2014年12月30日火曜日

京都市美術館「改組新第1回日展京都展」を観て

年末の慌ただしさを縫って、上記の展覧会を観て来ました。

昨年の不正審査問題を受けて、旧来の「日展」から名称を変更した
展覧会の第1回展です。

長い歴史を有する、我が国の代表的な公募展の一つですが、連綿と
受け継がれた伝統を継承する過程で、かねてより組織の硬直化の
噂は、私も耳にしたことがありました。

その問題が一気に噴き出したということでしょうか?今回より、
審査方法などを改革して、新たな出発を計るようです。

色々な批判、好き嫌いもあるでしょうが、長年観つづけている
一美術ファンの私は、実は「日展」の醸し出す独特の雰囲気が
好きでした。

毎年観に行くことによって、看板作家のその年の出品作がどのような
出来栄えであるかに期待し、若手の作家が年を追うごとに作品を
成熟させて行く過程を楽しむ。そんな鑑賞方法もありました。

さて、改組ということで、この展覧会にどんな変化が生まれたか?
私は期待を胸に会場に向かいました。

ここでは、いつも重点的に観る、日本画、工芸美術に絞って感想を
述べると、日本画には、表現において現状を変えようという意欲が
垣間見える作品が見受けられ、特に新入選作品には、従来にはない
選考基準が用いられていると感じられるものがありました。

工芸美術、特に私が注目する染色には、若手作家を中心に、色彩が
明るく、生き生きとした作品が多いように感じました。この現象も、前を
向いて進もうという作家の姿勢を示していると受け取れました。

いずれにしても、改革の効果がはっきりと現れて来るのはこれから
でしょう。今後の楽しみの芽生えは少し感じられた、と思います。

2014年12月24日水曜日

店戸棚の棚卸

12月23日、年末の祝日を利用して、恒例の店の戸棚の白生地の
棚卸をしました。

私たちの店では、白生地の切り売りもしているので、棚卸といっても
生地の点数を数えるだけではなく、切り売り用の生地は心棒や
巻板からほどいて、長さを差しで測り、残っている量を確かめ、
帳面上の在庫と照合しなければならないのです。

それで年に一回決算に合わせて、主に店先の棚に置いてある
切り売り用の生地を、仕入先の人にも一人手伝いに来てもらって
全て棚からおろし、ほどき、長さを測り、数量を控え、また巻き直して
棚の元の位置に納めるという作業を行います。

店先の商品だけで、朝9時から始めて夕方5時終了と、丸一日の
時間を費やすので、私たちにとっては一仕事です。ことに幅広の
生地は長さを測るのにも、棒や板に巻くのにも大変手間がかかり、
翌日には慣れぬ筋肉の使い方をして、肩や腕が痛くなるぐらいで、
手伝いに来て下さる仕入先の人にも、毎度ご苦労様と頭が
下がります。

そんな事情で、毎年年末が来ると、よしんば在庫が合わないような
ことがあっても大変ですし、私にとって棚卸は一つの億劫の種に
なります。

しかし今年も無事棚卸が終わり、数量もそこそこ合っているようです。

棚卸は確かに手間がかかりますが、いざ始めてみると一つ一つの
生地を手にすることによって、今年どんな生地が売れたか、また
その商品をめぐってお客さまとどんなやり取りがあったかを、もう一度
振り返ることができます。いわば商売上の一年を回顧することにも
なります。

棚卸終了後のすがすがしさは、達成感とともに、その作業に含まれる
そんな意味合いにもよるのかもしれません。

2014年12月21日日曜日

続 雪の朝です。

この冬初めての雪が積もりました。考えてみれば、年の始めの頃以来
久しぶりです。ふと、その時分のことを思い出しました。

ブログを始めてまだ間がなく、何を書いたものやら思い悩んでいました。
一方で、新しいことを始めた高揚感もありました。結局、時々に感じた
ことを素直に、ありのままに記すことに落ち着きました。

それからずい分月日が流れたような、あっという間だったような気も
します。それでどうなんだと言えば、正直何も変わらないのですが、
一年間近い月日を、目標を立てたことが続けられたということは、
無形の自信になっているような気はします。来年も書き続けたいという
新たな活力が湧いて来ました。

雪の朝は寒さに震えながらも、心が研ぎ澄まされて凛とした気分に
なります。それは私にとって、常日頃、都会の人工的な環境の中で
ぬくぬくと暮らしながら、突然自然からのメッセージを直接に受け取った
ように、感じられるからかも知れません。

ですから雪で様相の一変した景色は、例え小さな庭であっても、
自然によってリセットされた世界のように思われるのです。新生の気と
いうものは、どこか身の引き締まるような、すがすがしい雰囲気が
あります。

その白く輝く景色を眺めながら、来たるべき年に臨む決意を、新たにした
ところです。

2014年12月19日金曜日

漱石「三四郎」における、三四郎と美禰子が小川のほとりで空を眺める場面について

2014年12月17日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第53回)には、菊人形見物に疲れた美禰子と三四郎が小川のほとりに
出て、草の上に腰かけて空を眺めるシーンで、空の様子を描写する次の
表現があります。

「ただ単調に澄んでいたものの中に、色が幾通りも出来てきた。透き徹る
藍の地が消えるように次第に薄くなる。その上に白い雲が鈍く重なり
かかる。重なったものが溶けて流れ出す。どこで地が尽きて、どこで雲が
始まるか分からないほどに嬾い上を、心持黄な色がふうと一面に
かかっている。」

まるで詩の一節のような、美しく、リズム感のある文章です。小説の中の
漱石の文章は、ずい分巧みであることは私なりに認識していましたが、
現実を客観的に描写する場合が多いので、抽象的なものの表現を
試みる時、ここまで詩的になるとは思いませんでした。何か新しい発見を
したような、嬉しい心地がしました。

一方この一節を読んでいると、明治の文明開化の匂いがするように
感じられます。以前、日本の油絵の先駆者である司馬江漢、高橋由一
の展覧会を観に行ったことがあって、その解説に、江戸時代までの日本の
絵師には、空の色を描くという発想がなかった。従って司馬や高橋は
我が国において初めて空を発見した画家ともいえる、という趣旨の説明が
ありました。

漱石はイギリスに留学して、ターナーなどの風景画を鑑賞したといいます。
その見聞の成果は、彼の小説の中にこのような形で結実しているに違い
ありません。


2014年12月17日水曜日

京都市美術「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展」を観て

この秋京都では、19世紀後半から20世紀初頭にかけて西洋の
美意識を揺り動かした、「ジャポニズム」に焦点を合わせた展覧会が
二つ開催されました。先ごろ観た「ホイッスラー展」と本展です。

「ジャポニズム」というと、私たち本家本元の日本人にとっては従来、
いわゆる異国人による自分たちの文化の評価ということで、表面的な
捉え方、分かり切ったことを今更と感じて、軽視するきらいがありました。

しかし当時の西洋美術をより深く味わうためには、その影響関係を
理解することが不可欠でしょう。さしずめ我が国で「ジャポニズム」を
主題とした展覧会が開催され、話題を集めたということは、私たちの
西洋美術を鑑賞する目が成熟を迎えて来ている、と捉えてもいいのでは
ないでしょうか。

さて本展は、五つのパートに分けて展観されます。

冒頭の(1)日本趣味 では、まず西洋人が日本美術に初めて触れた
驚きが再現されます。賞賛を形に表わすべく、初期の「ジャポニズム」は
模倣として登場します。

(2)女性 では、浮世絵に描かれる着飾った遊女の華やかさ、女性同志、
母子の打ち解けた親密な様子の描写が、日本女性を理想的なものとして
受け止めさせたといいます。洋の東西を問わず、人間は自らの身近に
ないものに憧れを抱く傾向があるのでしょう。

本展の目玉、モネの「ラ・ジャポネーズ」は大画面と色彩の迫力、着物の
刺繍の盛り上がりを絵筆で表現する巧みさで、私に従来のイメージとは
違うモネを感じさせてくれました。

(3)シティー・ライフ は、錦絵に見える風俗表現の西洋絵画への影響、
逆に西洋風俗の錦絵への反映を見せ、(4)自然 では、日本美術の
工芸意匠の西洋美術への影響を見ます。

(5)風景 において、浮世絵の風景画に表現された斬新な構図が、西洋の
画家たちに与えた影響を見せるのですが、ここに至り「ジャポニズム」は
それぞれの画家の血肉となるまで深化して、日本美術に
インスピレーションを得た新たな西洋独自の表現法として、確立された
のだと感じられました。

文化の融合について、私たちに深く考えさせてくれる展覧会でした。

2014年12月14日日曜日

漱石「三四郎」における、三四郎が周囲の人びとに見る,都会人気質について

12月11日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第50回)に、東京の光源寺の前で物乞いをする乞食を評しての
広田先生、野々宮さん、美禰子、よし子の会話を聞いた三四郎の
感慨を記する、次の文章があります。

「三四郎は四人の乞食に対する批評を聞いて、自分が今日まで
養成した徳義上の観念を幾分か傷けられるような気がした。
けれども自分が乞食の前を通るとき、一銭も投げてやる料簡が
起らなかったのみならず、実をいえば、寧ろ不愉快な感じが
募った事実を反省して見ると、自分よりこれら四人の方が
かえって己に誠であると思い付いた。また彼らは己に誠であり
得るほどな広い天地の下に呼吸する都会人種であるという事を
悟った。」

これは漱石一流の諧謔でしょうか?四人の会話は、皮肉を込めた
傍観者の物言いです。彼らはこのような乞食を見慣れていて、
その物乞いの仕草が多分に演技性を帯びたものであることを
十分に承知した上で、このような会話を楽しんでいるのでしょうが、
そうではあっても、私はあからさま過ぎて好きではありません。

もしそれが都会人の気質なら、現代社会に向かうにつれて益々
高じることになる、高慢や疎外感、利己主義の先触れであるように
感じるからです。

それに対してまだ都会生活に慣れない三四郎は、この乞食と
遭遇したことによる、自らの心の葛藤と矛盾に素直に思い悩んで
いる。その方がずい分人間的だと感じるのは、私だけでしょうか?

2014年12月7日日曜日

京都文化博物館「野口久光シネマ・グラフィックスー魅惑のヨーロッパ映画ポスター展」を観て

野口久光の名前は知りませんでしたが、博物館前の掲示板の
展覧会予告のポスターに示される、彼の映画ポスターに見覚えがあり、
懐かしく感じられたので会場に足を運びました。

それらの映画ポスターを会場で改めて観ると、原画が手描きという
こともあって、温かい肌触りは無論、現代の映画ポスターと比較して
はるかに奥行き、広がりがあるように感じられます。

これは作者の感性、筆力と共に、対象とする映画に対する理解力、
そして映画そのものに寄せる愛情によるところが大きいのでしょう。
人物、背景の描き方、色彩のトーンは作品によって自ずと違い、作品名、
キャスティング等の文字デザインも、それぞれ野口が相応しいと考える
字体、色で構成されています。また作品の多くの上方の隅に、あまり
目立たないように書き加えられた短文の映画の説明書きも、簡潔な
文章で、観客を誘います。

視点を変えて、本展には彼が描いた映画スターのポートレイトも多数
展示されていますが、それぞれのスターの醸し出す雰囲気が的確に
捉えられて、魅力的な作品となっています。

このことからも明らかなように、野口の映画ポスターは総合芸術とも
言える映画のその作品全体の佇まい、その作品の中での俳優の演技
までも、丸ごと写し込んでいるゆえに、いつまでも観る者を魅了して
止まないのではないか。その証拠にトリュフォーは、野口の制作した
自身の映画「大人は判ってくれない」のポスターを、生涯愛したと
言います。彼のポスターには、元の映画の監督さえ虜にする、作品と
しての力があるのでしょう。

野口は映画ポスターの他にレコードジャケット、本の装丁などにも
優れた仕事を残しました。彼はさしずめ、戦後日本への西洋文化の
伝道者と言えるのではないでしょうか。

2014年12月5日金曜日

龍池町つくり委員会 11

12月2日、第29回龍池町つくり委員会が開催されました。

冒頭、谷口先生のご紹介により、京都市中京区主催の「まちづくり
仕掛け人養成講座」を受講された杉林さんによって、我が委員会
活動のための来年度の企画についてのご提案がありました。

これは、「多世代同窓会in元龍池小学校~思い出をカルタに残して、
楽しく後世に伝えよう~」と題して、世代を超えた様々な人々が一堂に
集い、学区の歴史にちなむカルタを共に制作することによって、地域の
魅力を再発見し、学区の住民間のコミニケーションを深めよう、という
企画です。

この企画を採用するかいなかの委員たちの話し合いの中で、果たして
我々が今現在進めているような各種催しが、新住民と旧住民の融合に
とって即効性があるのかどうかという問いかけがあり、議論は白熱
しました。

大勢の意見は、このような一見地道に見える企画によって、息長く
コミニケーションの糸口を見つけていくしかないというもので、杉林さんの
提案も採用されることとなりました。

一つの企画の採否の話し合いが、思わぬ根本的な問いを巡る議論に
発展しましたが、私たちの活動の意味を再確認するという点において、
価値あるものだったと思いました。

議論の中で、新住民、旧住民と色分けするのではなく、人と人との新たな
絆を結ぶという視点が必要ではないか、という意見があって、大変新鮮に
感じました。



2014年12月2日火曜日

街の中に紅葉を探してみました。

しばらく何かと忙しく、なかなか昼間に散歩をする時間を取ることが
出来なかったのですが、先日の日曜日にはたまたま少し空き時間が
あって、遅ればせながら紅葉を求めて、街の中を歩いてみました。

私の住んでいる京都は紅葉の名所も多く、ピークだった11月後半の
連休は大変な人出だったようで、その時ちょうど通りかかった
二条城の前は、入場を待つ人の列が外堀に沿って延々と続き、
中に入れるのは2時間以上後という有り様でした。

近郊も含め、名だたる名所の紅葉は確かに素晴らしいのですが、
在住の人間としてはあえて人混みに分け入らず、街の片隅に季節の
移ろいを求め、秋を感じることにしたのです。

歩いてみると、そこここの街路樹や、建物の前に植えられた木々の
中には、もう大部分葉を落としてしまったものも多いのですが、時折
まだ鮮やかな紅葉の余韻を残している木もあって、見慣れた街の
日頃気付かないところで、そのような光景に出合うと、何か得をした
心地がします。

歩道に散り敷いた落ち葉も、滑りそうで歩きずらさがありますが、前方に
一面に広がる情景を目にすると、秋の深まりをしみじみと感じさせられ
ました。

公園の銀杏の黄葉も美しく、木々の輝くような黄色と、地上の落葉の
黄色に縁どられた空間で、遊具で無心に遊ぶ子供たちの佇まいは、
まるで画中の中の世界のようにも感じられました。

限られた時間ながら、私なりの秋を楽しむことが出来ました。