2021年5月28日金曜日

「古田徹也の言葉と生きる 比喩的表現に満ちた世界」を読んで

2021年5月27日付け朝日新聞朝刊「古田徹也の言葉と生きる」では、「比喩的表現に満ちた 世界」と題して、日本語では例えば、「お手洗い」と言う言葉が、トイレの後に手を洗う 習慣から、トイレやそこで用を足すことを意味するように、言葉には、文化によって生み 出された比喩的表現が多く存在することを、語っています。 この文章を読んで、私もなるほどと思いました。それに付随して思い浮かんだのは、文化 というものは、時代と共に移り行く部分があるので、このような比喩的な表現の一部の ものも、時代の変化によって意味が通じなくなったり、変容もする、ということです。 私が思いつくところで例を挙げると、日本人の着用する衣装が、近年は大部分が洋装に 変化したので、和装にちなむ比喩的表現が、早晩大多数の日本人に通じなくなるだろう、 ということです。 このような表現をいくらか列挙すると、「襟を正す」「袂を分かつ」「袖を引く」「片肌 を脱ぐ」「裾を合わせる」などです。 これらの言い回しは、日本人が日常に着物を着用していることによって、初めて生まれた 表現で、最早着物をほとんど着なくなった私たちでも、まだかすかに和装をした時の記憶 が残っているために、それらの言葉をかろうじて理解することが出来ますが、我々より 更に着物との縁が薄い下の世代では、早晩これらの言葉が理解不能になる、と思われます。 時代の移ろいと言えばそれまでですが、豊かな日本語の表現の一部が失われることに、 私たちの世代としては、一抹のさみしさを感じます。

2021年5月26日水曜日

私の大腸がん闘病記⑨

さて、いよいよ退院して、家に帰りました。退院できるのだと気分も高揚し、直ぐに普通の 暮らしに戻れるような感覚に囚われていました。しかし実際に生活を始めると、ことはそん なにスムーズに運ぶものではありませんでした。 私は自営業で、自宅で仕事をしているので、その意味では時間に融通が利きます。周りの人 に助けてもらって、自分のペースで仕事をすることも可能です。おまけにこの当時はー今も そうですがーコロナ禍で、来客も、注文を受けることも少なかったので、その点は手術明け の人間としては、大いに助かりました。 しかしやはり、肝心の体が思うようには動きません。全身に力が入らないというか、痛み 止めはもう飲んでいなくて、じっとしている分には自覚的な痛みはないのですが、体を動か すと何かの拍子に痛みが走り、ドキッとさせられます。また、体を横にすると、仰向けに 寝た状態から体の向きを左右に動かす時に鋭い痛みが感じられ、しばらく仰臥したまま同じ 姿勢で、寝転んでいることしか出来ませんでした。 これは夜に就寝する時も同様で、従って当分は寝返りを打つことも出来ず、安眠することが かないませんでした。そしてもう1点、切除手術を受けた大腸の調子がとても不安定で、この ことも安眠を妨げました。そのことについては、次回に書きたいと思います。 体を動かすという部分では、手術自体は開腹手術ではなく腹腔鏡手術で、体の表面が大きく 切開された訳ではなく、傷口も小さいのですが、体の内部では腹筋を切開した上で大腸を 切除しているので、やはり傷が治るには相当の時間がかかります。従って、半年ぐらいの間 腹筋に無理な力がかからないように、十分に注意してくださいと、言われていました。この ことも勿論、私の行動を大きく制限しました。

2021年5月21日金曜日

ノヴァーリス著「青い花」を読んで

ドイツロマン派の詩人ノヴァーリスの小説です。作者が夭折したために、未完に終わりまし たが、それでも魅力に満ちた作品であると、感じました。 詩や人文智が至高の存在であった時代の小説で、作者自身も貴族階級の出自、世俗的な憂い とは無縁の人の、混ざりけのない人生の理想を求めるような、あるいは夢見るような物語で、 現代の高度に発達した資本主義社会の中で、時間や金銭の算段、合理性の追求の圧力に急き 立てられ、また満ち足りない思いや疎外感に囚われる私たちにとって、はたしてこの小説が 実感を持って心に響くのかという疑念も、ないことはありませんでしたが、読み進めるうち に、主人公の一途に美と愛を求める真摯な姿が、今は疎んじられ勝ちな、文学的叡智の豊饒 な可能性を示してくれるようで、私は勇気づけられるものを感じました。 さて、この小説を読み進めるうちに気づいたり感じたことを書き記すと、まず、ヨーロッパ の詩歌が、ギリシャのそれの伝統を色濃く引き継いでいるということ。これは、近世以降に 顕著なことかも知れませんが、私たちはヨーロッパ文化というと、直ぐにキリスト教を思い 浮かべるので、その基層にはギリシャ的なものの考え方があることを、再確認させられまし た。 次に、この小説の舞台の時代においては、詩歌というものが特別な力を持っていたという こと。これは日本の宮廷文化でも言えることですが、ある時期までの社会では、言葉の力、 詩歌の力が、特に上流階級においては、必要不可欠な教養であったということ。それも当時 のヨーロッパにおいては、歌合戦の敗者が死を宣告されることもあるという、歌うことが 真剣勝負であったということです。 今日の社会では、科学的な価値観が優先され勝ちですが、人間の感情生活を豊かにする文学 的な言葉というものが、もっと見直されるべきであると、本書を読んで感じさせられまし た。 最後にこの小説の中で、主人公が一夜の旅の宿で出会った老坑夫の人柄と描かれ方が、大変 印象に残りました。この坑夫は労働者としてたたき上げて一流の職人になり、引退後は諸国 を遍歴して有用な鉱脈がないか各地の地層を調べて歩き、また主人公の良き教育者となるの ですが、自らの職業に誇りを持ち、知識の獲得に喜びを見出し、富を求めない姿に、理想化 されているとは言え、ヨーロッパのマイスター精神というものを見る思いがしました。

2021年5月18日火曜日

私の大腸がん闘病記⑧

痛いなりにも、少しずつ体が動かしやすくなり、ベッドに横になっていても、体位を変える ことが可能になってきたので、安眠出来る時間が増えました。また、手術後数日でガスが 出て、以降排便も始まり、種々の検査を受けても、順調に回復に向かっている、と言うこと でした。 まだ起き上がって、病院の廊下を点滴のポールを杖にして歩くのは苦痛で、億劫でもあり ましたが、そうすることが回復を早めると、繰り返し言われていましたので、努めて1日 数回歩くようにしました。最後の方には1日3回、各7周ぐらい歩いたと思います。その中で も、ちょうど8月16日に大文字送り火を病院の窓から見たことが、例年とは違うお盆の 過ごし方ということを、いやがうえにも感じさせられて、強く記憶に残っています。 入院中の出来事で他に思い出すのは、手術後数日中にリハビリが始まったことで、担当の 療法士さんがまずベッドの上で足のマッサージ、それから起き上がって歩くのを見守って くれます。これは一人ではついついさぼりがちになりやすい、術後患者が体を動かすこと をサポートしてくれるということでしょうが、その療法士さんの控えめな態度が、私には 好ましく思われました。その人のおかげで、回復が順調に進んだと、今は思っています。 術後8日ぐらいから、病室で寝たり起きたりしている限りでは、随分体が軽くなったと感じ られ、またその数日前には、導尿と背中の痛み止めのチューブも外されていたので、体の 自由が利くようになり、担当医からそろそろ退院も可能だがいつにしますか?と尋ねられた 時、直ぐにも問題ないと思いましたが、少し余裕を持って2日後に退院しますと、答えまし た。

2021年5月14日金曜日

「古田徹也の言葉と生きる 土地の名を病に使うなら」を読んで

2021年5月13日付け朝日新聞朝刊「古田徹也の言葉と生きる」では、「土地の名を病に使う なら」と題して、筆者の出身地水俣の地名が「水俣病」という公害病の語源になっている ことから、出身者の複雑な思いを語っています。 確かに我々は、「水俣病」は言うに及ばず、「川崎病」「チェルノブイリ原発事故」など、 病気、事故が発生した場所を冠した名称をしばしば用いて来ましたが、私自身それらの 言葉を使いながら、そう呼称されていることによる現地の人の心の痛みには、全く思い 至りませんでした。その意味で、はっとさせられました。 この事例は、私たちが他者の心の痛みに鈍感であることの、典型であると思います。人は 立場が違うと往々に、相手の心の傷に対する想像力が働かないものです。そういう点でも、 こういうことに気づかされたことは、有益であると感じました。 しかし筆者も語っている通りに、その呼称が、それぞれの病気、事故などがどのようにし て発生し、如何に認識され来たかの経緯を、社会の歴史の中に跡付けるものであり、その 名称を用いることなくして、検証も教訓も得ることも行われて来なかったことから、今更 名称を変更することは考えられず、それを使用する我々も、その事実を重く受け止める ことが大切であると、思われます。 その意味でも、それぞれの語源の地に敬意を払いながら、このような負の遺産を記憶し、 教訓として活かすことの重要性を、改めて感じました。

2021年5月11日火曜日

私の大腸がん闘病記⑦

手術後の養生期間が始まりました。背中からチューブで注入している痛み止めが効いている ので、麻酔が覚めても安静にしていれば、あまり痛みは感じませんでした。それで、本を 読んだり、テレビを見たり、ウォークマンで音楽を聴いたりして、日々を過ごしました。 ただし、体を動かそうとすると、激しい痛みが襲います。まず、ベッドから起き上がるのが 一苦労で、可動式ベッドの背中の部分を上げて、ベッドの柵にしがみつき、出来るだけ痛み が少ないように、体をねじりながら、反動を利用して起き上がります。当初はそれが、 かなりの重労働でした。 手術を受けた翌日には、病院内の廊下を歩くことを奨励されました。先ほどの要領で体を 起こし、点滴の薬を吊るした、下部に車の付いたポールにつかまりながら、病院の廊下を 歩きます。体には点滴のチューブだけではなく、たすき掛けにした痛み止めの薬の袋から、 背中の注入口に続くチューブ、導尿カテーテルによる尿を排泄するためのチューブをぶら 下げ、痛みのために体を傾かせながら、廊下を歩きました。最初は1,2周歩くのがやっとで、 数日すると、5,6周は歩けるようになりました。 ふとある時その状態で洗面所の鏡を見ると、髪はぼさぼさ、ひげはかなり伸び、沢山のチュ ーブや袋をぶら下げて、ポールを杖替わりに力なくそこにたたずむ姿は、かなりみすぼら しいものでした。我ながら情けなくなって、その後、急いで、とりあえず髭だけは剃り ました。 食事は記憶する限り、手術後丸一日は絶食、流動食から始まって、徐々に形のあるものに なって行き、入院の最後の方は、柔らかめのご飯と消化の良いおかずになりました。量が 多くなかったので、いつも全て完食出来ました。

2021年5月7日金曜日

方方著「武漢日記 封鎖下60日の魂の記録」を読んで

世界を覆いつくしたコロナ禍の震源地であり、また政治体制が違うために、渦中の実情が 私たちになかなか伝わりにくかった、中国武漢で一体何が起こり、そこに暮らす人々は、 どのような苦難を耐え忍んだのかということを、程度の差こそあれ、同じくコロナ禍に 過ごす者として是非知りたくて、本書を手に取りました。 まず本書を理解する背景として、私たちに断片的に伝わった、西側の報道機関による武漢 におけるコロナ蔓延の報道は、当地では発生からしばらく、このウイルスの危険性への 注意喚起が行われず、その結果市民の間に瞬く間に感染が広がり、次いで医療従事者にも 感染が広がって医療崩壊が起こり、死者が日に日に増して行った。他方政府(当局)は、 最初はコロナ禍への警鐘を鳴らした医師をデマを流すと非難したが、コロナ蔓延後は都市 封鎖に踏み切り、専用病院も短期間で建設していち早く封じ込めに成功、その後この ウイルスはグローバル化の影響もあって、世界中で猛威を振るい、今日に至っていると いうものです。 さてその中で、この日記です。著者は中国で実績のある女性作家で、かつてこの地方の 作家連盟の代表を務めていました。この国のような共産主義体制の中で、はたして一個人 が自由に政権にとって不都合な部分もある情報、意見を、ブログという形で、日記として 発信することが出来るのか、最初は疑問に感じていましたが、彼女は発信停止処分や、 体制擁護の人物や団体による誹謗中傷を受けながらも、ひるまず発信を続けました。 そこには作家仲間や出身大学の関係者など、彼女を支え励ます、強い絆で結ばれた周りの 知識人の助けもありましたが、結局は、自分の筋を曲げない、事実のみを伝えようとする、 彼女の正義感と作家魂のなせる業であったと、感じました。 日記の内容に関しては、コロナ禍によって刻々と死者が増大して行く様子を、緊張感を 持って描くのみならず、感染の拡大を招いた当局の隠蔽体質を一貫して批判している一方、 医療従事者の献身的な活動や、他省からの人道的支援、住民間の食料、生活必需品の共同 購入の体制が整っていることなど、庶民間の好意や温かみのある姿を、好ましいものと して描いています。 本書を読んで、コロナウイルス感染症に我々が如何に対処すべきであるかということを、 再認識出来たと共に、中国という近くて遠い国の住民の目線から見た実際の姿を、垣間 見ることが出来たと、感じました。

2021年5月4日火曜日

私の大腸がん闘病記⑥

手術台に上がり、まず体を横に向けさせられました。背中の脊椎の近くに、痛みを和らげる 薬物(痛み止め)を注入するチューブを挿入するためで、この時には、患者がチューブの 入って行く状況を直接確認出来るように、まだ患者に意識があることが必要なようです。 直接には見えませんが、何か異物がもそもそと背中でうごめくようで、あまり気持ちのいい ものではありませんでした。それ以降は、恐らく口から麻酔薬が注入されて、意識が全く 飛んでしまいました。 気が付けば自分の病室ではない、ナースステーションの隣の緊急治療室に上半身を起こし、 足を曲げながら開いた状態で固定されて、寝かされていました。まだ麻酔が効いている らしく、朦朧としていますが、痛みは感じなくて、これなら比較的楽だな、と思いました。 腕を点滴のチューブにつながれ、口には酸素吸入のマスクを装着し、その他心電図測定機器 などを付けながら、深夜から早朝までその治療室に横たわっていました。時々看護師さんが 来て、容態を確かめてくれることが、安心感につながりました。 そうして一定時間の経過後、順調なので病室に戻りましょうということになり、車椅子に 移って本来の病室に戻りました。これでまた、ほっとしたとみえて、病室のベットでしば らく眠りにつきました。 目を覚ました後、担当医の診察があり、それではこれからはリハビリにかかります、移動 する時には出来るだけ自力で起き上がって、体を動かすようにしてください、と言われ ました。これは手術の箇所の大腸が癒着しないように、早期から体を動かすことが必要で あるそうで、後ほど記しますが、それがかなりの困難を伴うものでした。