2022年6月20日月曜日

中島岳志著「思いがけず利他」を読んで

最近「利他」という言葉をよく耳にするようになりましたが、それだけ「利己」的な考え方や 行動が目立つようになったということでしょう。 なぜそうなったかを考えると、個人主義、合理主義的思考の浸透や、人々の生活に経済的にも 精神的にもゆとりがなくなり、自分が生きて行くだけで精一杯という気分になっていることが、 挙げられると思います。 確かに今の日本は、少子高齢化や地方の過疎化、国際比較の中での経済的地位の低下など、 停滞感に覆われているように感じられます。 しかし、物質的には恵まれない発展途上国の中にも、精神的には豊かな暮らしをしている人々 も存在することから推し量ると、我々日本人が利己的な考え方に囚われ勝ちである要因として、 精神的な要素が多いように思われます。 さて「利他」と一口に言っても、そのように考え行動することが実は難しいことに、本書で気 づかされます。 なるほどそのために「利他」という言葉が、嘘っぽい響きを持つように感じられることがある のかと、納得がゆきます。 つまり、一見「利他」的な行動が、見返りや打算を求めた途端に「利己」的な行為となり、 相手の立場や思いを考えず推し進めると、強要や自己満足に陥ってしまうからです。 本書では、古典落語『文七元結』を題材として、この「利他」のまとう微妙さを巧みに解説し ています。 則ち、零落した登場人物の長兵衛が、愛娘を担保に与えられた五十両を、見ず知らずの身投げ しようとしている若者文七に差し出す下り、名人落語家立川談志は、長兵衛が行った無謀な 行為の動機を、見返りを求めない「江戸っ子気質」と解釈して演じています。 そしてそこに、やがて大団円を迎えることになる、「利他」的行動の発動を見るのです。 つまり「利他」は、その行為が行われた時に生まれるのではなく、この行為が後に受け手に よってそのように受け取られた時に、初めて生じるのです。これは、言い得て妙であると思い ます。 この事実を踏まえて論は偶然と運命というテーマへと進み、偶然と必然の関係にも、「利他」 と同じ時制の差異の関係が成り立つと続きます。 つまり、行為が行われている時点では偶然の産物であるものが、後になって必然へと転化する ということです。 ここから人は、今与えられた現実を謙虚に受け止め、邪念を捨てて懸命に生きることが、将来 への可能性を広げることになります。 「今」を生きる意味を未来から贈与されるために、精一杯生きなければならないと説く、今日 私たちが置かれた状況の中で、勇気を与えてくれる好著です。

2022年6月13日月曜日

「鷲田清一折々のことば」2351を読んで

2022年4月16日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2351では 哲学者鶴見俊輔の『神話的時間」から、次のことばが取り上げられています。    老いることは、自分の付き合っている他人が    死ぬことなんです。他人の死を見送ることで    す。 私自身も高齢に達して、ようやくこのことが分かるようになって来た気がします。 両親の死、身近な年上の人の死、そして思いがけぬ友人の死。次第にそのような悲しみに 接する機会が増えて来ました。このような人々の死は、あたかも心身の一部分がえぐり 取られるような喪失感を伴います。上記のことばのように、大切なものを失うことは、 体力の低下にも似て、老いに通じるのかも知れません。 更に思い至るのは、直接には面識がある訳ではありませんが、テレビや映画で慣れ親しん だ芸能人やアナウンサーなどのメディア関係者、作品に親しんで来た作家や画家、そして 政治家、企業経営者と言った著名人の死です。 これらの人々の訃報は、私にとって自身の属する世界の構成物の一部が、すっぽりと抜け 落ちたような寂しさを味わわせ、共に共有して来た時代の空気が、最早過去のものになっ たような感慨を起こさせます。 身近な人々を失うこと、そして同時代を生きた影響力のある人々を亡くすことは、私たち の心を内部から、あるいは外側から、むしばんで行くのかも知れません。

2022年6月7日火曜日

「鷲田清一折々のことば」2338を読んで

2022年4月2日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2338では 文化人類学者・渡辺靖の随想「余白なき時代に」から、次のことばが取り上げられています。    デジタル時代の怖さというのは、デジタル技    術が私たちを支配することよりも、むしろ私    たち自らがデジタル化することにある この指摘は、なるほどと思わせます。私自身の最近のものの考え方を辿ってみても、直ぐに 分かりやすい答えを求めたり、明確な結果を求める傾向にあるように感じます。 それは、世の中がせちがらくなって、あるいはコロナ禍により生活にゆとりがなくなって、 また人と接触する機会も少なくなってそれぞれが孤立し、余裕を持ってものを考えることが 出来なくなったことも、確かに理由としてあると思います。 でも、デジタル化の進展によって、我々の思考方法が劇的に変わった、というのも大きいと 感じます。例えば、何か物事を調べるにしても、従来なら辞書で調べたり、そのことに詳しい 人に尋ねたりしていたものが、現在では携帯やパソコンで検索したら、直ぐに一定の答えが 得られます。このような環境にあると、私たちは知らず知らずのうちに、色々な物事に直ぐに 答えや結果を求めるようになる、のではないでしょうか? また、最近のニュースや出来事にしても、SNSの空間で直ぐに色々な評価や批判の声が寄せ られて、私たちは気づかないうちに、自分の思い込みでそれらの事象を短絡的に解釈して、 それで済ませてしまうということが、多分にあると感じます。 このような環境に慣れてしまうと、物事を広い視野や長いスタンスで深く掘り下げて考える ことや、他者の気持ちに寄り添って自らの言動を決めるようなゆとりがなくなって、無味乾燥 な世の中になって行くように感じます。 デジタル化の時代と言えども、そこから一定の距離を置いて、自分の立ち位置を定めるという ことも必要なのでしょう。