2019年8月26日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1554を読んで

2019年8月18日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1554では
浜田廣介の童話『ないた赤おに』から、次のことばが取り上げられています。

   なにか 一つの 目ぼしい ことを やりと
   げるには、 きっと どこかで いたい おも
   いか、 そんを しなくちゃ ならないさ。

ご存知名作童話の一節、赤鬼が村人に信用されるように、友だちの青鬼は自分が
悪者になってわざと暴れ、赤鬼に叱られることによって彼の村人への評判を上げ、
それと悟られないように去って行く。上記はそんな青鬼の語る言葉です。

私も子供の頃、青鬼が去る場面を読んで、ジーンと来ました。

最近は大切な人のため、あるいは何かを成し遂げるために、自分が犠牲になると
いうことは奨励されないし、あまり話題にも上りませんが、かつては主要な美徳の
一つだったと、思います。

ではどうして昨今はあまり取り上げられないかというと、民主主義教育により自分
の主義主張をはっきりと持ち、人権を守ることが尊重され、更には個人主義の浸透
によって、まず自分の損得を真っ先に考える風潮にあることことが、挙げられるで
しょう。

あるいは私たち日本人は、自己犠牲をことさら称揚すると、その規範に縛られて
しまって、周りの空気も含めて、ついつい無理にそのような行為をしようとする傾向が
あるので、うがった見方をすれば、そのような息苦しさに陥らないように、そうした行い
の奨励が、控えられているのかも知れません。

いずれにしても、自己犠牲の行為は、絶対周囲から強要されるべきものではありま
せんし、自分自身を無理にそのような立場に追い込むべきものでもありませんが、
もし本人が納得の上でそれを成すならば、相手を思いやるという意味で、あるいは、
大きな目標の達成のために我欲を捨てるという意味で、尊い行いである場合が多い
に違いありません。

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