2022年12月27日火曜日

「鷲田清一折々のことば」2561を読んで

2022年11月19日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2561では 理論物理学者・佐治春夫の随筆集『この星で生きる理由』から、次のことばが取り上げられて います。    過去は新しく、未来はなつかしいものなのか    もしれませんね。 一見矛盾するようなことばですが、その真意は、今が満たされた境遇でないと、人はつい過去 のせいにする。だが記憶はその時々の心情によって塗り替えられるものなので、過去の評価も これからの自分の身のふり方によって決まる。というものだそうです。 確かにそういう面もあるかもしれませんが、でも、過去の満たされない体験は、それと照らし 合わせて今の有難さを感じさせることもあるので、一概には言えないとも思います。 それよりもむしろ、将来の自分の体験の中で、今まで感じたことのない過去の自分の新しい面 を発見することが出来るとしたら、その方がずっとスリリングであると、私は思います。 そのような過去の自分の再発見を目指して、毎日を積極的に過ごして行けたらと思います。

2022年12月22日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2526を読んで

2022年10月14日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2526では NHKテレビの番組「プロフェッショナル」(9月30日放送)から、”ホルモンの神様”とも呼ばれる 焼肉職人・豊島雅信の次のことばが取り上げられています。   俺も放られたもんだから、ホルモンみてえな   もんだって。 幼くして事故で右手の指を失った豊島は、希望の就職もできず、失意のうちに実家の焼肉店を手伝 う中で、ある日、肉の部位のうちで用なしとされるホルモンが、自らと同じ境遇に思え、仕込みに 必死の工夫を重ねて、全国から客が訪れる伝説の人気店を作り上げたといいます。 私もこの番組を観て、強い感銘を受けました。彼は仕込みに試行錯誤を重ね、ホルモン各部位の 最良の下処理方法を見出し、しかも手間を惜しまずその処理方法を継続することによって、いつも 最良の状態の肉を客に提供します。その結果客は、他店では味わえない美味しい焼肉を食べること が出来て、大きな満足感を得るのです。 自らが天職と見定めた仕事に、体も厭わず、全生活をかけて取り組む豊島の姿に、本当の職人を見 る思いがしました。また彼は、毎日長時間のホルモン肉の下処理を行うだけではなく、店の便所 掃除も率先して行います。この行為は、来店してくれる客への感謝の現れとも感じました。 効率と合理性が優先される現代の社会で、仕事というものの原点を見る思いがしました。

2022年12月13日火曜日

長谷川智恵子著「「美」の巨匠たち」を読んで

当時著名な画廊である、日動画廊副社長として美術界で活躍していた著者による、洋の東西の 美術の巨匠へのインタビューをまとめた本です。 本書の出版が2010年で、しかもその元になる『素顔の巨匠たち』が1981年に刊行されているの で、本書に含まれるインタビューの大部分が、今から40年以上前に行われていることになり ます。 それ故、今現在から振り返ると、約半世紀前のインタビュー記事を読むことになり、恐らく 全てのインタビュー対象の美術家が最早鬼籍に入っていると思われますが、それぞれが美術界 において一時代を築いた芸術家であり、これだけの時を隔てて読むことに、かえって価値が あると感じられました。 さて本書を読み進めて行くと、登場する巨匠と呼ばれる各芸術家が、興味深い個性的な人物で あるのは言うに及ばず、インタビュアーである著者長谷川智恵子の魅力が、彼らのありのまま の姿を引き出すために、大きな力を発揮していると感じられました。 それほどに長谷川は、才色兼備の魅力的な女性で、また当時の美術界で影響力のある働きを して巨匠たちにも一目を置かれ、更には、美術への愛情と彼らへの敬意が相手にも伝わり、 インタビューの現場で本音を引き出すことに成功している、と思われました。 ただわずかな難点を挙げれば、彼女の対象芸術家への過剰な思い入れがイメージを限定して、 時としてインタビューを形にはめてしまっていると感じるところがありますが、いずれにして も、今は亡き巨匠たちの生の姿に触れられるという意味で、貴重な本であると思いました。 さて、それぞれの巨匠たちの具体的な印象は挙げるときりがないので、実際に本書を手に取っ てもらうということにして、全体を読んで感じたことを記しますと、まずこれはある意味当然 のことですが、インタビューに際して彼らが自分の作品を観てほしいと言うこと、またそれ ぞれの生き方として、職人気質であったり、破滅型であったり、自分のイメージを装う人物が いること、更には、本書に登場する数少ない日本画家東山魁夷の語ることは、明らかに内省的 な精神性において、他の西洋美術の巨匠たちとは異質であると感じられて、このあたりに東西 の文化の差異が現れていると思われ、大変興味深く感じました。 いずれにしても、期待した以上の充実した読書体験でした。

2022年12月6日火曜日

辺見庸著「自動起床装置」を読んで

1991年の第105回芥川賞受賞作です。それから30年以上の歳月が経過しているのに、決して古びて はいず、批評精神に富み、楽しく読みました。 まず、報道機関の宿直室が舞台であることが、私にとって意表を突いていました。正に、興味は あるけれど未知の世界なので、期待が膨らみました。 総合管理部深夜職員控室付きの、アルバイト職員である語り手水田満の業務は、宿直者の世話 一般、そして就寝中の希望者を指定の時刻に起こすことです。しかしこの「起こし」の業務が奥 深く、一筋縄ではいきません。人は、寝相も含め眠り方には色々な癖があり、寝つき、寝起きに も善し悪し諸相があります。そこで満らの重要な任務の一つは、寝起きの悪い宿直者をいかに気 持ち良く起こすかということになります。 ここまで読んで、自分の最近の就寝時の様子を振り返ると、身につまされるところがありました。 私の個人的なことながら、一昨年大腸がんの手術を受けて、S状結腸を一部切除したこともあって、 以降徐々に回復してきているとは言え、腸の調子が安定せず、それが睡眠にも影響していびきを かくことが多くなりました。 それが昨年、自宅の建て替えで小さい仮住まいに移ったこともあって、それに伴うストレスも重 なって、大いびきをかくようになり、間近で寝なければならない家族から苦情が起こったのです。 家人から注意されて、改めて自分の睡眠状態を意識すると、熟睡出来ていないことから、昼間も 注意力散漫になっていることに気づかされました。睡眠の重要性を思い知らされたところです。 さて、水田満の相棒に、起こし名人の小野寺聡がいます。彼は、寝起きの悪い宿直者に献身的に 寄り添い、ささやきかけるように声をかけることによって、心地よい目覚めを促します。事ここに 至って、著者は現代人のストレス過多、退行性を皮肉っているように思われます。 しかし、話は勿論そこでは終わりません。この会社の総合管理部は何と、「自動起床装置」を 試験的に導入することに」なります。この装置は、枕の下に設置された布袋が、タイマーに従って 間欠的に膨張、収縮を繰り返すことによって、就寝者を起こす仕組みで、試行の結果さしたる異論 もなく、導入が決定します。 小野寺は、起こし名人としての自負を打ち砕かれ、満共々この仕事を離れることになりますが、 ここでは機械が人に取って代わる何か味気ない未来と、人間の本能までが機械に制御される、人間 力の衰退への告発が感じられました。