2018年10月31日水曜日

小川糸著「ツバキ文具店」を読んで

小川糸さんの名前は耳にしていましたが、作品を読んだことはありませんでした。
それがこの度、長年ご愛顧頂いている着物雑誌「七緒」の取材で、私たちの
三浦清商店を訪問されることになり、急遽ご著書を読むことにしました。

何がいいかと書店のコーナーで思案して、確かテレビドラマ化もされている本書を
手に取りました。読み始めると若い女性目線で書かれた物語に、還暦を過ぎた男
の私としては戸惑うところもありましたが、次第にほのかな温もりのある独特の
世界に引き込まれていきました。

まず鎌倉というロケーションが、この物語の雰囲気を作り出すのに大きな役割を
担っていると感じました。

生まれも育ちも関西で出無精の私は、行ったことがないのでイメージでしか鎌倉
を語れませんが、私の暮らす京都同様かつて政治の中心であった古い歴史が
あり、神社仏閣も多く落ち着いた印象で親近感が湧き、その上東京から適度な
距離を隔てた位置取りから近代には鎌倉文士と呼ばれた作家が多く在住し、また
映画監督小津安二郎に愛されるなど文化芸術の気分を色濃く残し、おまけに
木々の緑が身近なだけでなく海も近く、自然豊かで開放感がある。観光地として
おいしい食べ物屋やリラックス出来る喫茶店も多い。

私が一度は行ってみたいと夢想する場所のイメージの上に、この若い女性を
主人公とする心温まる人々の交流の物語は展開するのです。

字が書けない人がまだ多くいた時代はともかく、本書のような役割設定の代書屋
が今も存在するのかどうかは知りませんが、この物語を読むと、パソコンで印字
した文字や電子メールが全盛の世の中で、肉筆で手紙を書くことの意味が見えて
来ます。

真心や好意、感謝を本心から相手に伝えたい時に手書きの手紙を送る。しかも
先方を思いやり、細心の注意を払って文字をしたためる。そうすれば印字された
ものやディスプレイ上の文字では表現不可能な真意が相手に伝わるはずです。

また相手への断り状、絶縁状をわざわざ手紙に記して届ける。面と向かって口頭
で伝えるのとは違う、角が立たない、こちらの覚悟を明確に伝えるなどの効果が
あるはずです。

人と人の関係は奥深く複雑です。本書は代書という行為を通して、相手に心を
伝えることの大切さを示しているように感じました。

手紙の書式上の約束事、筆記具、封筒、便箋の用例なども、参考に出来るところ
があると感じました。

2018年10月29日月曜日

幼い頃の逆上がりのこと

新聞紙面の書籍の広告で、幼い頃の小さな成功体験が成長してからのポジティブな
ものの考え方の核となる部分を植え付ける、という内容の本の案内を見つけました。
そこにはその例の一つとして、逆上がりの習得が挙げられていました。

私はこの文章を読んで、唐突に忘れていた幼い日の記憶がよみがえって来るのを
感じました。

小学校低学年の頃の私は虚弱な体質で、幼稚園時代に長期に入院したこともあって
運動が苦手でした。足も遅く、逆上がりが出来ることには憧れながら、到底無理だと
諦めていました。

どんな経緯だったかは分かりませんが、日頃仕事が忙しく、あまり子供を構ってくれ
ない父が、私が逆上がりが出来ないことを知って、近所の鉄製の柵がある家の主人
に使用許可を取ってくれました。その頃の私の背丈なら、その柵の横棒が丁度適当
な鉄棒になったのです。

小学校から帰ると来る日も来る日も、父がアドバイスを送りながら見守る中、逆上がり
の練習をしました。最初は体が全く鉄棒の高さまで上がりませんでしたが、徐々に
接近するようになり、そうすると足を蹴上げるタイミングで腕を折りたむコツも分かって
来て、体が鉄棒に密着するようになったある時、突然に体がくるっと一回転しました。

正直、習得するまでの長い練習期間には、もうやめてしまいたいと思ったことも、一度
や二度ではありませんでした。しかし父が辛抱強く付き合ってくれるので、なかなか
切り出せなかったのです。そして逆上がりが出来た時の達成感、爽快感が、今まさに
まざまざと脳裏に浮かんで来ました。

あの時の父は、それまで出来なかったことが出来た時の喜びを、幼い私に教えて
くれたのだ、と思います。

2018年10月26日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1262を読んで

2018年10月20日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1262では
お笑いコンビ・オードリーのツッコミ役・若林正恭のエッセー集『ナナメの夕暮れ』から、
次のことばが取り上げられています。

  「共感できないけど一理あるかも」って脳がパ
  ッカーンってなるあの瞬間が好きなのにな。

この頃の日本の社会は確かに余裕がなく、ギスギスしているようにように感じます。
例えば、特に気の張るというほどでなくても他者との交流の場では、SNSなどの
影響もあって建前や正論を語ることが求められ、下手な発言をすると一斉に批判
されかねないという危機感が充満しているように感じられます。

また個人の生活態度にしても、一般にかなり厳しく公序良俗に沿った行動が求め
られ、世間の目の届く領域ではまるで監視されているようなプレッシャーを感じて
しまうことも、ままあります。

どうしてこんな事態になってしまったのかは定かではありませんが、私は一つには
私たちが社会的な自由という場に放り込まれながら、本当の自由の意味がよく
分からず、戸惑っているからではないかと、推測します。

自由に振舞いたくてもどう振舞ったらいいか分からず、逆に他者の身勝手な言動に
は神経を研ぎ澄ます。今度は自由を装おうとして度を越してしまい、他者から非難
を浴びせられ怯えることになる。この悪循環がますます社会を窮屈なものにしている
ように感じるのです。

一見ダメなことも、バカなこともある程度許容される社会、その方が遥かに豊かです
し、私たちは与えられた自由の意味をもう一度噛みしめる必要がある、と感じます。

2018年10月24日水曜日

京都高島屋グランドホール「第65回日本伝統工芸展 京都展」を観て

今回も恒例の伝統工芸展を観て来ました。例の通り染織部門を中心に観て回り
ました。

まず楠光代の花織帯「クリスタル」が目に留まりました。花織という伝統的な技法
を用いながら、美しい藍系の色使いの妙もあり、白い模様とわずかに添えられた
印象的な紅とのコントラストが、宇宙空間を思わせる詩情あふれるモダンな世界
を現出しています。このような清新さは、時代の要請にも十分合致するものだと、
感じました。

次に菅原高幸の友禅訪問着「雨上がり」が印象に残りました。この作品は色彩の
ハーモニーが美しく、最近の友禅作品は全体に硬質な表現が多い中にあって、
柔らかく浮き立つような、それでいて格調を失わない華やぎのある、手書きの
温もりを十分に体感できる訪問着に仕上がっていると、感じました。

武部由紀子の刺繍着物「鉄橋ヲ渡ル」は、染織部門の中でも刺繍作品が少ないと
いうこともあって、継続的に注目して来ましたが、今回の作品は鉄橋の意匠を大胆
にアレンジした図柄に躍動感があり、無地のシンプルな着物の地に抽象的な刺繍
を施すだけではかさを持たせることが難しいという難題を十分に克服した、洗練
された着物になっていると、感じました。

最後に村上良子の紬織着物「風」は、大ぶりの大胆な図柄と、天然染料ならではの
繊細で美しい色彩の微妙なコントラストが絶妙にマッチして、さすがの感覚と技量を
感じました。手織りという多大な手間と時間を要する技術を用いながら、それを感じ
させない軽やかさの表現に、天性の才能が示されているのでしょう。

端正な手仕事の美しい作品を観ることは、一時巷の喧騒や慌ただしい時の流れを
忘れさせてくれます。一般の美術展を観るのとはまた違う充実感を味わわせてくれ
るのも、伝統工芸展の魅力です。



2018年10月22日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1260を読んで

2018年10月18日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1260では
那覇の公設市場前に小さな古書店を開いた宇田智子の『市場のことば、本の声』
から、次のことばが取り上げられています。

  恋人になると誓うより、仕事への志を語るよ
  り、心を本当に励ましてくれるのは日々の小
  さなできごとだ。

この気持ち、同じく店を営む者として、本当によく分かります。何が心を落ち込ませ
るといって、お客さまが来られないこと、注文、問い合わせの電話がかからないこと
ほど、応えることはないからです。

手持無沙汰にしている時、最初は他の心配事がこまごまと頭に浮かんで来ます。
そして不安を感じたり、後ろ向きな考え方に陥って、心が徐々に暗くなっていくことが
あります。

でもその負の感情を振り払う一番の特効薬は、お客さまとの仕事のやり取りが始ま
ること。注文は勿論、すぐには取引と結び付かない相談事であっても、なにがしかの
端緒が開いて店が活気づくと、私も一気に元気になります。

今年の夏のように自然災害が続くと、いくら興味のある人でも必需品ではない和装の
ことまで気が回らないのは当然とことで、私たちの店でもお客さまとのやり取りが
途絶える静かな時間もありました。

秋の訪れと共に活気を取り戻しつつある店内で、人々の出入り、電話やインターネット
での交流あってこその三浦清商店だという思いを、かみしめています。

2018年10月20日土曜日

是枝裕和監督「三度目の殺人」を観て

私が好きな是枝監督の2017年の映画「三度目の殺人」が、テレビの地上波初放映
ということで、まだ観ていないこともあり早速テレビのチャンネルを合わせました。

これまでの作品とは趣向の違う法廷劇で、凄惨な殺人事件の沈鬱さと何が真実か
わからないもやもや感に包まれたまま、重い余韻と共に映画は終わりました。

過去に殺人を犯したことのある三隅(役所広司)が、首になった工場の社長の殺害
容疑で逮捕され自供、弁護を引き受けた敏腕弁護士重盛(福山雅治)が、死刑が
ほぼ確実と予想されるところを無期懲役に減刑させようと奔走するうちに、三隅の
二転三転する供述から殺人の動機に疑問を感じ・・・。

ざっとこういうストーリー展開の中で、まず、被告の供述を曲げてでも減刑を勝ち
取ろうとする、重盛の強引な法廷戦術が目につきます。それに対抗する検察官の
あくまで対面は守りながら身より実を取ろうとする、両者の虚々実々の駆け引き。

この映画では公正を期するはずの裁判が、弁護側、検察側の思惑の綱引きの結果、
歪んだ判決に至る危険性を示唆しているように感じられます。監督はこういう描写
によって、えん罪事件の存在の可能性や死刑という制度の危うさを、訴えかけている
のではないでしょうか?

殺人を重ねたと思われるにも係わらず、心優しい人物として描かれる三隅のこの
事件の動機を重盛が調べるうちに、三隅が被害者の家族と複雑な関係を持つことが
浮かび上がります。特に身体に障がいを持つ被害者の娘咲江(広瀬すず)は、父親
を殺されたというのに、自身の秘密が公になることも辞さず、法廷で三隅を弁護する
覚悟を持つほどに、彼に好意的です。そのことはどのような真実を示すのか?

三隅、重盛、被害者ともに実の娘との関係が破綻ないしは危機的な状況にあり、
その事実が事件や裁判の行方に濃い影を落とす・・・。この映画は、是枝監督が
主要なテーマとする家族を描く映画でもあります。

拘置所の面会室で三隅と重盛が透明な仕切り板を挟んで対峙する場面、監督は
側壁を取り払って仕切り板の薄い側面を中央に据え、両者の前かがみに向かい合う
顔が、あたかも直接接触するかのように見えるアングルから二人のやり取りを描き、
迫真性、両者の共通点と断絶を表現します。その映像が忘れがたく、強いインパクト
を残す映画でした。

2018年10月17日水曜日

京都高島屋グランドホール「入江明日香展」を観て

注目の若手銅版画家という入江明日香の大規模個展を観て来ました。私は彼女の
作品に触れるのは初めてで、その作風の斬新さが印象に残りました。

初期の抽象的な作品を観ても、文字を中心に据えてそこからイメージを飛翔させて
いくという制作方法が大変ユニークで、心に訴えかけてくる色使いも相まって、後の
才能の開花を予感させます。また逆に、そこから展開する具象的表現にも、初期から
一貫するものが見て取れて、ぶれない制作態度といったものも、感じさせられました。

入江が抽象から、花、昆虫、動物を経て人物の具象表現へと画風、画題を変遷さて
いくにあたり、人物を描きたいと思いながらどのように表現したらよいかと思い悩んで
いる時に、子供がふと、幼いとも大人びたともつかない表情を見せた瞬間に、描き方
のヒントを得たと語っているといいます。

この作者の言葉が、正に彼女らしい人物描写の魅力を凝縮しているというように、
その表現は夢と現実のあわい、過去と現代のあわい、写実とアニメ的な描法のあわい、
といった一点に焦点を合わせることのない、揺れ動くような情動を観る者に喚起させる
と、感じられます。

また彼女の作品が、和紙に銅版画をコラージュし、水彩、墨、箔、胡粉などを施すと
いうミクストメディアの技法を用いて制作されていることも、版画の線のシャープさと
直接描くことによる鮮やかさ、存在感を融合させた独特の質感を生み出していると、
感じました。

伝統的な日本の絵画の美意識を、鋭い感性で現代に移し替えればこのような表現に
なるのではないかと思わせる、刺激的な展観でした。

2018年10月15日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1252を読んで

2018年10月10日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1252では
先日亡くなった個性豊かな名優・樹木希林の最後の1年を撮ったテレビ番組を観て、
ライター・島崎今日子が3日付けの朝刊のコラム「キュー」に記した、次のことばが
取り上げられています。

  人は生きていたように死んでいく。

樹木希林というと、若い頃から老け役を演じ、歳を重ねては存在感のある老女に
扮して、そのある意味での変わりのなさが、ぶれない女優というイメージを形作って
いた、と感じます。

さて私も最近は、自分がどのように死んでいくのだろうと考えることがあります。中年
に至るまでは、身近に人の衰えから死までを見守ったことがなかったので、死という
ものが実感を伴って心に浮かんでくることがありませんでした。

しかし初めて父の最後を看取り、死というものをある程度具体的にイメージ出来る
ようになり、また自分自身も還暦を過ぎて人生の終盤を意識するようになって、自分
の死ということが気になり出したのだと思います。

確かに父の最後の姿などを見ていると、人は生きて来たことの延長線上に死を迎え
ると感じられる部分がありました。例えば父の死の原因は、長年の生活習慣が導き
出した、いわゆる生活習慣病でしたし、自営業を営んでいたことから、死の間際まで
私たちの店の将来を気にかけていました。

私が今いくら考えても、私自身の死に様はまだ明確な像を結びませんが、良く生きる
ことが即ち良く死ぬことだと思い定めて、これからの人生を生きていく上での目標に
したい、とは思っています。

2018年10月13日土曜日

マーギー・プロイス著「ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂」を読んで

幕末、維新期に日米の懸け橋となった、ジョン万次郎の伝記や物語は幾つも出版
されていますが、アメリカの児童文学者によるそれは私には斬新で、本書を手に取り
ました。

よく知られた話を史実に沿って描いたと謳われているように、まず公正な視点という
ことが印象に残りました。

例えばストーリーの中で私が一番好きな、無人島に漂着した万次郎がアメリカ
の捕鯨船に拾われ、船内で過ごすうちに船長と心を通わせていく場面、日米双方に
偏見や誤解が多く存在する中で、万次郎はアメリカの文明力を目の当たりにして、
それをもっと学びたいと心を開き、他方船長はこの少年の素直さ、勤勉さ、好奇心の
旺盛さが気に入って、アメリカ帰国後は我が子同然に育てることになります。

その過程でも、著者は日米双方の文化やものの考え方を一方に偏ることなく、公正
に描くように努めていると感じられます。万次郎はアメリカの技術力に驚嘆しますが、
同時に几帳面さなど、日本人の方が優れた部分もあると感じていることも、忘れず
描かれています。

万次郎を引き取ることになる船長は、当時のアメリカ人が東洋人の少年を偏見なく、
一人の同じ人間として取り扱い、養育したところに、信仰に基づくアメリカの良心、
先見的な心といった美点を体現しますが、著者は捕鯨船内やアメリカ国内の生活
の中で、万次郎が偏狭な差別に苦しむ様子も、きっちりと描き込んでいます。

またこの描写は史実通りなのかは分かりませんが、万次郎が、アメリカ人の捕鯨の
やり方がクジラの身体の必要部分だけをはぎ取って、肉は捨てるという日本人の
倫理観からは残酷なものであると感じる部分、今日の日米の捕鯨に対する立場の
違いと照らし合わせても、国による価値観の相違ということを、改めて考えさせられ
ました。


2018年10月10日水曜日

京都国立近代美術館「東山魁夷展」を観て

現代を代表する日本画家の一人で、没後20年ぐらいが過ぎても今なお人気の高い
東山魁夷の回顧展を観て来ました。いろいろ事情があってなかなか会場に行けず、
最終日の10月8日に辛うじて滑り込みましたが、開館時間にはすでにチケット売り場
に長い列が出来ていて、改めて作品に触れたい人の多さに驚かされました。

東山の絵画を今まで実際に目にする機会は、私は日展で晩年の作品に出会うことが
多く、その折にも日展日本画の顔として、並みいる作品の中で特別な光彩を放って
いるように感じて来ましたが、今展でその代表作に触れてその素晴らしさに改めて
気づかされました。

例えば代表的な作品の一つ『道』は、図録等ではお馴染みですが、実際に作品の前
に立つと、大きな画面の中央を占める道の褐色を帯びたグレーと、それを縁取る
草叢の表情豊かなグリーンの微妙な諧調やそれぞれの起伏に富む質感、伸びやか
な量感が心地よく、画面上方を絶妙に領する淡い灰青色の空と相まって、絵の中に
吸い込まれて行くような感覚に陥ります。またこの描かれた道は、鑑賞者自身が心の
内で生涯辿る道のようにも感じられました。

このような東山絵画の魅力の秘密は一体どこから来ているのか、と自問しながら
会場を進んで行くと、京都四季習作やスケッチのコーナーに目が留まりました。

これらの作品には彼が京都を題材とする絵画を制作するに当たり、そのエッセンスを
抽出するやり方の跡が残されていて、魅力的と感じる対象に大胆に接近して、その肝
の部分を切り取るような描写法が見受けられました。

また日本の風景を描くにしても、ヨーロッパのそれを描くにしても、それぞれに風土の
特長を示しながらも揺るぎない、彼の絵画特有の普遍的な表現スタイルがあること
にも気づかされました。

これらの特徴から、私は東山の作品では、東洋の伝統や日本的な美意識を残し
ながらも、それを現代的な絵画として洗練させるために、モダンで大胆な構図の画面
作りや西洋的な量感表現を駆使して、独自の表現を生み出していると感じました。

彼こそその頃の日展が標榜した、現代社会に通じる日本画を体現する画家であった
のだと、納得させられました。




2018年10月8日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1249を読んで

2018年10月6日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1249では
ドラマ「ハゲタカ」(原作・真山仁、脚本・古家和尚)第7話から、主人公のやり手の
投資家・鷲津政彦の次のことばが取り上げられています。

  金や力がなくても、守るべきもののためにあ
  がき続ける人間はいる。そういう人間は夢な
  んて語らない。

何を隠そう私も、このドラマを最終回まで楽しみました。勿論誇張や、都合のいい
ストーリー展開があって、現実はこのように胸がすく結末にはなりませんが、鷲津
役の綾野剛の熱演にも引っ張られて、最後まで目が離せませんでした。

こういうドラマが受けるのは、私たち庶民が常日頃、自分たちの手の届かない
ところで勝手に決定され推し進められる、政治政策や経済運営上の失敗が、私
たちの生活に直接大きな被害やしわ寄せをもたらすと考え、強い憤りを感じている
からで、せめてドラマの中でもうっぷんを晴らしたいと思うからでしょう。そういう思い
は、私たちの生活実感が厳しいほど高まりますので、今なおこの種のドラマが放映
されるのは何をか言わんや、です。

さて現実と照らし合わせても、確かに窮地に陥り投資を請う相手に夢を語るのは、
夢想的に過ぎると私でも感じます。経営において夢を持つことは大切ですが、確
たる裏付けや展望なしにそれを語ることは、絵空事になってしまうでしょう。

私たちも店を続ける上で、ささやかでも夢は持ち続けたいと考えますが、それは
そっと心に秘めて、あくまで現実的な思考法で日常の業務に邁進したいと思い
ます。

  

2018年10月5日金曜日

眉村卓著「妻に捧げた1778話」新潮新書を読んで

作家眉村卓については名前を聞いたことがあるぐらいで、作品を読んだ記憶もあり
ませんが、やはり、死を宣告された妻に毎日一話の物語を作って語り聴かせると
いう、本書の成立の経緯とタイトルに興味を覚えて、ページを開きました。

読み始めてまず、眉村が恐らくショート・ショートを得意とする作家であるとはいえ、
毎日一話の物語を何年にも渡り創作するという、発想力と持続力の途方もなさに
感じさせられましたが、作者が妻のために物語を作ることになった事情の説明や
彼女の闘病の様子、更にはさかのぼって夫婦の来し方の回想のエッセイの間に、
創作日時順に3つのパートに分けて挟み込まれた、実際の一日一話から選び出さ
れた数編の物語と、それぞれの作者自身による解説を読み進めるうちに、小説家
とその妻という彼ら夫婦の絆の強さに感銘を受けました。

記載された一話をパートごとに区切って見ると、眉村も創作過程の前提条件として
説明しているように、第1のパートの初期の数編は、作者自身が妻の病の経過の
衝撃的な事実を知り動揺を禁じ得ず、またそのような絶望的な状況に置かれた
彼女を慰め、励ますための物語として、作者がどんな話を作るのかまだ手探りの
状態で、更には彼女の病状をおもんばかってストーリーに様々の制約を設けていた
ので、相対的に物語に起伏が乏しく、伸びやかさに欠けるように思われます。

第2パートの数編になると、作者も大分この創作方法に手慣れて来て、発想の
面白さやストーリーの大胆な飛躍に読みごたえを感じます。彼の妻も症状の進行の
渦中でも夫の紡ぎ出す物語に、少なからず慰安を与えられたのではないか?
そんなことを思わず想像したくなります。またこのパートの話の中には、作家自身
のこの過酷な現実を何とか転換出来ないかという無意識の願望が垣間見える作品
もありました。

最後の第3パートでは、いよいよ作者の本領発揮、読後考えさせられたり、余韻の
残る作品が見受けられました。眉村は間近に迫る夫人の死を運命として静かに
受け止め、残されたわずかな時間を慈しみを持って妻に寄り添う覚悟を決めたよう
に思われます。

この側々とした感動の伝わって来る本を読み終えて、本書が当初は最愛の夫人の
レクイエムとして編まれながら、結果として作者がこの一日一話の業を成し遂げる
ことによって、自らが妻の死という残酷な試練を克服した記録としても読むことが
出来ると感じます。その意味で優れて著者の内面を掘り下げる好著でした。

2018年10月3日水曜日

龍池町つくり委員会 56

10月2日に、第74回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

この日は珍しく中谷委員長が欠席されたので、学区の宿泊施設建設問題等の
報告はありませんでした。

京都外国語大学のプロジェクトは、開催予定の時期も迫って来たので、南先生
よりの報告、委員会での検討が行われ、今回のテーマである薬祭りにちなみ、
烏丸通りあるいは、東洞院通りから、堀川通りまでの二条通り界隈の、薬祖神社
を中心とする関連のワーキングポイントを巡るスタンプラリーを実施する。ポイント
の候補としては同神社の他に、和薬店、関連の石碑、こぬか薬師などが挙げられ
ました。

出発、到着点である京都国際マンガミュージアムの自治連合会会議室では、
古代米を用いたお菓子と薬草茶(どくだみ茶)を振る舞い、町つくり委員会の活動
のパネル展示も行います。

開催の日時は、11月11日(日)午後1時からと決定しました。この日は午前中に
龍池学区総合防災訓練が同じ場所で開催されますが、外大プロジェクトが日曜日
に実施されるのは初めてのことで、学区の既存の行事の後で開催することに
よって相乗効果も生まれるかという期待もあって、この日時に確定しました。

地域の子供たちの勧誘方法としては、チラシを1,000部用意して、御所南小学校
で配布してもらうことになりました。少なからぬ反響があることを期待しています。

続いて、恒例の新春の着物茶会が、来春はミュージアムで開催予定の行事の
都合で実施出来ないので、その代替となる茶会の検討が行われ、3月31日
午前中の予定で、お花見を兼ねた野点茶会を開催することになりました。
この茶会も、勿論洋服での参加も可能ですが、普段少ない着物を着る機会を提供
しようということで、和服での参加を奨励することになっています。