2023年12月31日日曜日

「鷲田清一折々のことば」2906を読んで

2023年11月9日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2906では 作家サン=テグジュペリの『人間の土地』から、次の言葉が取り上げられています。    郷愁、それは知られざるものへの憧れだ 『星の王子さま』の作者らしい、何とスケールが大きく、詩的な解釈でしょう! 私たちなら通常「郷愁」は、郷土のような自らの原体験に基づく事象に対して抱く、甘酸っぱい 感情ということになります。 ところがテグジュペリは、自身の幼少体験を突き抜けて、もっと根源に遡って、「郷愁」を定義 しているのです。 このような解釈によるとこの言葉は、人間のあるべき姿を映し出す、鏡のような役割を果たすと 思われます。 その鏡に照らして、果たして自分は誰にも恥じない行為を行うことが出来ているのか? 彼自身が、戦時に勇敢な偵察飛行の任務に就いて、消息を絶ったと言われています。「郷愁」に 対するこのような捉え方は、彼の矜持であったのでしょう。 ヨーロッパ、中東で新たな戦端が開かれた現在、私たち東アジアに住む人間も、グローバル化の 進展を鑑みても、決してよそ事として座視することは出来ないでしょう。 私たち一人一人が、この作家のように、人類の未来に思いを馳せることも、必要であるように 思われます。

2023年12月21日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2900を読んで

2023年11月4日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2900では エッセイスト稲垣えみ子の『家事か地獄か』から、次の言葉が取り上げられています。    便利なものっていうのは「自分」を見え    なくするわけですね。 稲垣は、掃除機や洗濯機、冷蔵庫などの家事をラクにする家電製品は、できることが増える歓びを、 ーしなければならないーというプレッシャーに変えてしまう。そして何より怖いのは、家事を「 めんどくさくてつまらないもの」と思わせてしまうことだ、と言うのです。 う~ん、難しいところですね。家電製品によって、家事は画期的にラクになりました。女性が家事 を担うという従来の価値観では、彼女らにそれに費やす時間を他のことに当てる余裕を生み出した、 とも言えるでしょう。それはそれで、女性の地位向上につながった部分もあるのではないでしょう か。 でもここで言われるのは、便利になったために、かえって家事をしなければならないという重圧が 増した、ということでしょう。だけどそれは、家庭環境にもよると思われます。つまり夫婦、家族 で分担して家事を行う家庭なら、家電製品が出来たことによって、それぞれの家事の専門性が薄れ、 皆が分担しやすくなった、とも言えるのではないでしょうか? あるいは上記のことばの語り手は、家電製品の登場によって、家事は自ら工夫したり、時間の合間 に手軽にするものではなくなた。そのために退屈で、苦痛を伴うものになったと、言いたいのかも しれません。 でも残念ながら現代社会では、大部分の人が時間が足りなくて、なんとか空き時間を生み出そうと、 四苦八苦しているのではないでしょうか?そういう意味では、家電製品は確実に、そんな人たちの 要望に応えていると思われます。 私もリタイアして時間が出来たら、掃除などは箒や雑巾を使った手作業でやって、満足感や達成感 を味わえたらいいな、とも思います。

2023年12月15日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2870を読んで

2023年10月14日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2870では 17世紀フランスの侯爵で思想家、ラ・ロシュフコオの『箴言と考察』から、次の言葉が取り上げられています。    欠点のうちには、それが巧みに運用され    ると、美徳そのものよりも光るのがあ    る。 例えば移り気やその逆のしつこさが、偉大な発明につながったり、優柔不断やぐずぐずが、沈着な情勢判断と なったり、引っ込み思案が、人を深い内省へと誘ったり。「人間のよくない性質が、大きな才能をなす場合が ある」と、この思想家は言います。 そう、人間の欠点と長所は性質の表裏、そこまで言い切れなくても、すぐ近くに隣り合っているものだと、感 じられます。だから、卑下し過ぎることも、自信過剰になることもないのではないか? 大切なことは、自分を客観的に観ること。そうすれば、どのように振る舞うべきか、逆にどういうことに注意 すべきかも、見えてくるように思います。 またあるいは、ある人を指導する立場になったり、その人と一緒に何かを行うことになった時には、相手の中 のそのような特徴や性質を見抜き、どのようにアプローチすれば能力を引き出すことが出来るかを見極める ためにも、この法則は役立つと思われます。 いずれにしても、完璧な人間などはいなくて、誰でも欠点を持っているのが当たり前と、認識すべきでしょう。

2023年12月6日水曜日

川上未映子著「黄色い家」を読んで

まず率直な感想から述べると、これほど心優しく、生真面目な少女を主人公にした、ピカレスク小説を読んだ ことがないということです。そしてこの小説が描く世界が私たちの生活のすぐ近く、いやほんの足下に存在し ながら、私たちが気づかずにいる、あるいは目を背けている世界であるということです。 例えば、闇バイトで集められた若者たちを実行犯とする、組織的なグループの振り込め詐欺の犯罪が明らかに なった時、私たちは真っ先に、同様の被害に遭わないために警戒感を強め、他方犯人については、自分とは 全く縁のない特異な人間たちとして関心を示しません。 しかしこの社会には、貧富の格差の拡大によって、生活に困窮する多くの人々がいて、彼らが高額の報酬を 当て込んで詐欺グループに加わるということが、現実に起こっています。そしてこの小説の主人公花は、正に そのような少女なのです。 彼女は、スナック勤めの身持ちの悪い母親の元、私生児として育ち、中学生の時に母の愛人に、アルバイトで 必死に貯めた金を盗まれて、家を飛び出します。絵に描いたような薄幸の少女ですが、彼女を受け入れるのが 母親の友人という、謎に満ちた女性黄美子です。正に黄美子は、この小説の鍵となる人物です。 花は家事能力のない実の母に対して、黄美子がとりあえず冷蔵庫を食べ物で満たしてくれ、部屋を整理整頓し てくれることに、自身の価値観との親近感や、今まで味わったことのない母性を、感じ取ったのではないで しょうか? 以降花は、黄美子という存在を象徴する「黄色い家」での、黄美子、花、他の二人の少女との共同生活を維持 するために、カード詐欺に加担する泥沼にはまって行きます。カード詐欺という行為に至る花の心理、また 犯罪がエスカレートして行く場面での彼女の心の高揚、焦り、そして次第に精神的に追い詰められて行く様子 は、現実の振り込め詐欺事件の末端の犯罪行為者である、若者たちと見事にシンクロします。 つまり、経済的困窮から、その詐欺行為自体がシステム化されているために、あまり罪悪感なしに犯罪に手を 染め、次第に抜けられなくなって行く様子のように・・・。 私たちは、花を責めることが出来るでしょうか?彼女こそ被害者ではないでしょうか?シンプルだけれど、 真面目に努力する人が、報われる社会であってほしいと思いますし、著者は決して声高にはならず、私たちの 社会の矛盾を告発しているのではないかと考えます。

2023年11月30日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2867を読んで

2023年10月1日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2867では 随筆家・白洲正子の『かそけきもの』から、次の言葉が取り上げられています。    神に祈る姿は、世の中で最も美しいもの    の一つです。 最近は即物的で、私利私欲にまみれた、神仏への祈りや願いも、散見されるように見受けられますが・・・。 でも、祈りとは、自分を遙かに超えたものに身を委ねることだ、とこの随筆家は言います。 なるほど、少なくとも、祈りや願掛けをするときには、本人は自分より立場の一段高い何ものかに、その 想いを捧げていることは、間違いないでしょう。 その行為は、見下げたり、対等のものに忌憚なく話しかけるよりは、謙虚で高尚なものであるはずです。 相手に信頼を寄せることと、自分を低いところに置いて、相手を見上げるまなざしを持つことは、結局 自分の心が洗われ、満たされることにつながると思います。 常に感謝の念を抱くという心の持ち方と共に、忘れてはならないことだと考えます。

2023年11月21日火曜日

原一男著「全身小説家 もうひとつの井上光晴像」を読んで

同題の秀作ドキュメンタリー映画の制作ノート・採録シナリオです。私はこの映画を約30年前、京都国際 映画祭の上映作品として観ました。随分昔の話で、断片的なシーンや、おぼろげなイメージしか残って いません。しかし映画を観た当時私は、作家井上光晴について何の予備知識もなかったので、それを観て の感想も漠然としたものでした。 でもその後、井上と深いつながりがあった、作家瀬戸内寂聴の作品に興味を抱き、そこから彼女と井上の 関係、同じく作家である彼の娘荒野の視点からの二人の関係を知り、そして井上光晴の小説も読みました。 30年余りを隔てていますが、本書からこの映画を振り返ってみることも、新たな気づきを生むのではない かと思い、この本を手に取りました。 ドキュメンタリー映画で捉えるのは、ガンに冒された井上の最晩年の姿です。彼は著名な作家として、文学 振興のために自ら主催する、小説家志望者の養成機関伝習所を献身的に運営し、ガンが転移して末期的症状 を呈しても一縷の希望を失わず、命つきるまで作品を書くことに執念を燃やす、文字通り小説界の鬼才と いうイメージを与えます。 しかしこの映画が描くのは、それだけでは止まりません。親族、関係者へのインタビューから、井上が公表 している経歴や常々語っている回想に、真実と虚構が巧妙に混ぜ合わさっていることが判明し、彼が人たら しで、特に女性関係にだらしがなく、瀬戸内寂聴を含め、数々の女性と浮名を流し、家庭ではそのような夫 を郁子夫人が懸命に支えてきたことが分かります。そしてそれら全てを統合することによって、全身をもっ て虚構に生きた作家井上光晴の全体像が浮かび上がるのです。 彼自身が語るように、フィクション(虚構)の本質は、現実以上の激しい嘘の物語を作ることであり、彼は 身をもってそれを体現したのでしょう。ただ忘れてはならないのは、彼は虚構にまみれながら、その根底に は人間愛と社会正義への希求があり、それこそが井上文学の魅力であったのだと思われます。 またこの映画は、彼を通してフィクションの本質を問いかけていますが、原監督自らその制作意図を語る 本書を読むと、ノンフィクション作法の中の作為ということについても考えさせられます。つまり、ノンフ ィクション作品は、現実をありのままに描いたものではなく、監督の意図をもって作り込まれたものである ということです。フィクションとノンフィクションの奥深さについても考えさせられる読書でした。

2023年11月17日金曜日

「鷲田清一 折々のことば」2855を読んで

2023年9月19日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一 折々のことば」2855では 古代中国の賢者・老子の言葉をまとめた『老子』上篇第二十四章から、次の言葉が取り上げられています。    企者不立、跨者不行 「企(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず」つまり、爪立ち伸び上がる者は立ち尽くせず、 大股で歩く者は長く歩き続けることができないという意味だそうです。 すなわち、自分を見せびらかす人も、自分がつねに正しいとする人も、物事は見えていないと述べている のです。 しかし今日では、このような人がどれほど多いことか。それどころか、ことのほか自分をアピール出来る 人が脚光を浴び、成功しているとも思われます。 でも堅実で、まっとうな生き方を標榜する人間は、世間に対して謙虚であり、また常に自分の正しさを 疑うべきであると思います。 しかしそのような生き方をする人が世渡りが下手だと考えられ、世間から顧みられない傾向にあるのも また事実でしょう。 埋もれたそのような人を正しく評価する、何かの仕組みや機構があるべきですし、私たち一人一人も世間 のそのような風潮に、疑問を持つべきだと思います。

2023年11月8日水曜日

トルーマン・カポーティ著「冷血」を読んで

徹底的な取材によって蓄積された膨大なデータを用い、現実を克明に再現した、ニュージャーナリズムの源流 とされる、アメリカのノンフィクション・ノヴェルの代表的名作です。 カンザス州で起きた、一家4人惨殺事件を題材としていますが、事件発生に至る経緯から、犯人の処刑までを 丹念に描写し、一つの事件を当時の社会的背景も含めて、細部に至るまで執拗に描き出すことによって、私たち の生きる社会の摂理、普遍的な人間存在の本質に迫る物語になっていると感じられます。 まず私が思いを馳せたのは、被害者家族の運命についてです。殺害されたクラッター家の主人は、熱心なメゾチ スト派クリスチャンの裕福な篤農家で、周辺住民の信望も集めています。彼の妻は病弱で、それがクラッター氏 の悩みでもありますが、16歳15歳の娘、息子も含め、申し分ない仲の良い家族です。 この4人が、見ず知らずのペリー、ディックの2人組によって、手足を縛り上げられた上、頭部を至近距離から 散弾銃で撃ち抜かれて殺害されたのですが、彼らが狙われた理由は、ディックが刑務所で同じ時期に収監されて いた男から、以前その男が一時働いていた、クラッター家の農場の噂話を聞いたためでした。 その話も、男が農場でクラッター氏に厚遇されたことによる、単なる自慢話だったのですが、それが結果的に 災難を招くことになります。この人生の不条理!クラッター氏に過失があるとすれば、夜に家の出入り口に鍵を かけていなかったことだけです。 これは昨年我が国で世間を騒がせた、裏社会で出回るリストを利用した、闇バイトによる強盗殺人にも通じる ものですが、この社会に理不尽な出来事は確かに存在します。防犯の注意は怠るべきではありませんが、運命を 決めるのは最終的には運、不運かもしれません。ただこの物語における数少ない救いは、ディックがクラッター 家襲撃を仄めかせていたという前述の男の証言によって、2人組の凶悪な殺人者が逮捕されたことです。 犯人のもう1人ペリーは、粗暴な白人の父と、後に飲酒に溺れることになる先住民の母の間に生まれ、家庭は幼少 より崩壊し、肉親の愛情を知らず、貧困、差別、更には肉体的欠陥もあって過酷な少年時代を過ごしました。 物心つく頃から犯罪に手を染め、この事件でも、被害者4人に実際に銃を向け殺害する役割を担います。 しかし本書を読み進めると、彼が内心には傷つきやすく、優しい心を持ち合わせ、絞首刑の直前には、被害者に 謝罪の言葉を述べる様子が描写されます。人間の生い立ちが、その後の人生にいかに影を落とすかということ、 また、死刑制度の是非について考えさせられました。

2023年10月26日木曜日

「鷲田清一 折々のことば」2833を読んで

2023年8月27日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一 折々のことば」2833では 19世紀ドイツの哲学者・ニーチェの『人間的、あまりに人間的Ⅱ』から、次の言葉が取り上げられて います。    所有が所有する。 所有は、個人の自由と独立を下支えするが、ある段階を越えると反転し、所有自体が目的と化して 人を支配しだす、ということだそうです。 確かに人は、生きて行く上で最低限のものは所有していなければならないでしょう。でも文明化して 行く過程で、その最低限のものは増えていったはずです。だから今日では、その最低限の所有物も かなり膨らんでいるのは間違いありません。 でも、その所有を増大させる欲求にはきりがない。これを持てば次が求められ、そこに至れば更に 次のものを欲してしまう。人間とはそのように出来ていて、それが高度な文明を築く前提にもなった はずです。 だけどそのような恒常的な欲求を持っている故に、その欲望が増大しすぎると、人はそのために縛ら れ、身動きがとれなくなるのでしょう。 それ故自分の欲望から離れ、客観的な目で自分を見つめ直すことも必要なのでしょう。無欲の精神、 無一物、無縁の思想の大切さは、そのようなところにあると思われます。

2023年10月17日火曜日

大江健三郎著「懐かしい年への手紙」を読んで

先般なくなった、ノーベル文学賞受賞作家大江健三郎の1987年発行の長編小説です。私は一時大江作品を 愛読していたことがあり、本書はその時期に連なる作品ですが、長編と言うこともあって読むのを躊躇して いたところ、今日に至って彼の訃報をきっかけに、ようやく頁を開くことになった次第です。 しかし実際に読んでみて、改めて今読むにふさわしい作品と感じられたのは、本書が大江の自伝的小説だから です。読者は本書を読んで、現代日本文学を代表する作家の一人である彼の、生まれてからこの時期までの 来し方、文学的精神生活の遍歴を辿ることが出来ます。 ですが難渋さを辞さず、西洋の古典文学に依拠して自らの内面を掘り下げる、この作家らしい文学手法によ って生み出されたギー兄さんという主要登場人物と、作家の分身と思われるKちゃんの関係性が途中まで分から ず、モヤモヤしたものを感じながら読み進めていたのが、ある地点からふとギー兄さん自体も可能性としての 作家自身に他ならないことに気がつき、読了後読んだ本書の付録の冊子で、大江自らインタビューに答えて、 ギー兄さんは、出身地の森に残るという選択肢を選んだ場合の自分自身であるという言葉に触れて、一挙に 物語の全体像が立体感を持って立ち現れた感覚を味わいました。 それほどに見事な構想力を用いて生み出された小説ですが、作家の幼少期から本書執筆までの時期に特に大き な事件として起こり、この物語ではギー兄さんの受難として語られるものは4件、つまり第二次世界大戦中地方 の若者の有力者として、ギー兄さんが徴兵された夫を郷里で待つ妻を、千里眼を用いて慰謝する役目を担い、 敗戦後夫たちの復員に伴い、その欺瞞性をあばかれ辱めを受ける場面、あるいは、Kちゃんが海外滞在中のため に一人取り残された彼の妻が気がかりで訪れた東京で、ギー兄さんが安保闘争のデモに巻き込まれ、頭部に 重い損傷を負う場面、更には、森に地元の若者たちと理想郷を築くことを志しながら、パートナーの女性の 変節に会いギー兄さんが彼女を死に至らしめ、強姦して投獄される場面、最後には、出獄後自らのための美しい 村を作ろうとして、ギー兄さんが自分の所有地に堤防ダム建設を進め、下流域の反対派住民に殺害される場面 です。 すなわち、作家の精神的な部分において、このようなことが起こりえたかもしれないことを体現するギー兄さん という存在を通して、大江は不器用な形であれ、世界の安寧と魂の救済を希求しているように思われます。

2023年10月6日金曜日

「鷲田清一 折々のことば」2802を読んで

2023年7月26日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一 折々のことば」2802では 日本中世史家・網野善彦の『歴史を考えるヒント」から、次の言葉が取り上げられています。    「自由」は……元来は専恣横暴な振る舞    いをするという語義で、専らマイナスの    価値を示す言葉だった。 なるほど、このように考えると、腑に落ちるところがあります。「自由」は元々、勝手気ままな様を 意味し、何にも囚われないというプラスの意味に近いのは、幾重もの世俗の関係をすべて断ち切った という意味での、「無縁」だったと。 現在は「自由」に大変高い価値を見いだしていると思います。「自由」は、何より尊重されなければ ならないというように。 でもこの個人の「自由」を絶対的な前提に置くことによって、責任や義務そして秩序がおろそかに されて、社会が乱れ、不安定になっている部分が確かにあると思います。 もちろん個人の尊厳が、社会的に抑圧されることは好ましくないでしょう。でも「自由」を主張する 個人も、社会的な責任や義務を自覚した上で、それを求めることが必要でしょう。 そのためには、社会は個人の「自由」を絶対的な価値として尊重し、逆に個人は公共の福祉や利益を 重んじるということが必要だと感じます。 それにしても、「無縁」が本来の何ものにも囚われない自由な境地を表すなんて、ちょっと驚かされ ました。そこからゆくと、「無縁」仏も悪いものではないのかもしれませんね。

2023年9月22日金曜日

島田裕巳著「性と宗教」を読んで

宗教の特性といえばまず道徳を思い浮かべますが、「性と宗教」という表題に意表を突かれた思いで、本書を 手に取りました。しかし「はじめに」を読んでいて、人間の根源的な欲望の一つである性欲を、共同体の単位 の中でいかに制御するかということが、社会生活を営む上での切実な問題であることに気づかされて、その 解決策を担うものとしての宗教の存在の重要さに思い至りました。 またそういう観点からユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、神道といった代表的な、あるいは私たち 日本人に身近な各宗教を見ると、それぞれの特徴がよく分かることも理解できました。 まずユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同一の神を信仰する一神教であると、私たちこれらの宗教の起源 の地から遠く離れた東アジアに住む仏教徒には思われます。しかし世界史を振り返り、現在の世界情勢を見て も、これらの各宗教を信じる人々は、近親憎悪と言うべき互いへの深い不信感を抱いているように感じられ ます。 ではどうしてこのような対立が起こるのかということを知ろうとすれば、全てではないにしても、それぞれの 宗教が持つ性に対する価値観が大きな要因となっていることを、本書を読んで理解することが出来ました。 つまりキリスト教には、性に対する罪悪感に基づく原罪という根本的な価値観があり、それを償う贖罪意識が 信仰、あるいは生きるための指針となっているのです。これに伴う特権的な意識が、国際社会を動かす主要な 勢力であるキリスト教徒が、他の宗教を信じる人々との間に軋轢を生み出す要因となっている、と推察され ます。 またイスラム教の特徴で私にとって興味深かったのは、この宗教が性を肯定しているということで、このよう な一見自由な宗教が、厳格な女性差別を内包していることの複雑さを感じました。 一方仏教は、基本的には性に対する厳格な規制を教義としていますが、ヒンドゥー教の影響などもあり、肯定 的側面もあって、発生地から遠く離れた日本では、土着宗教である神道的な価値観も相まって、性の禁忌の 意識が曖昧になって今日に至っています。このような傾向が日本人の宗教意識を更に薄れさせて、今日では 倫理観の後退をも生み出しているように思われます。 いずれにしても、今日の資本主義社会では、宗教の存在感が一見目に見えにくくなっていますが、人々の心 の奥底にはその価値観が確実に存在し、行動や思考に影響を及ぼしていることを改めて感じさせられました。

2023年9月7日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2784を読んで

2023年7月7日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2784では 「朝日新聞デジタル」(6月11日)から、NHKの連続テレビ小説「舞い上がれ」の脚本家・桑原亮子 がドラマの登場人物の架空の詩画集で編んだ、次の詩歌が取り上げられています。    縫ひしものに針の残りてをらぬこと確か    むるごとメール見返す この歌は、作者が電子メールに向き合う時の心配り、相手に対する優しさを如実に表していると 感じます。 メールでは、相手の顔が見えないだけに、またそれでいて、こちらの送る文字が瞬時に相手に伝わ るだけに、送り手は自分の意が十分に相手に伝わっているか、言外のこちらの気持ちが理解される かと、発信する側は懸念を抱きがちです。 そこで作者は、自分の作成した文章を細心の注意をもって見返して、それから相手に発信すると いうことなのでしょう。その注意深い振り返りを、縫物に針が残っていないか確かめるように確認 すると表現しているのです。 着物の手縫いの縫製などが盛んにおこなわれていたころ、縫い上がった着物に針が残っているとい うことは、時々ありました。縫製をする時に、仕付け針で生地が動かないように固定して縫う方法 が採られていたので、ついつい仕立てあがった後に、その針を取り忘れるということがあったので しょう。 その着物を着用する人の気持ちになって、針が残っていないか、丁寧に確認する。同様の気持ちで メールの文章を吟味する、ということなのでしょう。 この心の持ち方は、工芸作品を制作する時の心構えにも通じる、と思います。つまり、その作品を 使用する人の気持ちを想像して制作する、という意味において。 発信者の受け手への思いやりを端的に表現する、素晴らしい言葉だと思いました。

2023年9月1日金曜日

小川哲著「地図と拳」を読んで

第168回直木賞受賞作です。日露戦争から第二次世界大戦終結まで、中国東北部で繰り広げられた、 満州国建国とその崩壊を巡る、知略と殺戮に満ちた歴史ロマン。スケールは極めて大きく、また ロシアのウクライナ侵攻という、現実の衝撃的な出来事もあって、国家とは何か、戦争とは何か を問う、問題小説でもあります。 また、この大作に読者を引き込む導入部が、とても秀逸であると感じました。例えば序章では、 日露戦争前夜ロシアの動向を探るため、中国東北部におけるロシアの勢力圏である満州に、軍の 密名を受けて侵入した高木は、同行する一見ひ弱そうな通訳細川を苦々しく感じていますが、 実際に二人がロシア軍に拘束された時に細川は、並外れた知略と交渉術を発揮して、高木を窮地 から救います。そして、その時に鍵になった高木のナイフは、物語全体の結末までも重要な役割を 果たし、高木と細川の縁は全編を通して、物語を牽引して行くのです。 あるいは第一章では、満州国に布教のために派遣されて来ていたロシア人宣教師クラスニコフは、 義和団の変で排外機運が急激に高まる中で、自分を襲った孫悟空を信仰によって救い、孫は後に 満州国繁栄の象徴となり、クラスニコフは、日本軍への中国民衆の抵抗運動の精神的支柱となり ます。このような巧みな導入部を得て、長大な物語は一気に進んで行きます。 上記のように、全編に通底する物語の駆動力にはかなり強いものを感じ、読者に長い物語を読み 通させる持久力を生み出していますし、途中に挟まる出来事の冷徹でリアルな描写には、戦争の 残酷さや傀儡国家の虚妄、日本軍の非道や被占領民の悲惨が、克明に描き出されていると感じま した。 しかし、現実に起こった歴史的事件を全体像として把握するには、あくまで断片的で、観念論に 偏っている思われて、空想領域を出ない小説と感じられました。 ここでもう一点付け加えたいのは、この小説は主要登場人物それぞれの視点から物語を語ること によって、公平な立場を堅持しながら、ストーリーを展開しようと努めているいると思われます が、読者である私は戦闘場面などで読んでいてついつい、日本軍に肩入れしようとしている自分 に気づくことがありました。過去の日本の愚行や過ちは肝に銘じているはずなのに、戦闘的な 場面に遭遇した時の人間心理の性には、考えさせられるところがありました。

2023年8月25日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2775を読んで

2023年6月28日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2775では 詩人・小説家小池昌代の随想集『屋上への誘惑』から、次のことばが取り上げられています。    まるでしたことの一切が、なかったかの    ように、あしらわれる行為です。 人の一生の活動には、創作活動などある種の仕事や、相続、墓のように、生の記憶を残そうと する行為がある一方、掃除などの日常の雑務のような消えゆく行為もある。上記の言葉は、 そのような日々に消費される行為を表わしているようです。 でも人の生は、そういう消えゆく行為で大部分が成り立っている。だから、効率や合理性の 観点では価値を見出しにくい、人生の大部分を占めるそんな行為を黙々とこなすことに耐えて こそ、明日は開かれると小池は言うのです。 でも、一見無価値に見えるというそのような消えゆく行為は、本当に無意味でしょうか?いえ 私には、そうした取るに足りない行為にこそ価値があると思われます。なぜならそのような行為 が日常を作り、それに伴って人の心を磨いて行くと思われるからです。 例えば掃除や片付けにしても、やっても直ぐに汚れたり散らかってしまう。一体やる意味がある のかという思いは、人が得てして抱く感情です。しかし、少しでも綺麗に、便利にと工夫をして 掃除や片付けをした後には、達成感や満足感が残り、爽やかな気分になります。そして、その ような日常を繰り返すことは、その人の心に変化をもたらさないでしょうか? 私は確実にもたらすと信じますし、従って上記の小池の言葉は、このような行為を効率性の観点 から、「けだかい行為」と言いながら苦行とみなしているところに、同意できないものを感じ ます。 より良き人生の過ごし方という点で、日常の何気ない行為の重要性という意味では、求める ところは同じ方向にしても、心の持ちようで負担感が変わるのではないかと、私は思います。

2023年8月17日木曜日

丸谷才一著「忠臣蔵とは何か」を読んで

40年近く前の著作なので、現代の歴史解釈では、違う見解もあるかも知れません。しかし私にとって は、固定観念として持っていた、忠臣蔵というものの見方に、変更を余儀なくさせてくれる、刺激的 な書でした。 まず忠臣蔵のモチーフとなる、浅野内匠頭の刃傷事件と、その家来赤穂浪士達による吉良邸への討ち 入り事件、そしてそれらの実際の出来事が浄瑠璃、歌舞伎において、「忠臣蔵」として長く、いや 現在にまでも、広く庶民に愛好されることになる作品として成立する過程において、江戸期という 近世の時代の人々のものの考え方が、強く影響を及ぼしているという事実を、本書は筋道を立てて 説明してくれている、ということです。 それに対して私たちの固定観念では、主君の被った理不尽な事態に対する無念を晴らすために、敢え て幕府の掟に反して障害を乗り越え、首尾よく敵討ちを行った赤穂浪士は、武士としての忠義の鏡で、 その功績は「忠臣蔵」として長く語り継がれ、日本人の心情にマッチして愛され続けることになりま す。 しかし近世の人々の価値観や、ものの考え方から推察すると、まず内匠頭の刃傷沙汰は厳然たる事実 として置いておくにしても、赤穂浪士が討ち入りに至る動機には、荒ぶる怨霊としての主君の霊を 慰めること、そして浄瑠璃、歌舞伎の先行作品として定着していた、鎌倉時代の曾我兄弟の敵討ちを 題材とする「曾我もの」の影響が如実に感じられる、といいます。 つまり、近代以前の人々の怨霊信仰、そして流通していた文芸作品の強い影響力、すなわち、討ち入 り事件に対する当時の文化の大きい働きかけを、指摘しています。 また「忠臣蔵」の成立の動機についても、赤穂浪士の討ち入りが、江戸幕藩体制に対する庶民の憤り、 更には、江戸の町が火災や自然災害に悩まされていたことに対する、仇討ちの浪士たちの衣装が、 火事場装束であることの災厄を祓う祝禱性や、願望が込められている、といいます。 歴史的な事件や、それを巡る文学作品の成立過程を、当時の人々のものの考え方や心情に則って考察 することの大切さを、考えさせてくれる好著でした。

2023年8月10日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2751を読んで

2023年6月3日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2751では 神学、宗教学者・森本あんりの『不寛容論』から次のことばが取り上げられています。    寛容はちっとも美徳ではない 寛容とは元来、自分とは異なる信念の持ち主を「しぶしぶ認める」ことであり、相手にとって それは己の価値を見下されることに等しい、と森本は言います。 これは難しい。人は自分の価値観を他人に押し付けないために、自らが肝要であろうとする ものであると思います。そして私自身も、そのように自身に言い聞かせて、不寛容にならない ように心がけて来たと感じます。 でも言われるように、寛容な態度を受ける側にとっては、確かにそれは、相手に見下された ように受け取るかもしれません。 そこで森本は、自分は存外不寛容な人間だと認めるほうが、不寛容は認めないとするより、 人々が共存できる場は僅かに広がる、と回答します。 これは広がりを持つ逆転の発想です。自分の弱さ、至らなさを認めることによって心に余裕が 出来て、かえって人に自然に寛容な態度で接することが出来る。 このように自らの弱点を謙虚に見つめて、他者に接することが、本当の意味での不寛容を和ら げることになるのでしょう。 社会的に弱い立場の人々への多数派の接し方という意味でも、役に立つ態度だと思います。

2023年8月4日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2735を読んで

2023年5月18日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2735では 元女優でプロデューサーの小田貴月の『高倉健、最後の季節。』から、俳優・高倉健の次のことばが 取り上げられています。    多くの人があえぎながら生きて行く人生    で、その人の心意気を垣間見たとき、僕    は美しいと感じます。 「美しき人とは?」との質問への、この俳優の回答だそうです。 苦難に耐えながら、己の美学を貫く男。彼にはそんなイメージがつきまといます。またこの後、美し さとは、「他者に対しての優しさ」ではないかと続けたそうです。 自らは心意気を保持しながら、他人に対してはあくまで優しい。ダンディズムの一つの究極の形で しょう。 私にはとても、真似することは出来ないけれど、人生の大部分は自分の思うようには行かない中で、 それをじっと受け止めて、黙々と自分の信じる道を歩みながら、他者に対しては優しくありたいと 務めることは、可能かも知れません。 少なくとも、そのようにありたいと、思い続けることは大切でしょう。この言葉を読んで、そんな風 に思いました。

2023年7月27日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2716を読んで

2023年4月28日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2716では 漫画家・細川貂々の絵本『こころって何だろう』から、次のことばが取り上げられています。    いろいろな人に会うごとに こころが動いて    いろんなきもちがうまれてくる 心は誰かとかかわるときに動く。色々なことを思ううち、「自分にしかわからないヒミツ」が 生まれる、とこの漫画家は言います。 そう、例え沢山本を読んでも、映画やドラマを観ても、自分一人で感じ、考えることは、たかが 知れています。やはり、誰か他の人との関りの中で心は揺り動かされて、想いや気持ちが生まれ て来るのでしょう。 人との関りは、それだけ大切なのですね。だけど、このコロナ禍では、その関りが失われてし まった。電話、手紙、SNS、間接的な交流手段はあるけれど、でもそれはお互いが顔を突き合わ せた交流とは全然違います。例えばリモートでは実際に接していても、何か薄皮越しに接する ような、歯がゆさが残る、というふうに。 でもようやく、コロナによる制限が緩和されて、私たちが人と接する機会が格段に増えました。 今ほど人と直接に接することの貴重さが、実感を持って感じられる時はないでしょう。 この機会を大切に考えて、人と接する時間を出来るだけ増やすようにしていきたいと思います。

2023年7月14日金曜日

北杜夫著「輝ける碧き空の下で 第二部」を読んで

暑気ブラジル移民の群像を描く、長編小説の第二部にして完結編です。本書あとがきで著者も語って いますが、当初は三部作の予定が、第二次大戦後の展開を描くと物語が入り組んで複雑になるために、 終戦後間もなくで締めくくられています。 第二部ではまず、ブラジル北部アマゾン川流域への入植状況について、筆が進められています。ここ で印象に残るのはジュート栽培の成功までの道程を描くストーリーで、植民のための正規教育を受け た、国士館の高等拓殖学校の生徒たちに交じって入植した、家族移民の一人尾山良太が、度重なる ジュート栽培の失敗のために生徒たちもやる気を失う中で、自ら植え付けた数多の株の中から、当地 での栽培に適したジュートを数株発見し、それが日本人移民によるジュート栽培の隆盛につながると いうくだりです。一つのことを信じて精魂を込める、愚直な努力の素晴らしさを感じさせられました。 またそれに比べればサイドストーリーとも言えますが、拓殖学校生の一人木内喜一郎が色恋に対して ナイーブであるために、当時の日本人の価値観からは絶対に忌避すべき、現地土着民の娘を妻に迎え ることになる顛末を描くくだりで、ブラジルの広大な大地の中での、異邦人である日本人の寄る辺な さ、それに対する現地人のバイタリティーの落差が、如実に見られて面白く感じました。 さて本書第二部で最も興味深かいのは、第二次大戦勃発から戦中戦後における日本人移民の状況です。 ブラジルは国土が広大で、また多民族国家であるために、大戦初期には、敵方の国民である日本人 移民に対する差別意識や迫害も、米国への移民に比べて少ないと感じられます。しかし戦争が進むと 都会では、日本語の使用禁止や強制立ち退き、わずかな敵対行為の嫌疑での収監と、締め付けが強化 されます。 長年築き上げた財産、信用が一瞬のうちに灰燼に帰するという意味で、戦争のむなしさ、在留外国人 の立場の弱さを感じました。更に注目すべきは、戦争終結後、なお日本の戦勝を信じる勝ち組と、 敗戦を悟る負け組が生まれ、勝ち組が負け組を殺害する事件が起こったことです。 母国から遠く離れ、情報が極端に少ない閉じられたコミュニティーの中では、このような妄執がはび こり、暴挙が行われるのでしょう。またどさくさに紛れた詐欺行為も多く発生して路頭に迷う者も 多く生まれたといいます。人間のどうしようもない性を思うと共に、今日のコロナ禍での、オレオレ 詐欺の増加との共通点も感じられました。

2023年7月5日水曜日

北杜夫著「輝ける碧き空の下で 第一部」を読んで

日本の初期ブラジル移民の姿を体系的に綴る、長編小説の第一部です。 まず読み始めて、懐かしい文章のリズムに心地よさを覚えました。私は高校生の頃に、北杜夫の 作品を愛読していました。それから40年以上経っての同じ著者の小説への回帰であり、しかも 本作は、私が馴染んだ頃以降に著された作品ですが、、やはり彼ならではの文章のリズムがある と感じられ、一種満ち足りた思いに包まれました。 さて本書は、国内での貧しい生活を脱して、新天地ブラジルで一旗揚げようと勇躍やって来た大 多数の移民と、彼らの指導的立場にある移民会社の現場責任者、通訳などの人々が、現地での 自立と日本人の地位向上を目指して、多くの犠牲を払いながらも、身を粉にして奮闘する姿を 描いています。 それぞれの登場人物の、波乱万丈の生き方のエピソードには事欠きませんが、まず彼らの思考や 行動の総体から感じたことについて記してみたいと思います。というのは、彼らがブラジルに 渡った明治時代後期の日本人のものの考え方や行為は、現代を生きる私たちの源流をなすと思わ れ、また異国への移民という特殊な環境が、その特性を際立たせていると感じられるからです。 そのように考えて彼らの行状を見ると、まず彼らは日本人であるというプライドが大変高く、 これは無論自分が海外に身を置いているという条件によるところも大きいですが、心の拠り所と して天皇を崇敬し、また日露戦争で欧米列強の一角に勝利した自負心が、大きいと推察されます。 このプライドの高さは、彼らを勤勉にし、生真面目さや逆境への反発心を生み出していると思わ れます。その反面、彼らの多くは一旦見限ると、契約が残っていても無断で耕地を抜け出して 漂泊者になり、懸命に働いて一定の金が出来ると、過酷な労働の反動として、女や酒や賭博に 蕩尽してしまいます。 これらの思慮を欠く行為は、生活の安定しない人間の普遍的な行動とも考えられますが、日本人 のプライドの高さがそれを助長しているようにも思われます。 最後に、本書第一部での私の最も心に残ったエピソードは、通訳としてブラジルに渡った平野 運平が、一刻も早く移民たちに自作耕地を持たせるために平野植民地を開くも、予備知識の不足 から同植民地でのマラリア蔓延に苦しみ、折しもバッタによる食害、冷害による深刻な資金難を 埋め合わせるため金策に奔走する中で、スペイン風邪で命を落とすエピソードで、彼は間違いも 犯しますが、指導的立場にある人間としての矜持と使命感には、感動させられました。

2023年6月23日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2683を読んで

2023年3月25日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2683では 米国の言語学者・批評家、ノーム・チョムスキーの『壊れゆく世界の標』から、次のことばが取り 上げられています。    選択の余地はない。……希望を持つしかない    のだよ。 これに付け加えて、チョムスキーは、希望を手放すのは「最悪の事態が起こるのに協力しよう」と 言うに等しい、と続けます。 そう、諦めたら全てが崩れ去るかもしれない。いかなる瀬戸際においても、私たちが取るべき、 いや取らざるを得ない、心構えでしょう。ウクライナの人々が、自らの領土を奪還することを、心 の支えにしているように。 私たちは困難に直面した時、前を向かざるを得ない。人間は弱い生き物だから、悲観的になったり、 消極的になった時には、直ぐに心の隙間に疑念や不安が入り込み、それがどんどん膨らんで、取り 返しのつかないことになってしまう。 それを阻止するためにも前を見据える。現実には先行きへの不安や、現状への納得のいかなさが 充満する世の中だけど、それを振り切り前を向く。そう志し、そうありたいと、常に思っています。

2023年6月13日火曜日

平野啓一郎著 「死刑について」を読んで

我が国が先進国の中で、死刑制度を維持している数少ない国であることは、かねてからよく話題に なることです。また世界全体を見渡しても、趨勢は死刑廃止に向かっているように思われます。 そのような中で、報道で死刑が取り上げられる状況を見ていると、その姿勢が大変いびつである ように感じられます。 つまり、凶悪な事件を扱う裁判で被告に死刑が宣告される時、それは当然の報いであるように告げ られ、遺族の無念や、彼らにシンパシーを抱く大衆も、幾分かは想いを晴らされるような論調で 報道されます。 他方、一般的に判決から長い期間を経て、法務大臣の認可によってある死刑囚に刑が執行される時、 それは簡潔にさりげなく、出来ることなら触れたくないような調子で、報道されるように思われ ます。 これは我々国民の大多数の死刑に対する想いを反映していて、すなわち、犯人が極悪非道の罪を 犯す時、我々は彼に死をもって罪を償うことを熱烈に支持し、他方死刑の執行においては、事件 から大抵の場合十分に時間が経過していることも重なって、我々は無関心であったり、どこか後ろ めたさを感じて目を背けようとしているように思われます。 前置きが長くなりましたが、このような日本の現状に対して作家平野啓一郎は、死刑制度の廃止を 訴えかけます。本書は、著者が大阪弁護士会主催の講演会で語ったものに、日弁連主催のシンポ ジウムでのコメント等を加えて再構成されたものです。 従って出来るだけ平易に語り掛けようとはしていますが、法律の専門家に訴求するために、硬い 表現になっている部分もあると感じられます。 また本書の論旨は、今まで死刑廃止について様々に語られて来たことを集約した趣がありますが、 私の特に印象に残ったのは、死刑制度は日本国憲法の規定する基本的人権に明らかに違反するもの であり、そのことを我々国民が厳粛に受け止めていないこと。また被害者の遺族感情は複雑であり、 加害者を厳罰に処する以前に、物心両面での手厚い遺族支援が求められることです。 最近のこの国の風潮は、他者の罪、過失を必要以上に厳しくあげつらい、糾弾し、一部にはそう することによって憂さを晴らすという状況が見受けられ、その結果社会が益々息苦しくなって来て いるように感にられます。 犯した罪は正しく裁かれなければなりませんが、憎しみの感情に支配されるのではなく、包容力や 優しさが尊ばれる社会に向かうことを、私も切に願っています。

2023年5月30日火曜日

「鷲田清一折々のことば」2660を読んで

2023年2月19日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2660では 18世紀の啓蒙思想家・ルソーの『エミール(中)』から、次のことばが取り上げられています。    人間を社会的にするのはかれの弱さだ。 そうです。きっと人間がもし弱みを持たない、絶対的な自信に包まれた存在であるなら、彼は 他人の助けなど求めないし、我が道を進むことを選ぶでしょう。 でも人間がそのような完璧な存在ではないから、社会性が生まれ、人類が発展して来たのも 間違いありません。弱いからこそつながり、助け合い、高度な文明を築き上げて来たのです。 ところが、複雑な社会化が成し遂げられた最近になって、私たち現代人は、個人的にも万能感 とでもいうような思い上がりの感覚に囚われて、全てのことを自ら1人で決定し、遂行している ような幻想に陥り勝ちになっているのではないでしょうか? これは、社会生活のあらゆる場面で、機械化や情報化がすすんで、表面的には自分が能動的に 係わりたいと考える多くのこが達成可能となり、必要とする情報が直ぐに入手出来るように なったことに起因すると思われますが、実際にはそれは社会生活全体の中のほんの上皮の部分 でのことに過ぎないのに、私たちは得てしてその感覚に囚われて、驕りの気分に浸されてしまう のだと思われます。 大切なことは、自分が弱い存在であることを自覚すること、その上で多くの人の助けによって 自分の生活が初めて成り立っていることを意識して、社会活動を営むことだと思われます。

2023年5月9日火曜日

山折哲雄著「愛欲の精神史」を読んで

季刊雑誌に長期連載されたものを一冊にまとめた浩瀚の書で、仏教発生のインドから、伝来の道筋に 沿って日本まで、エロスをテーマにして、それぞれの精神史を探究する書です。 その考察に当たり、ガンディーと空海がキーパーソンとして取り上げられていますが、本書の内容が 豊富で、膨大であるため、ここでは私が特に興味を惹かれた、空海の日本にもたらした密教のエロス の思想が、「源氏物語」「とわずかたり」という女流文学に与えた影響について、記した部分への 感想を述べたいと思います。 まずその前提として、少し遡ることになりますが、インド人の精神世界に存在する激しい性の肯定、 渇望は、当然その地に生まれた仏教の根底にもあり、その宗教が中国、日本へと伝来する過程で、 それぞれの民族性、風土に合わせて、そこに埋め込まれた性的な倫理観も、変容を遂げて行きます。 こうして日本にもたらされた空海の密教の内部にも、顕在的ではなく隠微な形としてエロスの思想が 含まれており、胎蔵界曼荼羅や普賢十羅刹女像には、女性化した男性を巡る多数の女性という関係性 で、エロチシズムが発現していると著者は言います。 この構図は、正に源氏物語のストーリー展開にも当てはまり、著者の紫式部は、密教思想の影響を 受けて、このあまりにも有名な物語を著したと、山折は推測します。 ここで私が感銘を受けたのは、主人公の光源氏が現代の感覚ではまだまだ幼く、性的渇望を必要と しない高貴な身分の人物であるために、女性的な魅力を持つ男性であるということで、このように 解釈すると、源氏物語のストーリーの構図が理解しやすいと感じたことです。 さて時代が下って、待賢門院璋子、そして「とわずかたり」の著者後深草院二条の生涯を見ると、 1人の男と多数の女性の図式は、一人の女性と多数の男の図式に代わって、生む性としての魅力的な 女性に群がる高貴な男性というパターンが、文学作品に現れるようになります。 ただこの図式においても、若さと美貌を武器とする魅力的な女性の権勢は一時的で、彼女らの後半生 においては、性の過剰と老いへのむなしさが、心を支配することになります。 いずれにしても、仏教の古典文学への影響を理解するのに適した、書であると感じました。

2023年5月3日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2654を読んで

2023年2月23日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2654では 社会哲学研究者・玉手慎一郎の論考「強い制度志向と倫理のアウトソーシング」(「現代思想」1月号) から、次のことばが取り上げられています。    倫理的な行動や態度を要求することなしに、    端的に望ましい帰結が生み出されるように制    度を設計しようという考え方が広がっている これも合理的で、早急に結果を求める最近の風潮の現れでしょうか?でも、このような形の制度設計が なされると、人が自らの倫理観に照らして、内省的な態度で行動を起こすという習慣が失われてしまい かねません。その結果余計に、他者を信じられない殺伐とした社会になって行くのではないでしょうか。 例えば分かりやすい例では、道路わきに設置してある農産物の即売所で、従来なら台に野菜が並べられ て、その傍らに設けてある料金箱に購入者が任意で代金を入れるようになっていたのに、最近では販売 機を設置して、料金を投入しなければ野菜が取り出せないシステムが増えてきているように感じます。 これは勿論、前述のようなシステムでは、料金を支払わずに品物を持ち帰る人が増えて来ているという 悲しい現実への対応策ということなのでしょうが、販売機システムが当たり前になると、益々人の倫理 観が衰えて行く様に感じます。 では多少の損をしても、人の善意に期待する制度を維持すべきだとは、とても無責任には言えませんが、 少なくとも、そのような美徳に期待するシステムを残せるような慣習を保つ努力は、続けて行くべきだ と思います。

2023年4月27日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2702を読んで

2023年4月13日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2702では 我が国を代表する音楽評論家・吉田秀和の随想集『文学の時』から、次のことばが取り上げられ ています。    芸術は生活を飾る花、余裕があってはじめて    生まれるものと考えている人が多いけれど、そ    れは逆。芸術は生活の根なのです。 1989年のベルリンの壁崩壊後の、東欧世界の変化を見守りながらの吉田の感慨です。 確かに、ソ連をはじめとする東欧圏では、クラシック音楽やバレーは国家の手厚い庇護の下に 隆盛を極めたけれど、文学など思想が絡む分野においては、体制に反逆するものにしか、優れた 仕事は生まれなかったように感じます。 つまりビビットに現在を映す分野において、芸術は切実に生活に根差すものなのでしょう。 今ベルリンの壁崩壊後の東欧世界の行く末として、ロシアによるウクライナ侵攻が行われていま すが、この惨劇の後にどのような世界が生まれ、優れた芸術が生み出されるのか、この戦争の 早期終結を祈りながらも、来るべき世界の指針を示す芸術の誕生に、大いに期待しています。

2023年4月19日水曜日

開高健著「珠玉」を読んで

三つの宝石に因む、三つの物語で構成された作者の絶筆です。 およそ30年前に刊行された単行本を開いていると、本のケースの表題に目をとめた、自家用車の 定期点検に訪れていたディーラーのあるスタッフの方から、開高の絶筆を読んでいるのですね、 と驚かれました。没後長い年月を経ても、作者の知名度が色あせないことに、感銘を受けました。 絶筆と謳われるだけあって、海の色、血の色、月明の色に象徴される、三つの宝石を媒介とした 回想と魂の彷徨の物語です。 これらの物語を読んでいると、生前絶大な人気を誇ったこの作家の人生がどのようなものであった か、また彼の興味がどのようなことに向いていたかを、大枠で捉えることが出来るように感じま した。 まず、海の色の宝石にまつわる「掌のなかの海」では、開高が物書きとして自立すべく独立後、 まだあまり仕事もなく、妻子を抱え焦燥感に駆られる様子が印象に残りました。することもなく、 仕事の題材を探す口実で家を出て、映画を観る。その後こだわりの強いバーテンダーのいるバー に寄って、時を過ごす。そのバーでの作者が酒を飲む様子、バーテンダーとのやり取り。その 描写が如何に秀逸であることでしょう!この今日的な合理性とは対極にある行動が、作家開高健 を作り上げたことが分かります。 更には、このバーで知り合った行方不明の息子を捜す医師の身体が、そこはかとなく発する哀しみ は人生の無情を感じさせ、作家の目線がそのようなところにも強く惹きつけられていたことが分 かります。 血の色の宝石に因む「玩物喪志」では、行きつけの中華料理店の中国人店主とのやり取りから始 まって、その友人の料理の腕はあるのに、賭けマージャンで自らの店を失い、元の自らの店で コックとして働く男のやるせなさを描くことによって、人間の者狂おしさ、人生の理不尽を表わし、 またベトナム戦争の従軍作家として目にした夥しい血の色について、冷静な筆致で描き出すことに よって、戦争の悲惨さを浮かび上がらせます。 月明の色の宝石に因む「一滴の光」は、一転して老いらく性愛の物語で、私の知る限りでは、この 時代の日本の小説では好色文学を除いて、私小説風にこのような題材を赤裸々に描いた作品は少な かったと思いますが、開高は自らの欲望をさらけ出すように大胆に、初老の男と若い女の淫らな 行為を表現しています。ここにも男の願望を掘り下げ、描き続けたこの作家の確かな姿が現れて いると感じました。

2023年4月11日火曜日

吉本隆明著「吉本隆明のメディアを疑え あふれる報道から「真実」を読み取る方」を読んで

戦後思想に重要な足跡を残した思想家・吉本隆明が、時事的な社会問題について考え、発表した文章を、 まとめた本です。 今から20年前、2002年出版の書なので、その時語られた時事的問題は、当然一昔前のものになります。 しかし20年の時を経て読んでみて、隔世の感を感じるよりも、時代は繰り返されるとでも言うか、ある いは、人間の行いは変わり映えしないというような、当時と現在の類似性に驚かされるところがありま した。 例えばこの本で吉本は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの報復として米国が行った、アフガニス タンへの激しい空爆を伴う攻撃を、大国の一方的な論理による攻撃として非難しており、今日では歴史 的にもそのような評価が定着していると思われますが、今現在の世界においても、大国ロシアによる 小国ウクライナに対する一方的な軍事攻撃が行われています。 あるいは、吉本はオウム真理教の一連のテロ事件において、地下鉄サリン事件でオウムがサリンという 化学兵器を初めて、公衆が集まる所で使用したことの衝撃を記し、ー私自身も、改めてこの異様な教団 のことを思い起こしましたが、今日でも、安倍元首相暗殺事件を切っ掛けに、統一教会による信者への 多額の献金強要と、それに伴う信者家庭の崩壊が大きな社会問題となっています。 また、薬害エイズ事件について吉本は、非加熱輸入血液製剤を使用して血友病患者がエイズに感染し、 多数が死亡した根本の原因は、当時の厚生省の薬事行政にあるのに、この治療を委嘱させた医師団の長 や、一介の厚生省の課長補佐に責任の全てを押し付け、決着させてしまったことの不正を憤っています が、今現に進行中のコロナ禍における医療政策や行政の混乱、ワクチン接種の推進に伴う重い副反応の 問題などは、後年の丁寧な検証が必要でしょう。 このように列挙しても、それぞれ個別の状況の違いはあっても、類似する部分には共通性があると、思 われます。 本書で吉本はまた、マスメディアには体制に迎合するきらいや、大衆の気分を煽る傾向があるので、受 け手もその点に十分に注意して、報道に接しなければならないと語っています。この点は肝に銘じなけ ればならないと、改めて思いました。 非行少年犯罪の厳罰化について、最近は大人が幼児化していること、世間に潔癖さを求めすぎている ことによる社会の息苦しさの指摘には、共感できるところがありました。

2023年4月5日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2686を読んで

2023年3月28日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2686では 幕末に活躍した旧幕臣・勝海舟の、明治29年に各地で起きた津波や洪水にふれて語った『氷川 清話』から、次のことばが取り上げられています。    昔の人は……人目に見えるやうなところに頓    着しない。その代わりに誰にも見えない地底へ、    イクラ力を籠めたか知れないよ。 これは、堤防を造るにしても、とにかく地下を深く掘り下げ、固めてから始めたし、炊き出し 用にお蔵米をしかと準備し、急場の治療の体制を整え、いざとなれば年貢も寛めた、ということ のようです。 確かに大きな被害をもたらす地震等自然災害が各地に頻発し、防災の必要性が強く叫ばれる今日 においても、天気の観測、震災予知の技術は江戸時代に比べて格段に進歩したとはいえ、実際の 災害への備えという意味では、ついつい経済的効率を優先して、結果として十分な準備が出来て いないように感じられます。 これは、目まぐるしく社会情勢が変化する現代社会において、またいつどこで起こるか分から ない災害への備えということで、なかなか充実した災害対策が取りにくいというジレンマもあり ますが、昔の人の地に足の着いた防災感覚には、学ぶべきことがあると思います。 更には防災に限らず、社会活動の色々な部分において、うわべだけではなく、基本的なところ から物事を構築する姿勢も、大切でしょう。

2023年3月23日木曜日

鈴木忠平著「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたか」を読んで

かつて名バッターとして鳴らした落合博満が、中日ドラゴンズの監督として好成績を残した8年間 を、当時のスポーツ紙の担当記者であった著者が、関係者へのインタビューを交えて振り返り、 とかく批判や軋轢に晒されながらも、球団に残した足跡を伝えるドキュメンタリーです。 私たちがファンとしてプロ野球球団を応援する時、チームの勝負や成績に一喜一憂するのみなら ず、特定の選手個人や監督に注目して試合の流れを追い、チームにおけるそれぞれの役割や関係性 を確認しながら、一つの組織が優勝という最終目標に向かって戦う過程を、楽しむ場合があります。 プロ野球が長いペナントレースを争う団体球技であり、団結して戦うチームを作り上げた球団が、 最終的に優勝という美酒を味わうことから、私たちはプロ野球チームを自分たちの属する社会組織 になぞらえ、贔屓のチームに感情移入することによって、自己の目的実現を疑似体験することが 出来るのかも知れません。 もしそうであるならば、プロ野球球団の監督は、単なるスポーツチームの監督のみならず、多くの ファンにとって、社会的影響力のある存在です。中日ドラゴンズ監督時代の落合は、その意味で 特別な存在だったのでしょう。彼の在任中チームは8年連続Aクラスに入り、リーグ優勝4回、日本一 も経験しました。成績は申し分ありません。 しかし彼は8年間をもって、本人の同席しない球団発表で解任されました。そこには、勝ち続ける けれども球場のファンの入りが悪いこと、監督、選手の給料の高騰、そして最終的には、球団との 不和がありました。 落合はファンサービスをしない監督でした。勝つことが一番のファンサービスであると考えていま した。それは勝利至上主義につながり、突然説明もなく主力選手をスターティングメンバ―から外し たり、日本シリーズで8回まで完全試合をしていた先発投手を、9回に交代させることもありました。 そのような勝利のための非情さも、彼のイメージを悪くしました。 しかし本書を読むと、彼が情に流されたり、体制に迎合せず、鋭い観察眼を用いて合理的に勝利を 追求し、選手にも他人に頼らない真のプロフェッショナルになることを求めた結果、プロ野球チーム の一つの到達点にまでこのチームを押し上げたことが、分かりました。 監督の指導法にも色々な形があります。少なくとも彼は、完成度の高いチームを作り上げた優れた 野球監督だったのです。惜しむらくは、彼の野球スタイルが日本人の好むものではなかったこと、彼 にプロの監督としての自分の考え方を、世間に発信する力が欠けていたことです。

2023年3月17日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2670を読んで

2023年3月11日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2670では 写真家・齋藤陽道の子育て日記『せかいはことば』から、次のことばが取り上げられています。   「なんにもない日、おめでとう!」 この写真家は、東日本大震災以降、今日「おはよう」と言えるのも、見えない誰かに支えられ てのこと、ちっとも「あたりまえ」でないと、考えるようになったそうです。 そうですね。東日本大震災では幸いにも被災しなかった、私たちにとっても、コロナ禍以降、 当たり前な日常が大変貴重なものと、思えるようになりました。 このようなパンデミックの渦中で、自分自身が、家族が、関係のある人々が、息災に過ごせて いるということ。或いは、他の自然災害にも見舞われずに無事、日常を送れていることは、本当 に有難いことです。 ただ、自分の行っている経済活動に関しては、まだ残念ながら普通の日常が戻って来ていない と言えます。これはそれぞれの業種によってばらつきがあり、私たちの携わる和装業界は、最早 日常品を取り扱うのではなく、限られた趣味の品を取り扱う立場になっているので、立ち直り が遅れているとは十分に想像がつきます。 でもあるいは、パンデミック以降生活スタイルが変わって、私たちが提供する商品は、これから は今までのように必要とされないかもしれません。でも呉服という伝統文化が、全ての人々から 全く見放されることはないと信じて、日々精進していきたいと考えています。

2023年3月9日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2632を詠んで

2023年1月31日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2632では 歴史学者・磯田道史の『歴史の愉しみ方』から、ある露天商の次のことばが取り上げられてい ます。    「この商売、店が客に1本とられることもあ    れば逆もある。気にせんでいい」 ちょっと説明が長くなりますが、磯田が古本市で買った色紙が、軍部が進める大陸政策を厳し く批判した衆議院議員・斎藤隆夫が、国会除名後の思いを記したものと判り、国を誤らせぬ よう命がけで訴えた斎藤の思いに涙し、そのような品を破格の値で得たことを、その露天商に 感謝の思いで伝えたところ、露天商は以上のように答えたそうです。 私たちの商売は、お客様と損得をかけて渡り合うものではないので、私自身とは立場が違い ますが、この露天商と歴史学者のやり取りには、商売というものの真剣勝負としての一側面が あるので、ここでこのことばを紹介しました。 露天商は、真贋の分からないものを、或いは、当たりはずれは時の運と考えているかもしれま せんが、少なくとも自分の勘で仕入れ、歴史学者は目利きとして、玉石混交の品の中から懸命 に価値のあるものを選び、拾い上げる。 この真剣なやり取りの中で、歴史に埋もれていたものが発見され、日の目を見て、広く紹介 されることになる。これもある種の商売の醍醐味、なのに違いありません。

2023年3月1日水曜日

村上龍著「愛と幻想のファシズム(下)」を読んで

「愛と幻想のファシズム」上下刊を読了しましたが、本作ではカリスマ鈴原冬二が、日本を支配 した後の世界は描かれていません。従って現代の世に、人類の狩猟生活時代の精神を蘇らせると いう企ても、未完のままです。 しかし、この小説の提示する一見荒唐無稽な構想は、世界が危機的状況に陥った現在のような 社会状況においては、示唆に富むものがあると感じられます。 その捉え方は、読者各人によって様々であると思われますが、私は、実際の国際社会における 日本国の自主独立ということについて、考えさせられました。 第二次世界大戦後日本は、周知のように日米安全保障条約によって、米国の軍事的庇護の元急激 な経済成長を遂げ、現在の国際的な地位を築き上げました。しかし、外交部分では、米国の政策 に追従する国という印象を拭えず、経済分野においても、強い影響関係にあることは否定出来ま せん。 現在、米ソ冷戦後の米国一強を経て、アメリカの国際的影響力が低下し、東アジアにおいて代わり に中国の経済力の増大と軍事的脅威の拡大、また、北朝鮮、ロシアの好戦的国家の存在が軍事的 緊張を強いる中で、日本の軍事力増強も緊急の課題となっています。 そのような状況の中で、日本の米国からの自立ということを考えると、それを成し遂げるために は、高度な政治力や国民の強い覚悟が必要であると、感じられます。 本書における鈴原冬二の行動は、暴力と狡知というメタファーを介して、そのことの実現の可能性 や是非を、読者に問いかけていると感じたのです。 ウクライナが隣の大国ロシアに軍事侵攻されたという事実、中国が台湾への軍事的挑発を繰り返す 現実は、国際的な平和が希求される現在においても、軍事的脅威が絶えないことを示しています。 他方コロナ禍においては、医薬品、医療技術の安全保障も痛感され、ウクライナ戦争による食料、 石油、天然ガス等の資源価格の高騰は、資源輸入国である日本の心もとなさも実感されます。 少なくともこれからは、米国一辺倒の政治、経済、軍事依存からの脱却が求められるでしょう。 その困難さをも、本作は反面教師的に暗示していると、私には思われました。

2023年2月17日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2625を読んで

2023年1月24日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2625では 随想「京ことば都がたり」(「和楽」2・3月号)から、彬子女王が語った、次の京ことばが 取り上げられています。    むしやしない このことばは、「虫養い」とも書き、お腹が減った時に腹の中の虫が騒ぎ出すので、少し 食べ物を与えて一時しのぎする、という意味で使われます。私も京都で育ったので、子供の 頃には父母が使うのを聞いた覚えがあります。 このことばが興味深いのは、お腹が減ることを、本人の肉体の生理反応と考えないで、腹の 虫という自分ではままならない存在が、勝手に暴れ出すと見なすことで、つまり自身の肉体 も本人の思いのままに制御出来るものではないということを、上手く言い表していること です。 確かに私たちは、元来このような叡智というか、自覚を持っていたのでしょう。でもこの頃 では、社会が便利になるに従って、何もかも自分の思い通りになると思い込んでしまって、 逆に自身の肉体さえ意のままにならないと気づいた時には、ショックを受けてしますように 思われます。 もっと謙虚になって、自分の中の自然の声に耳を傾けられるように、なりたいものです。

2023年2月9日木曜日

村上龍著「愛と幻想のファシズム(上)」を読んで

中南米に端を発する世界恐慌のただ中、未曽有の経済危機に喘ぐ日本に、救世主となるべく現れた 若き狩猟家トウジ、彼は強者生存の論理に従い、政治結社狩猟社を率いて謀略と暴力を用い、過激 派や労組のストをつぶし、反対派を駆逐して、政治の実権を握ろうとする・・・。 バブル経済華やかなりし頃に、その崩壊への危機感、不安を背景に描かれたと思われる小説で、コ ロナ感染症とウクライナ戦争の渦中にある令和の時代に読むと、描かれたことを現実に目の当たり にするような錯覚に囚われます。 世界が危機に直面するという現実との類似性は別としても、なぜこの物語に描かれた主人公らの荒 唐無稽な行動が、今世界に起こっていることとシンクロするように感じられるのかというと、まず コロナ禍において、共産党一党支配という強権的な国家体制である中国が、他の民主的国家体制の 西側先進国に対して、民衆の感染防御、衛生管理という面で、当初大きな成功を収めたからであり、 ウクライナにおいては、大統領独裁体制のロシアが、現代世界においてもなお、軍事力で隣国に侵 攻するという暴挙を行ったという事実によります。 前者は、感染症によるパンデミックのような世界的危機的事態においては、強権によって民衆に行 動制限を加えるような国家体制の方が、結果として多くの民衆の命を救うということを示し、後者 は、現在のように国際的に平和が希求され、話し合いによって紛争を解決する機運が高まっている 社会でも、独裁的な国家は、平気で戦争を始めるということです。 今まで理想としていたことに疑いが生じ、人間社会の進歩に懐疑的にならざるを得ない状況におい て、本書の主人公トウジの非道な行動は、どのような意味を持つのか?私は、彼の行為や思想を嫌 悪感を伴って読み進めながら、最終的にはその答えが見出せることを、期待する自分に気づきまし た。 また本書に描かれる彼の最大の敵、多国籍企業集団「ザ・セブン」も、ある意味現在の金融資本に よる陰謀論や、グローバルに活動し国際的な影響力を及ぼす、アメリカの巨大IT企業GAFAを先取り しているようで、著者の先見の明を感じました。 とにかく、下巻を読むのが楽しみです。

2023年2月3日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2590を読んで

2022年12月19日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2590では NHK・Eテレの番組「趣味どきっ! 読書の森へ 本の道しるべ(2)」で、生物学者福岡伸一 が語った、以下のことばが取り上げられています。    自分が疑えないのは最も知的でない。自分が    無謬であると考えるのは最も知的でない。 私は、この言葉はすごく大切であると、考えます。なぜなら、自分のことを疑えないほど 傲慢なことはないと、思うからです。 それは決して、自分を卑下することではありません。ましてや自信を失うことでもありません。 信念は持ち続けても、自分を疑うという姿勢は保つべきであると、考えます。 というのは、まず自分を疑ってみるというスタンスを失ってしまうと、物事を客観的に判断 することが出来なくなってしまいます。そうなると、知らず知らずのうちに自己本位になった り、思い込みから方向性を見失ったりしがちであると、思うからです。 でも実際には、私も思い込みのバイアスに囚われやすいですし、ともすればそこからほころび が生ずることがあります。そういう過ちをなるべく少なくすることが、生きる上の課題では ありましょう。

2023年1月26日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2565を読んで

2022年11月23日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」では 歌人正岡子規の『正岡子規ベースボール文集』から、次のことばが取り上げられています。    ベースボールにはただの一個の球(ボール)あるのみ。そ    して球は常に防者の手にあり。 正岡子規は、大の野球好きだったそうです。でも、「球は常に防者の手にあり。」という 着眼点には、目からうろこの気持ちがしました。 確かに、サッカー、バスケットボール、ラグビー、アメリカンフットボールなど、他の大半 の球技では、攻撃側が球を支配して防御側を攻めます(従って、ボールを所持する側が入れ 替わったら、攻守が逆転します)。しかし野球では、ボールを手にするのは終始一貫して 守る側です。 また、攻撃側が得点を挙げるためには、防御側の手の届かないところに打球を放つなど、 相手の守りを阻止することが必要になります。つまり、球を所持した守備側の通常の防御を 破綻させることが、得点につながるのです。 即ち、このような直接的ではなく、回りくどいルールの中で、選手や観客をボールそのもの に集中させるシステムに、野球の醍醐味があるのではないでしょうか。 このことばを読んで、そんなことを考えました。

2023年1月19日木曜日

入江曜子著「貴妃は毒殺されたか 皇帝溥儀と関東軍参謀吉岡の謎」を読んで

大日本帝国の傀儡国家満州国の建国と崩壊は、加害側の日本国にその後生を受けた人間である私に とっても、今なお苦く、しかし興味を惹かれる歴史的事象です。 本書は、第二次世界大戦終結後、日本の戦争責任を問う極東国際軍事裁判(東京裁判)で、原告側 証人として出廷した元満州国皇帝溥儀の、日本軍部の満州での専横の象徴として、満州国に派遣 されていた関東軍参謀兼満州国皇帝付吉岡安直中将が、日本に批判的であった皇帝側室譚玉齢を 謀殺したという証言を巡り、著者が当時の資料の精読と共に、関係者へのインタビューを重ね、 吉岡の汚名を晴らし、歴史的真実を明らかにしようとする書です。 例によって、私の旧宅の本箱から出て来た本で、20年以上前に発行されている書籍なので、今読ん で私が抱く感慨と、発刊当時の人々の受け止め方には齟齬があると推察されますが、あくまで現在 の私の思いに則して、感想を記してみたいと思います。 さて、歴史上の出来事を語る場合にも、当事者は、本人の見解や自分に都合の良い解釈を用いて、 語ることが多いと思われます。特に崩壊時における皇帝溥儀の立場からすると、祖国中国への裏切 り行為に対する後ろめたさや、自らが責任を追求されることを忌避するために、全責任を日本軍に 転嫁しようとし、東京裁判当時、ソ連に抑留されて所在不明であった吉岡中将がその標的となって、 責任を全て負わされることとなったことは、十分に考えられることです。 また、日満親交の象徴として、溥儀の弟溥傑に嫁いだ日本華族の令嬢浩が、その回想記の中で、 戦前は日満の、戦後は日中の友好活動における自らの存在価値を高めるために行った記述が、結果 として日本軍部の皇帝に一番近い存在であった吉岡を、貶めることになったことも理解出来ます。 従って本書の記述が、この本が刊行された当時において、吉岡が受けていた不当な非難を是正する 点において、一定以上の意味があったと思われますし、また私が知らなかった満州国崩壊後溥儀の 日本亡命を阻止しようとする動きが、軍部内にあった可能性への言及も、印象に残りました。 しかし他方、今現在からの視点から見ると、本書は、日本軍部の中国での非道の所業を不当に低く 描き、歴史的公正を装いながら、特定の人物をことさら高く評価し、逆にある特定の人物の人間性 を、執拗に非難しているように感じられます。 発刊当時読者が受けた感慨は分かりませんが、私はその部分に少し違和感を覚えました。

2023年1月9日月曜日

高橋たか子著「怒りの子」を読んで

著者の作品を読むのは初めてで、しかも、この著者について何の予備知識もありません。私の家の 建て替えに伴い本箱を整理していて、埋もれていた本を中心に、新築完成後の7月から読書している ので、2~30年前に刊行された本を読んでいることになります。それはそれで、新鮮で楽しいと感じ ています。 この作品は、舞台が私の生まれてから暮らす京都なので、従って30年余り前のこの町を描いている ことになります。だから、今現在とはまとう雰囲気が違うところもあり、しかし、私自身が幼少期 からこの町で育つ中で感じて来たこと、あるいは、その当時には気づきませんでしたが、この本で 描かれることによって、ああそうであったかと思い起こすことが確かにあると、感じました。 それは古い町で、小さい家が狭いところに立て込んでいるために、因習に縛られる部分や、親密さ と警戒感、対抗心がないまぜになった、複雑な人間関係が支配していることです。この感覚は、 実際にそこに住んでいる地元民にはある意味免疫が出来て、あまり意識もしなくなっているのです が、部外者で突然にそこに放り込まれた人間には、あたかも魔窟に一人佇む心地かも知れません。 その意味で一昔前、京都の街中に他地方から嫁入りする女性は苦労すると言われたのも、頷ける気 がします。 さてこの本の主人公美央子も、地方から出て来て、京都の得体のしれなさに飲み込まれてしまった 1人です。彼女は、この町で専門学校に通いながらも、人生の目標が見出せなくて、結婚願望を目的 とはき違えて、親戚筋の年配の独身男性に好意を寄せるも、振り返ってもらえず、自暴自棄になって 殺人を犯します。 このストーリーは、よくある青春の蹉跌を描いた小説とも言えますが、被害者が京都の市井の醜い 部分を体現するような存在であり、美央子が絡みつくそれを断ち切ろうとして、悲劇が起こったとこ ろに、人間の普遍的な性の深淵を描く重厚さがあります。 また美央子が憧れる、この町で逞しく暮らす親戚の初子が、具体的に語られる訳ではありませんが、 キリスト教の信仰を持っていることは、著者が魂の平穏のために必要なものとして暗示したかった ことかも知れませんし、殺人事件の後美央子が、この事件の原因が不可抗力とも解釈できる状況の 中で、あえて罪を認め、服役中に初子の「愛」という言葉を回想する場面には、彼女に許しが訪れ ることを示唆しているとも思われます。