2014年6月30日月曜日

富岡製糸場について

朝日新聞2014年6月28日付け朝刊be、「福原義春の道しるべを
さがして」で、福原氏が「富岡製糸場と絹産業遺産群」がユネスコの
世界文化遺産に選ばれたことにちなんで記しておられる、以下の
文章が心に残りました。

「富岡製紙場も、建物や機械の物質としての価値だけではない。
かつてそこで働いた人々の息遣いや、美しい絹織物をまとって
豊かになった世界中の人々の生活までをも想起させるところに、
本当の意味があるのだ。」

富岡製糸場は、近代日本の産業振興のために、西欧の進んだ
技術を移入して、官営工場として設立されたそうです。

以降、絹産業が我が国の主要産業へと成長して行くのは、周知の
事実です。

絹糸生産の機械化は、絹織物の一般への普及につながります。

私たち和装業界に携わるものからいうと、多くの人々が絹の着物を
まとい、その美しさ、心地よさを愛でるようになったのです。

今日、生活習慣の変化や効率化の優先から、絹製品離れが急速に
進んでいます。富岡製糸場の世界文化遺産認定が、生活の豊かさを
見直すという意味で、絹織物の再評価つながればと願っています。

2014年6月29日日曜日

京都文化博物館「黒田清輝展」を観て

我が国近代西洋絵画の礎を築いた、黒田清輝の没後90年を
記念する回顧展を観ました。

黒田は当初、法律を学ぶためにフランスに留学しましたが、
現地で多くの優れた美術に実際に接することによって、絵画に
魅せられ、画家に転向したといいます。

明治期、先進の学問を学ぶためにヨーロッパに留学した
使命感に富む人物が、自らが学ぶ対象を180度変えることは
並大抵ではないはずで、彼の初期のデッサンを年代順に
追って行くと、その美術を学ぶひたむきさ、目覚ましい技術の
向上が見て取れて、感銘を受けます。

パリで基礎を集中的に学んだ後、近郊のグレー・シュル・
ロワンに滞在して画業に専心した時には、みずみずしい感性を
うかがわせる魅力的な作品を描き、画家としての地歩を築きます。

帰国後、本場仕込みの絵画は高く評価されて、以降日本の
洋画界をリードして行きますが、西洋と日本の文化、習慣の
違いは、裸体画を巡る軋轢も生じます。

この醜聞への解答として、黒田は、代表作の一つである
「智・感・情」という三枚一対の裸体画を描き上げたといいます。

この作品は初めて目にしますが、金を下地に、それぞれの画面に
象徴的なポーズをとる一人の均整の取れた美しい裸体の女性が
確固とした存在感をもって浮かび上がり、崇高な雰囲気さえ
たたえています。

京都と縁の深い「昔語り」も、作品は失われていますが、数々の
下絵、図画稿が残り、観る者に黒田が大作に取り組む時の
周到さを示します。

全体を観終えて跡付けられるのは、彼が実直、誠実に本場の
絵画を習得し、そのエッセンスを自らの感性を介してわが国でも
受け入れられ、発展して行くものえと大切に育てていった道程です。

いろいろ毀誉褒貶はあっても、彼が西洋絵画の伝道者として、
優れた資質を持ち合わせていたことは確かでしょう。

2014年6月27日金曜日

映画「さかなかみ」浜野安宏監督の試写会に行って

「さかなかみ」は、渋谷の「QFRONT」など数々の複合商業施設や、
東急ハンズのプロデュースで知られる、京都出身のライフスタイル・
プロデューサー、浜野安宏氏の初監督作品です。

彼のもう一つのライフワークであるフライフィッシングを題材にして、
監督自ら主演、北海道の原野の川にわずかに生息して、幻の魚と
呼ばれるイトウを追う一人の釣師を通して、人間の無知が自然を
蝕んでいく現実に警鐘を鳴らし、人間と自然のあるべき関わり方を
哲学的に考察します。

まず、ほとんどの北海道の河川では、漁業者以外サケを獲ることが
法律で禁じられており、一般人はサケを釣ることも出来ないという
ことを、私は初めて知りました。

監督は、その事実が釣り人を河川から遠ざけ、人びとの無関心を
助長し、ひいては自然を破壊して行くと、語り掛けます。

この映画で、失われてゆく大自然の象徴である巨大イトウを求めて、
山深い源流に分け入り、湿原、干潟を探索する釣師の姿を追って
行きながら、自然環境の現状を知り、危機感を共有するためには、
自然にじかに触れることが必要であることを、改めて教えられました。

この映画は、監督以下4人のスタッフで撮影されたといいます。
撮影機材、技術の発達によって、このように美しく、雄大な自然を
捕える映画の制作が、たった4人の力によって可能になったのです。
従来映画というと、多人数のスタッフと、大掛かりな道具立てが
一般的でしたが、これからは個人が、私的なメッセージを映像によって、
訴えることが可能な時代になりつつあるのでしょう。

上映後のトークショーも含め、監督の思想、信条、生活、仕事の
見事な一致には、感心させられました。

2014年6月25日水曜日

漱石「こころ」の中の、「おれが死んだら」という言葉に対する比較考察

朝日新聞6月24日(火)付け、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載、
先生の遺書(46)に、「おれが死んだら」という言葉をめぐって、
死をまじかにしての当人の態度と周りの反応について、考え
させられるところがありました。

腎臓を患い、死病にかかっていることを自覚している私の父が、
「おれが死んだら、どうか御母さんを大事にして遣ってくれ」と
言った時、私は東京を立つ直前、先生が奥さんに向かって
繰り返した、「おれが死んだら」という言葉を思い返して、
感懐にふけります。

私にとっては、この時点では、先生の死は悪い冗談で、それに
反して、父の死は現実味を帯びています。その言葉に対する
それぞれの周りの反応も、先生の奥さんは縁起でもないと耳を
ふさぎ、私は口の先では何とか父を紛らせようとします。

実際には、先生は体は頑健ですが、心は死に取りつかれており、
私の父は体は死に近づいていますが、心はもっと生きたいと
願っています。

つまり、先生と父の「おれが死んだら」は、私が気付かないだけで、
結局は死と生がせめぎ合う中で、同じ心情から発せられた切実な
言葉なのです。

漱石はこれらの込み入った表現を駆使して、人の死の理不尽を
巧みに書き表していると感じました。

2014年6月18日水曜日

高野秀行著「謎の独立国家 ソマリランド」を読んで

第35回講談社ノンフィクション賞受賞作です。

泥沼の内戦が続くソマリア、その一部に独自に武装解除し、民主的で
平和な暮らしを享受する、奇跡の独立国家が存在するといいます。
著者高野秀行は、持ち前の冒険心、好奇心に駆り立てられて、単身
果敢にその謎に満ちた地域に潜入します・・・

まず私がこの本を読んで、知的感興をそそられたのは、遠いアフリカの
地の、政情不安の地域の人びとの生活の実情を、つぶさに知ることが
出来たことです。

高野の単身潜入行から見えてくるのは、私たちの穏やかな気候風土や、
一応は秩序立った安定的な社会環境からは想像も出来ない、ソマリアの
厳しい自然条件の中で、身の危険や飢餓、貧困などに絶えず直面し
ながらも、氏族社会の張り巡らされたネットワークを介する相互扶助に
よって、宗教的戒律を日常生活に巧みに融合させたライフスタイルに
よって、さらには、遊牧民特有の楽天性を持って、たくましく生きる
人びとの姿です。

さて、戦乱が絶えず、内部分裂状態のソマリア共和国の中に、どうして
10年以上も平和を保ち、民主的自治を確立している小国家ソマリランドが
存在しているのか、ということについては、高野は取材の結果、以下の
結論に至ります。

ソマリランドは、ソマリア内の他の地域に比べて、氏族の伝統が維持され、
その枠組みが民主的政治の基盤を形作っていること。以前から絶えず、
氏族間のいざこざがあったので、紛争の解決に慣れていること。
この地域は資源が少なく、争うべき利権が生じにくいこと。そしてさらに、
ソマリランドの住民は、自らの独立を国際社会に認めさるために、国内を
平和で民主的な状態に保つために、不断の努力をしていること。

日本とソマリランドは、歴史も環境も、規模も違います。しかし、自己主張が
強く対立が絶えないソマリランド人が、自らの長所を活用し、短所を逆手に
取って、主体的に国家を構築していく姿は、豊かさに慣れて政治に無関心に
なり、現状に押し流され勝ちな私たちに、もう一度足元を見つめなおす契機を、
与えてくれるように感じました。

2014年6月16日月曜日

庭の「ハンゲショウ」の葉が色付きました。

我が家の庭の片隅の「ハンゲショウ」の葉が、白く色付いて来ました。

ハンゲショウは、ドクダミ科の多年草で、名の由来は、夏至から数えて
11日目にあたる「半夏生」の時分に花を咲かせるためとか、葉の
片面が白くなり、「半化粧」と呼ばれたためともいわれているそうです。

京都では、建仁寺塔頭の両足院の庭のものが有名です。

我が家のものは、10年近く前にどなたかに1株頂いて、庭の片隅に
植えておいたら、知らず知らずのうちに少しずつ増えてきて、
気が付いたらこの時期には、ささやかな群れの様相を呈してきた
次第です。

春に地面から顔を出した時には、雑草とあまり変わり映えしませんが、
成長して葉が白く色付く頃には、白と緑のコントラストがいかにも
涼しげで、ことにいくつかの株が群れると、緑のはざ間に浮き立つ
白が覗いて、独特の風情があります。

私は、我が家の私的風物詩として楽しんでいます。

2014年6月13日金曜日

京都国立近代美術館「上村松篁展」を観て

松篁芸術の魅力のエッセンスは、展示会場に入ってすぐのところに
掛けられている、2枚の鶏の絵にすでに現れているように思います。

どちらも、白黒まだらの羽根模様の数羽の鶏が、仲睦まじく戯れる
様子を描いていますが、片や市立絵画専門学校の卒業制作、
片や初期の帝展出品作です。

学校提出作品は、鶏の描写に早、並々ならぬ技量を感じさせますが、
画面に描きこまれている周辺の情景が何か説明的で、全体に
堅苦しく、散漫な印象をぬぐえません。

他方、帝展出品作は、前作に比べてそれぞれの鶏の形態がより
生き生きとして、存在感がましていますが、それは描写力の向上と
いうよりも、背景の書き込みを排した抽象的な空間に、対象を絶妙に
配置することによる効果という面が大きく、つまり、この画家の秀でた
空間把握力と構成力のなせる技と、思われるのです。

このことからも明らかなように、私は松篁芸術の一番の魅力は、
空間構成の洗練と近代性にあると思います。

松篁絵画のもう一つの特徴として、母松園譲りの気品を感じさせる絵
ということがあげられます。母は美人画、息子は花鳥画と描く対象に
違いはあっても、上品さは両者が最も大切にする価値観であったと
いいます。

私は松篁の作品に漂う得も言われぬ気品は、本人の研鑽は
無論のこと、対象に対する敬意を持った誠実で真摯な姿勢、そして
何より、自然の造形物としての花鳥を愛してやまない、画家の心情の
発露であると思います。

優れた絵を観て、作者の人間性の素晴らしさを感じるのも、日本の
伝統的な絵画鑑賞法から生まれる喜びでしょう。

2014年6月11日水曜日

漱石の死を巡る近代の憂うつと、現代の憂うつ

朝日新聞の夏目漱石「こころ」100年ぶり連載6月10日付け、
先生の遺書(36)に、”私”が腎臓病を患う父が待つ郷里に
帰省するに際して、二、三日前”先生”の宅に晩餐に呼ばれた
時の、「どちらが先へ死ぬだろう」という先生と奥さんの間に
起こった疑問を思い起こして、「(死に近づきつつある父を
国元に控えながら、この私がどうする事も出来ないように)
私は人間を果敢ないものに観じた。人間のどうする事も
出来ない持って生まれた軽薄を、果敢ないものに観じた。」
という部分があります。

この漱石の表現は、自身の心の働きを客観的に捉えるという
意味において、確かに人間に内在する”近代の憂うつ”を
示しているでしょう。

この文章は、死というものがいつ訪れるか分からないもので、
なおかつ、実際には突然にやってくるということを、もしその
兆候がきざしたら、人間の力では押しとどめようがないと
いうことを、前提に語られているのでしょう。

一方、私たちを取り巻く現代の社会に、この状況をおいてみると、
確かに、難病や突然死による予期せぬ死の訪れという不幸も
今もって存在しますが、医療の目覚ましい発達によって、
平均寿命は飛躍的に伸び、また場合によっては延命治療と
いうものも可能になってきました。

その結果、寿命と物理的な身体の衰えに手の尽くしようのない
ずれが生じるということも、まま見受けられるようになってきたと
思われます。

これはさしずめ、死を巡る”現代の憂うつ”ということでしょうか。
そんなことを、ふと考えました。

2014年6月5日木曜日

”さし”が決まる

私たち和装の白生地を商うものは、一般的に鯨尺単位の物差を
使います。

写真は右が1メーターざし、左が鯨二尺ざしです。1尺は約38cmで、
10尺が1丈となります。

現代に生きる我々は、小さい時からメーター表記に慣れていて、
尺という単位の長さはすぐにはピンときませんが、和装の世界では
着物の表に必要な生地の長さが約30尺で、その長さの反物が
三丈ものと呼ばれ、表に八掛を足した長さが約40尺で、その反物が
四丈ものと呼ばれるというように、尺という単位が呉服に密接に
結びついているので、その単位の感覚を体得することが、どうしても
必要になります。

さて私たちは、二尺ざしの端を利き手の指にはさんで、生地の耳に
沿わせながら繰り返し手繰って、生地の長さを測ります。

ところが、物差の扱いに慣れるまでは、あるいは、扱いにある程度の
慣れを感じるようになっても、その時の状況や気分の違いによって、
測る度に長さが変わってくることが、往々にあります。

例えば、急いでいるときには、さしが堅かったり(実際の長さより
長い目の値が出る)、気分が散漫な時には、さしが甘かったり
(実際の長さより短い目の値が出る)するのです。

実際には、生地を切り売りする場合、お客さまが必要とする長さより
短くなってしまうといけないので、私たちは少し甘い目に測ることを
心がけます。

しかし基本的なこととして、いつでもさしの運びが出来るだけ一定に
なって、なおかつ自分の測り方のくせを把握することが必要です。

そのような状態になることを、”さしが決まる”と言います。

さしの扱いと同時に、仕事を身体化することを意味するのです。

2014年6月4日水曜日

龍池町つくり委員会 5

6月3日に、第23回龍池町つくり委員会が開催されました。

今回の委員会の話し合いの中で、私の印象に残ったのは、新年度の
龍池学区の町内会長に、マンション住民の方や、学区内にある企業の
担当者が数名選ばれた、ということです。

この事実は従来のように、旧住民からだけ町会長を選んでいたのでは、
最早、町会運営が立ちいかなくなった、ということを示しているのでしょうが、
新旧住民が一つになって、学区の諸問題を考えていくためには、
好機到来ともいえます。

そういう観点から今年度より、自治連合会の理事会に、各町内会長にも
出席を請う機会を数回設けようということで、その成果を見守りたい
ところです。

茶話会は、9月に大原学舎でのバーベキュー、11月に京都外大の学生さん
企画による、地域の子供たちとの学区内探訪、来年1月に着物の着付け
教室、3月に花見と連動した企画を行うことが決まりました。

少しづつではありますが、着実に前進しているように感じられます。