2020年10月31日土曜日

鷲田清一「折々のことば」1969を読んで

2020年10月20日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1969では 石井あらたの『「山奥ニート」やってます。』から、過疎の山村に私費を投じて障害者支援施設を 設立した、元養護学校教諭・山本さんの次のことばが取り上げられています。    靴に足を合わせるんじゃなく、足に靴を合わ    せなきゃいけない。 この言葉は、今日の社会の息苦しさの原因の一つを、端的に言い表していると感じます。 私たちの暮らしが物質的に豊かになり、国の格付けとしてもいわゆる先進国の一つと見なされるように なるにつれて、私たちは、社会的規範に従うことも求められるようになってきましたが、それは意義の あることとしても、今度は逆にまず規範ありきで、私たち自身がそれに縛られていると感じられるよう になったと、私は思います。 その結果、こうでなければならない、このようにふるまわれなければならない、という規範が先行して、 私たちはそれに合わせるために、きゅうきゅうとしているように感じられます。これがこの社会の息苦 しさの要因の一つではないでしょうか? あるいは、社会が成熟して流動性が失われ、人生の過程の一つのところで失敗をすると、もう取り返し が着かないとというような危機感も、このような人の生活を形にはめる社会の在り方と、無縁でない ような気がします。 そのような社会の空気の中で、そこから一歩踏み出すことは、とても勇気のいることではありますが、 でもある意味、このような規範に従うことは、私たち自らが、自分自身をその枠にはめていることでも あると、思われます。 この境界を踏み越える気概を得るために、私も日夜、研鑽を積んで行きたい、と思います。

2020年10月27日火曜日

小暮有紀子著「タイガー理髪店心中」を読んで

表題作で第4回林芙美子文学賞を受賞、この作品で作家デビューした新人の初の著書です。しかし、 新人作品の新鮮さのみならず、その研ぎ澄まされた独特の感性と描写法に、思わずのめり込みそう なほど、引き込まれました。 本書所収の2編に共通するのは、変わらぬ日常を営む老齢の夫婦の間に、ふと兆す心の闇を読者に のぞき込ませることです。そしてその闇の中には、夫婦の根幹をなすものが隠されていることです。 「タイガー理髪店心中」は、二人で理髪店を営む高齢のおしどり夫婦の妻が、認知症を発症する ことを契機として、子供の頃に事故で失った一人息子への哀惜の念を蘇らせ、その過程でこの事故 の原因を作ったのが夫のある行為であることから、夫婦の長年心に秘め鬱屈させていたものが、 一挙に白日の下に晒される話です。 ここで重要なのは、妻がとった常軌を逸する行動は、あくまで日常の精神状態を離れたところに 発するものであり、読者は、ここにあたかも死んだ息子が母を呼ぶような不気味さと、一方、妻の 潜在意識の中に長年堆積して来た、夫へのやり場のない憤懣を同時に感じ、切なさに囚われること です。 他方夫は、息子の死が自分の子供の頃のいじめの行為に、端を発することを知りながら、妻には 隠して来た事実が、他ならぬその妻に暴き出されて、息を呑むと共に、自分の悪意に気づきます。 最後に描かれるのは、これを機に認知症の更に進んだ妻との変わりない日常ですが、この出来事を 切っ掛けに、夫婦の関係性は確実に変わるはずです。 もう1篇「残暑のゆくえ」は、地方の工業地帯の町で、アパートと食堂を営む再婚同士の老夫婦の 生活を妻の視点から描き、夫の日常の行動や妻の幼時の回想などから浮かび上がる、先の大戦の 敗戦時、満州からの引き揚げを巡る凄惨な体験が、この夫婦を深いところで結び付けていること を、妻に気づかせる話です。 この場合、夫の奇怪な行動を妻が許容すことが出来るのは、妻も同様の心の闇を夫と共有している からに他ならないと思われます。この物語の後二人の絆は、更に深まったに違いありません。 2編とも、高齢化社会に向けた老々介護の問題は言うに及ばず、夫婦関係というものが、長年連れ 添いながらも、なお不可解さを残すものであり、それはとりもなおさず、人間存在そのものが謎に 包まれたものであることを、改めて読者に示してくれる話であると、感じられました。

2020年10月23日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1955を読んで

2020年10月5日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1955では 詩人時里二郎の「池内紀さんの戦後二十年」から、独文学者池内が講演の折に語った、 次のことばが取り上げられています。    これほど豊かになって、これほどしあわせに    ならなかった国はめずらしい。 重い言葉であると、感じます。 敗戦後の焼け野原から、文字通り豊かさを求めて、日本人は懸命に働き、この国に今日の 経済的繁栄をもたらしたでしょう。 私も直接に戦争を知らず、衣食住が豊かになるのと轍を同じくして、成長しました。その 過程で、勿論色々な個人的な悩みはあったけれども、相対的には恵まれた時代であったと、 今になては実感します。 でもここに来て周りを見回してみると、経済的には世界における日本の相対的地位の低落 が言われ、少子高齢化による社会的活力の衰退が懸念され、貧富の格差の拡大が囁かれ、 また核家族化や地域社会での人間関係の希薄化による個々人の孤立化が、更には高度情報 化社会となって、ますますその傾向を強め、気が付けば随分息苦しい社会に、私たちは 暮らしているのだと、感じさせられます。 私たちは世界の国々の中で十分に豊かな国となり、そこではたと気付けば、その代償と して多くの伝統や精神的な遺産を失い、そこに輪をかけて、今度は獲得した豊かさを失う ことを恐れている。そのように感じられます。 一朝一日にこの現実を覆すことは出来ないけれども、少なくとも、経済的な豊かさと効率 を至上とする価値の見直しを、進めなければならないと、思われます。

2020年10月19日月曜日

全卓樹著「銀河の片隅で 科学夜話」を読んで

科学的知見に満ち、理路整然としながら、仄かな抒情を湛える、不思議な肌触りの本です。 ほとんどの話が、科学音痴の私にとっては、目から鱗が落ちる思いがしますが、特に印象に残った数編を 以下に記します。 まず、『ベクレル博士のはるかな記憶』、パリ自然史博物館の主席研究官アンリ・ベクレルは、レントゲン の発見したX線が、蛍光物質を塗った紙を光らせることをヒントにして、太陽光を当てると蛍光を発する、 ボヘミアグラスの緑の発色に使われていた、「ウラニウム塩」に注目します。 そして実験を重ねて、ウラニウム塩が自分自身で自然の放射線を放っていること、同じ科学者である父親 からかつて聞いた逸話をヒントに、その放射線は、平行に離れて置かれた感光紙をも、感光させる作用を 及ぼすことに気づきます。こうして彼は、ウラニウム放射能を発見したのです。 後に人類の歴史に、過大かつ取り返しのつかない影響をもたらすことになる放射線が、一人の科学者の 個人的着想、記憶から生み出されたこと、そして彼自身が、放射線強度を示す「ベクレル」という単位に 名を残しながら、放射線の犠牲となって、短い生涯を終えたことが、余韻として残りました。 次に『付和雷同の社会学』、数理物理学的社会学の学者ダンカン・ワッツ博士が、ネット上に音楽ダウン ロードのサイトを作り、約1万5千人を対象に、対象者に気づかれないように9つにグループ分けをして、 18組の新人アーチストグループの48曲を評価してもらう実験を行います。 グループ内の他者の評価ランクが見られない1グループと、見られる8グループを作り、それぞれのグループ の評価結果を見ると、他者の評価が見られないグループより、見られるグループの評価が偏り、しかも全 グループに共通の評価の高い曲、低い曲があるものの、各グループ固有の評価が高い曲があることが分かり ました。 これにより、人は往々に他者の評価が高い曲を好む傾向があり、またその過程で、偶然が作用するという ことが証明されたということです。人間の行動傾向が、数理的な実験で解明されたことに、驚かされました。 最後に、『分子生物学者、遺伝的真実に遭遇す』。ノーベル賞分子生物学者ポール・ナース博士は、 アメリカの永住許可証の申請の折に、自分の出生証明に不備があることを知り、初めて戸籍上の自分の姉が 実の母親であることに、気づきます。姉が未婚の母になることを防ぐために、両親がそのような計らいを したと分かるのです。 遺伝子の研究で多大な業績を上げた博士が、自らの出生の謎を知るために、実の父親探しの新聞広告を出し た、という話です。先端科学では解明出来ない、生身の人間の感情的な営為との対照が、面白かったです。 その他、アリの集団的行動の考察も、興味深く感じました。各話に付されている挿絵も、洗練され、魅力的 でした。

2020年10月15日木曜日

鷲田清一「折々のことば」1952を読んで

2020年10月2日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1952では 英国在住のエッセイスト・入江敦彦の『英国ロックダウン100日日記』から、次のことばが取り上げ られています。    経済回せ、経済回せていうけどさ、ない袖は    振れませんがな。倹約しておかないと、それ    でなくとも先行き不安なのに。 少しコロナ禍が落ち着いて来たと思ったら、そういえばいつの間にか、我が国でもgo toキャンペーン を筆頭に、経済回せの声が、次第に大きくなって来ました。 確かに、旧来の日本人のものの考え方では、入江の語るように、まずは倹約して生活防衛でしょう。 それでなくても、さしあたり必要なものは、我々は買い求めているのですから。 しかしそう言われれば、経済回せの掛け声に、さほど違和感を感じない私たちもいます。それはどう してでしょうか? 我々が生活者の視点と経済活動の推進者の視点を、併せ持っているから?そう考えると、私たちは よく言えば以前より視野が広くなったとも言えますし、悪く言えば消費社会に毒された、と言えるの かもしれません。 でもいずれにしても、政府やマスコミの音頭取りに、振り回されていてはいけないでしょう。大切な ことは、コロナ禍の自粛でストレスが蔓延する社会環境の中で、何が本当に必要かを正しく判断して、 倹約しながら賢く消費することが肝要でしょう。 そして私たちのようなものを販売する立場の人間は、このような厳しい状況の中でも、お客様に選んで 頂ける商品を準備出来るように、日々研鑽を積むしかありません。

2020年10月12日月曜日

大木毅著「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」を読んで

第二次世界大戦というと、私たち日本人には日米間の戦い、あるいはアジアでの侵略戦争のイメージが 強く、もう一方の主戦場ヨーロッパについては、ナチスのユダヤ人に対する蛮行の衝撃はあっても、何 か対岸の火事の印象をぬぐえません。それで独ソ戦という、私にとっては新鮮な切り口の本書を手に 取りました。 読み進めると、軍事専門家である著者の、俯瞰的視点から刻々と移り行く目まぐるしい戦局の展開を 丹念に捉え、迫真の描写で戦闘を再現するさすがの筆さばきに思わず息を呑みましたが、次第にこの 史上まれな凄絶な戦争に、怒りと絶望感がこみ上げて来ました。この戦争のイメージは、サブタイトル にもあるように、正に絶滅戦争です。 ヒトラーにとっては、ナチズムを貫徹するための共産主義者撲滅を目指す「世界観戦争」であり、 ナチスを熱狂的に支持するドイツ国民と軍隊を養うための「収奪戦争」でした。他方スターリンに とっては、ナショナリズムと共産主義体制支持を合一させる「大祖国戦争」であったのです。 イデオロギーとイデオロギーのぶつかり合いの凄惨さは、筆舌に尽くしがたいものでした。軍人のみ ならず民間人の皆殺しも辞さず、略奪、破壊の限りを尽くし、戦場は焦土と化す。余りにも救いのない 戦争でした。 では、この絶望的な戦争の起因から結果までで、私たちが学びえることは何でしょう?まず、なぜ狂信 的なナチスがドイツ国民に支持され政権を獲得し、戦争を遂行するに至ったか、です。 第一次世界大戦の敗戦で多額の債務を負い、困窮したドイツ国民にとって、ゲルマン民族の優越を唱え、 ユダヤ人、他国民を犠牲にしても自民族の生活水準を優先するヒトラーの政策は、心地よかったで しょうし、それゆえ国民はこの戦争を支持し、末期に至っても、反戦の機運は生まれなかったので しょう。 他方、強権的な政治でソ連国民を支配していたスターリンは、ドイツに進行されることによって、国民 のナショナリズムとイデオロギーの融合に成功し、反攻後は、戦後の勢力圏の拡大を見越して、容赦ない ドイツ国内への侵略を行使しました。単一のイデオロギーによる国民統合の恐ろしさを、決して忘れては ならないでしょう。 著者は独ソ戦こそが、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の趨勢を決したものであり、この大戦自体を 象徴するものであるという旨のことを語っていますが、大量の兵器が投入され、近代兵器を駆使して、 民間人も含めて、夥しい命が容赦なく奪われたという意味において、正にそうであったでしょう。 我が祖国日本も、東アジアで侵略を繰り返し、この狂気のナチスと同盟を結んだという事実において、 決して他人事ではないと、肝に銘ずるべきです。

2020年10月9日金曜日

朝日新聞「日曜に想う 抗議のマスクと一編の詩」を読んで

2020年9月27日付け朝日新聞朝刊「日曜に想う」では、編集委員福島申二による「抗議のマスクと一編の詩」と 題したコラムが、掲載されています。 これは先日開催されたテニス全米オープンで、大阪なおみ選手が、米国内で警察官などの暴力によって命を 失った、黒人被害者の名前をそれぞれに記した、初戦から決勝戦までの7枚の黒いマスクを用意し、それらを 全て着用して見事に優勝を飾った快挙にちなみ、川崎洋、スーザン・ソンダグ、石川逸子、チャプリンの詩や 著書、映画の中の言葉を絡めて、反差別や人間の尊厳について考察する文章です。 この中で特に私の印象に残ったのは、大阪選手がそれぞれの犠牲者の名前を記したマスクを試合会場で着用し ながら、反差別を声高に主張するのではなく、彼女の姿を観た観衆が各々にその意味を考えてほしいという スタンスで臨んだことで、この抗議の姿勢こそ、観衆にこれらの暴力事件の意味を自らに引き付けて考えること を促し、事態の深刻さを我がこととして省みる契機を与えた、と思われるからです。 今回の黒人に対する一連の暴力事件の抗議活動が、一部で先鋭化、暴徒化して、暴力が暴力を生む事態になって いることを鑑みても、大阪選手の1人1人の犠牲者の名前を挙げた、反差別、反暴力のこの抗議活動は、良識ある 人々の共感を呼ぶものであると、感じました。 同時に日本国民でもある大阪選手が、私たち日本人に米国での黒人差別を、対岸の出来事と他人事に見るのでは なく、だれも目を逸らすことの出来ない普遍的な人権問題として、考える機会を与えてくれたのではないかとも、 感じました。

2020年10月6日火曜日

鷲田清一「折々のことば」1942を読んで

2020年9月22日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1942では 人類学者ティム・インゴルドの『人類学とは何か』より、次のことばが取り上げられています。    これほど知識が溢れているのに、それが知恵    に結びつかない時代は、実際これまでの歴史    にはなかった。 確かに現代は、パソコンやスマートフォンで検索したら、知らない単語の意味をたちどころに見つけること が出来ますし、色々なものの作り方、道具の使用方法なども、表面的には知ることが出来ます。 しかし、それは往々に一過性の知識になってしまって、右から左へと通り過ぎてしまい、後には残らないと いう現象が、しばしば見られるように感じます。 それはすなわち、これから生きて行く上に必要な、知恵には結びつかない、ということではないでしょうか? なぜこのようなことが起こるかというと、我々はあまりにも簡単に知識が得られるために、その知識そのもの を軽視してしまって、またすぐに手に入れることが出来ると、安易に考えてしまうのが一つ。 もう一つは上の説に密接に結びつきますが、その知識を知恵を絞ってようやく獲得した訳ではないので、 逆説的に当の知識が知恵に結びつかない、とも言えると思います。 更には、膨大な知識が世の中にあふれていて、我々はとてもそれらを処理出来ない、ということもあるのかも 知れません。 やはり知識は、苦労して手に入れた方が生きるための知恵ともなり、更には獲得した知識を繰り返し身内に 刻み込むことによって、血肉となるのではないでしょうか? この言葉を読んで、ついつい分からないことをパソコン等で安易に検索して、事足れりとしている自分の日常 を、反省させられました。

2020年10月3日土曜日

谷崎潤一郎著「痴人の愛」を読んで

谷崎の代表作の一つで、あまりにもよく知られた作品ですが、私は本書を読んで、現代社会に生きる人間と して、巷に伝え聞かされて来たほどのセンセーショナルさは感じませんでした。 勿論この作品が発表されてから、今日まで95年余りの時が経過し、その間に第二次世界大戦の敗戦や高度 経済成長、情報社会化の進展という大きな価値の転換もあって、社会における男女の役割、位置づけも かなり変わって来ているので、当たり前と言えば当たり前なのですが、むしろ悪魔的側面はあるとはいえ、 わがままで自らの欲望に忠実なナオミという女性に、現代的な女性像に内在する、一つの要素を感じたの だと思います。つまり、因習や社会的規範に囚われない、自我を確立しているという意味で。 こういう視点から見ると、彼女に翻弄される主人公河合譲治は、自身の被虐性愛的性向もあって、しかも 経済的に困窮している訳ではないので、ある意味満ち足りているようにも感じられます。従って、この物語 を愛欲の地獄に陥る哀れな男の、結末を描く話として読むのでないとすれば、そこから浮かび上がって来る のは、男女の愛情の変遷を追う物語ということになるでしょう。 15歳のナオミをカフェで見出した譲治が、彼女を自分の好みの女性にするために教育し、ものを買い与え、 当初は保護者と子供のような関係であったものが、彼女が成長して、美しい容貌と官能的な肉体を獲得する に至り、譲治の彼女への恋情は、愛情から崇拝へと変わって行きます。それに合わせてナオミの彼への愛情 は、保護者や尊敬する者に対するそれから、自分に跪拝する者へのそれと、変わって行くのです。 しかし、ここで忘れてはならないのは、このような愛情と力関係の逆転現象が起こっても、彼女もなお、 譲治を愛しているに違いない、ということです。 本書を読んでいて、私が最も惹きつけられたのは、彼に乱行がばれて家を一端追い出された後、ナオミが 悪びれるでもなく戻って来て、あの手この手で彼をじらし、誘惑する場面で、このシーンには、男女の倒錯 した愛情の駆け引きが、美しく官能的に描き出されていると、感じられました。 一見、特異な男女の愛憎の物語でありながら、それが人間の異性間の関係の普遍的な部分まで描き切って いるところに、本作品の不朽の名作たる所以があると、感じました。