2023年8月25日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2775を読んで

2023年6月28日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2775では 詩人・小説家小池昌代の随想集『屋上への誘惑』から、次のことばが取り上げられています。    まるでしたことの一切が、なかったかの    ように、あしらわれる行為です。 人の一生の活動には、創作活動などある種の仕事や、相続、墓のように、生の記憶を残そうと する行為がある一方、掃除などの日常の雑務のような消えゆく行為もある。上記の言葉は、 そのような日々に消費される行為を表わしているようです。 でも人の生は、そういう消えゆく行為で大部分が成り立っている。だから、効率や合理性の 観点では価値を見出しにくい、人生の大部分を占めるそんな行為を黙々とこなすことに耐えて こそ、明日は開かれると小池は言うのです。 でも、一見無価値に見えるというそのような消えゆく行為は、本当に無意味でしょうか?いえ 私には、そうした取るに足りない行為にこそ価値があると思われます。なぜならそのような行為 が日常を作り、それに伴って人の心を磨いて行くと思われるからです。 例えば掃除や片付けにしても、やっても直ぐに汚れたり散らかってしまう。一体やる意味がある のかという思いは、人が得てして抱く感情です。しかし、少しでも綺麗に、便利にと工夫をして 掃除や片付けをした後には、達成感や満足感が残り、爽やかな気分になります。そして、その ような日常を繰り返すことは、その人の心に変化をもたらさないでしょうか? 私は確実にもたらすと信じますし、従って上記の小池の言葉は、このような行為を効率性の観点 から、「けだかい行為」と言いながら苦行とみなしているところに、同意できないものを感じ ます。 より良き人生の過ごし方という点で、日常の何気ない行為の重要性という意味では、求める ところは同じ方向にしても、心の持ちようで負担感が変わるのではないかと、私は思います。

2023年8月17日木曜日

丸谷才一著「忠臣蔵とは何か」を読んで

40年近く前の著作なので、現代の歴史解釈では、違う見解もあるかも知れません。しかし私にとって は、固定観念として持っていた、忠臣蔵というものの見方に、変更を余儀なくさせてくれる、刺激的 な書でした。 まず忠臣蔵のモチーフとなる、浅野内匠頭の刃傷事件と、その家来赤穂浪士達による吉良邸への討ち 入り事件、そしてそれらの実際の出来事が浄瑠璃、歌舞伎において、「忠臣蔵」として長く、いや 現在にまでも、広く庶民に愛好されることになる作品として成立する過程において、江戸期という 近世の時代の人々のものの考え方が、強く影響を及ぼしているという事実を、本書は筋道を立てて 説明してくれている、ということです。 それに対して私たちの固定観念では、主君の被った理不尽な事態に対する無念を晴らすために、敢え て幕府の掟に反して障害を乗り越え、首尾よく敵討ちを行った赤穂浪士は、武士としての忠義の鏡で、 その功績は「忠臣蔵」として長く語り継がれ、日本人の心情にマッチして愛され続けることになりま す。 しかし近世の人々の価値観や、ものの考え方から推察すると、まず内匠頭の刃傷沙汰は厳然たる事実 として置いておくにしても、赤穂浪士が討ち入りに至る動機には、荒ぶる怨霊としての主君の霊を 慰めること、そして浄瑠璃、歌舞伎の先行作品として定着していた、鎌倉時代の曾我兄弟の敵討ちを 題材とする「曾我もの」の影響が如実に感じられる、といいます。 つまり、近代以前の人々の怨霊信仰、そして流通していた文芸作品の強い影響力、すなわち、討ち入 り事件に対する当時の文化の大きい働きかけを、指摘しています。 また「忠臣蔵」の成立の動機についても、赤穂浪士の討ち入りが、江戸幕藩体制に対する庶民の憤り、 更には、江戸の町が火災や自然災害に悩まされていたことに対する、仇討ちの浪士たちの衣装が、 火事場装束であることの災厄を祓う祝禱性や、願望が込められている、といいます。 歴史的な事件や、それを巡る文学作品の成立過程を、当時の人々のものの考え方や心情に則って考察 することの大切さを、考えさせてくれる好著でした。

2023年8月10日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2751を読んで

2023年6月3日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2751では 神学、宗教学者・森本あんりの『不寛容論』から次のことばが取り上げられています。    寛容はちっとも美徳ではない 寛容とは元来、自分とは異なる信念の持ち主を「しぶしぶ認める」ことであり、相手にとって それは己の価値を見下されることに等しい、と森本は言います。 これは難しい。人は自分の価値観を他人に押し付けないために、自らが肝要であろうとする ものであると思います。そして私自身も、そのように自身に言い聞かせて、不寛容にならない ように心がけて来たと感じます。 でも言われるように、寛容な態度を受ける側にとっては、確かにそれは、相手に見下された ように受け取るかもしれません。 そこで森本は、自分は存外不寛容な人間だと認めるほうが、不寛容は認めないとするより、 人々が共存できる場は僅かに広がる、と回答します。 これは広がりを持つ逆転の発想です。自分の弱さ、至らなさを認めることによって心に余裕が 出来て、かえって人に自然に寛容な態度で接することが出来る。 このように自らの弱点を謙虚に見つめて、他者に接することが、本当の意味での不寛容を和ら げることになるのでしょう。 社会的に弱い立場の人々への多数派の接し方という意味でも、役に立つ態度だと思います。

2023年8月4日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2735を読んで

2023年5月18日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2735では 元女優でプロデューサーの小田貴月の『高倉健、最後の季節。』から、俳優・高倉健の次のことばが 取り上げられています。    多くの人があえぎながら生きて行く人生    で、その人の心意気を垣間見たとき、僕    は美しいと感じます。 「美しき人とは?」との質問への、この俳優の回答だそうです。 苦難に耐えながら、己の美学を貫く男。彼にはそんなイメージがつきまといます。またこの後、美し さとは、「他者に対しての優しさ」ではないかと続けたそうです。 自らは心意気を保持しながら、他人に対してはあくまで優しい。ダンディズムの一つの究極の形で しょう。 私にはとても、真似することは出来ないけれど、人生の大部分は自分の思うようには行かない中で、 それをじっと受け止めて、黙々と自分の信じる道を歩みながら、他者に対しては優しくありたいと 務めることは、可能かも知れません。 少なくとも、そのようにありたいと、思い続けることは大切でしょう。この言葉を読んで、そんな風 に思いました。