2018年12月31日月曜日

語り猪田彰郎「イノダアキオさんのコーヒーがおいしい理由」を読んで

私が二十代の頃から通い、また私たちの店で正月に、日頃のご愛顧に感謝してお客
さまに配るチョコレート菓子も用意してもらっている、イノダコーヒ三条店の初代名物
店長・猪田彰郎さんの本が出たので、早速読んでみました。

私が若い時には、この特徴的な円形カウンターがある、重厚な設えのコーヒー店の
椅子に座るのは少し背伸びした感じで、多様な客で賑わい、カウンター内ではスタッフ
たちがコーヒーを淹れるために忙しそうに立ち働いているのに独特の居心地の良さが
あり、その雰囲気を醸し出す象徴とも言える猪田店長が、若い客でも分け隔てなく
愛想よく迎えてくださったものでした。

引退された猪田さんにお目にかからなくなって久しいのですが、この本を手にすると
かつての懐かしい思い出が蘇って来ました。

1章は実践的な美味しいコーヒーの淹れ方、写真も豊富で、分かりやすくまとめられて
います。2章は猪田さんがコーヒー店の店長として店を盛り立て、長く客に愛される
雰囲気を生み出すために心掛けたこと、接客法など、気持ちの持ち方、対人面の
あり方について。単にコーヒー店に限らず、私も同じく商店を営む者として、大いに学ぶ
ところがあると、感じました。

3章は猪田彰郎さんが15歳から働き始めたイノダコーヒ創業の経緯と、38歳で開店と
同時に店長を任された三条店の成り立ちと歴史について。コーヒー文化を京都に
根付かせるために、奮闘する様子が伝わって来ます。

また高倉健をはじめ映画関係者、文化人との交流の様子も印象的で、それらの有名人
が訪れることによって、イノダコーヒのイメージが形作られていったことがうかがわれ
ます。

私自身このコーヒー店には京都らしく落ち着いた気分と、西洋風のハイカラさの見事に
融和した雰囲気があり、それが大きな魅力であると感じて来ましたが、その佇まいが
生まれた秘密の一端を垣間見た思いがしました。

2018年12月29日土曜日

鷲田清一「折々のことば」1309を読んで

2018年12月7日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1309では
書家・石川九楊の『書と文字は面白い』から、次のことばが取り上げられています。

  書が、暇をもて余した者の戯技だとは決して
  思わないが、墨を磨る暇と余裕がなければ、
  筆など執らなければよい。

書と高尚に構えるものとは全く無縁ですが、私も呉服悉皆用の渋札を書くのに
しばしば墨と筆を使います。これは加工に回す生地が、染色などの工程で紛失
したり、加工手順が間違わないように、その生地に持ち主や加工の指示を墨で
書き込んだ、和紙を柿渋の液に浸して作るいわゆる渋札を付けるためで、渋札を
使うのも、墨で書くのも、生地が加工の工程で水をくぐったり、蒸気で熱せられた
時にその札が破れたり、文字が見えなくなるのを防ぐためです。

そういう訳で渋札を書くのは、私たちの仕事の上では作業の部類に入ることなの
で、急いでいる時などには墨を磨って文字を書くことが、しばしばもどかしく感じ
られます。

しかしこの作業は、上記の理由から決して間違えてはならないものなので、墨を
磨る、筆で書くという手間がある意味、相違がないかもう一度確認をするための
時間を生み出してくれるとも感じられます。

筆を持つという行為にはある程度慣れていることもあって、字はとても上手とは
言えないので、受け取る人には迷惑かもしれませんが、私は年賀状の宛名だけ
は墨書することにしています。墨を磨り、筆で書くことで、受け手に思いを馳せ、
一年を締めくくるためには、欠かせない行為だと思っています。

2018年12月27日木曜日

ブライアン・シンガー監督映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観て

クイーンのリードボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記映画です。

クイーンの全盛期にあまり洋楽を聴いていなかったので、彼らの曲はほとんど知り
ません。でも晩年のフレディ・マーキュリーの特徴的なルックスと歌唱、そして彼が
エイズで若くして亡くなったことは記憶に残っていて、ヒットしているこの映画を観よう
という気持ちを後押ししてくれました。

そういう訳で、フレディがパキスタン系のイギリス人であることも、この映画で初めて
知りましたが、映画の冒頭の彼は満ち溢れる才能から来る自信や音楽に対する
情熱によって、容姿や出自のコンプレックスを軽々と凌駕していて、彼が当時の音楽
シーンでのし上がる姿は小気味よく、観る者に快感を覚えさせます。

しかし一挙に成功をつかんだ者の悲哀というか、このような軌跡をたどるロック界の
スターは他にも目にしますが、脚光を浴びるほどに、自らが当時まだ差別的な視線を
向けられる存在であったゲイであるコンプレックスに追い詰められて、酒や薬に溺れ
次第に孤立を深めて行きます。

そのような経緯を経て、またその頃は不治の病であったエイズに感染していることを
自覚して、彼の素晴らしいところは、音楽を通して人々を勇気づけることこそが自らの
使命であるという認識に立ち返り、クイーンのメンバーと和解して、世界的なチャリティ
コンサートに臨んだところにあると感じました。

その「ライヴエイド」での伝説のコンサートシーンは、まさに圧巻。それまでの全ての
ストーリーがここに集約されて、大きな感動をもたらします。音響も含め、映画館で
こそ観る映画だと感じました。

この映画がこれほどヒットしているのは、このコンサートシーンの素晴らしさ、フレディ
を彷彿とさせる主演俳優の熱演など、幾つもの要素があると思いますが、中でも
主人公の苦悩が彼自身はスーパースターであるものの、我々普通の人間が生きて
いく上で感じる様々な悩みと決して遠く離れたものではないことを、分かりやすく示して
いるからではないかと、感じました。

最後にこの映画でクイーンの音楽を初めてじっくりと聴いて、その楽曲、歌詞、歌唱に
吟遊詩人にも通じる文学的な抒情性を強く感じました。ロックミュージックでも、優れた
音楽にはそのような要素が内在しているのだと気づき、同時にボブ・ディランが
ノーベル文学賞を受賞したことを思い出しました。

2018年12月25日火曜日

鷲田清一「折々のことば」1304を読んで

2018年12月2日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1304では
探検家でノンフィクション作家・角幡唯介の探検記『極夜行』から、次のことばが取り
上げられています。

  ぞくぞくした。この永続する不安感は探検が
  うまくいっている証拠なのである。

終日太陽を拝むことのない冬の北極圏を単独で旅した探検家は、死の瀬戸際で
踏みとどまり再び陽光を目にした時、原初的な歓びが体から湧き起こって来るのを
感じます。

文明社会の分厚い鎧に守られた現代人は、人間本来の生のあり方をすっかり忘却
してしまっているのでしょう。秘境と呼ばれるような文明の影響が及ばない地に単独
で降り立った探検家だけが、このような生の本質に直接触れることが出来るのかも
知れません。

そんな覚悟の探検家のノンフィクション作品を読む私たちは、冒険行為の現実の成り
行きと同時に、人間が根源的に持つ野性的な感性や、そこから導き出された始原の
精神的営為を追体験することが出来るようにも思われます。

上記の言葉とそれに添えられた鷲田の注釈を読んで、私はすぐに『極夜行』を読む
ことに決めました。

2018年12月21日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1300を読んで

2018年11月28日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1300では
文化人類学者小川さやかの随想「タンザニアの気づいてもらえる仕組み」から、
次のことばが取り上げられています。

  気づかれないように親切にしたり、助けを求
  めなくても気づいてもらえるような仕組みが
  商売を通じて自然に築かれていく・・・・・

調査のためにタンザニアで長屋暮らしをした文化人類学者は、客と行商人の間で
お金を媒介として思いやりが行き交う姿を懐かしんで、このように記しているそう
です。

そういえばかつては日本でも、近所の馴染み客と個人経営の小さな商店の店主や
従事者の間にも、このような関係があったことを思い出します。

米屋や酒屋が御用聞きに行って注文を取るばかりではなく、それとはなしにその家
の住人の安否を気遣ったり、八百屋や魚屋が来店したお馴染みさんに、その家の
家族の構成や健康状態に適した品を勧めたり、また時にはサービスで余分に
おまけの品物を客に渡したり・・・

そのような関係を通して、庶民の生活が成り立っていたと記憶します。

今日ではコンビニが年中無休で日用品を供給し、スーパーに行けば豊富な取り
揃えの中から自由に商品が選べますが、逆に客と店との間の濃密な人間関係は、
すっかり失われてしまいました。そこには少し寂しさもあります。

私たちの三浦清商店は白生地を販売しているので、今や日用とは縁遠い商品を
扱っていることになりますが、個人商店の端くれとして、出来る範囲でお客さまに
寄り添う商いを心がけています。

2018年12月19日水曜日

中島京子著「長いお別れ」を読んで

父と母の介護を通して、私も認知症と関わって来ました。それで本書を手に取ること
にした訳ですが、認知症を題材とする小説の中でもとりわけこの本を選んだ理由は、
「長いお別れ」という書名によるところが大きかった、と感じます。

というのは、本書の最後に題名の由来が語られますが、ことさら説明を聞かなくても
この言葉が認知症を表すことは一目瞭然であり、認知症のことをこのように柔らかく
表現する言葉が題名に使われている小説には、この症状に苦しむ人のことが共感を
持って描かれているに違いない、と思ったからです。

通読して期待は十分に裏切られず、私自身の経験も踏まえて、人が老いるということ
や、家族の絆について考えさせられるところが多くありましたが、私が特に心惹かれた
のは、認知症になった夫と妻並びに三姉妹である子供の関係性です。

第三者から見れば、どんどん症状が進行していく絶望的な状況で、妻は自分の名前
さえとうに忘れ去られ、自身も老化して夫の介護もままならなくなって来ても、なお夫
に愛情を注ぎ、その世話をしたいと考えます。

その理由として本書では、夫は妻の名前や結婚記念日や、三人の娘を一緒に育てた
こと、二十数年来暮らし続けて来た家の住所や家そのもの、妻や家族という言葉さえ
も忘れてしまったが、それでも夫と妻のコミュニケーションや感情の行き来は保たれて
いると、妻の独白として語らせています。

また娘たちはそれぞれに結婚して、あるいは独立して生活を築いていますが、父を
一人で世話する母親の緊急入院という非常時には、慣れない中でも献身的に父親の
介護をしようとします。そして日頃の母の苦労を知るのですが、これも親子の絆の
なせる業です。

家族の絆とは相手のことを思いやり、多少自分のことを犠牲にしても、無償で相手を
助けたいと思える関係のことだ、と本書を読んで感じました。

とかく暗くなりがちな認知症の人に向き合うことをテーマとするこの小説に、爽やかな
印象を添えているのは、冒頭の認知症の夫が孫ぐらいの年齢の見ず知らずの姉妹
に請われてメリーゴーランドに一緒に乗る場面や、最後に彼の孫がアメリカの公立
中学校で不登校になって校長に呼び出された時、日本で長く校長を務めた彼の祖父
の死をこの校長に話す場面など、死にゆく者とこれから成長する者の魂の交歓を感じ
させる部分です。

ここで著者は悠久の生命の流れをも、表そうとしているのかも知れません。

2018年12月17日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1299を読んで

2018年11月27日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1299では
ノンフィクション作家久田恵+花げし舎編著『100歳時代の新しい介護哲学』から、
ある有料老人ホームの入居者の次のことばが取り上げられています。

  「あなた、歳をとるってどういうことかわか
  ってる?・・・もう人から年齢しか聞かれなく
  なる、ってことよ」

母親の介護を続けて来て、上記の言葉は実感を持って感じたことです。

母は7年前の父の死去後もしばらくは、まだ健康のためにプールに通っていま
した。プールのお友達との付き合いもあり、また小学校、女学校時代の高齢でも
元気なお友達とも、同窓会などを企画して余生を楽しんでいました。

しかし5年くらい前に脳梗塞で倒れてからは、当初はお友達のお見舞いなどもあり
ましたが、介護が必要な状態になってプールも辞め、自宅に引っ込むようになる
と、友人たちも高齢で健康を損ねられたことなどもあって、次第に交流が途絶えて
行きました。

ここ数年は親族と担当する介護関係者だけが、日常的に母と接触する数少ない
存在という状態になりました。

今日の高齢化社会では、老人はある体調の限度を超えると人との交わりが極端
に少なくなって、社会的にもどんどん孤立化して行く。まさにそれも、深刻な高齢化
問題なのでしょう。

ただ私の母の場合自宅で葬儀をしたこともあって、高齢のご近所の方々が多く
お別れに来てくださったり、喪中の葉書をご覧になってしばらく交流のなかった母
ゆかりの人々からお悔やみの電話やお手紙を頂戴したことは、残された私たち
には、大きな励ましとなりました。

2018年12月14日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1297を読んで

2018年11月25日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1297では
民衆思想史家・色川大吉の『明治精神史』から、次のことばが取り上げられています。

  人はほとんど自分に関するかぎり、その真の
  動機を知っていない。

一瞬戸惑いますが、そう言われればその通りだと思います。私がどうして三浦清商店
を継ぐことになったのかということも、元をただせばかくとした動機があったとはとても
思えません。

大学を卒業するに当たり、それなりの社会人としての夢を抱き、広告につて学ぶゼミ
に所属していたので広告に力を入れる化粧品会社に就職して、第一ハードルは超え
たと思ったら実際の仕事は思い描いていたものとは違って、やはり家業の方が楽
ぐらいの軽い気持ちで実家に戻りました。

今から考えると我ながらあきれるぐらいの軽い動機でした。でも家業に携わり使い走り
から始まり一から学んで、失敗や恥ずかしい思いも沢山経験しているうちに、次第に
自覚も生まれ店の存在理由などについても考えるようになって、父からバトンを受け
取った時には少なくとも店の名前に恥じない店主になろうと思いました。

果たしてそのような店主の役割を務められているかは、私にはまったく分かりません
が、だからこそ「何を為たか」以上に「いかに為たか」が重要だ、という言葉が琴線に
触れました。

これからも「何を為たか」なんておこがましいことは考えず、「いかに為べきか」、「いか
に為たか」に心を傾注していきたいと思います。

2018年12月12日水曜日

細見美術館「描かれた「わらい」と「こわい」展ー春画・妖怪画の世界ー」を観て

国際日本文化研究センター所蔵の妖怪・春画コレクションにより、〈恐怖と笑いが
地続きで繋がる前近代の豊かな日常〉を鑑賞者に提示しようとする展覧会です。

私は実際に観るまで、当時の日本人にとって「わらい」と「こわい」が、現代の我々
よりずっと親近性のあるものであったことを、春画、妖怪画を通して明らかにする
というこの展覧会の意図が、ほとんど雲をつかむようで実感出来ませんでしたが、
現実に目にして、前近代の人々の精神世界を少し覗き見ることが出来たような、
快感とも懐かしさとも通じる感情を味わうことが出来ました。

恐怖と笑いが地続きであるということは、私たち現代人にとっては、それぞれの
感情を引き起こす要因を理知的に捉えようとする習慣の浸透によって、その差異
が際立たされた結果、とても想像することが出来ないように思われますが、当時
の人々の生の実感では、この二つの感情は親しいものであったのでしょう。その
点については、人間は本来自分の理解を超えたものに対して恐怖や笑いといった
感情や反応を示すという本展での解説によって、納得できる気がしました。

さて実際に展示作品を観て、妖怪画や春画にユーモラスな表現が散見されること、
あるいは妖怪画と春画が混ざり合った作品も見られることなどから、恐怖や笑いや
信仰心、性的感情といったものが当時の人々にとって、日常の精神生活の中で
渾然一体としたものであったことが推察されます。その事実は彼ら彼女らが、合理
的なものの考え方という点では現代人に劣っているとしても、かえってより豊饒な
精神世界を有していたとも言えるのではないかと、感じました。

個別の作品では、鳥居清長の春画「そでのまき」の美しさ、精緻さに強い感銘を
受けました。本展ではこの作品の復刻版の制作過程をも示すことによって、作品
の完成度、魅力を分かりやすく提示していますが、現代の価値観では下に見られ
がちな春画に最高の技巧が用いられていることに、当時の浮世絵師とそれを支え
た職人の心意気、研ぎ澄まされた美的感覚を感じました。

2018年12月10日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1289を読んで

2018年11月17日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1289では
哲学者・三木清の『哲学と人生』から、次のことばが取り上げられています。

  ひとは孤独を逃れるために独居しさえする

この言葉には、自分の体験を踏まえてうなずかされました。

寂しさに取りつかれ落ち込んでいる時、多くの人が行き交う雑踏の中にいることが
帰って孤独感を助長することがあります。それらの人々から私が全く孤立していて、
自分だけ特殊な人間であるような、仲間外れの存在であるような、そんな気がして、
絶望感がいや増します。

そんな時には、隠れ家というか、誰も人のいないところに閉じこもって、他人の存在
を全く意識しなくてよい場所に一人でいる方が、救われた思いがします。

でも逆に心に余裕のある時は、自らの孤独を確認するために大勢の人がいるところ
に出てみたいと、思うことがあります。そんな場所を一人でさまよっていると、自分が
個を確立した存在であるように感じられて、ある種爽快でさえあります。

そういう風に考えると、人間は他者との関係性を通して寂寥感を感じたり、感じな
かったりするのかも知れません。

ということは、最近の私にとって、孤独は必ずしも忌み嫌うべきものではありません
から、出来ることなら心に十分余裕を持った状態で、孤独と向き合っていきたいと
思います。

2018年12月7日金曜日

大森立嗣監督作品映画「日日是好日」を観て

今年亡くなった樹木希林の出演作ということで、映画館で観ました。茶道の入門編
として、相応しい映画だと感じました。私たちの店には、お茶に係わる方がお客さま
としてお見えになることがありますが、その方々が時折お仲間で語らっておられる
茶道の魅力の一端が、私たち門外漢にも少し理解出来たように感じられる、作品
でした。

キャストから触れると、武田先生の樹木希林は着物の着こなしから佇まいまで、
さすがの存在感。着こなしについては、自分の持つ華美ではなく、趣味の良い着物
を大切に着まわす高齢の女性が、清潔さを失わないように、しかし肩肘張らず
ゆったりと心地よさげに着物を着ている姿が秀逸でした。

武田先生の人間性も、着物の装いと相通じるように、性格は飾らず、お茶の指導は
むやみに押し付けず、それでいて伝えるべきことは的確に伝えるというスタンスで、
弟子への気遣い、愛情も、過不足なくにじみ出ていて、こんな先生なら一度指導を
受けてみたいと、感じさせます。

まだ若いにも関わらず、抑えた感情表現が得意な、主演の黒木華の不器用な典子
との師弟の関係も、付かず離れずの、しかし心の底では典子が先生を慕っている
様子がうまく描き出されていると、感じました。

茶道というものについて、私がこの映画から感じ取ったのは、形から入り、それが
無意識でも出来るようになったところから、味わいが生まれるという部分。現代の
教育ではまず自分の頭で考えるということが重要視されるので、私たちはついつい
理論や方法論に囚われてしまいがちですが、元来人間の行為には外的な要因
との関わりの中で自然に培われて来たものが多くあるはずで、現代人にとっての
茶道の魅力の大きい部分に、そのことを思い起こさせる役割があるのではないか
と、この映画を観て感じました。

2018年12月5日水曜日

龍池町つくり委員会 58

12月4日に、第76回「「龍池町つくり委員会」が開催されました。

まず、京都外国語大学南ゼミ企画の「二条薬めぐりスタンプラリー」の結果報告が
行われました。参加者は親子づれが10名、子供だけが5名で、地元出身ではない人
が大部分で、ラリーのポイントである立ち寄り場所での説明を、興味深げに聞いて
おられる方が多かった、ということです。

堺萬さんに提供していただいた古代米のおはぎは、子供たちもよく食べ、薬膳茶も
ある程度味わってもらえたようです。

他方反省点としては、二条通りの薬屋町の成り立ちや、薬まつりの歴史等について
のガイダンスが不十分で、説明をする学生さんの補助に当町つくり委員会のメンバー
など地元民が付いた方がよかったのではないかという意見や、広報用のパンフレット
の配布が行き渡らず、改善すべきところがあるという意見も出ました。

学区内の宿泊施設建設問題では、新町御池下がるの物件の初回の説明会で、最初
に建設業者側の説明を聞くのではなく、こちら側の事情説明と要望を出すようにした
ところ、次回の説明会で業者側も要望に沿った前向きな対応をしたこと、また
建設場所の地元の学区民の関心も高まり、説明会に多くの参加者が集まったこと、
が報告されました。このような事例は、今後の一つのモデルケースになると考えられ
ます。

1月の「町つくり委員会」は休みとなり、次回は2月の第1火曜日に開催されます。

2018年12月3日月曜日

神里達博「月刊安心新聞✙ 自己責任論の思想 「集団内の役割」問う日本」を読んで

2018年11月16日付け朝日新聞朝刊「月刊安心新聞✙」では、「自己責任論の思想
「集団内の役割」問う日本」と題して、シリアで拘束されていた安田純平氏が3年4カ月
ぶりに解放されたことを巡って、日本で「自己責任論」が再燃したという事実に鑑みて、
筆者が我が国における「自由に伴う責任」と「立場と役割に伴う責任」について論じて
います。

つまり日本社会では、欧米のように「責任」が自由との関係で語られることはまれで、
不祥事を起こした会社の社長が「責任を全うする」と主張することに代表されるように、
「立場と役割」に則して責任が語られる場合が多い、と言うのです。

この論によると安田氏の事件の場合は、本人が勝手に危険な紛争地に赴き、拘束
されたのだから、日本政府が国民の税金を使って救出活動をする必要はない、という
ことになります。

即ち彼は日本国民の一員として、他の大多数の国民に対して無用な迷惑をかけては
ならない義務があるにも関わらず、それを破って自分の都合で紛争地帯に行ったの
だから、自ずと身の危険は承知のはずで、そのような人物を何も国が救出する必要は
ない、という論理です。

ここまで読んで来て私は、村社会の延長のように、集団内で与えられた役割という
枠組みでしか物事を捉えられない日本人の偏狭さのみならず、国際問題に目を向け
られない内向きさ、自分たちの卑近の利益のことしか考えられない近視眼性を思い
ました。

このような現象は、経済的には一定水準以上に豊かになっていても、思想としての
民主主義はいまだに定着していない、あるいは経済的にも疲弊が進んで来て、他人
の幸せを喜んでいる余裕がない、ということでしょうか?

いずれにしても、世知辛い世の中です。

2018年12月1日土曜日

自宅での葬儀を済ませて

前回の続きをつづらせていただきます。

母はかねてより、自宅での葬儀を希望していました。最近は葬儀場で行われることが
多く、父の時もそうしたのですが、母は自宅で過ごすことが好きで、最後の入院の時
も早く家に帰りたいとしきりに言っていましたので、希望を入れて自宅で行うことにした
のです。

病院から連絡を入れると、寝台車と共に数人の葬儀社の人がやってきて、自宅で
葬儀を希望と告げると、母の遺体を搬送して、ひとまず生前愛用のベッドに安置し
ました。

葬儀社の担当者が私たちの家の間取りを見て回って、店の東側の通りに面する部分
がガレージ、中庭があって奥が応接間になっている部分を使って、葬儀を行うことに
決まりました。

翌日から設営が始まり、まず奥に続く中庭の飛び石の上に、参列者が歩きやすいよう
に木製の廊下を設置し、応接間には白い幕を巡らせてから、銀の屏風を背景に花で
彩られた祭壇と棺を安置するスペース、菩提寺の住職が着座されるスペースが設け
られました。

会場内一円に白黒の幕が張られて、要所に供花が飾られ、ガレージが受付と待合所
になって準備が整うと、見慣れた自宅が見違えるような葬儀場になりました。

この一連の進行の中で一番印象に残ったのは納棺の儀式で、納棺師が手際よく母の
遺体に気に入りの着物を着せ、死での旅立ちという意味の白の手甲、脚絆は、最後の
ひと結びは私たち近親の者が行いました。遺体が棺に納められると、生前愛用の品、
好物のお菓子などを入れ、周囲を切り花で埋めて儀式は終わりました。切なさが
こみあげて来る瞬間でした。

通夜、告別式にはご近所の方、母と親交のあった人々が駆けつけて下さり、参列者数
はそれほど多くはありませんでしたが、最後の見送りまで残って下さる方の割合も多く、
母の希望通り自宅で葬儀をしてよかったと感じました。