2016年1月31日日曜日

新春きものde茶話会開催

本日、1月31日に龍池学区町つくり委員会委員会主催、「新春きものde茶話会」
が開催されました。

まず私事ながら、この催しに参加するために久々に着物を着ました。和装業界に
いるのに、お恥ずかしい次第です。さて大島紬のアンサンブルを着用したのですが、
久しぶりに着てみると、着物は紐と帯で腰回りは締めますが、衿や袖口は比較的
開放的なので、体になじんでくるとゆったりとした気分を味わえます。

ただ裾の部分は洋服ほど開かないので、慣れないと歩きづらく感じます。今日は
下駄を穿いて行ったので、舗装された道を歩くのに随分難儀しました。次回は
草履でも穿こうかと思いました。

さて会場で着物を着る人も含め、参加者は着用後マンガミュージアム2階の和室で、
まず中谷委員長より京都の正月行事の説明を受け、
人数も多かったので、
外国人の参加者と地元からの参加者に分かれて、それぞれに和菓子と抹茶の
接待と、京料理堺萬さんの伝統的な白みその御雑煮を味わいました。
最後に
杉林さんのカルタ遊びのデモンストレーションが行われて、お開きとなりました。

20名余りの外国人の親子の参加者もあり、スタッフも含め60人ほども参加して
頂きました。特に外国人の参加者は、実際に着物を着用するという貴重な体験も
出来て、十分満足していただけたようです。

この催しへの認知度も着実に広がっているように感じられますが、さらに学区内
からの参加者を増やすことが、これからの課題になります。

2016年1月29日金曜日

三浦綾子著「塩狩峠」を読んで

久々に真っ向からの直球勝負の小説を読みました。そして期待通りの深い
感動を得ました。心の隅では、今さらながらという思いもなくはなかったのですが、
いやはやさすがでした。

三浦綾子の他の小説は読んだことがなく、浅学にしてその名前ぐらいしか知り
ませんでしたので、あくまで推測の域を出ませんが、この小説が当初、キリスト教
信徒向けの雑誌に連載することを目的として執筆されたということが、本作を貫く
宗教的信念に絶対的な光輝を与えているに違いないと、感じました。

しかしそれにしても、特定の価値観の人々を対象にして書かれた小説が、結果と
して広く世間に大きな感動と共感を呼んだということは、三浦綾子という人の
ゆるぎない信仰観と無私な人柄、そして自分の思いを珠玉の名作に結実させる
たぐいまれな筆力によるところが大きかったと感じました。そういう意味でも特異な
条件が揃い、初めて成り立った小説と感じさせられました。

さて本作は母親のキリスト教信仰を理由に、幼少期を母から引き離されて育った
主人公信夫が、以降の人生の様々な出来事を通して、次第にキリスト教への
不信を解き、最後はゆるぎない信仰心を獲得して、塩狩峠で逆走する客車を
身を挺して停車させることによって、結果として自らの命を犠牲にして、多くの
乗客の命を救うという物語です。

このキリスト教信仰に絶大な信を置く小説に奥行きを与えているのは、私のような
ごく一般的な人間の尺度からすれば、驚くほど高潔な心の持ち主の信夫が、
それでも肉欲や猜疑心に囚われることのある弱い面を持っていることで、最終の
場面での自己犠牲という結果も絶対的な結論ではなく、内面の問いかけの中で
生まれたということです。著者は血の通う生身の人間の中にキリスト教信仰を
描こうとしたと、感じました。

さて執筆後50年余りが経過したこの小説が、現代の読者に語りかけるものは何で
しょうか?先進国といわれる国々の中では、価値観の多様化、情報の氾濫によって
宗教心は希薄になり、利己的で、合理的なものの考え方が幅を利かせています。
しかし私たちが今なおこのような小説に心を動かされるということは、我々の心の
奥深くには、心を謙虚にして他と向き合う姿勢や、自らを顧みる以上に他を思いやる
という人間の美点が、生き続けているのではないでしょうか?

心の中のそんな部分を時として省みるためにも、このような小説を読んでみる
意味があると、はなはだ生意気ながら感じました。

2016年1月27日水曜日

漱石「門」における、坂井が宗助に語る自身の弟の消息

2016年1月26日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第八十回)に、坂井が自分の弟の人となりと消息について語る、次の
記述があります。

「主人は卒然「冒険者」と、頭も尾もない一句を投げるように吐いた。

 「それから後私もどうしたか能く知らなかったんですが、その後漸く聞いて
見ると、驚ろきましたね。蒙古へ這入って漂浪いているんです。どこまで
山気があるんだか分らないんで、私も少々剣呑になってるんですよ。・・・」」

一攫千金を狙う坂井の弟は、満州へ渡り、事業に失敗して、蒙古へと流れて
行ったようです。しかしこの当時の人々にとって、満州や蒙古とはどんな
イメージのところだったのでしょう。

現代の私たちも、テレビで中国東北部やモンゴルの雄大な景観の映像を観て、
身近な世界とは異質の遥かな大地の広がりに、思わずため息をつきそうに
なります。しかしこの頃は無論今日のようなビジュアルの情報もなく、人々は
訪れた人からの伝聞や、写真でしか、想像を巡らすすべもなかったでしょう。

明治維新後、日本は急激に近代化を進め、日清戦争、日露戦争、朝鮮併合と
大陸での地歩を固めて行きます。国内の庶民にとっても、その地は我が国が
影響を強めて行く、将来性のある土地というイメージはあったと、推測されます。

しかし海のものとも山のものとも分からない土地。訳ありの人間が夢を追い
かける地、さしずめそんなイメージではないでしょうか?

少なくとも、東京の崖下のじめじめした土地に、隠れるように慎ましく暮らす
宗助たちにとって、自分たちの生活とは対極をなすような、見知らぬ異国の土地
でしょう。

2016年1月25日月曜日

京都国立博物館 平成知新館「琳派京を彩る展」を観て

琳派誕生400年記念に相応しい、国宝、重要文化財目白押しの、何とも贅沢な
展覧会でした。

大別すると、本阿弥光悦、俵屋宗達の琳派第一期、尾形光琳中心の第二期、
酒井抱一を筆頭とする第三期と、時系列に沿った展観となっていますが、
周知の通りそれぞれ17世紀、18世紀、19世紀と100年余りの時を隔てて、
文字通り琳派のエポックが出現していることになります。

まず琳派400年の根拠ともなる光悦が洛北鷹ヶ峰に徳川家康より所領を得て、
工芸村を作った頃の展示を観ると、彼が刀剣の鑑定、研磨を本業とし、職人
とのやり取りなどそのノウハウを活かして、次第に諸工芸の分野に活動の幅を
広げて行った様子が見て取れます。特に光悦の黒楽、赤楽茶碗は、400年近い
時を経ても無論決して古びることもなく、深い精神性と先鋭的な美意識を感じ
させ、彼の天賦の才を彷彿とさせます。

その光悦がもう一人の天才宗達と出合って、琳派は一気に花開きます。宗達は
扇子屋として出発したということですが、彼の生まれつきの画才と、扇面に
構図を付けることによって研かれた優れたデザイン感覚によって、琳派様式の
芸術を完成させます。

光悦、宗達の合作で目を引いたのは、重文「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」で、
宗達が料紙に群れ飛び、佇む多数の鶴を金銀泥で描いた上に、光悦が三十六
歌仙の歌を墨書しています。その洗練された優美さは、一つの到達点として
他の追随を許さないものがあります。

光琳の出自は高級呉服屋で、職業柄も当時の文芸の粋を身に付けたといい
ます。彼の活躍した時代の社会情勢、彼自身の好みもあってか、光琳の生み
出した絵画は、宗達と比較して優雅さ、きらびやかさを増したように感じられます。
光琳と弟の陶芸家乾山との合作の器にも、光悦と比べて雅た佇まいが宿ります。

抱一に至ると活動の主舞台が江戸ということもあってか、その洒脱さが印象に
残りました。彼と蒔絵師原羊遊斎合作の工芸品には、匂い立つ江戸の粋が感じ
られました。

さて本日の目当ての宗達、光琳、抱一、三組揃った風神雷神図屏風。三組が描か
れた時期の時の隔たりもあり、模写というかたちで継承されて行ったという条件も
ありますが、私には宗達作がより重厚で神秘的、光琳作はおどろおどろしくインパクト
があり、抱一作にパッと明るい軽みが感じられました。

観終えて満足と充実感と共に、軽い疲労も感じる、盛り沢山の展観でした。

2016年1月22日金曜日

漱石「門」における、宗助の坂井への思い

2016年1月22日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第七十八回)に、宗助が大家の坂井に対してどんな感情を抱いているかを
記する、次の文章があります。

「宗助はこの楽天家の前では、よく自分の過去を忘れる事があった。そうして
時によると、自分がもし順当に発展して来たら、こんな人物になりはしなかった
ろうかと考えた。」

宗助と坂井はまったく現在の境遇や気性が違うのに、どうして気が合うのだろう
と、これまでこの小説を読みながら薄々疑問に思って来ました。でもこの文章で、
少し分かった気がしました。

宗助には坂井の嫌みのない楽天家ぶりが、心地よいのでしょう。そしてもしも
自分がこれまでの人生で過ちを犯さなければ、坂井のような人間になっていた
かもしれないと感じるのは、彼の気性に自分の本来の性格に通じる親近感を
抱いているのに、違いありません。

でもここで、宗助が坂井に親しみを感じる前提として、彼が坂井との生活水準の
格差を決して妬ましく思っていないこと、また自分のしでかした過ちを、少なくとも
御米に対しては後悔していないこと、が挙げられると私は推察します。

それが宗助の性格の美質であり、それゆえ彼は坂井と話していて、心が落ち着く
のだと、今は感じられます。

2016年1月20日水曜日

京都市美術館「フェルメールとレンブラント 世界劇場の女性展」を観て

メトロポリタン美術館、ロンドン・ナショナル・ギャラリー、アムステルダム
国立美術館のコレクションを中心に、黄金時代といわれる17世紀オランダ絵画を
展観する美術展です。女性を描いた絵画に脚光を当てる展覧会でもあります。

今年は京都では琳派400年ということで、美術展を始め様々な催しが行われて
いますが、くしくもオランダ絵画の黄金期と重なり、洋の東西二つの地点で、
同時期に芸術が花開いたということに何か奇縁を感じます。フェルメールを中心に、
今年当地でこの時代のオランダ絵画展がいくつか開かれているのも、その関連に
よるのでしょう。

さて本展では、フェルメール「水差しを持つ女」とレンブラント「ベローナ」が中心の
作品とされていますが、さすが黄金期の絵画とあって他の作品にも見ごたえの
あるものが多くありました。

まず日頃見慣れぬ絵画として、Ⅱー3建築画家のパートに展示されていた
ピエール・サーンレダムの2作品、この画家は実寸を縮尺して正確に再現した
建造物を描くといいますが、そのような描写方法でありながら画面に美しい
余韻と詩情を醸し、一見生硬に感じられるものが実は理知的な輝きを演出して
います。

Ⅱー4海洋画家たちのパートのファン・ヴィーリンゲン「港町の近くにて」も、停泊する
帆船の姿が機能的でなおかつ美しく、海洋国家オランダの時代の息吹、船という
乗り物がまだ強く抒情性を体現した頃を思い出させてくれます。

今や西洋絵画の代表的ジャンルの一つとなった静物画を展示する、Ⅱー5
静物画家たちのパートでは、果物や食材、食器をいかに美しく存在感があるように
描くかということに情熱が注がれ、時代の栄華が透けて見えます。

フェルメールの「水差しを持つ女」は、独特の光の表現法による時の流れを一瞬の
中に閉じ込めたような画面が、他の追随を許さない光輝を発散させていますが、
決して声高に主張することはありません。

レンブラントでは「ベローナ」の気品ある存在感よりも、彼に帰属する「マルハレータ・
デ・ヘールの肖像」に今日は心惹かれました。この作品は恐らく初老の女性の
肖像画で、荒いタッチで素早く描かれていますが、後期の彼の作品特有の人生の
苦渋を知り尽くした諦観に充ち、内省的な表情に思わず惹き込まれます。

最後の展示作品アルノルト・ハウブフーケン「イビネイアの犠牲」の説明書きで、この
オランダ絵画の黄金時代の終焉が提示された時、それまでの展観が充実していた
だけに、何とも言えぬ寂しさが込み上げて来ました。

2016年1月18日月曜日

鷲田清一「折々のことば」280を読んで

2016年1月14日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」280に
評論家吉田秀和の「私の時間」から、次のことばが引かれています。

 くりかえし製作すべきでもなければ、同じ人間がやたらくりかえして見る
 べきではない「記録」というものもあるのである。

私がこのことばから思い浮かべたのは、テレビなどで同じ映像を繰り返し
見せられるのはある意味恐ろしい、ということです。

というのは、サブリミナル効果とでも言いましょうか、繰り返し見せられる
映像は、人の心にある感情や思いを強制的に刷り込むことがあると、
感じるからです。

例えば、ある事件の被疑者の憎々し気な言動が、繰り返しテレビで
流されることによって、私たち視聴者は知らず知らずのうちに、その人物が
犯人に違いないと、決めつけかねないような気分に陥ることがあります。
そのような報道は場合によっては、世論を間違った方向に誘導してしまう
こともあり得ます。

またテレビ画像を繰り返し見せられことによって、食傷してしまうことも
あります。

この場合は例えば、オリンピックなどの競技会で日本人選手が金メダルを
獲得した瞬間を、余りにも繰り返し放送するので、かえって感激の余韻が
薄れてしまって、うんざりするというようなことです。

私たちはこのような過剰を克服する対策として、とりあえずは繰り返される
映像を心の目を閉ざしてやり過ごすことも、必要なのではないでしょうか?

2016年1月16日土曜日

漱石「門」における、宗助の心を彩る、御米との運命的な出会いの印象

2016年1月13日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第七十二回)に、宗助が初めて御米と言葉を交わした時の、運命的な
出会いを予感させる印象的な情景を記する、次の文章があります。

「 宗助は二人で門の前に佇んでいる時、彼らの影が折れ曲がって、
半分ばかり土塀に映ったのを記憶していた。御米の影が蝙蝠傘で
遮ぎられて、頭の代りに不規則な傘の形が壁に落ちたのを記憶して
いた。少し傾むきかけた初秋の日が、じりじり二人を照り付けたのを
記憶していた。御米は傘を差したまま、それほど涼しくもない柳の下に
寄った。宗助は白い筋を縁に取った紫の傘の色と、まだ褪め切らない
柳の葉の色を、一歩遠退いて眺め合わした事を記憶していた。」

リズムを刻むように、「記憶していた。」が繰り返される詩的な文章です。
またこの言葉の連なりは、読んでいて情景や色彩が眼前に浮かんでくる
ような、絵画的な文章でもあります。

まるで時が止まったかのような初秋の午後、その場所に二人佇む男と
傘を差した女の影が、折からの日の光に縁どられながら、壁に遮られて
折れ曲がった不自然な形状で刻印されている。女の鮮やかな傘の色と
柳の葉の緑がコントラストをなして、妙になまめかしい・・・。私はすぐに
シュールレアリスムの絵画を連想しました。

不吉な予感を伴いながら、宗助の心に恋の芽生える瞬間を写し取った、
秀逸な文章であると感じました。

2016年1月13日水曜日

鷲田清一「折々のことば」273を読んで

2016年1月7日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」273に
谷崎潤一郎の短編「刺青」から引いた、次のことばが取り上げられています。

 それはまだ人々が「愚」と伝う貴い徳を持って居て、世の中が今のように
 激しく軋み合わない時分であった。

すべて計算高く、個人の利を追い求める社会、あるいは無駄なく、合理的で
あることに高い価値を置く現代の私たちの暮らす社会にあっては、損をする
ということや、役に立たないことは、忌み嫌われます。

しかし物事には損をして得を取るということが、往々にしてあるものです。
そのようなことは、概して表面的には見えなくて、また性急には答えが
出なくて、後から考えると結果としてそうであったという場合が多いと感じ
られます。つまり表層的な合理性の追求だけが、社会をより良くして行く
のではないでしょう。

同様に、共同体における人と人の関わり、個人の生き方についても、
現代社会においては、無駄のない社会関係、羽目を外さない人生を過ごす
ことを、暗黙の裡に世間が強く求めるプレッシャーが、確かに存在するように
感じられます。

しかしそのような社会はぎすぎすして息苦しく、人の感情の突然の暴発と
いうことも起こりやすいように思われます。それは決して健全な状態では
ないでしょう。

たまにはバカも許される、ある程度の失敗や回り道も温かい目で見守られる、
一人一人が心に少しづつ余裕を持つことによって、そんな社会を育むことは
出来ないものでしょうか?



2016年1月10日日曜日

鷲田清一「折々のことば」272を読んで

2016年1月6日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」272に
司馬遷の「史記」から引いた、次のことばが取り上げられています。
 
 桃李不言下自成蹊

「桃李もの言わざれども下自ずから蹊を成す」ということで、徳のある人の
下には自ずから人が集まるという意味だそうですが、私は以下のような
ことを考えました。

つまり最近は情報化社会ということで、自分の実力や商品の価値以上に
何にしても言葉巧みに宣伝して、世間や顧客に認められようとする傾向が
強いように感じられることが多々あります。

確かにこのような時代には、自ら情報を発信して、広くその情報を求める
人々に認知してもらうことも大切でしょう。でもそれが度を越すと、何か
不信を抱いてしまうこともあるように思うのです。

本来は自身の人間性を磨き、あるいは製品の品質やサビースを充実
させた後に、控えめな情報を発信して、人が評価して集まってくれるに
任せる。そうあるべきなのではないでしょうか?

余りにも理想論、古臭い説教調かも知れませんが、私は上記のことばを
読んで密かに、そんな思いを強くしました。

2016年1月8日金曜日

漱石「門」の中の、大学生の宗助が訪れた京都近郊の描写

2016年1月5日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第六十六回)に、おそらく京都帝大の学生であった宗助が、休日を
利用して学友の安井と訪れた京都近郊の情景を記する、次の文章が
あります。

「ある時は大悲閣へ登って、即非の額の下に仰向きながら、谷底の流を
下る魯の音を聞いた。その音が鴈の鳴声によく似ているのを二人とも
面白がった。ある時は、平八茶屋まで出掛けて行って、そこに一日寐て
いた。そうして不味い河魚の串に刺したのを、かみさんに焼かして酒を
呑んだ。そのかみさんは、手拭を被って、紺の立付見たようなものを
穿いていた。」

今から百年以上も前の話ですが、京都に暮らす者としては、それとなく
イメージが浮かんで来ます。「谷底の流を下る魯の音」は、きっと
保津川下りの舟を漕ぐ魯の音です。当時から今に続く手漕ぎの観光船が
航行し、新緑、紅葉と観光客で大変にぎわっています。

「平八茶屋」は、今も当時の場所に存在して、店の前の若狭街道は舗装
されて沢山の自動車が行き交っていますが、古い門を入ると、中は時が
止まったようなひなびた佇まいが保たれ、高野川の川の流れの音を聞き
ながら食事を楽しむことが出来ます。こちらの鮎料理は、私は美味しく
感じますが、海の近くの東京育ちの漱石の口には、合わなかったのかも
知れません。「かみさん」の服装は、大原女みたいなものだったので
しょうか?

こんなことを考えていると、この物語に百年分の遠近感が出て来たように
思われて来ました。

2016年1月6日水曜日

龍池町つくり委員会 24

平成28年1月5日に、第42回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

まず、次回開催の企画「新春きものde茶話会」の詳細が報告されました。
日時は、1月31日(日)午前10時~12時頃まで、場所は、マンガミュージアム・
龍池自治会館内和室、会費は、着物持参の方は五百円、着物レンタル
希望の方は別途千五百円を頂戴する、というものです。

お楽しみ企画として、連合会長初め学区の諸先輩による地域のお正月談義、
料亭堺萬さんによる伝統的な白みそ仕立てのお雑煮の振る舞い、
たついけカルタでのカルタ遊び(来月のカルタ企画のデモンストレーションとして)、
ちおん舎主人西村さんにお茶を点てて頂く、となっています。

前年度のきもの茶話会より、さらに充実した企画となりました。

次に杉林さんのカルタ企画も具体的な形が出来上がって、ネーミングは、
「マンガ家さんと一緒にカルタをつくろう」に決定しました。日時は、
2月28日(日)9時30分~11時30分、場所は、同じくマンガミュージアムで
開催されます。

当日子供たちにカルタ制作を指導して頂く、京トキワ荘のマンガ家曽山さん、
川本さんにも本日の委員会にご出席頂いて、カルタの絵札の原案について
検討しました。

新しい年のこれらの企画は連動性もあって、従来より内容が濃くなって来た
ように感じられます。また委員の一人の私個人としても、日頃接することのない
職種の人々とも一つの目的を持って話し合いを進めることが出来、人と人との
関わりの広がりを実感しました。

2016年1月3日日曜日

今年も、伏見稲荷大社へ恒例の初詣

1月2日、恒例にしている初詣に伏見稲荷大社へ行って来ました。

今年は好天に恵まれ、しかも気温も高めで、初詣にうってつけの日和
でしたが、その分参詣者も随分多く、楼門から本殿にたどり着き参拝を
終えるまでに、約一時間もかかりました。

参拝の列に並びながら思い返してみると、昨年はこのあたりでも雪が
ちらつき、稲荷山中ではすっかり本降りになって、見る間に、山の木々や
鳥居が幻想的に雪化粧したことが、懐かしく思い出されました。

晴れた時の穏やかな佇まい、雪が降りしきる荘厳な相貌、また本殿周辺の
いかにも大神社らしい華やぎ、にぎわいと、鳥居の連なる入り組んだ参道の
山道を上がって行く中で感じる神秘的な趣き、あるいは、山内や周辺域に
数多存在する、様々な摂社、祠のあらゆるものを包摂したような混沌とした
雰囲気、そして一歩神域を出ると猥雑で、庶民的な土産物店や飲食店が
軒を連ねる・・・。

私がこの神社に魅力を感じ、また新年にお参りすると何か新たな活力を
与えられたような心持がするのは、このカオスのようなエネルギーを全身に
浴びることによるのではないかと、改めて感じました。

今年も神社で縁起物の「福かさね」の授受をうけました。絵馬は私の干支の
申です。私も本年でとうとう還暦を迎えます。なかなか実感が湧かないと思って
いましたが、いざその年になると、新たな覚悟のような記するところも生まれて
来ました。

このブログも始めて三年目になります。日々の生活に、継続と革新を心がけ
たいと思います。