2019年8月30日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1560を読んで

2019年8月24日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1560では
歌舞伎囃子方、田中佐太郎の『鼓にに生きる』(聞き書き・氷川まりこ)から、次の
ことばが取り上げられています。

   それは目の前の人が体得し、これから自分自
   身が向き合おうとする 「芸」 そのものに対し
   ての礼なのです。

この歌舞伎囃子方は、弟子に稽古をつける時、まず挨拶が一番重要であると説き
ます。そして敬意を込めて挨拶をするのは、師匠に対してではなく、これまでずっと
先人たちが向き合ってきた「芸」そのものに対してだ、と言うのです。

この教えは、熟練の師匠その人が、「芸」に対して謙虚に向き合っていることを示
していますし、恐らくこの言葉には、「芸」に向き合うべき真摯な心の持ちようには、
師匠と弟子の区別もない、という含意もあるのでしょう。

「芸」を極めるためには、「芸」そのものに敬意を払い、どれほど習熟しても常に現状
に満足せず、更なる高みを目指す姿勢が必要なのでしょう。

この教えは一見、伝統芸能の特殊な世界でのみ有効なもののように感じられます
が、恐らくそうではなくて、私たちの日常の仕事に対する取組み方や、生き方にも
つながって来るものだと思われます。

それというのも、仕事にしても、生活にしても、常に今日という日は、過去の連なり
の上に築かれているので、私たちは過去から学び、それを基礎として未来を思い
描いて行かなければならないと、思うからです。そしてそのためには、過去と謙虚
に向き合うことが不可欠でしょう。

伝統的な芸能の熟練の「芸」が、私たちに大きな感動を与えてくれる要素の一つ
には、演者の高い人間性も、あるいは寄与しているのかも、知れません。

2019年8月28日水曜日

大阪市立美術館「フェルメール展」を観て

現存作品が35点といわれる、あの希少なフェルメールの絵画が、6点も出品されて
いる今回の「フェルメール展」に、行って来ました。フェルメールの作品だけでなく、
黄金期のオランダ絵画の秀作を含む、45点が展示されています。

会場に入るとまず、第1章オランダ人との出会い:肖像画が、私を出迎えます。
肖像画の華麗さ、精緻さは目を見張るばかりで、我々の見慣れた肖像写真と比較
しても、装飾性は言うに及ばず、対象の人物の細部に至るまで、更には容易には
目に見えない分部まで、描き切ろうととする画家の意志が感じ取れます。その飽く
なき探求の姿勢は、フェルメールにも通じると感じました。

会場を巡って、第5章日々の生活:風俗画も、フェルメールとの関連性において、
内容が豊富であると感じました。この時期のオランダ絵画の特色として、庶民の
日常生活を、場合によっては戒めの意味を込めて、生き生きと活写した風俗画が
多く描かれたようですが、それらの画面からは、宗教的桎梏を脱して、自由を謳歌
する人々の姿が、伸びやかに描き出されていると感じました。当時の社会に満ちた
雰囲気までくみ取れるようで、私もくつろいだ気分になりました。

さて、そしてお目当てのフェルメール作品です。「マルタとマリアの家のキリスト」と
「取り持ち女」は初期の作品で、私にはフェルメールらしさは、あまり感じられません
でした。ただ両作品とも、当時のオランダ絵画のモチーフの傾向を色濃く感じさせ、
彼がこの国の黄金期の画家の一員であったことを、再認識させてくれると共に、
円熟期に至る過程を知る意味でも、興味深く観ました。殊に後者は、同じ題材を
扱った他の画家の作品より一層ミステリアスで、この画家の内省的な資質を、現して
いるのかも知れません。

「手紙を書く婦人と召使い」「手紙を書く女」「リュートを調弦する女」「恋文」は、正に
フェルメールらしい円熟期の作品。美しく穏やかで、柔らかな光が浮き上がらせる
一瞬の心理劇が、画面に定着されています。儚く優美で、それでいて普遍的な人間
という存在や、森羅万象の摂理まで描き込まれているようで、画面の中に吸い込ま
れそうです。

第5章のパートの、ハブリエル・メツー「手紙を読む女」「手紙を書く男」と比較して、
同様の主題を扱いながら、フェルメールの絵画の精神的な到達点の高さに、驚か
されました。フェルメールの魅力を、堪能出来る展覧会でした。

2019年8月26日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1554を読んで

2019年8月18日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1554では
浜田廣介の童話『ないた赤おに』から、次のことばが取り上げられています。

   なにか 一つの 目ぼしい ことを やりと
   げるには、 きっと どこかで いたい おも
   いか、 そんを しなくちゃ ならないさ。

ご存知名作童話の一節、赤鬼が村人に信用されるように、友だちの青鬼は自分が
悪者になってわざと暴れ、赤鬼に叱られることによって彼の村人への評判を上げ、
それと悟られないように去って行く。上記はそんな青鬼の語る言葉です。

私も子供の頃、青鬼が去る場面を読んで、ジーンと来ました。

最近は大切な人のため、あるいは何かを成し遂げるために、自分が犠牲になると
いうことは奨励されないし、あまり話題にも上りませんが、かつては主要な美徳の
一つだったと、思います。

ではどうして昨今はあまり取り上げられないかというと、民主主義教育により自分
の主義主張をはっきりと持ち、人権を守ることが尊重され、更には個人主義の浸透
によって、まず自分の損得を真っ先に考える風潮にあることことが、挙げられるで
しょう。

あるいは私たち日本人は、自己犠牲をことさら称揚すると、その規範に縛られて
しまって、周りの空気も含めて、ついつい無理にそのような行為をしようとする傾向が
あるので、うがった見方をすれば、そのような息苦しさに陥らないように、そうした行い
の奨励が、控えられているのかも知れません。

いずれにしても、自己犠牲の行為は、絶対周囲から強要されるべきものではありま
せんし、自分自身を無理にそのような立場に追い込むべきものでもありませんが、
もし本人が納得の上でそれを成すならば、相手を思いやるという意味で、あるいは、
大きな目標の達成のために我欲を捨てるという意味で、尊い行いである場合が多い
に違いありません。

2019年8月22日木曜日

鷲田清一「折々のことば」1552を読んで

2019年8月16日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1552では
水木しげるの漫画『総員玉砕せよ!』のあとがきから、次のことばが取り上げられて
います。
                
   ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒り
   がこみ上げてきて仕方がない。

私が少年の頃、漫画誌に連載されていた、水木の妖怪漫画を読んでいると、何か
心がざわつくような不穏なものを感じましたが、彼の戦記物の漫画を読んでも、
それが主に熱帯のジャングルが舞台であることもあって、得体の知れない恐ろしさ
を感じました。

その作品は、当時の少年向けの戦記物の漫画の中でも異色の存在で、例えば
記憶をたどると、他の大多数の漫画は戦闘機のパイロットなどが主人公で、戦争の
悲惨さを描く部分はあっても、その描写のウエイトは華々しい戦闘場面や、死も恐れ
ぬ主人公のかっこよさに置かれていて、ある種主人公を英雄視するものになって
いたと思います。

それに対して水木の戦記物は、もっと暗く、おぞましく、ドロドロして、不器用で気の
いい主人公の兵士が、有無を言わせず、悲惨な戦闘に巻き込まれて行くような哀れ
さ、悲しさがあったように記憶します。

恐らく大部分の戦争漫画は、敗戦後の心の傷のまだ癒えぬ人々の、やり切れぬ
思いを主人公に託した作品であり、他方水木の漫画は、彼が実際に目の当たりに
した戦争の愚かさを、読者に訴えかけようとする作品だったのでしょう。

そういう意味でも私には、戦争について多くを語らない周りの大人に代わって、水木
の漫画から、戦争のおぞましさの気配をくみ取ったように、思い出されます。

2019年8月20日火曜日

大阪文化館・天保山「THEドラえもん展」を観て

本展は、国内外で活躍する28組のアーティストに、「あなたのドラえもんをつくって
ください。」と依頼して、出来上がった作品を展観する展覧会です。会場の大阪
文化館は旧サントリーミュージアムで、久しぶりに訪れて、このような形で今も活用
されていることを、懐かしく感じました。

さて、全体を観終えて感じたのは、ドラえもんが誕生してから約50年、その間幅広い
世代の多くの人々に親しまれ続けているということで、出品作家も展覧会の鑑賞者
も、ことごとくドラえもんを愛しているということが、実感を伴って伝わって来ました。

個別に観ると、まず会場入り口近くで我々を迎える、大きな画面全体がカラフルな
花やドラえもんのキャラクター、アイテムで埋め尽くされた中央部にどこでもドアが
開かれ、その上方には藤子F不二雄氏のキャラクターも佇む、村上隆のにぎやかな
作品。正にオープニングに相応しく感じられます。

次に目に止まったのは、色々な楽しい場所で、ドラえもんと女の子がデートする場面
を活写した、カラフルな蜷川実花の写真作品。ドラえもんが夢と現実のはざまの存在
であることを、示してくれます。

その次は、劣化防止スプレーを題材にした、しりあがり寿の映像作品。彼によると
現代社会はどんどん劣化していて、劣化防止スプレーを噴霧しないと、ドラえもん
さえ形が崩れて行くそうです。その崩壊するドラえもんの、しりあがり独特の描写が
秀逸!彼らしい社会風刺の作品になっています。

最後に作者の名前は忘れましたが、ライトが点灯する模型機関車が展示室の
レール上を走る作品。レールの周囲に日用品を利用したオブジェが配置してあって、
暗くした室内をその機関車が走ると、オブジェの影が壁面に投影されます。その影
の流れがとても幻想的で、この作品も銀河鉄道の夜を彷彿とさせるようで、日常の
すぐ隣にあるファンタジーの世界を暗示していると、感じました。

とても楽しい展覧会でした。

2019年8月17日土曜日

森見登美彦著「熱帯」を読んで

誰も最後まで読み通した者のいない、謎の書物『熱帯』を巡る冒険譚です。

主題が謎に包まれた複雑怪奇なものだけあって、物語の筋も入り組んだ入れ子状に
なっていて、簡単に要約することが出来ませんが、大まかに分けると、前半が登場
人物たちが『熱帯』の謎に挑むミステリー、後半が『熱帯』の中に入り込んで冒険に
巻き込まれるファンタジーと言えます。

私は著者が最も実力を発揮すると思われる前半のミステリーの部分が好きで、元々
接点のない人物たちが、一つの謎に引き寄せられるように複雑に絡み合い、小出し
にされるヒントを巡って牽制、駆け引きを繰り返し、それでいて益々謎が深まる展開が、
わくわくさせられて楽しかったです。

そのミステリアスなストーリーを進める上での、小物や情景などの設定も魅力的で、
『千一夜物語』の書籍に始まり、「沈黙読書会」、「学団」、「池内氏のノート」、「飴色
のカードボックス」、古本屋台「暴夜書房」、「部屋の中の部屋」、「満月の魔女」の
絵画と、響きに謎を含んだ言葉が次々に飛び出して来ます。

また著者が京都に縁が深いだけあって、私自身が良く知っている場所が、私の記憶や
実感とは違う陰翳をもって描き出されていて、その点にもたとえようのない魅力を感じ
ました。

後半部分は一転、『熱帯』の中に放り込まれた前半の登場人物の冒険物語になります
が、僕と語る一人称の主人公は、夢ともうつつともつかぬ話の展開に連れて、人物
設定が入り乱れ、最早本来の誰であったか特定出来なくなります。

そのような流れの中で、創造神話を彷彿とさせる雄大なスケールの物語は空しく空転
し、拡散して行きます。あたかも『熱帯』そのものが果てしのない、決して集約されない
物語であるのに似て。

このように本書は、一口には要約出来ない不思議な物語ですが、著者が『千一夜物語
』から着想を得たと語ることから、語り手が自らの死を賭して、毎夜語り続けた物語と
いうその由来が示すように、物語を創造する力を一種の魔法と捉え、読者がその物語
の世界に入り込むことを魔法にかけられると解釈して、本というものの謎めいた楽しさ、
読書の喜びを、一つの物語に集約しようとしたのではないかと、私には感じられました。

2019年8月15日木曜日

鷲田清一「折々のことば」1533を読んで

2019年7月27日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1533では
彫刻家・詩人、飯田善國の『ピカソ』から、次のことばが取り上げられています。

   十歳で どんな大人より上手に 描けた
   子供の ように描けるまで一生 かかった

ピカソの展覧会を観に行くと、彼の代表的な作品はキュビスムを初め、写実的な
絵画ではありませんが、その少年期の見たものをありのままに描いた絵は、余り
に完成度が高いので、しばしば驚かされます。

つまりピカソは早熟にして、年若くで人並以上の絵画の技術を習得して、それでは
飽き足りず、その絵画のスタイルを終生変革して行った、ということでしょう。

その次々に編み出す様式に、記念碑的な名作が生まれ、後世の絵画に多大な
影響を及ぼしたのですから、正に天才と言って過言ではありません。

しかし上記のことばにも記されているように、彼を絵画の革新へと突き動かした
ものは、アフリカの仮面彫刻やギリシャ神話など、プリミティブな力であったことは、
周知の事実です。

原始時代の洞窟壁画が示すように、もともと絵を描くという行為は、人間が原初
から持っていた自身の内面を表現したいという欲求であり、生きた痕跡を残す
ことへの希求なのでしょう。

そのような絵を描く行為が、時代が下るに連れて洗練され、色々な理由をまとわり
つかせて、ついには職業としての画家を生み出して行きますが、その近代における
一人の大成者であるピカソが、創作の原点としての欲求に忠実であったということ
は、図らずして芸術の本質を、私たちに示してくれているのではないでしょうか?

2019年8月13日火曜日

京都国立近代美術館「ドレス・コード?〔着る人たちのゲーム〕」を観て

京都国立近代美術館が京都服飾文化研究財団とコラボレーションして、美術という
視点からファッションを取り上げる、企画展の一つです。今展では、ドレス・コードと
いう切り口から、ファッションの歴史、現代のアクティブな状況までを、展観しています。

私自身、自分の服装には無頓着で、ドレス・コードといっても、たまにホテルでの食事
の時に気にするぐらいで、あまり実感が湧きませんでしたが、本展はドレス・コードを
服装における規範や帰属意識、自己主張といったもっと広い範疇で捉えて、そもそも
ファッションとは何か、ということを観る者に問いかけて来ます。

上記のように盛沢山の展観で、全てを伝えることは出来ませんが、私の印象に残った
ところを拾って行くと、まず最初は、西洋の歴史マンガのイラストの前に並べられた、
18世紀貴族が着用したと思われる男女の豪華な衣装の展示。この頃の王侯貴族は、
自らの地位を大衆にアピールするために、このような華美な衣装を身に付ける必要
があったと、解説されます。つまり、これらの衣装は、貴族であるためのドレス・コード
であった、ということです。

次は一転、学ラン、セーラー服等中高生の制服です。学生服は着用する人間の社会
的位置付けを明らかにすると同時に、それを着崩したり、好みの加工を施すことに
よって、個性を主張することにもつながります。ドレス・コードという画一性に、抵抗を
試みるともいえるのでしょう。

その他、トレンチコート、迷彩柄といった、本来軍服として開発された服装、デザイン
や、労働着として広まったジーンズなど、実用服がファッションに取り入れられる様子
も興味深かったですし、美術品の図柄を取り込んで、服飾に高級感を生み出そうと
する試みには、ファッションの包容力とバイタリティーを感じました。

もう一つ強く印象に残ったのは、#MeToo運動で映画界のセクハラを訴えた女優たち
が、その時には普段の見られる立場を拒否して、全員黒い衣装に身を包んで、自分
たちの意志を表明したという事実で、ファッションがまだ意見を主張するための武器に
なり得る、ということを知ったことです。

ファッションから社会が見えるということ、その多様さ、幅広さを改めて知らされた、
展覧会でした。

2019年8月11日日曜日

俵万智著「牧水の恋」を読んで

若山牧水の歌は、私も「白鳥は哀しからずや・・・」や「白玉の歯にしみとほる・・・」を
時々口ずさみますが、彼が旅と酒の歌人であるというイメージは持っていても、これ
らの名歌が恋愛の過程で生まれたことは知りませんでした。

また著者の俵万智は、歌集『サラダ記念日』で一世を風靡した歌人として、私も読ん
で好感を持ち、よく記憶していますが、それ以降の歌集、著作は読んだことがありま
せんでした。

その二人の取り合わせも興味深く、本書を手に取りました。

この本を読んでまず、若き日の牧水の小枝子との恋愛は、彼のロマン的性格も相
まって、苦渋に満ちたものであったと言わざるを得ません。また彼が後年酒に溺れ、
早世する切っ掛けを作ったのも事実です。

しかしまた、この恋愛の修羅から、絞り出すように生まれた数々の秀歌が、国民的
歌人若山牧水を作り上げたことも、厳然たる事実でしょう。

恋愛が成就するか否かは、たとえ一時は両当事者に熱烈な愛情があったとしても、
それぞれの置かれた環境や条件、タイミングなどにもよって、大きく左右されます。
牧水と小枝子の恋愛は、微妙なすれ違いを繰り返したとも見えますし、彼の若気の
至りであったとも、言えるのではないでしょうか。

また女流歌人への片思いを経て、彼がついに結婚した喜志子は、歌人としての夫
を良く支え、彼の没後は夫の歌の顕彰に勤めました。牧水は終生、小枝子の面影
を追い続けたといいますが、彼にとってこの結婚こそが、運命に適うそれであったよう
に思われます。

それにしても、小枝子との恋愛の渦中で紡ぎ出された幾多の歌は、本当に魅力的
です。恋愛を駆動力とする歌こそが、正に短歌の王道と思わせます。

しかし同時に、この恋の過程の時々に生まれた歌と、その時の彼の心の動きを併記
して、丹念に著者が解説する本書を読むと、歌は現実を契機としても、あくまで
文学的創造の産物であることにも、気づかされます。

その端的な例は、小枝子との恋愛の絶頂期に、千葉県根本海岸を訪れたことを読ん
だ彼の高揚した歌の中から、実は二人きりで行ったのではなく、同行した彼女の若い
従弟の影が完全に消されていることです。この事実には、驚かされました。

著者俵万智は、牧水への敬愛を込めて、丁寧にこの恋の一部始終と歌の関係性を
読み解きます。そのお陰で私は、まるで彼の生きた時代にタイムスリップして、彼の
実際に活動する姿を目の前にしているように感じられましたし、他方、著者の女性的
な感性での読み解き方が、牧水という人間の陰翳を際立たせるようにも、感じられ
ました。満足のいく読書でした。

2019年8月7日水曜日

是枝裕和監督映画「万引き家族」を観て

是枝監督の昨年度カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作「万引き家族」が、テレビ
地上波で初放映されるということで、早速録画して観ました。

本当の血のつながった家族ではない家族の、束の間の共同生活を描いたドラマです
が、家族、親子、兄弟の絆とは何か、深く問いかけて来る映画です。

私としては、家族をテーマにした数々の是枝作品の中でも、「誰も知らない」に一番
近いものを感じました。

それというのも、疑似家族間の関係を描く中で、それぞれの関係に味わい深く、印象
に残るところはありますが、祥太、ゆりという二人の幼い子供に関わる部分が、最も
強く訴えかけて来るものがあると、感じられたからです。やはり家族の幸不幸という
ものは、その家の子供の様子を見れば分かる、ということでしょうか。

この疑似家庭が崩壊した後、世間の常識的な目で見れば、この似非家族は悪意に
満ちた前科者の男と内縁の妻が、自分たちの都合で作り上げた家族で、老婆や
子供たちは犠牲者ですが、実際にこの映画を観て来た者にとっては、この家族は
肉親によって構成された本物の家族の中でも、幸福な家族です。

そしてそのことが端的に表れているのは、上記の子供たちが万引きという犯罪に
加担させられているにも関わらず、愛情を持って家族の大人に接してもらっている
からであり、一人の人間として尊重されているからです。

更には、途中で亡くなり、年金詐取のために家の床下に埋められることになる老婆
は、生前も血のつながらない他のメンバーを自宅に無償で住まわせ、なけなしの
年金も生活費の当てにされる気の毒な存在ですが、実は彼女もこの家族の中で
年長者として尊重され、結果として孤独死を免れたことになります。

この映画は、色々入り組んだ逆説的な設定で特異な家族を描き、一言でことの善悪
の結論を導き出すことはできませんが、その淡々とした描写、作中の人物たちが
時折見せる幸福そうな表情は、確実に、今の日本の家族にとって本当に必要なもの
は何かということを示してくれていると、感じました。

2019年8月5日月曜日

あべのハルカス美術館「ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女」を観て

ようやく念願のモロー展に行って来ました。日曜日というのに比較的空いていて、
じっくりと作品に向き合うことが出来たので、観る者としては有難く感じました。

モローはフランスの象徴派を代表する画家で、本展は代表作の一つ、サロメの
物語にちなむ「出現」をメインに据えて、ファム・ファタル(宿命の女)をキーワード
に展示が構成されています。

まずモローは、最愛の母と生活を共にし続けて、生涯を独身で通したということ
です。ただ結婚はしなかったけれども、その死に至るまで心を許した恋人がいて、
母親とその恋人が、彼の実生活に色濃い影響を与えた女性であったということ
です。

本展の第1章ーモローが愛した女たちーでは、この2人の女性の素描等、肖像画
が出展されていますが、彼のファム・ファタルという主題は、この2人の存在抜きに
は生まれ得なかったと、感じさせられます。

さて代表作「出現」ですが、薄闇に包まれた異国風の荘厳な宮殿で、踊り終えて
洗礼者ヨハネの生首を所望した妖艶なサロメと、当の燦然と光り輝き、血を滴ら
せ中空に浮かぶ生首が、今正に対峙する光景が、劇的に描き出されています。

演劇のクライマックスシーンのような劇的な構成に、観る者はしばし圧倒されて、
この絵の細部の技巧を見落としがちですが、よく観ると宮殿の柱等構造物を
縁取る細い輪郭線が、アクセントと神秘的な効果を生み出し、更には合わせて
展示されているこの絵のための多くの習作、素描類からも明らかなように、
綿密な準備の上にこの名作が生み出されたことが、分かります。優れた絵は、
一見技巧を感じさせない、ということなのでしょう。

モローにとってのファム・ファタルは、女性の魅力の本質を体現する、永遠の
憧れの対象であったようにも、感じられます。しかしその女性のイメージを、ここ
まで妖艶で、洗練された普遍性を持つ美にまで昇華させたところに、彼のずば
抜けた才能があったのでしょう。

2019年8月2日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1532を読んで

2019年7月26日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1532では
19世紀デンマークの哲学者・キェルケゴールの『死に至る病』から、次のことばが
取り上げられています。

  世間ではいつもどうでもいいことが一番問題
  にされる

哲学者は、人は常に自分と他人との差異に執着し、世間からどんな賞讃を得るか、
社会でどう重きをなすか、どの地位につくか、というような、世間の「符牒」で自らを
意識する。それは他の人々に自分が「騙りとられる」ことであり、自分を失うことで
ある、と述べたといいます。

確かに、私たちは社会的存在であるだけに、どうしても周囲や他者を意識してしま
いがちです。

例えば、あることに関して、自分なりの問題意識を抱いていたり、価値観を持って
いるつもりでも、周りで語られることや、社会で喧伝されることに、知らず知らずの
うちに影響されて、後で気が付けば自らの意見や気持ちが、一般的な考え方に
近づくいている、ということがあると感じます。

また上述のように、自分がいかなる存在であるかということを認識しようとする時
に、世間からどう見えるかということを、ついつい評価基準に選んでしまうという
ことも、よくあることです。

ではどうすれば、この呪縛から逃れることが出来るのか?周りの評価など意識
しない孤高の存在になる。しかし私たち凡人にはとても難しいでしょう。まだ私に
可能性があるのは、目の前の問題に目標を定めて、周りを見回す余裕がない
ほどに、その解決に最善を尽くすことのように、思われます。でもでもつい、よそ見
をしてしまいますが。