2024年4月24日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2953を読んで

2023年12月29日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2953では 朝日新聞学芸部編『余白を語る』から、日本への永住を決めた米国の映画評論家ドナルド・リチーの次の 言葉が取り上げられています。    そうなるはずのものはいいのです。 リチーは、日本人は芸術を愛する民と言われるのに「自然をバラバラに」し、カネにも凄く執着してきた。 それに「新発売」も好き。でも本当は、髪が薄くなっても抗わずに「自分の自然さと外の自然さをうまく 会わせ」てゆくそのシゼンタイがいいのにと語ります。 日本人は一体いつからこのようになったのか?かつては、身なりを飾らないことや清貧に、価値を見出して いたというのに! 日本人はよく周りの目を気にします。だから、一般的な日本人の尺度が変質してきたということでしょう。 上述のような特徴が現れてきたということは、日本人の西洋化、資本主義的価値観の浸透、そして経済的に 豊かになったことが挙げられるに違いありません。 このような価値観の変容は、日本の国に著しい経済発展をもたらしました。それは一時期、大多数の人々を 飢えや貧困から救ったかも知れません。しかし現在、経済は停滞し、それと同時進行する少子高齢化と共に、 新たな格差問題も生まれています。 右肩上がりする経済状況ではない社会で、我々は如何に充実した生を過ごしていくか?そのためには、最早 過去の生活には戻れないにしても、その頃の価値観を見直してみることは必要かも知れません。

2024年4月17日水曜日

アンヌ・デルベ著「カミーユ・クローデル」を読んで

「巨匠ロダンの弟子であり、悲劇の美貌の天才女彫刻家」。本書の著者で、当のカミーユの復権に一役買った 演出家でもある、デルベらの尽力もあって、今日ではすっかり上記のイメージが定着している、約30年も前に 刊行された彼女の伝記小説を、私が今読む意味を改めて考えてみると、読後に私が得たプラスの部分としては、 すでに持っていた固定観念が解体され、深められたこと。逆に惜しむらくは、私に彼女の弟、外交官で著名な 詩人、劇作家のポールに対する知識があれば、この読書は更に意義あるものになっただろうということです。 まずカミーユに対するイメージが更新された点から述べてみますと、本書のカバーにも採用されている、20歳 の頃の彼女の写真は、既に広く知られたものとなっていて、私も目にしたことがあり、彼女の人となりを想像 する有力な判断材料となっていました。つまり、色あせたモノクロ写真に浮かび上がる彼女は、美貌でしかも 聡明、勝ち気そうですが反面、痩せ細り、はかなげで、未来の悲劇を予告するようです。 このイメージがこびりついていたために、私は彼女が絶対的な権力を持つロダンに、才能も愛も吸い尽くされ たか弱い女性と思い込んでいました。しかし本書を読むと、彼女のこのような部分は一面に過ぎず、他面男性 の専売特許であった彫刻界に、20歳にも満たぬ年齢で単身飛び込む、男勝りで情熱的、芯の強い女性で、力 仕事も辞さず、また弟ポールに対しては、高飛車で強権的、嘲笑的な態度を取っていたことも分かりました。 師ロダンに対しても、彼が身勝手で、優柔不断であったこともありますが、最後は彼女が主体的に決別した ように想像されます。結局彼女は、時代に先駆けて生を受けた女性彫刻家で、溢れる才能はあるにも関わらず 評価が追いつかず、その結果経済的にも追い詰められ、反面男に対する情熱を有する女性であったために、 ロダンと内縁の妻との間の三角関係にも苦しみ、自らの身を滅ぼすに至ったのでしょう。 カミーユは言わば、時代の犠牲にもなった芸術家であったので、彼女が著者らの努力によって復権し、展覧会 が開催されたり、ロダン美術館に展示室が設けられていることは、せめても彼女への報いであると思われます。 ポールについても、私に彼の作品への知識があれば、カミーユと彼の関係を通して、理解が深まったものと 思われます。

2024年4月12日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2931を読んで

2023年12月6日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2931では 女優倍賞千恵子の連載「あの時のわたし」(「暮らしの手帖」27号)から、次の言葉が取り上げられて います。    風が吹くと葉っぱの裏側が見える。これ    が好きです。 映画「寅さん」シリーズに出演するなど、その国民的女優がこのような言葉を発すると、心に響くもの があります。 女優業は常に脚光を浴びる華やかなもの。でも反面いつも多くの人の視線に晒されて、プライバシーを 犠牲にしなければならない、一般の人より遙かに不自由を感じなければならない職業でしょう。 そのようなプレッシャーをやり過ごすために、傲慢な態度に出たり、飲酒に逃避したり、海外に住居を 移したりする人も見受けられるようです。 でもこの女優は、普段の自分を出来るだけ目立たなくさせることで、平静を保って来たように推察され ます。 そして、出たのがこの言葉。周りに生かされているという自覚や、目配りが行き届いた姿勢、普段の 倍賞さんを実際には知りませんが、そうした謙虚さを、私はこの言葉から感じ取りました。 また、自然の些細な変化、物事の裏側やはかなさに想いを向けることは、私たち普通の人間にとっても、 大切なことだと思われます。さっと吹き抜ける涼風のような、爽やかさを感じさせる言葉でした。

2024年4月3日水曜日

平野啓一郎著「ある男」を読んで

不幸な出来事のため離婚し、故郷に帰った女性が、再婚して幸せな家庭を築きますが、夫が事故で急死して 彼の親族に確認すると、全くの別人であることが判明します。一体その男は、どこの誰であるのか?この ショッキングな事件から始まる物語は、取り残された妻が亡き夫の素性調査を、弁護士に依頼することに よって展開して行きます。 まず心に残るのは、難病の次男の治療方針を巡り前夫と対立し、その子供の死後離婚し、長男を連れて故郷 に帰ったくだんの女性が、老舗温泉旅館の次男として生まれながら、父親への骨髄移植を巡り家族と対立し、 縁を切って家を飛び出した自称{谷口大祐」と出会い、結婚する場面です。 最近の医学の目覚ましい進歩の中で、重症の治療の選択肢は格段に増えながら、それでも結局は救えない命 がある、という厳然たる事実が突きつけられます。生死を分かつ紙一重の差の理不尽!その悲哀を存分に味 わった二人の人間が、人間不信に固く心を閉ざした状態から手探りで互いの真心を見出し、心を通わせる 様子に、読んでいて心が高鳴りました。それだけに、亡き夫が本物の「谷口大祐」ではなかったことが明ら かになった時、心がざわめきました。 他方この不幸な妻が、前回の離婚調停に続いて夫の捜索を依頼した弁護士もまた、自らの出自が在日朝鮮人 であるという負い目を持ち、日本人である妻との関係に軋轢を抱えています。そして自らのこの負の感情が、 彼が余り報酬を期待出来ないにも関わらず、不幸なこの事件の依頼人の望みを叶えるべく奔走する、原動力 になっているように感じられます。 この弁護士の苦悩に寄り添う予備知識や経験を、私は持ち合わせていませんが、本書の中で懸命に真実を 探求する彼の姿を通して、人間の生い立ちとその彼の人生の関係、ある一人の人物がその名前を背負って生 きることの意味、過去、現在そして未来と、他者を愛することの関係などについて、大いに考えさせられま した。 また著者は、日本における死刑制度廃止を広く世間に訴えかける作家でもあり、本書は被害者家族は言うに 及ばず、加害者家族のケアの必要性をも暗に示しているように感じられました。

2024年3月27日水曜日

吉見義明著「草の根のファシズム 日本民衆の戦争体験」を読んで

先の大戦終結から80年近い歳月が過ぎました。身近からその体験者がどんどん少なくなっています。例えば 実際に従軍した父、兄を戦争で失った母は、もうこの世に居ません。それに伴いあの大戦の影は、次第に 薄くなっていくように感じられます。翻ってロシアのウクライナ侵略、イスラエルのパレスチナ自治区ガザ 侵攻と、世の空気は、またきな臭くなって来ています。 本書は、第二次世界大戦開戦直前から、敗戦直後に至るまで、日本の名も無き庶民の日記から民衆の生の声 を集め、時々の人々の直接の想い、ものの考えかを、丹念に拾い集めた書です。 私の読後の感慨をまず記しますと、私の成長過程で、両親の言葉の隅々や、過去への向き合い方から感じた もの、またまだ社会全体がまとっていた、戦争の影響を否応なく感じさせられて来たものが蘇って来るよう で、苦々しさを伴いながらも過去を思い返すような一種の懐かしさを抱き、他方公教育で反戦平和思想を 根幹として教えられた、民衆は一方的な犠牲者であるような反軍国主義の公式見解とは違う、庶民の実情を 赤裸々に提示されるようで、改めて歴史の真実を知るような生々しさを感じました。 その中でも印象深かったところを拾ってみると、本書が書き出されている満州事変前後には、天皇制の前提 の下ではありながら、民衆の間に民主的なものの考え方があり、事変開始直後の一時的な熱狂はあっても、 戦闘の早期終結を望む声は大きかったと言います。しかし世界恐慌や異常気象による庶民の生活の困窮が、 次第に対外進出による生活の向上に、世論を傾けて行きます。 このような考え方の前提には、欧米人へのコンプレックスと周辺アジア住民への優越意識があり、それが 八紘一宇という美名の元に、日本の対外進出を正当化し、民衆の支持を広く集めることになります。 また実際の大戦が始まると、十分な兵站準備を整えない日本軍の場当たり的な戦術によって、現地住民から の略奪暴行、殺戮が繰り返され、その環境に投げ込まれた日本軍兵士は、次第に理性を失って行きます。 そして敗戦後も、非戦の想いは民衆の中にいち早く浸透して行きますが、戦中の蛮行の自己正当化の意識は、 なかなか消えません。庶民の側からあの大戦の実情を見ることによって、戦争というものの悲惨な本質を あぶり出す、労作でした。

2024年3月16日土曜日

島崎今日子著「ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒」を読んで

沢田研二(ジュリー)は、地元京都出身ということもあり、私にとって身近に感じられるスターでした。 もっとも、コンサートに行くほどのファンではなく、実際に会ったことはないけれど、少し年長の知り 合いからは、彼のデビュー前の噂も聞き、テレビで映し出される彼の妖艶な歌唱の姿を見ても、遙か 遠くの存在とは思われないところがありました。 また、彼の主演したドラマ「悪魔のようなあいつ」では、彼の演じた三億円事件の犯人に、破滅型の ヒーローとして、シンパシーを感じていたものでした。しかしいつか、彼がテレビから遠ざかり、同時 に私も年を重ねて、私の中のジュリーが次第に遠景に退いて行った時に、目にしたのが本書でした。 従って私自身、自分の若かりし日をなぞる思いで、この本を読みました。 実際に読み進めてみると、常に時代の表街道を歩いているように思われた全盛期の彼が、様々な曲折に 直面し、試行錯誤を重ねながら、トップスターの座を維持していたことが分かります。ザ・タイガース の一員として、ファンから熱狂的な支持を得た時代、本人たちの音楽指向とは違うアイドル路線を求め られ、次第にメンバー間に齟齬が生まれてグループ解散に至る様子。 またグループサウンズ退潮の中で、所属プロダクションが起死回生を目指して結成を働きかけた、タイ ガースのメインボーカル沢田研二と、ザ・テンプターズのメインボーカル萩原健一(ショーケン)を ダブルボーカルに据えたPYGが、ジュリーはソロ歌手として、シューケンは俳優として、それぞれの道を 歩み出したために消滅する経緯には、各自が自分の生き方を求めて、懸命に模索する様子が見えます。 しかしその中でも、自らの歌う曲をヒットさせることを最上の価値とする、沢田の信念はぶれることな く、彼はスターの座に居続けるために、新しい音楽の傾向を積極的に取り入れ、ビジュアルや演出に工夫 を重ねて、常に新しいジュリーであり続けたのです。容姿や歌唱力に恵まれながらも、彼がそれにも増し て努力に人であることを、改めて気づかされました。 本書は、そのような彼の音楽活動の軌跡を追うことによって、図らずも現代歌謡曲史にもなっていると 感じられました。またこの本を読むことによって、このジュリーが如何にこれから彼の老後に向かい合う かということにも、興味を持ちました。そこを描く続編にも、期待したいと思います。

2024年3月8日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2928を読んで

2023年12月3日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2928では 小林秀雄との対談『人間の建設』から、数学者・岡潔の次の言葉が取り上げられています。    内容のある抽象的な観念は、抽象的と感    じない。 つまり、ー人間の思考は、内容のない観念だけを相手にしているといずれ破産する。世界は「分かり きったことほどわからない」し、人も「大きな心配ほど心配しない」ものだが、その限界を越えたけ れば、逆に手許にある個人の問題を離れてはいけない。ーということだそうです。 うーん、難しい。私のような凡人には、簡単に理解出来ることではないけれど、でも例えば、私が 「人間の生きる目的は何か?」と考えた場合、抽象的に観念をもてあそんでいたら、袋小路に陥る。 だけど具体的に、どうしたい、ああしたいと目標を並べれば、以外と真理に近づく、ということで しょうか? そんな単純なことではないと一喝されそうですが、凡人に対する教訓としては、我々は、常に物事を 自分に引きつけて考えるべきだ、ということのように思われます。皆さんは、どう思われますか?

2024年2月29日木曜日

富岡多恵子著「水上庭園」を読んで

先般亡くなった詩人で小説家の著者の、恋愛という切り口で紡ぐ、1960年から1990年に至る詩的回想を 巡る小説です。従って筋道立てたストーリーはほぼありませんが、個人の体験を超えたその時代の空気が背景 から浮かび上がり、忘れがたい印象を残しました。 まずこの恋愛の主人公の一人A子が、著者の分身であることは間違いないとして、もう一方のドイツ人Eが誠に 非現実的で、存在感も希薄です。なぜならA子より十歳以上年下のEとA子は、A子の新婚旅行の途次のシベリア 鉄道の列車内で出会い、二人の恋愛が30年ほどのモラトリアムを経て、かりそめの形であれ刹那成就すると いう物語の展開であるからです。 A子はEに好意を抱きながら、あくまで自分の既婚者としての立場を堅持し、それでいてEに甘え、時には姉のよう に振る舞います。このような話の成り行きを見ていくと、Eとは著者がドイツ人に抱くイメージを具現化した存在 と思われて来ます。そしてそのように考えると、この間の著者のドイツに対する想いの蓄積が、浮かび上がって 来ます。 1989年ドイツでは、東西対立の最前線であった、ベルリンの壁崩壊という大きな歴史的変化がありました。 それ以前には、同じドイツ人が東西に分かれ、思想的対立を余儀なくされる緊張と閉塞を経て、一気に悲願が成就 される形での統合が実現したのです。 この解放されたドイツにA子はEを訪ねます。Eは以前に比べて思想的な理屈っぽさや、若気の衝動性は影を潜め、 随分落ち着いているけれども、一所に止まることを望まない漂白の精神を失っていません。それを確かめたA子は、 安心したのではないでしょうか? この物語の中の印象的なシーンは、A子がEの車でベルリンへ向かう途中、映画の野外撮影現場に行き会う場面です。 映画のシナリオも執筆するA子(著者)は、現実と夢想の境界が次第に曖昧になって、目の前で演じる女優に自らを 同化させて、場面も近松の「道行き」に変化していく、幻想的なシーンが現出されます。 この描写には、文学者富岡多恵子の詩情の核心を、浮かび上がらせるような切迫感があると、感じられました。

2024年2月22日木曜日

沢木耕太郎著「深夜特急1 香港・マカオ」を読んで

若き沢木耕太郎の代表作「深夜特急」三部作の第一部、『深夜特急第一便」の前半部分、“インドのデリー からイギリスのロンドンまで、乗り合いバスで行ってみたいと思い立ち、26歳で仕事をすべて投げ出して旅 に出た”著者の、最初の訪問地香港・マカオでの体験を記した書です。 行動派の著者特有の当たって砕ける無鉄砲さが清々しく、それでいて自分を客観視出来る冷静さや思慮、行 きずりの人をも思い遣る優しさがあって、この紀行文に独特の魅力を添えています。 今から約50年前のことなので、本書に記された現地の状況もかなり変化していると推察されますが、その 土地や現地の人々が醸し出す、今に変わらぬ特色や気質が活写されていると思われ、また当地での著者の 体験の中に、人間という存在の普遍的なものが顔をのぞかせていると感じられて、興味深い読書体験でした。 さて香港到着後著者はひょんなことから、「黄金宮殿」という立派な名前の宿屋を紹介されて泊まることに なりますが、直にこの宿はラブホテルと思しき安宿であることが判明します。しかし、現地の庶民の隠れ家 的な安価な宿に潜り込めたことによって、滞在中腰を落ち着けてゆっくりと住民と交流し、名所を巡り、 食事、酒を楽しむことが出来たのでした。 これはツアーで回る一般の観光客には絶対に味わえない体験で、本書の大きな魅力の一つになっています。 この宿にまつわるエピソードの中で、一番心に残るのは、宿に入り浸る21歳の娼婦が著者に興味を抱き、彼 の部屋を訪れる場面で、互いに言葉は通じず、手探りで相手の気持ちを知ろうとするところが初々しく、 結局体を触れ合うことも無く、彼女が部屋を出て行く姿に、甘酸っぱい余韻が残りました。 しかし本書におけるハイライトは、著者がマカオのカジノでゲームに興じる場面で、彼は「大小(タイスウ)」 という器具を用いたサイコロ賭博を試みるのですが、やっているうちにディーラーの駆け引きの癖や、場に 居合わせる他の客を含めた勝負の雰囲気から、次第にサイの目が読める手応えを感じ、どんどんのめり込んで 行きます。著者は幸い、最後に巻き返してわずかな損失でその場を切り抜けることが出来ましたが、臨場感溢 れる描写で、賭博のヒリヒリするような魅力、恐ろしさを、たっぷりと味わわせてくれました。 今まで賭博に惹かれる人の心理が全く理解出来なかった私は、本書のこの場面を読んで、賭博の醍醐味は、我々 の人生において大きな決断をしなければならない場面を、疑似体験させてくれることにあるのかも知れないと 感じました。

2024年2月15日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2917を読んで

2023年11月22日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2917では 作家幸田文の随筆集『老いの身じたく』から、次の言葉が取り上げられています。    くろうとはどの道の人も、みなあと片付    けがうまい。 いけ花の先生の、花を生け終えた後の、的確な後始末を見て、この作家の感じた感慨だそう です。 確かに私の体験でも、総じて腕の立つ職人の人は、立つ鳥は跡を濁さずとでもいうのか、 あと片付けがきれいで、上手だと思います。大工さん、植木屋さんなど。 逆に私が若い頃、家族の留守中に急に思い立って、家の台所で料理のまねごとをしたら、本人 は家族の帰宅後に喜んでもらえると高をくくっていたのに、台所が大変散らかっていると、 大目玉を食らった経験があります。正に自分の未熟さをさらけ出していたのでしょう。今 思い出すと、赤面ものです。 このことからも分かるように、プロの技は後始末も含めての技で、技の研鑽の基礎の根底に、 後始末があるのでしょう。だから技術の上達を焦って、いくら表面的な修練を積んでも、 片付け、整える心が育っていなければ、本当の意味での技の習得は出来ないのだと思います。 一つの仕事にきっちりときりを付けて、次の仕事に移る。そのような仕事上のメリハリも大切 だと思われますし、職人仕事に限らず、何か物事を行うときの心構えとしても、必要なこと だと思います。

2024年2月7日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2916を読んで

2023年11月21日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2916では 哲学者和辻哲郎の『倫理学』から、次の言葉が取り上げられています。    人間の成り方、それを我々は「存在」と    いう概念によって現そうとする 和辻によると、個人は「もの」として何か実体のようにあるのではなく、さまざまな行為の連なりの 中にあるといいます。つまり、社会的生き物である人間は、単なる生物の個体と違って、生まれて から現在に至るまでの、経歴や行為、思考の後によって特定されるべきである、ということでしょう か? 確かに、私たちは他者をそのような尺度によって見定めますし、反対に他者からも、そのような尺度 によってどのような人間であるか見なされているのでしょう。 だから、人間は生まれてから固有名としての自分を形作るのであって、理想論を言えば、生まれた 環境によってあらかじめ優劣が付けられるべきではないのでしょうが、現実は生育環境によって人生 が規定される部分も大きいということでしょう。 それ故、恵まれた環境に生まれて能力を発揮する人よりも、恵まれない環境に生まれたにも関わらず、 逆境を乗り越えて能力を発揮する人の方が、更に尊いように感じられます。 少なくともこの社会が、人をその成し遂げたことによって評価出来る社会であってほしいと思います。

2024年1月31日水曜日

山口昌男著「「敗者」の精神史」を読んで

明治以降「敗者」の立場を出発点として、主権者側とは異なる視点で、我が国の精神文化に影響を与えた 人々の生き方を跡づける書です。 明治以降の「敗者」の代表的なものは、維新に際して佐幕側に付き、新政府から冷遇を受けた人々ですが、 彼らは一般に反骨心から逆境に立ち向かい、あるいは、斜に構えて在野の立場から独自の魅力的な思想を 生み出し、更には、超然とした態度で孤高の精神文化を醸成するに至っています。 頁数の多い書籍なので、取り上げられている人々の範囲も幅広いのですが、ここでは、私が特に興味を 惹かれた数件の事象について書いてみたいと思います。 まずは明治以降の政府主導の急激な近代化から、少し外れた分野としての独自の百貨店文化の誕生につい て。江戸時代に富を築いた大手呉服商が、明治になると近代化、西洋化の波にさらされ、業態の転換を 求められ、商品の提供のみならず、娯楽、美意識を含めた、庶民の文化を創生する装置としての百貨店 誕生へと向かって行きます。 その課程において、同じく生き方の転換を求められた経済界、工芸美術界、出版広告、文学思想界の幅 広い人々が、関わって行くのです。そう考えると、今日の消費文化の基底にも、この頃に築かれた価値観 が脈々と受け継がれ、形を留めていると感じられて、納得させられるところがありました。 次に、官製ではない在野の私立大学の誕生について。明治以降国の設立した帝国大学のみならず、独自の 教育方針に基づく私立大学の創設の動きが起こりましたが、例えば同志社大学の場合、江戸時代鎖国の 国禁を犯して渡米した新島襄が、帰国後明治政府に影響力を持つ元佐幕派であった旧会津藩士、山本覚馬 の助けを借りて、キリスト教教育の大学を設立するに至ります。このエピソードは、私も同志社出身で あるだけに、感慨深いものがありました。 最後に、国画創作協会展における「穢い絵」事件について。美しさのみならず、女性の内面の醜さをも 表現する絵画を描いた甲斐庄楠音が、同展の主導的画家土田麦僊に「穢い絵」と批判されて、画壇を去る ことになります。甲斐庄は楠木正成の血を引き、歌舞伎など伝統芸能への造詣が深く、自らも女形に共感 を覚えるところがあり、その嗜好も含めて、日本画の正統」を重んじる麦僊と相容れないところがあった と思われますが、甲斐庄の絵画は、今日革新的であると再び脚光を浴び、再評価が進んでいることは、 文化の成就の一端と、好ましく思われるところがあります。

2024年1月24日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2915を読んで

2023年11月20日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2915では 民俗学者・柳田国男の随想「教育の原始性」から、次の言葉が取り上げられています。    日本の伝統には、文字は勿論口言葉にも    表されないで、黙々と伝はつて居るも    のがあったのである。 柳田によると、シツケは元々「人を一人前にする」ことで、昔は「あたりまへのことは少しも教え ずに、あたりまへで無いことを言い又は行ったときに、誡め又はさとす」のが常であったという ことです。 つまりは、教える側が教わる者を、初めから強制的に正しい形にはめ込むのではなく、教わる者が 気づくように導くということでしょう。 でもこの方法は手間や時間がかかるので、先にマニュアルを定めて、相手をその鋳型に押し込める ようになったのでしょう。 そのような教育法が、個性のない、型どおりのことしか出来ない、上からの言いつけに従うばかり の人間を大量に生み出しているのは、間違いありません。 だから、日本の従来の徒弟制度的な鍛錬、つまり、基礎を体で覚え込ませるような指導法を、何ら かの方法で現代の教育に取り入れることも、必要だと思います。 最も、よりスピードアップと効率化を求められる今の世では、そのように身振りと後ろ姿で伝える ような教育は、ますます難しいように思われますが・・・。

2024年1月19日金曜日

東野圭吾著「容疑者Xの献身」を読んで

ご存じベストセラー作家の人気作ガリレオシリーズ初の長編で、直木賞受賞作です。 同シリーズは映画化もされていますが、私は今まで彼の作品に触れることはありませんでした。それ故に 本書は、大きな期待を持って読み始めました。 ミステリーなので、筋を追うことは野暮というものですが、導入部は極めてオーソドックス、付きまとう 別れた元夫から解放されるために、靖子、美里の母娘が同情の余地のある殺人を犯します。途方に暮れる 二人に救いの手を差し伸べたのは、彼女らのアパートの隣室に暮らし、靖子に密かに好意を寄せる、恵ま れない天才数学者石神でした。 以降、石神の天才的な頭脳を駆使した、殺人事件隠蔽工作が始まりますが、読者はこの時点で、徐々に 違和感に包まれて行きます。というのは、殺人を隠蔽するには、まず死体を隠すのがセオリーなのに、 遺体は早々と発見されるのです。 この前提条件が崩れているので、直ぐに重要被疑者となり、密かに石神のアドバイスを受ける靖子と、事件 担当刑事草薙との攻防は、もどかしいものとなります。靖子の立場に立てば、捜査の進捗状況は全く分から ず、草薙の側からすれば、事件の核心に迫れそうで迫れません。そして終盤には、石神のシナリオ通りに、 事件は真実とは違う決着に向かうかに見えます。 しかしそこで起死回生の解決をもたらすのが、草薙の友人であり、かつての石神の親しい学友で、理学部 同窓生、ガリレオこと天才物理学者湯川学です。 物語の筋に添うのはこれくらいにして、私も最後には、自分の思い込みが全く覆されて、あっと驚かされま した。その意味では秀逸なミステリーであり、登場人物それぞれの社会環境や、置かれた立場による思考法 や、感情の機微も丁寧に描き込まれた、極上のエンターテインメント小説でしょう。 ただそれでも私には、何か釈然としないものが残りました。それは理学的な頭脳明晰者への無条件の礼賛で あり、そのような人物を特別視するエリート主義です。 かつてお互いに一目置いていた、天才的人物二人の事件解決を巡る攻防が、この物語のハイライトですが、 湯川が、石神の自らの身を犠牲にして仕掛けたトリックを全て見破った時、ある種すっきりとしたものを 感じられなかったのは、多分このようなエリート主義にも起因する部分があると、思われました。

2024年1月11日木曜日

柄谷行人著「トランスクリティーク カントとマルクス」を読んで

最近また注目を浴びる、評論家柄谷行人の主著で、カントとマルクスを通し「資本論」の意味を解明し、来る べき社会のあり方を構想する、スケールの大きな著作です。 正直私には、この本の語るところのどこまでが理解出来ているか、全く自信がありませんが、自分なりに受け 止めた部分について、述べてみたいと思います。 まず私が本書を読もうと志したのは、マルクス、エンゲルスの提唱を元に実現した、社会主義実験国家ソ連が 崩壊し、もう一つの陣営である資本主義は、一時普遍的な価値であるような繁栄を納めながらも、最近は貧富 の格差の増大など、様々な矛盾を露呈する中で、来るべき社会は資本主義の進化形か、はたまた社会主義に ヒントを求めるべきなのか、本書が思考の方向付けを与えてくれるかも知れないと、思ったからです。 さて実際に読んでみると、私は上述のように、どこまで理解出来たのか定かでありませんが、マルクスを語る ためにカントが持ち出されたのは、物事を批評する視点として定点2点の差違を比較するのではなく、対象と 移動を続ける比較物との視差に、目を向けるべきであるということを、カントの哲学を通して提示し、その 移動と視差による批評を、マルクスの「資本論」に応用して、彼の社会主義理論を解明するものであると、 解釈しました。 この解釈によると、社会主義の経済活動の肝は、生産活動にあるのではなく労働活動にあり、また企業の労働 者は、消費者となる時に企業経営者に対して優位な立場となり、従って、これからの来るべき社会は、労働 組合と消費組合が融合したような共同体が上位に立ち、個別の国家を解体して、主体となるべきである、と いうものです。 これだけでは漠然としているように思われますが、確かに最近のニュースを見ていると、女性や性的マイノリ ティーなど、社会的弱者の地位向上運動や、環境保護活動、あるいは被災地での有志のボランティア活動など に、自発的な共同体による社会活動の萌芽を、見る思いがします。 これらの活動が、本当に社会全体を動かすようなムーブメントに発展するのか、今はまだ雲をつかむような 思いですが、少なくとも、これらの活動の報道に触れる時、最近感じることの少なくなった、将来への希望を 感じさせられるように思います。