2024年4月17日水曜日

アンヌ・デルベ著「カミーユ・クローデル」を読んで

「巨匠ロダンの弟子であり、悲劇の美貌の天才女彫刻家」。本書の著者で、当のカミーユの復権に一役買った 演出家でもある、デルベらの尽力もあって、今日ではすっかり上記のイメージが定着している、約30年も前に 刊行された彼女の伝記小説を、私が今読む意味を改めて考えてみると、読後に私が得たプラスの部分としては、 すでに持っていた固定観念が解体され、深められたこと。逆に惜しむらくは、私に彼女の弟、外交官で著名な 詩人、劇作家のポールに対する知識があれば、この読書は更に意義あるものになっただろうということです。 まずカミーユに対するイメージが更新された点から述べてみますと、本書のカバーにも採用されている、20歳 の頃の彼女の写真は、既に広く知られたものとなっていて、私も目にしたことがあり、彼女の人となりを想像 する有力な判断材料となっていました。つまり、色あせたモノクロ写真に浮かび上がる彼女は、美貌でしかも 聡明、勝ち気そうですが反面、痩せ細り、はかなげで、未来の悲劇を予告するようです。 このイメージがこびりついていたために、私は彼女が絶対的な権力を持つロダンに、才能も愛も吸い尽くされ たか弱い女性と思い込んでいました。しかし本書を読むと、彼女のこのような部分は一面に過ぎず、他面男性 の専売特許であった彫刻界に、20歳にも満たぬ年齢で単身飛び込む、男勝りで情熱的、芯の強い女性で、力 仕事も辞さず、また弟ポールに対しては、高飛車で強権的、嘲笑的な態度を取っていたことも分かりました。 師ロダンに対しても、彼が身勝手で、優柔不断であったこともありますが、最後は彼女が主体的に決別した ように想像されます。結局彼女は、時代に先駆けて生を受けた女性彫刻家で、溢れる才能はあるにも関わらず 評価が追いつかず、その結果経済的にも追い詰められ、反面男に対する情熱を有する女性であったために、 ロダンと内縁の妻との間の三角関係にも苦しみ、自らの身を滅ぼすに至ったのでしょう。 カミーユは言わば、時代の犠牲にもなった芸術家であったので、彼女が著者らの努力によって復権し、展覧会 が開催されたり、ロダン美術館に展示室が設けられていることは、せめても彼女への報いであると思われます。 ポールについても、私に彼の作品への知識があれば、カミーユと彼の関係を通して、理解が深まったものと 思われます。

2024年4月12日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2931を読んで

2023年12月6日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2931では 女優倍賞千恵子の連載「あの時のわたし」(「暮らしの手帖」27号)から、次の言葉が取り上げられて います。    風が吹くと葉っぱの裏側が見える。これ    が好きです。 映画「寅さん」シリーズに出演するなど、その国民的女優がこのような言葉を発すると、心に響くもの があります。 女優業は常に脚光を浴びる華やかなもの。でも反面いつも多くの人の視線に晒されて、プライバシーを 犠牲にしなければならない、一般の人より遙かに不自由を感じなければならない職業でしょう。 そのようなプレッシャーをやり過ごすために、傲慢な態度に出たり、飲酒に逃避したり、海外に住居を 移したりする人も見受けられるようです。 でもこの女優は、普段の自分を出来るだけ目立たなくさせることで、平静を保って来たように推察され ます。 そして、出たのがこの言葉。周りに生かされているという自覚や、目配りが行き届いた姿勢、普段の 倍賞さんを実際には知りませんが、そうした謙虚さを、私はこの言葉から感じ取りました。 また、自然の些細な変化、物事の裏側やはかなさに想いを向けることは、私たち普通の人間にとっても、 大切なことだと思われます。さっと吹き抜ける涼風のような、爽やかさを感じさせる言葉でした。

2024年4月3日水曜日

平野啓一郎著「ある男」を読んで

不幸な出来事のため離婚し、故郷に帰った女性が、再婚して幸せな家庭を築きますが、夫が事故で急死して 彼の親族に確認すると、全くの別人であることが判明します。一体その男は、どこの誰であるのか?この ショッキングな事件から始まる物語は、取り残された妻が亡き夫の素性調査を、弁護士に依頼することに よって展開して行きます。 まず心に残るのは、難病の次男の治療方針を巡り前夫と対立し、その子供の死後離婚し、長男を連れて故郷 に帰ったくだんの女性が、老舗温泉旅館の次男として生まれながら、父親への骨髄移植を巡り家族と対立し、 縁を切って家を飛び出した自称{谷口大祐」と出会い、結婚する場面です。 最近の医学の目覚ましい進歩の中で、重症の治療の選択肢は格段に増えながら、それでも結局は救えない命 がある、という厳然たる事実が突きつけられます。生死を分かつ紙一重の差の理不尽!その悲哀を存分に味 わった二人の人間が、人間不信に固く心を閉ざした状態から手探りで互いの真心を見出し、心を通わせる 様子に、読んでいて心が高鳴りました。それだけに、亡き夫が本物の「谷口大祐」ではなかったことが明ら かになった時、心がざわめきました。 他方この不幸な妻が、前回の離婚調停に続いて夫の捜索を依頼した弁護士もまた、自らの出自が在日朝鮮人 であるという負い目を持ち、日本人である妻との関係に軋轢を抱えています。そして自らのこの負の感情が、 彼が余り報酬を期待出来ないにも関わらず、不幸なこの事件の依頼人の望みを叶えるべく奔走する、原動力 になっているように感じられます。 この弁護士の苦悩に寄り添う予備知識や経験を、私は持ち合わせていませんが、本書の中で懸命に真実を 探求する彼の姿を通して、人間の生い立ちとその彼の人生の関係、ある一人の人物がその名前を背負って生 きることの意味、過去、現在そして未来と、他者を愛することの関係などについて、大いに考えさせられま した。 また著者は、日本における死刑制度廃止を広く世間に訴えかける作家でもあり、本書は被害者家族は言うに 及ばず、加害者家族のケアの必要性をも暗に示しているように感じられました。

2024年3月27日水曜日

吉見義明著「草の根のファシズム 日本民衆の戦争体験」を読んで

先の大戦終結から80年近い歳月が過ぎました。身近からその体験者がどんどん少なくなっています。例えば 実際に従軍した父、兄を戦争で失った母は、もうこの世に居ません。それに伴いあの大戦の影は、次第に 薄くなっていくように感じられます。翻ってロシアのウクライナ侵略、イスラエルのパレスチナ自治区ガザ 侵攻と、世の空気は、またきな臭くなって来ています。 本書は、第二次世界大戦開戦直前から、敗戦直後に至るまで、日本の名も無き庶民の日記から民衆の生の声 を集め、時々の人々の直接の想い、ものの考えかを、丹念に拾い集めた書です。 私の読後の感慨をまず記しますと、私の成長過程で、両親の言葉の隅々や、過去への向き合い方から感じた もの、またまだ社会全体がまとっていた、戦争の影響を否応なく感じさせられて来たものが蘇って来るよう で、苦々しさを伴いながらも過去を思い返すような一種の懐かしさを抱き、他方公教育で反戦平和思想を 根幹として教えられた、民衆は一方的な犠牲者であるような反軍国主義の公式見解とは違う、庶民の実情を 赤裸々に提示されるようで、改めて歴史の真実を知るような生々しさを感じました。 その中でも印象深かったところを拾ってみると、本書が書き出されている満州事変前後には、天皇制の前提 の下ではありながら、民衆の間に民主的なものの考え方があり、事変開始直後の一時的な熱狂はあっても、 戦闘の早期終結を望む声は大きかったと言います。しかし世界恐慌や異常気象による庶民の生活の困窮が、 次第に対外進出による生活の向上に、世論を傾けて行きます。 このような考え方の前提には、欧米人へのコンプレックスと周辺アジア住民への優越意識があり、それが 八紘一宇という美名の元に、日本の対外進出を正当化し、民衆の支持を広く集めることになります。 また実際の大戦が始まると、十分な兵站準備を整えない日本軍の場当たり的な戦術によって、現地住民から の略奪暴行、殺戮が繰り返され、その環境に投げ込まれた日本軍兵士は、次第に理性を失って行きます。 そして敗戦後も、非戦の想いは民衆の中にいち早く浸透して行きますが、戦中の蛮行の自己正当化の意識は、 なかなか消えません。庶民の側からあの大戦の実情を見ることによって、戦争というものの悲惨な本質を あぶり出す、労作でした。

2024年3月16日土曜日

島崎今日子著「ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒」を読んで

沢田研二(ジュリー)は、地元京都出身ということもあり、私にとって身近に感じられるスターでした。 もっとも、コンサートに行くほどのファンではなく、実際に会ったことはないけれど、少し年長の知り 合いからは、彼のデビュー前の噂も聞き、テレビで映し出される彼の妖艶な歌唱の姿を見ても、遙か 遠くの存在とは思われないところがありました。 また、彼の主演したドラマ「悪魔のようなあいつ」では、彼の演じた三億円事件の犯人に、破滅型の ヒーローとして、シンパシーを感じていたものでした。しかしいつか、彼がテレビから遠ざかり、同時 に私も年を重ねて、私の中のジュリーが次第に遠景に退いて行った時に、目にしたのが本書でした。 従って私自身、自分の若かりし日をなぞる思いで、この本を読みました。 実際に読み進めてみると、常に時代の表街道を歩いているように思われた全盛期の彼が、様々な曲折に 直面し、試行錯誤を重ねながら、トップスターの座を維持していたことが分かります。ザ・タイガース の一員として、ファンから熱狂的な支持を得た時代、本人たちの音楽指向とは違うアイドル路線を求め られ、次第にメンバー間に齟齬が生まれてグループ解散に至る様子。 またグループサウンズ退潮の中で、所属プロダクションが起死回生を目指して結成を働きかけた、タイ ガースのメインボーカル沢田研二と、ザ・テンプターズのメインボーカル萩原健一(ショーケン)を ダブルボーカルに据えたPYGが、ジュリーはソロ歌手として、シューケンは俳優として、それぞれの道を 歩み出したために消滅する経緯には、各自が自分の生き方を求めて、懸命に模索する様子が見えます。 しかしその中でも、自らの歌う曲をヒットさせることを最上の価値とする、沢田の信念はぶれることな く、彼はスターの座に居続けるために、新しい音楽の傾向を積極的に取り入れ、ビジュアルや演出に工夫 を重ねて、常に新しいジュリーであり続けたのです。容姿や歌唱力に恵まれながらも、彼がそれにも増し て努力に人であることを、改めて気づかされました。 本書は、そのような彼の音楽活動の軌跡を追うことによって、図らずも現代歌謡曲史にもなっていると 感じられました。またこの本を読むことによって、このジュリーが如何にこれから彼の老後に向かい合う かということにも、興味を持ちました。そこを描く続編にも、期待したいと思います。

2024年3月8日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2928を読んで

2023年12月3日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2928では 小林秀雄との対談『人間の建設』から、数学者・岡潔の次の言葉が取り上げられています。    内容のある抽象的な観念は、抽象的と感    じない。 つまり、ー人間の思考は、内容のない観念だけを相手にしているといずれ破産する。世界は「分かり きったことほどわからない」し、人も「大きな心配ほど心配しない」ものだが、その限界を越えたけ れば、逆に手許にある個人の問題を離れてはいけない。ーということだそうです。 うーん、難しい。私のような凡人には、簡単に理解出来ることではないけれど、でも例えば、私が 「人間の生きる目的は何か?」と考えた場合、抽象的に観念をもてあそんでいたら、袋小路に陥る。 だけど具体的に、どうしたい、ああしたいと目標を並べれば、以外と真理に近づく、ということで しょうか? そんな単純なことではないと一喝されそうですが、凡人に対する教訓としては、我々は、常に物事を 自分に引きつけて考えるべきだ、ということのように思われます。皆さんは、どう思われますか?

2024年2月29日木曜日

富岡多恵子著「水上庭園」を読んで

先般亡くなった詩人で小説家の著者の、恋愛という切り口で紡ぐ、1960年から1990年に至る詩的回想を 巡る小説です。従って筋道立てたストーリーはほぼありませんが、個人の体験を超えたその時代の空気が背景 から浮かび上がり、忘れがたい印象を残しました。 まずこの恋愛の主人公の一人A子が、著者の分身であることは間違いないとして、もう一方のドイツ人Eが誠に 非現実的で、存在感も希薄です。なぜならA子より十歳以上年下のEとA子は、A子の新婚旅行の途次のシベリア 鉄道の列車内で出会い、二人の恋愛が30年ほどのモラトリアムを経て、かりそめの形であれ刹那成就すると いう物語の展開であるからです。 A子はEに好意を抱きながら、あくまで自分の既婚者としての立場を堅持し、それでいてEに甘え、時には姉のよう に振る舞います。このような話の成り行きを見ていくと、Eとは著者がドイツ人に抱くイメージを具現化した存在 と思われて来ます。そしてそのように考えると、この間の著者のドイツに対する想いの蓄積が、浮かび上がって 来ます。 1989年ドイツでは、東西対立の最前線であった、ベルリンの壁崩壊という大きな歴史的変化がありました。 それ以前には、同じドイツ人が東西に分かれ、思想的対立を余儀なくされる緊張と閉塞を経て、一気に悲願が成就 される形での統合が実現したのです。 この解放されたドイツにA子はEを訪ねます。Eは以前に比べて思想的な理屈っぽさや、若気の衝動性は影を潜め、 随分落ち着いているけれども、一所に止まることを望まない漂白の精神を失っていません。それを確かめたA子は、 安心したのではないでしょうか? この物語の中の印象的なシーンは、A子がEの車でベルリンへ向かう途中、映画の野外撮影現場に行き会う場面です。 映画のシナリオも執筆するA子(著者)は、現実と夢想の境界が次第に曖昧になって、目の前で演じる女優に自らを 同化させて、場面も近松の「道行き」に変化していく、幻想的なシーンが現出されます。 この描写には、文学者富岡多恵子の詩情の核心を、浮かび上がらせるような切迫感があると、感じられました。