2020年12月19日土曜日

マックス・ヴェーバー著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んで

言わずと知れた経済学の名著です。ずっと読んでみたいと思っていたのですが、腰を据えて じっくりと読める時でないと、と感じて来ました。たまたま短期入院でそういう時間が出来た ので、晴れて手に取りました。 私が本書に興味を持ったのは、キリスト教、なかんずくプロテスタンティズムが持つ自立的な 清貧、禁欲というイメージと、資本主義の弱肉強食、富の集中というイメージが、容易に結び 付かないことです。 しかし、カトリックの中からのプロテスタントの誕生、発展へと進む、本書が丹念に跡付ける キリスト教精神史を読み進めると、次第に近代資本主義の基盤が、プロテスタンティズムの 倫理観によって補強されて来たことが見えて来ます。 すなわちまず、ここで言う資本主義の精神は、我々が直ぐにイメージしがちな高度に情報化、 グローバル化され、成熟したと言われる現在の資本主義の価値観を直接指すのではなくて、 近代資本主義がその勃興期に必要とした、起業家の合理的かつ勤勉で禁欲的な価値観を示すと いうことです。 このことが理解出来ると、当初の資本主義は少なくとも、社会を豊かにするという崇高な目標 を持って企てられたものであることが、見えて来ます。それと同時に、欧米の事業に成功し 巨万の富を得た資産家が、社会貢献活動に熱心である理由も、見えて来ます。 他方、このような資本主義の精神を後押しすることになったプロテスタンティズムの倫理観 とは、カトリック教会の修道院内部の生活における「世俗外的禁欲」から転換した、プロテス タントの神によって与えられた職業(「天職」意識)から導き出された、「世俗内的禁欲」に 基づく、神の承認を得るための勤勉、経済活動への邁進だったのです。 さて、現代の資本主義国である日本に生きる私が、本書から感じたことは2つです。1つは、 資本主義が本来プロテスタントの倫理観に裏打ちされたものである以上、非キリスト教国の 私たちは、この倫理観に代わる倫理を持って、資本主義を遂行しているはずですが、その勤勉 さや職業意識に、宗教的ではなくとも人道の観念を失わないようにしなければならない、と 言うことです。 2つ目は、世界的に見ても、本来宗教的倫理を内包していたはずの資本主義が、人間の欲望に 駆り立てられて、最近とみに非人道の傾向を強めていることです。人間の欲望の業を改めて 感じるとともに、経済的弱者の救済の必要性を、再認識しました。

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