2021年5月28日金曜日

「古田徹也の言葉と生きる 比喩的表現に満ちた世界」を読んで

2021年5月27日付け朝日新聞朝刊「古田徹也の言葉と生きる」では、「比喩的表現に満ちた 世界」と題して、日本語では例えば、「お手洗い」と言う言葉が、トイレの後に手を洗う 習慣から、トイレやそこで用を足すことを意味するように、言葉には、文化によって生み 出された比喩的表現が多く存在することを、語っています。 この文章を読んで、私もなるほどと思いました。それに付随して思い浮かんだのは、文化 というものは、時代と共に移り行く部分があるので、このような比喩的な表現の一部の ものも、時代の変化によって意味が通じなくなったり、変容もする、ということです。 私が思いつくところで例を挙げると、日本人の着用する衣装が、近年は大部分が洋装に 変化したので、和装にちなむ比喩的表現が、早晩大多数の日本人に通じなくなるだろう、 ということです。 このような表現をいくらか列挙すると、「襟を正す」「袂を分かつ」「袖を引く」「片肌 を脱ぐ」「裾を合わせる」などです。 これらの言い回しは、日本人が日常に着物を着用していることによって、初めて生まれた 表現で、最早着物をほとんど着なくなった私たちでも、まだかすかに和装をした時の記憶 が残っているために、それらの言葉をかろうじて理解することが出来ますが、我々より 更に着物との縁が薄い下の世代では、早晩これらの言葉が理解不能になる、と思われます。 時代の移ろいと言えばそれまでですが、豊かな日本語の表現の一部が失われることに、 私たちの世代としては、一抹のさみしさを感じます。

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