2020年12月30日水曜日

「佐々木閑 現代のことば  今必要な努力とは」を読んで

2020年12月9日付け京都新聞夕刊、「佐々木閑 現代のことば」では、「今必要な努力とは」 と題して、今の日本の何事においても右下がりの状況に対して、その状態からどのように して脱却するかという、課題解決の仏教的立場からのヒントとして、釈迦が悟りを開くまで の道のりについて、分かりやすく触れています。 曰く、釈迦は「真の安楽を手に入れるためには努力が必要だということは分かっているが、 なにをどう努力すればよいのか分からない」と悩んで、最初は苦行によって忍耐を養うこと を目指しましたが、それでは問題解決に至らず、最後には、世の中を正しく見抜く「智慧」 を身に付けることが必要であると気づき、そのためには「自己の在り方を正しく観察する 洞察力を養うことだ」と考えて、瞑想により「今までの自分の心はどうであったか。今現在 の自分の心はどうなっているか。そしてこれから先、自分の心はどうあるべきか」と分析し、 今ある自分の直すべき欠陥を見つけ出し、それを集中的に直すことによって、ついには悟り を開いたと、いうのです。 確かに私たちは直ぐに解決出来ないような困難に直面した時、まず我慢して耐え忍ぶという 選択をしがちですが、往々にしてそれは根本的な解決にはならず、帰って対策が遅れること によって、その困難を増幅させるという失敗を犯してしまうものです。 今回のコロナ禍においても、政府の対策の遅れの原因の一つとして、このような心の働きが 作用しているように感じられます。 何も上からの通達に限らず、この災厄への私たちの対応においても、自身の感染リスクを 出来るだけ少なくする努力を続けながらも、その制約の中で個々の課題をいかにして改善 していくかということを、冷静に分析し、対策を見つけ出していくことが、今こそ必要で あると、改めて感じます。

2020年12月25日金曜日

山本義隆著「磁力と重力の発見①~③」を読んで

ヨーロッパ文明の古代からの歴史において、磁力、重力といった力の伝わり方が直接目には 見えない遠隔作用的な力が、どのように理解、解釈され、そしてついには、それが近代物理学 の誕生を告げるニュートンによる画期的法則の発見に至るまでを記する、千年の時を紡ぐ浩瀚 な物理学史の書です。 第1回パピルス賞、第57回毎日出版文化賞、第30回大佛次郎賞を重ねて受賞しています。 物理学の素人である私がこの本に興味を持ったのは、やはり磁力、重力という身近な現象で ありながら、素朴に不思議に感じる力に惹きつけられたからです。そして今回、10日間の入院 という時間を得て、ようやく全巻読破という目的を果たすことが出来たことを、喜びたいと 思います。 本書の内容については、正直専門知識に乏しい私に、どこまで深く理解出来たのかは分かりま せん。しかし、全体を大雑把に概観して感じたところを記すと、まず、古代ギリシャにおける プラトンとアリストテレスは、近代科学の基礎ともいえる当時としては斬新な論理的思考を 展開し、その影響はキリスト教的価値観の蔓延によって一時衰退しながらも、ルネサンスを 迎えるに当たり復活します。 しかし磁力、重力に関しては、これらギリシャの哲学者は明確な答えを持ち合わせていな かったために、これらの力の本格的な探求は、ここから始められることになります。以降、神 の力、魔術に原因を求められながら、最初に実験的手法で磁石と磁針の指北、指南性を証明 したのは、ペトロス・ペレグリヌスでした。 ある現象を証明、測定するために実験を行うということは、正に近代科学の魁をなすもので あり、時を前後して大航海時代の到来と共に、磁石を利用した羅針盤は、爆発的に普及して 行きます。 マゼランによる世界一周航海によって地球の丸さが証明され、コペルニクス地動説、ケプラー 惑星軌道の法則、ガリレイの重力の発見が続き、ニュートンの万有引力の発見、クローンの 磁力における同法則の適用に至ります。 その過程で私の印象に残ったのは、ニュートンは重力の原因の探求をやめ、あくまで法則を 導き出すことによって、その存在そのものを証明したことです。 駆け足で見て来ましたが、ヨーロッパ人がギリシャ哲学で生み出された論理的思考と、ルネ サンスを経て生まれた実験精神、合理的精神と進取の気質によって、近代物理学を打ち立てた ことが分かります。読み応えのある本でした。

2020年12月21日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1997を読んで

2020年11月18日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1997では 詩人伊藤比呂美の随想集『道行きや』から、次のことばが取り上げられています。    前を向き、頭を上げ、立ち上がって、歩き出    そうとする。ああ、それが尊厳てことか。 コロナ禍のような、理不尽さ、苦境に直面すると、人はついうつむき、自分の中に閉じ こもって、あれこれよからぬこと、後ろ向きのことを、考えてしまうものです。 でも、自分にとってどうすることも出来ないことで、いつまでも思い悩んでいても、 仕方がない。例え虚勢でも前を向こう。そうすれば即座に解決策は見出せなくても、 少なくとも気もちだけは明るくなり、元気も湧いて来るのではないでしょうか? 私はそのように考えようと心掛けていますし、そう出来た時には吹っ切れた気持ちに なれます。そして上記のことばを読んで、このような気持ちの転換は、自分の自尊心が 回復されたということではないかと、感じました。 人は自身の内に尊厳を見出せなければ、充足感を持って生きて行くことは出来ない。 そのことを改めて、感じさせられました。

2020年12月19日土曜日

マックス・ヴェーバー著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んで

言わずと知れた経済学の名著です。ずっと読んでみたいと思っていたのですが、腰を据えて じっくりと読める時でないと、と感じて来ました。たまたま短期入院でそういう時間が出来た ので、晴れて手に取りました。 私が本書に興味を持ったのは、キリスト教、なかんずくプロテスタンティズムが持つ自立的な 清貧、禁欲というイメージと、資本主義の弱肉強食、富の集中というイメージが、容易に結び 付かないことです。 しかし、カトリックの中からのプロテスタントの誕生、発展へと進む、本書が丹念に跡付ける キリスト教精神史を読み進めると、次第に近代資本主義の基盤が、プロテスタンティズムの 倫理観によって補強されて来たことが見えて来ます。 すなわちまず、ここで言う資本主義の精神は、我々が直ぐにイメージしがちな高度に情報化、 グローバル化され、成熟したと言われる現在の資本主義の価値観を直接指すのではなくて、 近代資本主義がその勃興期に必要とした、起業家の合理的かつ勤勉で禁欲的な価値観を示すと いうことです。 このことが理解出来ると、当初の資本主義は少なくとも、社会を豊かにするという崇高な目標 を持って企てられたものであることが、見えて来ます。それと同時に、欧米の事業に成功し 巨万の富を得た資産家が、社会貢献活動に熱心である理由も、見えて来ます。 他方、このような資本主義の精神を後押しすることになったプロテスタンティズムの倫理観 とは、カトリック教会の修道院内部の生活における「世俗外的禁欲」から転換した、プロテス タントの神によって与えられた職業(「天職」意識)から導き出された、「世俗内的禁欲」に 基づく、神の承認を得るための勤勉、経済活動への邁進だったのです。 さて、現代の資本主義国である日本に生きる私が、本書から感じたことは2つです。1つは、 資本主義が本来プロテスタントの倫理観に裏打ちされたものである以上、非キリスト教国の 私たちは、この倫理観に代わる倫理を持って、資本主義を遂行しているはずですが、その勤勉 さや職業意識に、宗教的ではなくとも人道の観念を失わないようにしなければならない、と 言うことです。 2つ目は、世界的に見ても、本来宗教的倫理を内包していたはずの資本主義が、人間の欲望に 駆り立てられて、最近とみに非人道の傾向を強めていることです。人間の欲望の業を改めて 感じるとともに、経済的弱者の救済の必要性を、再認識しました。

2020年12月14日月曜日

西川美和監督映画「ゆれる」レンタルDVDを観て

かねてから興味を持っていたこの映画を、ついに観ることができました。 二人の共通の幼馴染である、川端智恵子(真木よう子)のつり橋からの転落死を巡って、 弟早川猛(オダギリジョー)と兄早川稔(香川照之)の葛藤を描く物語です。 智恵子の死の真相に就ても、この映画では決定的な瞬間は描かれておらず、観客の見方、 捉え方に託しているところがあり、様々な解釈が可能ですが、私は、自分自身が家業を 継いだ長男であることもあって、ついつい稔に寄り添った見方をしてしまいました。 東京でカメラマンとして成功し、派手な生活をする猛と、田舎で家業のガソリンスタンド を継ぎ、父親と同居しながら地道な暮らしをする稔。智恵子を巡るさや当てが、彼女の 不慮の死という悲劇を生みますが、私にはその発端として、自分にとっては過去の女で ある智恵子と、稔と彼女が仲睦まじそうな様子に嫉妬して、強引に肉体関係を持った猛の 自分勝手な行為に、原因があると感じました。 稔は長男であるだけに、弟への嫉妬や劣等感を包み隠して、自らの役割を演じているとこ ろがありますが、智恵子に対しては純粋に愛情を抱いていたのではないでしょうか。その 想いが、つり橋の上で智恵子に拒絶された時の反応になったと思われます。 そのように考えて行くと、兄の智恵子殺しの疑惑を巡る裁判の証言台で、猛が稔が故意に 智恵子を橋から突き落とす様子を目撃したと証言したことは、自らの罪悪感から逃れる ための利己的な行為であったと、私は推測しました。 しかし一方稔にも、智恵子が転落する直接の原因を作ったという罪悪感があり、有罪が 確定しての服役は、彼の性格からして彼自身を救ったとも思われますし、他方彼の服役 を通して、猛に兄への愛情を呼び覚まさせたという点でも、意味のあるものであったと 感じました。 男兄弟の普遍的な葛藤、情愛を描く、印象深い映画でした。

2020年12月11日金曜日

白井聡著「武器としての「資本論」」を読んで

私は、もう随分昔ではありますが、大学の経済学部に入り、近代経済学を専攻したので、その 分野の基礎知識は持っているはずです。でも本書は、マルクス経済学の立場から資本主義とは 何かを論じ、私にとっては、大変新鮮でした。 私が大学生の頃、まだマルクス主義を信奉するソビエト連邦を中心とする東側国家群と、資本 主義を掲げるアメリカ合衆国を中心とする西側国家群が対立する、いわゆる東西冷戦は残って いて、しかしアメリカの影響下の日本では、かつては学生、労働者を中心にマルクス主義を 支持する多くの人々がいたにも関わらず、この頃にはそれも下火となって、またその後、ソ連 の社会主義体制が崩壊したこともあって、資本主義が世界経済の主流となりました。 私たちも、高度経済成長による物質文明を謳歌して、この国では資本主義体制が自明のことと 考えられるようになり、今日に至っています。 しかし昨今は、私たちの社会も経済の成熟化を迎え、かつてのような経済成長は望むべくも なく、加えて少子高齢化、グロバリゼーションの進展に伴って国内の貧富の格差は拡大し、 資本主義は曲がり角を迎えています。 さて、その中での本書です。私の従来の認識では資本主義は、自らが経済活動に勤しめば勤し むだけ豊かになる、合理的なシステムでした。それに対してマルクス主義は、原則よく働く人 もそうでない人も同等の所得を得ることが出来るという意味で、平等ではあるが人々の勤労 意欲を高めず、また指導体制が独裁化していって、機能不全を生じて瓦解しました。 加えて資本主義体制は、マルクス主義の弱者救済という良いところを組み込んで、自身の欠点 を補強したはずでした。 しかし今日の現実では、国内は益々中小零細企業が淘汰されて、大企業を中心に経済が動く ようになり、国際経済に目を向けると、アメリカの巨大IT企業の独占的影響力がどんどん 強まっています。 そしてその経済体制内で生きる私たちは、それとは知らず金銭至上主義や、人間関係の希薄化 による疎外感、息苦しさにあえいでいます。 本書の著者は、マルクスの「資本論」に照らして、その原因は資本主義というシステムに内在 する、全てのものを商品化し、余剰価値(利潤)を追求することを至上の目的とする性質に あると、喝破しています。この論法によると、現代社会の抱える諸問題の根幹が見通せるような 気がします。 そうかといって、直ぐに解決方法が見出せるほど話は単純ではありませんが、少なくとも、 資本主義社会を自明のことと考えず、疑ってみる視点は必要でしょう。

2020年12月9日水曜日

藤井道人監督作品映画「新聞記者」レンタルDVDを観て

昨年公開されて話題を呼んだ、東京新聞所属の望月衣塑子原作の映画「新聞記者」を、ようやく 観ることが出来ました。 出演者のセリフも小声の暗いトーンで始まり、それは最後まで終始一貫していましたが、観る ほどに作者が訴えたかったことが、ひしひしと身に染みて来る、印象深い映画でした。 また、この作品が扱うテーマ、政府が行う不正を官僚が隠蔽し、マスコミは権力の顔色を窺って この不都合な事実を告発することに慎重になるということが、我が国で現実に行われている可能 性が高い事実を目の当たりにする昨今、この映画が訴えかけて来るものにはリアリティーがあり、 それだけにこの映画を観る者は、身につまされるやり場のない憤りを禁じ得ないと、感じました。 この国の近年の政治の動向を振り返ると、官僚の専横を排し政治家主導の政策を行わなければ ならないということが一時やかましく宣伝され、事実安倍内閣の長期政権の中で、その方針は 徹底されたと感じられましたが、そうなるとなるで、官僚による政権への忖度が行われるという 弊害が露になった、と言えるでしょう。とかく人間というものは、組織の中で非合理な行動、不正 を行う誘惑に陥りやすいものだと、感じさせられます。 さてこの映画の魅力の大きな部分は、2人の主演俳優、政府の不正を敢然と告発する新聞記者役の シム・ウンギョンと、本来その隠ぺいを担わされる立場の、内閣情報調査室のエリート官僚役の 松坂桃李の切実な掛け合いの描写によると、思われます。 シムは、たどたどしさも残るセリフ回しで、同じく新聞記者で政府の不正を告発しながら、逆に 陰謀により誤報を発したということで失脚した、父親の意志を継ぐために記者になった、外国育ち の若い女性を全身で好演し、対する松阪は、政府を擁護する役回りでありながら、政府の不正の 隠蔽する立場に耐えられなくなった先輩官僚の自死を契機として、シム演じる新聞記者に不正の 証拠を提供するまでの苦悩を好演しています。 映画は、この新聞記者による政府の不正の告発が成功するか否か(失敗に終わることが暗示されて いると思われる)ところで終わりますが、その訴えかけて来るものは深く、久々に骨太の社会派の 作品であると、感じました。

2020年12月4日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1996を読んで

2020年11月1日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1996では 長編小説『逃亡者』から、作家中村文則の次のことばが取り上げられています。    人の人生には、それぞれのテーマがあるので    はないか そう、何となく生きているよりも、テーマを持って生きることが出来れば、人生 はずっと充実すると感じられます。 例えば私事ですが、私は大学卒業後ある程度の目的と希望を持って企業に就職し、 しかししばらくすると、その情熱も冷めて、実家が自営業を営んでいたことから、 その方が楽であるとか、金銭的にゆとりがあるという安易な理由で、親の後を 継ぐことにしました。 そして以降は、目の前の仕事や家庭を維持することに追われて、あまり自分が この職業に従事する意味を、考えて来ませんでした。 しかし、ある時期から和装離れが進み、私たちが扱う商品が一定量売れるのが 当たり前という時代が終わりを迎え、例え少しの商品でも販売するためには、 かつてないほどの労力が必要になって、また逆に、ものを考える時間は十分に 取れるので、ふと、自分はどういう目的でこの商売を続けているのだろうと考え た時、非力でも和装という文化を守る一助となれれば、というテーマが浮かんで 来ました。 このように目的が想定されると、例え状況は厳しくても、出来る限り続けて行こう という、新たな目標も生まれました。 以上のことから、生きるためのテーマを持つということは、生きる張り合いを生み 出すことでもあると、考える今日この頃です。

2020年12月1日火曜日

末木文美士著「日本思想史」を読んで

世界文明史の中での辺境の地で、他国の影響を多く受けていることから大変複雑であると思われる、 日本の思想史を概観するという試みに興味を持ち、本書を手に取りました。 まず、日本思想史を江戸期までの大伝統、明治維新から第二次世界大戦敗戦までの中伝統、そして 戦後の小伝統に分ける区分と定義に、分かりやすさ、潔さを感じました。 すなわち、大伝統においては、思想構造を両極の王権、神仏に関わるものと、その中間に位置し、 両極の影響を受ける学芸ー生活の分野に分け、その中の王権を中世においては、院ー帝ー摂関と、 将軍ー執権の均衡関係によって成り立ち、近世においては、院ー帝ー摂関の公家階層と、将軍ー 大名の武士階層の均衡関係によって成り立つと捉えます。 このように分類すると、小異例外はあっても、中盤までは中国文明の大きな影響を受け、終盤には 西洋文明の影響を受けた、また権力構造も時々で変化を遂げ、宗教上も在来の神道と、移入された 仏教の間の親和的であったり、反発的であったりする込み入った関係などが織りなす、この時期の 日本思想を、ある程度簡潔に描き出すことが出来ます。 次に中伝統においては、大伝統の両極構造から天皇中心の一元的なピラミッド構造への転換と捉え、 その上で、この構造の世俗的な「顕」の側の頂点の部分には、西洋の新しい思想文化の導入による 大日本帝国憲法の制定、下部には教育勅語に代表される忠孝の道徳倫理を置き、他方宗教的な「冥」 の側の頂点の部分には、天皇の祖先を祀った神道を据え、下部には一般国民が先祖を祀る仏教が 置かれています。このような構造からは、西洋近代的な思想と伝統的な家父長的な価値観のねじれた 併存が見られます。 小伝統においては、伝統的な価値観を棚上げにして、理想的民主主義を導入、しかし実質上は アメリカ依存の歪んだ独立国家状態が続きます。 各区分の詳細は省きますが、この区分方法こそが本書の肝であり、それに沿って俯瞰すると、日本 ではいかなる権力構造の時代にも、天皇の皇統がその一翼を担ったという特殊な事情が見え、また この国は、相対的に他の強力な文明から様々の影響を受けながら、それを自国に適合するように アレンジし、洗練化させる術に長けていることを知り、単に歴史的事象から見えて来る事実だけでは 理解出来ない、地下の思想的水脈の複雑さも、ある程度理解出来るように感じられます。 私のような一般人の目も開いてくれる、好著であると感じました。