が立体感を持って立ち現れた感覚を味わいました。 それほどに見事な構想力を用いて生み出された小説ですが、作家の幼少期から本書執筆までの時期に特に大き な事件として起こり、この物語ではギー兄さんの受難として語られるものは4件、つまり第二次世界大戦中地方 の若者の有力者として、ギー兄さんが徴兵された夫を郷里で待つ妻を、千里眼を用いて慰謝する役目を担い、 敗戦後夫たちの復員に伴い、その欺瞞性をあばかれ辱めを受ける場面、あるいは、Kちゃんが海外滞在中のため に一人取り残された彼の妻が気がかりで訪れた東京で、ギー兄さんが安保闘争のデモに巻き込まれ、頭部に 重い損傷を負う場面、更には、森に地元の若者たちと理想郷を築くことを志しながら、パートナーの女性の 変節に会いギー兄さんが彼女を死に至らしめ、強姦して投獄される場面、最後には、出獄後自らのための美しい 村を作ろうとして、ギー兄さんが自分の所有地に堤防ダム建設を進め、下流域の反対派住民に殺害される場面 です。 すなわち、作家の精神的な部分において、このようなことが起こりえたかもしれないことを体現するギー兄さん という存在を通して、大江は不器用な形であれ、世界の安寧と魂の救済を希求しているように思われます。

2023年10月6日金曜日

「鷲田清一 折々のことば」2802を読んで

2023年7月26日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一 折々のことば」2802では 日本中世史家・網野善彦の『歴史を考えるヒント」から、次の言葉が取り上げられています。    「自由」は……元来は専恣横暴な振る舞    いをするという語義で、専らマイナスの    価値を示す言葉だった。 なるほど、このように考えると、腑に落ちるところがあります。「自由」は元々、勝手気ままな様を 意味し、何にも囚われないというプラスの意味に近いのは、幾重もの世俗の関係をすべて断ち切った という意味での、「無縁」だったと。 現在は「自由」に大変高い価値を見いだしていると思います。「自由」は、何より尊重されなければ ならないというように。 でもこの個人の「自由」を絶対的な前提に置くことによって、責任や義務そして秩序がおろそかに されて、社会が乱れ、不安定になっている部分が確かにあると思います。 もちろん個人の尊厳が、社会的に抑圧されることは好ましくないでしょう。でも「自由」を主張する 個人も、社会的な責任や義務を自覚した上で、それを求めることが必要でしょう。 そのためには、社会は個人の「自由」を絶対的な価値として尊重し、逆に個人は公共の福祉や利益を 重んじるということが必要だと感じます。 それにしても、「無縁」が本来の何ものにも囚われない自由な境地を表すなんて、ちょっと驚かされ ました。そこからゆくと、「無縁」仏も悪いものではないのかもしれませんね。