2021年12月7日火曜日

カズオイシグロ著「クララとお日さま」を読んで

特定の子供と暮らし、話し相手になるために作り出された、AFと呼ばれる人工知能を搭載した ロボット・クララが主人公のこの異色の小説は、言うまでもなく、単なるSF小説ではありません。 そこは手練れの作家が企画した通り、人間の本質を問う作品になっています。 まず物語の背景から述べると、舞台は欧米を思わせる近未来の社会、しかし地域性を感じさせる ものはほとんど語られず、国家という概念が今よりずっと希薄になった世界かも知れません。 だがその社会では貧富の格差が如実に存在し、クララの持ち主となる病弱な少女・ジョジーの 家庭は、家政婦を雇っている上に、AFも購入する金銭的余裕があり、娘に大学進学等将来の生活 が約束される「向上処置」を受けさせています。 他方、ジョジーの幼馴染リックの家族は、貧しいために息子にこの処置を受けさせることが出来 ず、彼は才能はあるもののほぼ大学進学の道は閉ざされ、処置を受けた子供たちから蔑みの目を 向けられています。 またこのような社会環境の中で、大人たちは概して利己的で、親子間の情愛は強いけれども、親 の側のそれは自分の思い込みで歪められているように思われまる節があります。 さてこのような世界で、クララはジョジーに見初められ、ジョジーの家で一緒に暮らすことに なるのですが、まずこの社会ではAFは、一般に単なる機械、所有物とみなされたり、逆に高度な 知性を持つ人工知能として警戒されたりしています。 そのような危うい立場の存在でありながら、クララは観察力と理解力に富み、何よりの自分の 主人であるジョジーが健康で幸福になることを、自己犠牲を厭わず願っています。この機械に 宿る純真さ、無私の優しさこそ、来るべき現実のAI社会へのイシグロの一つの問題提起ではない でしょうか? またクララのジョジーへの接し方は、概ね受け身ですが、クララ自身が太陽光から活力を得る こともあって、ジョジーの生命の危機に際して、自ら身を挺して太陽の恵みをジョジーに与え ようと画策するところに、機械としての限界を超えた勇気を見る思いがしました。 ジョジーと運命的な出会いをするところから、役目を終えてスクラップになるところまで、 クララの一生はあくまで主人に奉仕する献身的なものでありながら、同時に彼女にとって異質な 人間の世界をもっと良く理解しようとする、観察者のそれでもあったと感じました。

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