2020年9月28日月曜日

大谷義夫著「肺炎を正しく恐れる」を読んで

テレビにも出演して、新型コロナウイルスについて解説する、呼吸器内科医の本です。 私が本書を手に取ったのは、巷にこのウイルスについての言説が氾濫する中でも、一般の人間がどのような 心構えで感染予防の対策を取るべきかということが、今一つ分からないと感じて来たからで、結果として この本を読んで、新型コロナの特徴とそれゆえの対処法の輪郭を、おぼろげながらもつかむことができたと、 感じました。 詳細はここでは省くとして、まず新型コロナウイルスの危険性は、感染者の一部にとって、ダイレクトに 肺炎を引き起こし、短期間で重篤な状態に陥るということで、このウイルスによる死亡者の多くが、この ような症状をたどって、死に至っているということです。 またこのウイルスは、他のコロナウイルス感染症(風邪)とは違って、症状が出る前から感染力が強いと いうことで、陽性者が自覚症状のないうちに、他者に感染させるリスクが高く、結果として感染が広がり やすい特徴を持つということです。 以上の危険性を踏まえて、一般の人間に出来る感染予防法は、マスク着用、手のこまめな消毒、三密(密閉、 密集、密接)を避ける、というシンプルなもので、それに勝る防御法はない、ということです。この事実を 知り、私も今現在行っている、同様の対策を続けることの覚悟が出来た、と感じました。 更に、著者が呼吸器内科医であることによるこの本の特徴として、新型コロナが引き起こす肺炎以外の細菌性 肺炎についても、詳しく説明されていることが挙げられます。曰く我が国の高齢者の死亡原因の多くが、誤嚥 性肺炎によるもので、高齢者はこの肺炎の予防を心がけることによって、健康寿命を今よりも延ばすことが 出来ると、強調されています。 その記述を読むと、今回の新型コロナ感染症による死亡者の数が、高齢者に圧倒的に多いことも含めて、この コロナ禍は我が国の以前からの懸案である、高齢者問題を鮮明にあぶり出すものでもあると、強く感じました。

2020年9月25日金曜日

郡司芽久の「キリン解体新書 同じものを伸ばせば・・・」を読んで

202年9月16日付け朝日新聞朝刊、解剖学者・郡司芽久の「キリン解体新書」では、「同じものを伸ばせば ・・・」と題して、キリンという動物が、見た目は他の哺乳動物と全然違う特異な容姿をしているにも 関わらず、実は基本的な構造はほとんで違わず、長い時間をかけて形態を進化させた結果、現在の容貌 が出来上がったということを、分かりやすく説明しています。 その説明の中でも、私が特に興味を惹かれ、納得させられたのは、あの長い首を持つキリンの首の土台を 形成する骨である「頸椎」の数が、実はヒトを含む他の多くの哺乳類と同じ7個で、つまり、骨の数は同じ ままで、既存の骨の一つひとつが長く伸びることによって、あの長い首が出来上がった、という部分です。 この事実からキリンは、進化の過程で劇的な突然変異によってあの長い首を獲得した訳ではなく、体作り の基本ルールを逸脱することなく、既存の構造をほんの少しづつ変化させ続けることによって、現在の姿 になったことが分かります。 即ちキリンにとって、生息地の地面から高いところに生えている樹木の葉を食べるために、少しでも首を 伸ばして餌にありつこうとする努力を繰り返しているうちに、長い年月の後に一つひとつの首の骨も伸び た、ということなのです。 これはとても分かりやすく、腑に落ちる例えで、最後に郡司は、とっぴなことや型破りなことだけが 「個性」ではない。誰もが持っているものであっても、誰にもまねできないほど伸ばすことで、輝かしい 個性が生まれることがある、とこの文章を結んでいます。 正に私のような、取り立てた特技も、人に勝る才能も持ち合わせていないものにとっても、この金言は 勇気と希望を与えてくれるものであると感じ、肝に銘じました。

2020年9月21日月曜日

黒川創著「鶴見俊輔伝」を読んで

戦後日本を代表する思想家の一人、鶴見俊輔の評伝、大佛次郎賞受賞作です。 鶴見というと私がまず思い浮かべるのは、思想の科学の刊行とべ平連の活動で、思索の人というよりも、 行動する思想家のイメージがありました。また、同志社大学の教授を勤め、後半生の居住地でもあった 京都との縁も深いものがあります。それゆえ、親近感のある存在に感じられて、迷わず本書を手に取り ました。 幼少期から最晩年までを跡付ける、本格的な評伝である本書を読むと、彼の思想が形成される上で、 第二次世界大戦前、戦中のアメリカ留学、日本への引き揚げ体験、一転海軍軍属としての戦争参加が、 大きな影響を持つことが分かります。 この一連の体験によって彼は、自由と民主主義に基づくアメリカの大学の教育システムの利点と、反面 資本主義的覇権国家の負の部分を学び、帰国後は、戦争と日本軍国主義の愚かさを思い知らされたの です。 それゆえ戦後の彼の思想活動は、日本に民主主義を根付かせるために、民衆に思考と行動を促す啓蒙的 な言論活動と、反戦平和主義運動が、中心となったのです。 また彼が、戦後社会に深く関わる活動を行いながら、あくまでリベラルな在野の立場を貫いたところ にも、彼の生い立ちと共に、この影響が感じられます。彼には、多感な時期に日米両交戦国の戦時下を 体験したまれな知識人として、あるべき戦後の日本の姿が、思い描かれていたに違いありません。 また戦後の日本が、政治的にも経済的にも、大きくアメリカに依存する体制になったことも、彼が国民 の目線からこの国の真の自立を志す契機となったはずです。 ベトナム戦争の最中、脱走米兵をかくまい、海外に逃亡させるべ平連の活動は、日米安保体制の下で、 アメリカ政府は言うに及ばず、その影響下にある日本政府に対しても、非暴力のレジスタンス活動で あったでしょう。 しかし、その活動を多くの日本国民が支持し、後年にはアメリカでも反戦運動が高まる中で、日米両国 の民衆が認識を共有する、意義ある活動になったのではないでしょうか。 このように、大衆が自ら考え行動し、より良い社会体制を生み出そうとする運動に先鞭をつけ、結果と して、まだそのような社会は誕生してはいませんが、少なくとも、その可能性を示してくれたところに、 思想家鶴見俊輔の最大の功績があったのではないでしょうか。

2020年9月19日土曜日

村田沙耶香著「コンビニ人間」を読んで

本作が第155回芥川賞を受賞し、社会現象とも捉えられる大きな反響を呼んだ頃から、是非読みたいと 思って来ました。この件の小説を、ようやく読むことが出来ました。 コンビニという、ある意味現代社会を象徴する場所で、長年アルバイト店員として働くことに、生き甲斐 を感じて来た女性の物語です。 社会通念からすると恵まれない人、一種の負け組と受け取られますが、彼女にそんな負い目は全くありま せん。それはそのはずで、彼女には物欲、食欲、色欲、承認欲といった一般人が持つ基本的な欲望が、 全くありません。 また、他者の気持ちを推し量ることも出来ず、そのために子供の頃には、学校で異端児扱いをされました が、大人になって外形的な協調性を身につけなければ、社会からはじき出されかねないことを学んで、 一応人まねをすることによって、かろうじて普通の人間を装っています。そんな彼女にとって、マニュ アル通りに行動していればよいコンビニ店員は、天職なのです。 ここでまず私は、彼女は大多数の人間とは違う特別な人間なのかと、自問します。しかし、どこまでが 正常で、どこまでが異常か?彼女は、普通の人間とは少し生き方やものの考え方が違いますが、コンビニ 店員としては有能な存在であり、何ら周囲に迷惑を掛けている訳でもなく、真面目に暮らしているのです。 誰からも非難される筋合いではありません。 こう見て来ると、現代社会が仕事においても、人間関係においても、極めて複雑で、そこから疎外される 一定数以上の人が存在するのではないか?と思われて来ます。 このような現象は、現代の深刻な社会問題である、貧富の格差の拡大の原因を示しているかも知れません。 しかし、ここではそれ以上は語りません。 また、特別な存在である彼女が、男と同居するという形で一歩普通の人に近づいた途端、周囲の人間が 彼女に好奇心を示し、干渉するようになります。その事実は、日本の現代社会で特に強いと思われる、 同調圧力を端的に表現しているように、思われます。 この部分も、この国で生活することの息苦しさの原因を、はっきりと浮かび上がらせているように、感じ られます。 予期せぬ経緯で、男と同居する羽目になった彼女が、最後に自分の生きる場はコンビニ店にしかないと、 気付く場面。この覚醒によって彼女は、自分の人生に希望を見出し、世間を覆う価値観からも、自由に なったと思われます。 このラストは、優れた小説にはしばしば見受けられる、読者にカタルシスを感じさせる見事な描写である と、感じられました。

2020年9月16日水曜日

鷲田清一「折々のことば」1921を読んで

2020年8月31日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1921では、NHK・Eテレ「日曜美術館」 (1月5日)から、ブランド「ミナ ペルホネン」を率いるファッションデザイナー・皆川明の次の ことばが取り上げられています。    自分の持ち時間、人生の時間よりも長いこと    を考えたほうがやりやすいなと思って 自分の携わっている仕事が将来も継続されることを願う時、このことばでしめされる考え方は大切 である、と思います。 私も祖父、父から受け継いだこの家業を、和装という文化がこれからも残って行く一助となると いう意味も含めて、出来るだけ長く続けて行きたいと考えているので、皆川のこのことばに共感を 覚えます。しかし現実は、継承の目途が立たないので、自分の力の及ぶ限りは、続けて行けたらと 考えているに過ぎないのですが・・・ しかし実際、人間一人の人生は短く、使命感を持って何かを成し遂げようとする場合には、上記の ことばのような気概や構想が、本当に必要であると思います。それは結果として、この一代で潰える ことになったとしても、最後まであきらめず、力の限り将来への希望をつなぐという意味においても。 だから私はこれからも、決して肩ひじは張らず平常心を保ちながらも、この家業を続けられるように、 最後まであがいて行きたいと、考えています。

2020年9月11日金曜日

山口桂著「美意識の値段」を読んで

私のような一般の美術好きにとっても、オークションは自分が参加することは想像できなくても、気になる世界です。 ましてやつい先日話題になった、伊藤若冲作品で有名な、プライスコレクションの一部の出光美術館への譲渡の橋渡し をしたのが、著名なオークション会社であることを知ると、ますます興味が湧いて来ます。 本書の著者は、正に先ほどの取引を仲介した、世界の二大オークションハウスの一つ、クリスティーズの日本法人社長 で、長年日本美術担当の鑑定、査定の責任者である、スペシャリストを務めて来た人物です。どんな話が飛び出すか、 わくわくする気分でページを繰りました。 著者の経歴からして、やはり実際のオークション出品作品の事例紹介が面白いです。例えば、『伝運慶作 木造大日 如来坐像』。この仏像は、個人が所有しているために、重要文化財に指定はされていなかったのですが、それに匹敵 する秀作で、所有者は匿名でのオークション出品を希望して、最初著者に対しても氏名を明かさないメールでの連絡を 求め、初めて会う時も日時を指定して、その当時この仏像が展示されていた東京国立博物館の当の像の付近で、所有者 から著者に声をかけるという、スパイ映画さながらの展開であったといいます。 そして、ついにクリスティーズのオークションに出品されることが決定した後も、文化財未指定の運慶作の仏像が流出 の恐れ、と新聞に報道されたり、売却反対運動が起こったといいます。それから、オークション出品のために像はニュ ーヨークに渡り、結果として日本の宗教団体に、日本美術品の史上最高価格で落札されて、この国に帰って来たそう です。本当に劇的な顛末に、驚かされました。 また、実際の事例以外の部分で印象に残ったのはまず、日本美術作品を日本人以上に愛し、大切に扱う、外国人コレ クターがいることです。上記のプライス氏にしても、作品のためを思って日本の美術館への一括譲渡を決意したこと からも分かるように、このコレクターの手に渡れば、日本で保存条件の良くないところに放置されるよりも、遥かに 作品は良い状態に保たれるということです。この点は、認識を新たにしなければいけません。 更に、美術作品の善し悪しを見極める能力は、人間のそれを見極める能力にも通じるという、著者の言葉にも感銘を 受けました。ものの本質という部分において、通じ合うところがあるのかも知れません。 美術の価値が、価格のみによって評価されるとは思いませんが、価格の部分だけにおいても、ここまで厳密に公正を 記して行われる取引は、その時点において大きな説得力を持つことに、改めて気づかされました。

2020年9月7日月曜日

「伊藤亜紗の利他事始め 友人の咳いたわれるか」を読んで

2020年8月27日付け朝日新聞朝刊、「伊藤亜紗の利他事始め」では、「友人の咳いたわれるか」と題して、従来は 例え風邪をうつされても平気な関係が友人間にはあったのに、この新型コロナウイルスの流行によって、友人から でも、さすがにこのウイルス感染を避けたいような気風が生まれているのではないかと、問題提起しています。 確かに新型コロナウイルスは、未知の感染症として私たちを脅かして来ましたし、我々はこの感染症に非常に 敏感になっており、例え友人といえどもうつされたくないのが本音でしょう。 あるいは友人であればこそ、自分に発症の兆候があれば、その人には近づかないようにしようとするのが、自然な 感情だと思います。 つまり、コロナウイルスという交友関係を維持する上での新しい障壁が生まれて、私たちはそのことを念頭に置い て、互いに配慮しながら関係を持つようにしなければならない、ということなのでしょう。 またそれに関連して筆者は、社会学者エリアスが「不快感」が文明化にとって、重要な役割を果たしたと指摘して いることを、挙げています。 つまり、「個人」という概念が生まれて、自他の区別のないような行為を不快に感じ、他人との関係に距離を置く ようになったことが、近代化につながった、ということのようです。 このことの延長線上に考えると、コロナ禍は私たちの人間関係をますます希薄にすることになる、のかも知れま せん。 しかし私は、今日のコロナ感染症予防のための、現実のソーシャルディスタンスを求められる生活様式が、我々に 人と人とのぬくもりのある交流を、かえって渇望させていることを鑑みても、私たちはこの感染症のある程度の 終息後、これまで以上に相手に配慮した人間関係を、築くようになるのではないかと、感じています。 果たしてこれは、楽観的な観測でしょうか?

2020年9月3日木曜日

ホルヘ・ルイス・ボルヘス「砂の本」を読んで

ガルシア・マルケスの小説を通して、マジックリアリズムと呼ばれる、ラテンアメリカ文学に目覚めた時から 興味を持っていた、アルゼンチンの文学者ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編集をついに読みました。 やはり幻想的で、独特の肌触りの短編が並んでいて、ここでは特に印象に残った、数編を取り上げます。 まず、この本の題名にもとられている「砂の本」のパートから、冒頭の作品『他者』。この小説は、1969年 2月、70代の老齢に差し掛かったボルヘスが、アメリカ、ボストンのとある川岸で、当時スイス、ジェネーブ にいたはずの20歳に満たない彼自身に、めぐり逢い対話する物語です。 ここで歳を隔てた二人は、互いの思想信条や文学観を巡り、意見を述べ合います。同じ一人の人間が持って 生まれた資質は保ちながら、年の経過と共に如何に考え方を変えるのか、そして若い彼が老齢の彼を受け入れ ることが出来ず、老齢の彼が若い彼を受容するところに、単に1人の人間の年齢による変容だけではなく、 時間そのものの性質の一端を見る思いがしました。 次に同じく「砂の本」の中から『疲れた男のユートピア』。この物語は、著者自身と思われる主人公が、数千 年後の世界に迷い込んで、未来人と対話する物語です。 その未来世界では、人々は共通語としてのラテン語を話し、政府も都市も博物館、美術館もなく、個人が独立 した自給自足の生活を送りながら芸術、思索にいそしみ、限られた本を繰り返し読み、百歳になると自らの 生死を自分で決定して行動するということで、この物語は、人間に欲望が全く消失した世界を描いていると 思われますが、我々人間の社会活動の本質を暴いているようでもあります。 最後に、世界各地の悪人の行状を短くまとめた「汚辱の世界史」から、『真とは思えぬ山師トム・カストロ』。 イギリスの貧民街で生まれたさえない主人公が、南米での生活を経て、頭のきれる相棒の手引きで、亡くなった イギリス貴族の跡取り息子に成り済まし、彼を可愛がった貴族の母親の死後、相棒も事故で突然失って、悪事 が露見する話。 この物語では、主人公たちは人を騙してはいますが、欺かれた母親はその事実を知らず、あるいは知っていな がら受容していて、当事者に被害をもたらしていないという点において、罪のない事件と思われます。著者の 皮肉交じりの、それでいて人間への根本的な愛情が感じ取れる語り口が、人間の心情の複雑さを、あぶり出し ます。