2021年12月31日金曜日

小林武彦著「生物はなぜ死ぬのか」を読んで

昨年大腸癌の手術を受けた私にとって、死は一気に身近なものとなりました。また、高齢者 と呼ばれる65歳を迎えて、身体の衰えも次第に意識するようになり、老化現象という言葉も 実感するようになりました。そこで、生物の死を最新の科学的知見に基づいて解説すると、 どのようになるのかということに強く興味を抱き、本書を手に取りました。 まず、生物がなぜ死ぬのかを説明するためには、必然的に生物はいかに誕生したのかという ことを、知らなければなりません。本書でもそこから話が始められていますが、生命の誕生 の謎はまだ解明、実証されている訳ではありません。 しかし最新の科学の現場では、かなり研究が進んでいて、その成果が分かりやすく記されて います。詳述は避けますが、生命が誕生する環境を有する地球で無機物が有機物に変化し、 ウイルスのような他に寄生する無生物を経て、単独で存在出来、それ自身で増えることが 出来る細菌のような生物が生まれたということです。 この過程を見て行くと、正に無から有が生まれる奇跡を感じざるを得ません。類まれな条件 が揃った地球という惑星で、何段階もの偶然が重なってようやく生命が誕生する。命という ものの希少さを再認識すると同時に、昨年来全世界の人々を苦しめるコロナウイルス感染症 の猖獗が、地球全体の生態系を考えた場合必然性を持つものであり、更には私たちの肉眼に は見えない細菌の世界が、地球環境を根本で支えていることにも、思いが至りました。 こうして誕生した細菌などの単純な生命体「原核生物」から、融合によって「真核生物」が 生まれ、その多細胞化によって「多細胞生物」が生み出されるという進化の道をたどり、 今日の多様な生態系が生まれます。 そして正に生物は、自らの体をリセットして、より環境に適した、生存に有利な新しい個体 を生み出すために、死を選ぶのです。また生物は、環境に適合するために相互依存的であり、 その多様性を担保しているのが生殖行為なのです。 このように見て行くと、死というものは生命の循環の中で、誕生と一つながりの重要なもの であり、私たち人類だけが自意識を生み出したゆえに、意識的に忌避する深刻な問題となっ たと思われます。 宗教的には、メメントモリ(死を忘れるな)という言葉がありますが、この言葉こそは、 より自覚的な人間であれ、ということかも知れません。

2021年12月29日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2221を読んで

2021年12月2日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」では 朝日新聞デジタル(10月21日配信)でのインタビューから、俳優手塚理美の次のことばが 取り上げられています。    ビタミンカラー色の器にひかれて購入し、そ    の器を食卓にのせたとき、「あっ、生きてる    な」と思ったんです。 この俳優は、歳が行くにつれて髪の毛の色を自然な色に戻し、物を減らすことにも取り組み ながら、ふと鮮やかな色調の器に触れ、「物をいとおしむ空間」まで閉じてはだめだと悟っ たそうです。 私も、こういう感じ方は大切だと思います。高齢に差し掛かるにつけ、着飾らず自然さを 求め、また、物を必要以上にため込まないようにする。これはこれで晩年の生き方として 必要な心構えだと感じます。 でも、そのように抑制的であるだけではなく、やはり、その中にも心の潤いや、晴れやかさ を求めることは、生きて行く上で必要なのではないでしょうか? 私は、和装という伝統産業に従事する者として、工芸品などの手仕事の温もりを感じさせる 美しい物を、何か数点生活に潤いを与える物として使用、あるいは着用することが、この ような観点からも好ましいと思います。 万事無機的な工業製品やIT機器、更には使い捨ての薄っぺらい日用品に取り囲まれている 生活の中で、たとえ数点でもこれらの愛すべき品物を人生の友とすることは、どれほどの 心の潤いや、安らぎを与えてくれることでしょう。 私はそう信じて、これからもこのことを提唱して行きたいと考えています。

2021年12月26日日曜日

「鷲田清一折々のことば」2213を読んで

2021年11月24日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2213では 画家・文筆家瀬尾夏美の『あわい行くころ』から、次のことばが取り上げられています。    色んなものが仮だとしても、    いま生きている時間が本物だということに    変わりはないはず。 震災後のくぐり抜けてきた時間を、「復旧までの仮の姿、仮の生活だと思いすぎることは、 すこし悲しい」と、瀬尾は語っているそうです。 そうですね。震災後の時間が旧来の日常とは全然違って、何とか元に戻すことを前提に、 今は耐えながら進んで行こうとしても、その後の日常は以前通りに戻るとは限らず、その ことを考えると不安になって、今の努力がむなしくなって、戸惑うということが確かに あると思います。 そのように感じてしまうと、更に今の状態がかりそめに過ぎないという寂寥感が募る、の ではないでしょうか? でも、以前の日常は戻るか分からないけれど、とりあえずそれを目標にして、努力を重ね るという今の時間も、貴重な経験であると考えると、やりがいも生まれ、その行為自体を ポジティブに捉えられるのではないでしょうか? やはり、この過程はコロナ禍からの復興も同じ、私の場合は店舗建て替えによる、仮店舗 での営業活動も同じだと感じます。 コロナ禍で売り上げ、来客数は大幅に減少し、その中での仮店舗営業で、不自由さ、もど かしさ、将来への不安は多々あります。でも、こういう状況で商売の原点に戻って、 御依頼を頂いたお客様に、色々な制約の中で、如何に満足を感じて頂けるか、その取り 組みは決して無駄ではなく、将来の営業活動に活かすことが出来ると思います。 そのように信じて今しばらく、仕事に励んで行きたいと思います。

2021年12月22日水曜日

若松英輔著「霧の彼方 須賀敦子」を読んで

私が一時期はまっていた須賀敦子の一連の作品は、私にとって追想の文学、未知なるイタリア の風土、風物を感じさてくれる書物としてありました。しかし本書を読むと、それらの作品の 背景をなす彼女の精神世界が、私のくみ取ったものよりずっと深いことに、気づかされました。 それが、本書を読んだ第一印象の感想です。 私は幼稚園でカトリック、中学以降プロテスタントの教育機関で学び、それぞれの薫陶を受け ましたが、あくまで仏教徒であり、それらのキリスト教系の宗教を、内面の問題として感じた ことはありません。 また、学校の歴史の教科で、カトリックからプロテスタントの派生の経緯を学び、更には美術 鑑賞が趣味なので、カトリックの宗教美術には慣れ親しんでいます。しかし本場ヨーロッパで、 真摯に土着宗教としてのカトリックに向き合う人の心情は、私には到底思い及ぶことが出来ない と感じます。そういう意味で本書が取り上げた主題は、私には荷が重く感じられます。 それゆえ私が本書から、須賀敦子の一連の著作が生み出された背景をなす、宗教的体験や人生 の意味、並びにそれらの作品の文学的意義を、納得出来るところまで理解しようとしても、難 しいと感じます。しかし本書に描かれる人生の節目での、彼女の信念に基づく思考、行動には、 心を動かされるところがありました。 その根幹をなすものとして、須賀は「キリスト教的な英雄的精神」を愛し、自らの人生において も実践したということが、挙げられると感じます。つまり、キリスト教における英雄は、世間 一般に言われるような、武勇による顕著な功績を残す者ではなく、単独者として「神の前にただ ひとり立つ人間」であるということです。 この信念に基づき、彼女は第二次世界大戦後のカトリックの革新運動を担う「コルシア書店」に 身を投じ、長く虐げられた人々であるユダヤ系の人と文学に共感し、帰国後は廃品回収を通じて 貧しい人々の自立を促す「エマウス運動」に傾倒したのです。そしてそれらの行動の帰結に、 一連の著作があるのです。 こうして見て行くと、須賀の作品が、追想と共に彼女の培って来た、大切な想いのあふれ出た 結晶に見えて来ます。しかし同時に、このような宗教的背景を頭に入れなくても、彼女の残した 作品たちは、今なお慈愛に満ちた穏やかな光を放ち続けるとも、感じました。

2021年12月17日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2203を読んで

2021年11月13日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2203では 作家・柳美里の随想「言葉の前に椅子を」から、次のことばが取り上げられています。    この世から剥離しかけた人を、最後にこの世    に繫ぎ止めるのは、言葉だと信じている 東日本大震災の後、福島県相馬市に移住した作家は、本数の少ない電車に乗り遅れた 高校生のために本屋を開き、時間をつぶす場所を提供した上で、このように呟いた そうです。 私自身も、普段言葉というものが日常に溢れている環境に暮らしていながら、実は言葉 には大変な力が備わっているんだということに、はっと気づかされる瞬間に遭遇する ことがあります。 例えば、尊敬する人や愛する人からかけられた言葉が、一生の思い出になったり、 生きるための目標や励みになったり、あるいはその言葉のために救われたりなど。 またその逆に、特定の人が発信した言葉が、人を深く傷つけたり、誤解を与えたり することも往々にあります。 だから私は、言葉を発するということが、大変重大な結果をもたらすこともあるという 認識を常に持って、身を処したいと感じていますし、そのように実践しているつもり です。でも、ついつい油断して、発言したことを後で後悔することも、あるのですが。 いずれにしても、言葉の力を信じたいですし、言葉というものを大切にしたいと、常々 考えています。

2021年12月11日土曜日

「鷲田清一折々のことば」2197を読んで

2021年11月7日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2197では 文化人類学者・松村圭一郎の『くらしのアナキズム』から、次のことばが取り上げられて います。    ムダを排した効率性にもとづくシステムは    いざというときに脆い。 例えば、「政治」におけるこのようなシステムの脆さが露呈したのも、今回のコロナ禍で ありました。 つまり、我が国の保健衛生が向上し、伝染病の集団感染なども最早起こらないと想定して、 各地の保健所の人員等をぎりぎりまで削減した結果、この新型コロナウイルス感染症の 急速な蔓延に対して、保健行政も迅速で適正な対応が取れず、結局一時なすすべもないと いう事態が起こりました。 また、医療行政においても、国公立の病院の少なさが、急速に増えるコロナ感染症による 中等症以上の患者を受け入れる病床の不足を生み出し、入院したくても入院出来ないと いう事態が生起したのも、医療予算の削減によるところが大きいでしょう。 無論、限られた予算を効率的に配分することは大切ですが、それにしても、不測の事態に 対して対処するだけのゆとりを持ったシステムを作り上げることが、国民生活の安全保障 という意味で必要です。 これは何も公共の政策に限らず、私たちの日常生活や、私にとっては商店の経営という 部分においても当てはまります。 即ち、日常生活においては、保険や年金等の支出がそれに相当するでしょうし、経営に おいては資本の蓄積や、持続性を考慮した経営方針がそれに当たると思います。 不測の事態に備えること、それは決して忘れてはならないことだと思います。

2021年12月7日火曜日

カズオイシグロ著「クララとお日さま」を読んで

特定の子供と暮らし、話し相手になるために作り出された、AFと呼ばれる人工知能を搭載した ロボット・クララが主人公のこの異色の小説は、言うまでもなく、単なるSF小説ではありません。 そこは手練れの作家が企画した通り、人間の本質を問う作品になっています。 まず物語の背景から述べると、舞台は欧米を思わせる近未来の社会、しかし地域性を感じさせる ものはほとんど語られず、国家という概念が今よりずっと希薄になった世界かも知れません。 だがその社会では貧富の格差が如実に存在し、クララの持ち主となる病弱な少女・ジョジーの 家庭は、家政婦を雇っている上に、AFも購入する金銭的余裕があり、娘に大学進学等将来の生活 が約束される「向上処置」を受けさせています。 他方、ジョジーの幼馴染リックの家族は、貧しいために息子にこの処置を受けさせることが出来 ず、彼は才能はあるもののほぼ大学進学の道は閉ざされ、処置を受けた子供たちから蔑みの目を 向けられています。 またこのような社会環境の中で、大人たちは概して利己的で、親子間の情愛は強いけれども、親 の側のそれは自分の思い込みで歪められているように思われまる節があります。 さてこのような世界で、クララはジョジーに見初められ、ジョジーの家で一緒に暮らすことに なるのですが、まずこの社会ではAFは、一般に単なる機械、所有物とみなされたり、逆に高度な 知性を持つ人工知能として警戒されたりしています。 そのような危うい立場の存在でありながら、クララは観察力と理解力に富み、何よりの自分の 主人であるジョジーが健康で幸福になることを、自己犠牲を厭わず願っています。この機械に 宿る純真さ、無私の優しさこそ、来るべき現実のAI社会へのイシグロの一つの問題提起ではない でしょうか? またクララのジョジーへの接し方は、概ね受け身ですが、クララ自身が太陽光から活力を得る こともあって、ジョジーの生命の危機に際して、自ら身を挺して太陽の恵みをジョジーに与え ようと画策するところに、機械としての限界を超えた勇気を見る思いがしました。 ジョジーと運命的な出会いをするところから、役目を終えてスクラップになるところまで、 クララの一生はあくまで主人に奉仕する献身的なものでありながら、同時に彼女にとって異質な 人間の世界をもっと良く理解しようとする、観察者のそれでもあったと感じました。

2021年12月2日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2192を読んで

2021年11月2日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2192では 政治学者・中島岳志の『思いがけず利他』から、次のことばが取り上げられています。    日常では、行為を意思に還元することで、問    題がこじれてしまうことが多々あります。 このことばだけでは、分かりにくいけれど、人の思いや感情は、ある場合にはふとその人 を訪れるもので、例えば謝罪も、言葉を重ねるばかりなら逆に反発を呼びもし、むしろ 申し訳ないことをしたという感情に突き上げられることが、相手に伝わってはじめて成り 立つと、この政治学者は言います。 つまり意思に抑制されるよりも、感情の発露を伴って発せられることばの方が、説得力が ある場合があるということです。 確かに、行為に対して意思を持つことは大切だけれども、それだけではなく、そこに心中 からの思いが伴う時、そのことばや行為は相手に伝わるのでしょう。 だから私なりに解釈すると、何かの意思を相手に伝えようとする時、私たちは全身全霊で それが伝わるように努めなければならない、ということではないでしょうか。 私自身を振り返っても、ついつい日常の忙しさや煩雑さにかまけて、自分の伝えたいこと を相手に伝達する努力が欠けていると、感じることがあります。その結果、こちらの思いが 十分に伝わらなくて、誤解を招くということがあるのではないでしょうか。 何に対しても真摯に向き合う、ということが生きて行く上で大切なのだと、思います。