2021年9月27日月曜日

吉村昭著「三陸海岸大津波」を読んで

2011年の東日本大震災は言うに及ばず、東北地方の三陸海岸が度々甚大な津波の被害を受けて 来たことは、漠然とは感じていまいた。しかし本書を読んで、その実態がより現実的なものと して、身に迫って来ました。 本書では明治29年の津波、昭和8年の津波、そして昭和35年のチリ地震津波が取り上げられて いて、それだけでもこの地方が、再三大きな津波の襲来を被っていることが分かります。 まずこの辺の地形が、複雑に入り組んだリアス式海岸で、おまけに沖合には、海底に深く切れ 込んだ海溝が横たわっているために、その付近で発生した地震による大波が、エネルギーを 失うことなく海岸部に近づき、狭い湾口から侵入して一気に陸地を駆け上がり、更には、山が 海に迫る地形のために、沿岸部に集中した村落を襲う。 また三陸海岸自体が、太平洋の外海に直に接しているために、遠く離れた地域の地震による 津波の影響を受けやすいのです。 さて、明治29年と昭和8年の津波を引き起こした地震の震源地は、三陸沖地震多発地帯です。 両津波発生前には、予兆現象がありました。魚が大量に沿岸海域に押し寄せ、思わぬ大量が 続いたり、井戸の水が枯れたり、濁ったり、夜になると沖合の波間に、ぼっと光るものが目撃 されたと言います。自然の得体の知れなさ、神秘を感じます。 また津波が来襲する直前には、速やかに遥か沖まで潮が引きます。そして少しの間をおいて、 轟音と共に巨大な波が襲い掛かって、全てを飲み込むのです。 その凄まじい破壊力に翻弄される人々、肉親を失い悲嘆にくれる人々、著者は被災者の声を 丹念に拾い、とりわけ実際に体験した子供たちの作文が、涙を誘います。 一度起こると、これだけ凄惨な被害をもたらす巨大津波ですが、困ったことには、繰り返され るとはいえ、ある程度の間隔を置いた上で、いつ何時起こるか分からない、ということです。 しかも、チリ地震津波においては、遠方で起こった地震を原因とする津波であるために、体感 による予測も難しかったのです。 現代では科学技術、建設技術の発達、災害情報網の整備、普及によって、本書で取り上げられた 事例の頃よりは、遥かに防災体制が整っています。しかし東日本大震災では、それを凌駕する 深刻な被害がもたらされました。 私たちには、災害の被害情報を継承し、個々の防災意識を高めると共に、国を挙げて危機管理 能力を高めることが、必要なのでしょう。

2021年9月24日金曜日

「青地伯水 現代のことば 表現の自由とキルヒナー」を読んで

2021年9月17日付け京都新聞夕刊、「青地伯水 現代のことば」では、「表現の自由とキル ヒナー」と題して、京都府立大学教授・欧米言語文化ドイツの筆者が、第二次世界大戦前夜 ドイツ表現主義の代表的画家といわれたエルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナーが、ナチ スによって退廃芸術家と揶揄される過程について、語っています。 まず印象的であったのは、新印象派のスーラの作品「サーカス」(1891)と、これを参照し たキルヒナーの「サーカスの乗り手」(1912)を比較した記述で、私は実際にネットで検索 して両者の画像を比較して観ましたが、構図はほぼ同様でありながら、スーラ作品には世紀 末パリにおける市民の娯楽としてのサーカスが、楽天的なイメージで描かれ、他方キルヒナ ー作品では、ドイツにおけるナチス台頭時代の不穏な雰囲気をまとって、サーカスが何か 不吉な影を感じさせるように描かれています。 たった20年ぐらいの時間の隔たりで、時代がこのように激変し、その環境から生み出される 芸術が、おのずから変容しなければならなかった事実の証左を目の当たりにして、慄然と するものを感じました。 更にはキルヒナー自身が、自尊心が極端に強く、内面の弱さを抱えていて、他者からの批判 に我慢ならず、ついには自身が彼を擁護する架空の批評家ルイ・ドゥ・マルセルを演じて、 自分の作品への擁護論文をでっち上げるに至ったというエピソードには、この才能ある画家 の神経の過敏さを実感すると共に、それゆえなおさら、彼がナチスによって誹謗中傷のレッ テルを貼られた時に、自ら死を選ばざるを得なかったことの、切実さを感じました。 芸術における表現の自由の大切さをまざまざと感じさせる、優れたエッセイであると、感じ ました。

2021年9月20日月曜日

「鷲田清一折々のことば」2139を読んで

2021年9月8日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2139では 漫画家槇村さとるとスタイリスト地曳いく子の「青春と読書」9月号の対談から、槇村の 次のことばが取り上げられています。    人の逃げ場や依存先はたいてい、くだらない    ことなの。 人が逃げたり、依存したりする先は、確かにくだらないものかもしれない。逃げる、依存 するという感情自体が、既に負い目を負っているから。 でも、それらは追い詰められた人には、大切な場所、ものであるはずです。なぜなら、 そのような窮地に置かれた人にとっては、息を抜く、安息を感じることがどうしても必要 であるからです。 だから肝心なのは、逃げ、依存した先で自分を振り返って何を感じるかでしょう。そう すれば次には、そこからどう立ち上がるべきかが見えて来ると思われます。 でも最悪なのは、逃げたり、依存したりしていることに自覚的でないこと。そんな感じで 知らず知らずに逃げていたり、依存に甘んじていたりすると、先の展望は開けないし、 どっぷりとその状況に浸って、何も感じないという状態に陥ったままであるように思い ます。 窮地を脱したり、十分に癒されたら、次のステップに進もうということに、自覚的であり たいと、思います。

2021年9月17日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2129を読んで

2021年8月29日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2129では 編集者・実業家千場弓子の『楽しくなければ仕事じゃない』から、次のことばが取り上げ られています。    あれも無駄、これも無駄、とやっていった    ら、最後はいちばん無駄な存在は自分だ、っ    てことにならないか? 要は、一体何が無駄じゃないのか、という問題。一見すると既に道順が決まっている ところを辿る以外の全てが、表面的には無駄であるように思われます。 だから、無駄にみえることをあれこれ繰り返しているうちに、有益な発見や方向性が見え て来るのではないでしょうか? ところが最近は、やれスピードだ、合理性だと、皆が暗黙の裡に急き立てられているよう に感じます。これでは結局、表面上やみくもに忙しいだけで、実質が何もついてこない ように思われます。 だから焦らず、一見無駄だと思われることにもコツコツ取り組んで、何よりもアンテナを 広げて、好奇心を失わないようにして、寄り道しながら進んで行ければと、考えています。 でも勿論、まあいいやと、そこで怠惰に流されれば、元も子もないのですが・・・。まあ とにかく、じっくり、ゆっくり、残された人生を過ごして行きたいと思っています。

2021年9月14日火曜日

カフカ著「城」を読んで

頭木弘樹氏の著書に触発されて「変身」を再読した私は、他の著作も合わせて読んでみたく なりました。それで手に取ったのが本書です。 読み始めて、やはり不思議な感触の物語であると、感じました。主人公はもとより、登場人物 の饒舌な会話体が延々と続き、後ほど知ったことですが、長編でありながら未完ということで、 明確な結末がありません。しかし私は、読み終えて確かな手応えと満足を感じ、カフカの卓越 した才能を感受しました。 主人公で測量師であるというKは、雇われてとある伯爵領の村に到着します。しかしいざ来て みると、そのような職業の人間は必要ないと言われ、城にある行政機関と折衝しようにも、 一向に埒が明かず、それどころか、得体の知れない2人の助手を付けられ、おまけに酒場娘と 同棲する羽目に陥り、寄る辺ない村での滞在を続けます・・・。 ストーリーを追うとこんなところで、しかも、Kは自らの職業にゆるぎない誇りを持ち、自分は この村にとっても大変有用な人材で、一度登用されれば重きをなすに違いないという自信の下、 村の慣習や人間関係、人々の抱く感情に全く頓着せず、あくまで自分の意志を押し通そうと する、利己的な人物です。 そして彼の滞在する村の社会環境は、村を統治する城の官僚体制が絶大な影響力を持ち、それ でいて、複雑な官僚機構はなかなか物事を決定出来ず、それに対して村民は官僚の意向を過剰 に推し量り、排他的で保守的な行動が日常になっています。このような関係性の中では、Kが 孤立するのは必然です。 カフカの死後、この小説が発表されてからの主流の解釈によると、主人公と城の関係は、ヨー ロッパ在住のユダヤ人であるカフカと宗教の微妙な関係を投影していると言われているそう ですが、私は、日本の現代社会に通じる読みとして、この国の政治体制及び、官僚制度と国民 の関係性を想起しました。 というのは、現在の我が国では、政治主導が叫ばれる中で官僚の劣化、政権への忖度が起こり、 それでいて政治家に明確なビジョンがないために、社会の停滞を招いています。そして、この 国の現代の社会体制が一応民主主義であるために、そのような政治運営を選択したのは、我々 国民であるということです。 また、国民が体制の顔色を窺い、本来あるべき公正な政治がゆがめられることは、歴史的にも 繰り返されて来たことでもありました。このように考えるとカフカの「城」は、普遍的なテー マを提示する小説であることが分かります。

2021年9月10日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2126を読んで

2021年8月26日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2126では イタリアの作家パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』から、次のことばが取り 上げられています。    最善を望むことが必ずしも正しい希望の持ち    方とは限らない 人はついつい欲深いものだから、何でも一番良い結果や状態になることを、望むもしくは 夢想しがちですが、なかなか現実は、そのようには運ばないものです。 それよりは、着実にコツコツと結果を積み上げて行くとか、次善や次々善のところで妥協 しておくことが、賢明なようです。 一段よくなれば、しばらくしてまたそこから、もう一段上を目指すことも出来る。それが 現実的な目標の立て方のように思います。 でも未熟な私が、ようやくこのように考えられるようになったのは、つい最近のことで、 ちょっと前までは、自分の実力を顧みないで、一気により高いところを目指していたよう に感じます。 その結果、失望することも多かったですし、自信を無くすことも多々ありました。でも、 年齢を重ねて、大切な人の死に接したり、自分自身の死をも意識する体験をした後、まず 生きていること自体が有難く感じられるようになって、残された命の中では、少しづつ 日々前進して行くことを心がけたいと、思うようになりました。 その想いの裏には、いささかの諦観や自分への甘さも含まれているかも知れませんが、 残りの人生、まあ出来る範囲で前を向いて進んで行きたい、と考えています。

2021年9月7日火曜日

「鷲田清一折々のことば」2120を読んで

2021年8月20日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2120では 詩人茨城のり子の詩「自分の感受性くらい」から、次のことばが取り上げられています。    自分の感受性くらい    自分で守れ    ばかものよ この自立心旺盛な詩人は、心が揺れ動いても、劣等感にさいなまれても、人や時代のせい にしないで、常に自分の価値基準で判断し、信じるところを突き進めと、読者を叱咤し ます。 その姿勢は潔く、しかも自らがその生き方を実践しているので、説得力があります。 確かに私たちは物事が上手く行かない時、ついつい色々なことを他人や環境のせいにして、 自らを慰めたり、安心感を得たりします。でもそれは、後ろ向きな解決法でしかありま せん。 大切なのは、揺れ動かない価値観を持つこと、全てをそれに引き付けて、自己責任のもと に行動し、判断すること。しかし、このような心構えで生きるためには、けた外れに強い 精神力を持たなければならないでしょう。 でも、そこまでの胆力を持ち合わせない私たち市井の者共は、社会や他人に振り回される 自分に飽きれながら、せめて彼女の詩を読むことによって、心を励まされるのではないで しょうか?

2021年9月3日金曜日

「阿川尚之 現代のことば おかしみの悲しさ」を読んで

2021年8月18日付け京都新聞朝刊、「阿川尚之 現代のことば」では、同志社大嘱託講師・米国 憲法史の筆者が、「おかしみの悲しさ」と題して、アメリカのレーガン大統領や大リーグヤン キースの往年の名捕手・監督ヨギ・ベラの例を引いて、アメリカ人のユーモアについて語って います。 その言葉によると、アメリカ人は今でもユーモアを大切にし、指導者の評価基準にさえなる そうです。また、ある大学教授が授業の時に示した例として、「ユーモアの定義は、調和しな い要素の並置」が挙げられていて、作家マーク・トウェインが言った「人間のすることはすべ て哀れだ。だからユーモアの本当の源泉は喜びではなく悲しみである」という言葉と合わせて、 ユーモアは自らの人生を笑う力から生まれると結論付けています。 現在の私たちの日本では、漫才を中心としたお笑いブームということもあって、洒落や軽口、 アクションといった表面的な笑いが広く支持されているように感じます。またそういうこと から面白い人という時、このようなセンスが重視されているように思います。 ですが、ユーモアといった感覚は、どちらかと言えば日本では、落語のおかしみに近いのかと、 私は感じます。突発的な笑いを誘うものではなくて、じんわりとにじみ出て来るような。 私自身個人的には、洒落や軽口に近いおっさんギャグを発することもありますが、本当はユー モアのセンスを持ち合わせた人間でありたいと、思っています。そのためには、人生の酸いも 甘いも知りぬいた人にならなければならないのかも知れません。いやまだまだ、修業が足りま せん。