2019年6月28日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1494を読んで

2019年6月17日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1494では
漫画家・西原理恵子の『洗えば使える泥名言』の「解説」から、タレント・壇蜜の次の
ことばが取り上げられています。

  一見眉間にシワが寄ったりムッとするような
  言葉こそ、実は自分を助けるフレーズになる
  かもしれない

確かに、誉めことばや口当たりの良いことばは、その場では気分を良くしてくれる
けれど、後々には何も内容が残らなかった、ということもあるかもしれません。

まず誉めことばから考えると、よく人は褒めて育てるものだ、と言われます。なる
ほど、厳しすぎたり、いちいち欠点をあげつらうのはダメでしょう。相手が委縮して
しまいかねません。

でも自分の経験に照らすと、褒められてやる気が出たことよりも、叱られた反発心
から一念発起したことの方が多いと感じます。勿論その人の性格や、時代の影響も
あるに違いありませんが、少なくとも叱られたことの方が、後々まで心に残るのは
確かでしょう。

次に口当たりの良いことばについて考えると、こちらの問いかけに対して可でもなく
不可でもない、相手を傷つけないだけのほどの良い返答は、結局後には何も結果を
残しませんし、あるいは、単に心地よい雰囲気を作るだけのことばも、心に訴えかけ
て来るものがない場合がほとんどです。

ちょっとざらついた、聞く方に抵抗感を催させることばが、後にはじわじわその人の
心に働き掛けることがある、というのもよくあることだと思います。

このようなことばは、要はその人の受け取り方次第、かもしれません。

2019年6月24日月曜日

ヒヨドリの営巣顛末記

私の家の庭は京町家の中のほんの小さな坪庭ですが、そんな猫の額ほどの空間
でも、季節に応じて幾種類かの野鳥が訪れてくれます。

秋口から初春にかけては、椿や梅の花の蜜を求めてメジロがつがいでやって来ま
すし、かつてはウグイスが来たこともあり、辺りが静かな正月には、大屋根の上で
シラサギが佇んでいたこともありました。

スズメ、ハト、カラスに至っては、年中やってきて、庭木の枝を飛び回ったり、あるい
は、遠巻きに屋根に止まって、こちらの様子をうかがったりしています。

さて先日、ヒヨドリのつがいが頻繁に庭に出没するようになりました。この鳥は、年中
見かけるといえば見かけますが、どちらかといえば秋から冬にかけて、千両や南天
の実を目当てにやって来ることが多いので、梅雨前の今の季節には珍しいと感じて
いました。

ご承知の通り、この鳥は泣き声がギャーギャーとうるさく、今回はあまりに頻繁に鳴く
ので少し閉口していましたところ、ちょっといつもの挙動と様子が違うのに気づき
ました。

というのは、メジロなどよりは警戒心が薄いとはいえそこは野鳥、従来ならヒヨドリも
私たちが近づくと敏感に気配を察して、サッと飛び立ちます。でも今回は、私が庭を
通ってもいたずらに鳴き叫ぶだけで、逃げようとしません。

何か妙だとよく観察してみると、庭の椿の樹上に巣を作っていることが判明しました。
その場所は丁度2階の物干しの下になって、雨露はしのげ2階からの人間の視線は
さえぎられていますが、庭に降りて近づくと、直ぐに人間の手が届くところに位置して
います。

このヒヨドリのカップルにとっては、簡単に人に近づかれるところが誤算だったので
しょう。さらに観察すると、メスは巣にうずくまり、オスはこちらを牽制するように盛ん
に鳴きながら、せわしげに周囲の枝をうろうろしています。

そして数日後、ついにそこで卵を産むことを断念したのか、2羽とも姿を消しました。
後に残ったのはからの巣だけで、少しかわいそうな気もしましたが、こんな場所では
落ち着いて子育ても出来なかっただろうと、彼らの決断をよしと思いました。

2019年6月21日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1487を読んで

2019年6月9日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1487では
カナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインが米国の実業家、Y・シュイナード著『新版
社員をサーフィンに行かせよう』に寄せた序文から、次のことばが取り上げられてい
ます。

  物を使い捨てにするのはそれを作る人々を使
  い捨てにするようなものだ

考えてみると、現代社会に生きる私たちは、随分色々なものを使い捨てにするように
なった、と思い至ります。

安価な日用品然り、ペットボトル、買い物袋、マスク、食べ物用のトレー、紙おむつ、
などなど。

このうちには、かつてはそのもの自体が存在しなかったり、使い捨てにする方が
衛生的に理にかなっているものもありますが、でも本来なら長く使い続けていたもの
もあります。

またIT系を中心の電気製品や、その他工業製品でも、相対的に以前より製品の
耐用年数が短くなりました。技術の新陳代謝が速かったり、顧客が新しい製品を好む
傾向にあるという側面もありますが、製造する側もコスト削減を重視して、長く使わ
れることを念頭に置いていない分部もあると感じます。

全体的にものを使い捨てにするのが平気で、当たり前になり、もったいないという意識
が希薄になっていると思います。

しかし上記のことばのように、ものの作り手に思いを馳せ、その品物を大切に使うと
いうことは、自身の情操を養うことにもつながります。

私たちの携わる和装の業界には、洗い張り、色揚げ、仕立て直し等、長く着物を使い
続ける文化もまだ残っていますので、そのような精神を大切にして行きたい、と考えて
います。

2019年6月17日月曜日

美術館「えき」KYOTO 「安珠写真展 Invisible Kyoto」を観て

JR京都伊勢丹の美術館「えき」で、国際的モデルから写真家に転身した安珠
(あんじゅ)の写真展「Invisible Kyoto ー目に見えぬ平安京ー」を観ました。


私は一般に写真作品というと、カメラマンの視点を通して被写体をリアルに捉えた
作品が好きなので、本展に並べられた写真を目にして最初は少し戸惑いました。

というのは、「目に見えない平安京」というテーマ設定が示すように、この写真家
は現在の京都の風景、事物を対象にしながら、そこからかつての平安京の気配
を浮かび上がらせようと意図していることが、感じられるからです。

それ故にそこに展示される写真作品は、単に現実をありのままに捉えるのでは
なく、一種スピリチュアルな写真とでもいうように、対象を直感的に切り取り、ある
いは写真の上に人工的な加工を施して、美しく、しかし幻想的な世界を現出して
います。

また写真に添えられた詞書きも、その独自の世界観を表現するために重要な
役割を担い、鑑賞者は写真と詞書きを交互に観ることによって、その独特の
世界に入り込んで行くことになります。いわば、写真と文芸をミックスさせたよう
な展覧会であると、感じました。

そういう訳で私は、当初この作品世界をどう解釈すればいいのか戸惑いました
が、上記のような周到な仕掛けもあって、次第にその夢とも現ともつかぬ世界に
浸されて行くように感じました。そして最後の平安時代のイメージのエッセンスを、
演じ手の男女の所作、ダンスによって表現した抽象的な映像作品によって、
その想いは強く印象付けられました。

この展覧会にために制作された、細野晴臣の音楽もいやがうえにも気分を盛り
上げ、通常の写真展とは一味違う雰囲気を味わうことが出来ました。


2019年6月14日金曜日

原民喜著「小説集 夏の花」を読んで

梯久美子の評伝「原民喜」を読んで俄然彼の小説を読みたくなった私は、必然的に
代表作「夏の花」を開きました。

自らの広島での原子爆弾による被爆体験を巡る小説集で、表題作『夏の花』は正に、
被爆時の状況を赤裸々に語っています。

しかし、この小説には無論、実際に体験した者にしか語り得ない、この爆弾の想像を
絶する破壊力、被害の甚大さ、それに伴う目を背けたくなる悲惨さ、絶望感が余す
ところなく綴られていますが、その筆致はこのような凄惨な情景を描写しているとは
到底思えない、感傷を極力排し、事実を正確に記そうとする、淡々として一種透徹
した趣きがあります。

実際に著者と深い親交のあった人物である佐々木基一の本書の解説によると、原爆
に被災した時原は、「凄惨な光景と無数の人々の苦痛と嘆きの声を書き残す義務」
を自らに課したといいます。

そのような決意で記されたこの小説は、必然的にこのような相貌を呈することになった
に違いありませんが、それ故にかえって、原爆の非道に対する力強い訴求力を獲得
するに至ったのでしょう。

さらにこの作品の魅力として忘れられないのは、まず一点は、「私は街に出て花を買う
と、妻の墓を訪れようと思った。・・・」で始まる導入の妙。その花が小説の題名になって
いるのですが、これから起こる悲惨な出来事の対極をなす情緒的な書き出しが、いや
が上にも読者を衝撃的な事実の描写に引き込みます。

もう一点は、極力目の前の現実を冷静に書き留めることに徹した著者が、極めて限ら
れた場面で心情を吐露する部分。「愚劣なものに対する、やりきれない憤りが、この時
我々を無言で結び付けているようであった。」という表現が、彼のやり場のない怒りを
余すところなく伝えています。

同様の表現法は、被爆前後を扱う三部作といってもいい『廃墟から』『壊滅の序曲』に
も見られ、それぞれ「惜しかったね、戦争は終わったのに・・・」、「・・・原子爆弾がこの
街を訪れるまでには、まだ四十時間あまりあった。」と記されています。

広島、長崎に原爆が投下されてから70年以上の年月が経過し、我が国でも被爆体験
の風化が言われて久しい今日、決して原爆反対を声高に叫ぶことはなくても、長く読み
継がれてほしい名著です。

2019年6月12日水曜日

鷲田清一「折々のことば」1482を読んで

2019年6月4日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1482では
イラストレーター・山藤章二の随想集『昭和よ、』から、次のことばが取り上げられて
います。

  「二番手の奥床しさ」はとても文化的な心理
  なのだ。

私も何を隠そう、根っからの「阪神ファン」です。私の子供の頃は、「巨人、大鵬、
卵焼き」といわれて、圧倒的多数の日本人に人気があるのが、この3つでした。

卵焼きはさておき、大相撲で無類の強さを誇った大鵬、かたやプロ野球では、王、
長嶋の全盛時代で、勝つのが当たり前だった巨人、そのような雰囲気の中で、
いつも引き立て役に回る阪神を応援していました。

どうして阪神が好きなのかというと、関西で暮らすゆえの東京への対抗心、強すぎ
るチームは虫が好かず、弱いものがたまに強いものに勝つことに無性に快感を覚え
る反骨心、あるいは判官びいき、だと思っていました。

でも上述のことばを読んで、二番手の「滋味深さ」という山藤の分析に触れると、
私の「阪神びいき」も文化的な行為に思われて来ます。

でも確かに、圧倒的に強いものを応援することは、深く考えなくても日常のストレス
を解消出来るという意味で合理的かも知れませんが、逆に健闘するもあと一歩及ば
ないものを応援することは、敗北の悔しさを味わい、そこからの反発心をかき立て
られるという意味で、複雑な心の働きを味わうのかも知れません。

あるいは敗者の側に立つことは、敗れたものの心の痛みに思いを馳せることにも
つながるでしょう。

とにかく私は何といっても阪神が好きなので、別段その理由を深く考える必要もあり
ませんが、でもチームの負けが続くと、要らぬストレスを抱え込んでしまうのには、
我ながらあきれてしまいます。

2019年6月10日月曜日

田中亮監督映画「コンフィデンスマンJPーロマンス編ー」を観て

昨年フジテレビ系で放映された連続ドラマ「コンフィデンスマンJP」がすっかり気に
入ってしまい、今年公開されたこのドラマの映画版を観に行きました。

このドラマは、ダー子(長澤まさみ)、ボクちゃん(東出昌大)、リチャード(小日向文世)
の詐欺師3人組が、権力、財力、名声を盾にして世にはびこる悪人から、手の込んだ、
鮮やかな詐欺の手口で大金をだまし取るストーリーで、古沢良太脚本、かのジョージ・
ロイ・ヒル監督映画で、第46回アカデミー賞作品賞受賞作、信用詐欺映画の名作
「スティング」を彷彿とさせる、詐欺の相手ばかりか観客をも欺く、しかし欺かれた観客
も観終わって晴れ晴れとした気分を味わえる、秀逸な作品です。

さて映画はドラマよりさらにスケールアップ、舞台は香港で、この街の闇の実力者、
氷の女帝ラン・リウから時価400億円といわれる宝石の詐取をもくろみます。しかし
勿論、これ以上種を明かすのは野暮というもので、後は観てのお楽しみです。

とはいえ全体の印象から語ると、詐欺の手口はますます手が込み、一体誰が騙して、
誰が騙されているのか、最後の最後になるまでわかりません。その中で、フェイクか
フェイクでないかに関わらず、ロマンスあり、ハラハラドキドキさせられるところあり、
おまけにニヤッとさせられるところもあって、脚本が相変わらず冴えていると感じ
ました。特に名作映画のパロディーが、ところどころに顔をのぞかせるところが、ほど
良いユーモアのスパイスになっています。

そして忘れてはならないのが俳優陣の熱演、ともすれば信ぴょう性を疑われる物語を
つゆともそのように感じさせず、自然体でリアリティーを伴って演じることは、なかなか
難しいのではないかと、思いました。

最後に、このような物語が今ヒットするのは、現代を生きる人々が、生きているという
実感を得られにくくなって来ていることの裏返しではないか、あるいは現実に社会的に
弱い立場の人が詐欺の被害に会う殺伐とした社会で、卑劣さの対極としての義賊的
な詐欺行為に微かな救いを見出すからではないか、と感じました。

2019年6月7日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1479を読んで

2019年6月1日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1479では
ジャーナリスト・筑紫哲也の『スローライフ』から、次のことばが取り上げられています。

  「ああおもしろかった」と臨終の際にどこま
  で言えるかが、限りある生の勝ち負けを決め
  るものさしだと私自身は思っている。

勝ち負けというあたりは、このジャーナリスト一流の硬派なところだと推察しますが、
私も死の間際の時に、「楽しい人生だった」と感じられたら、理想だと思います。

勿論長い人生の中で、日常生活のランダムに一点を切り取ったら、大部分において
生きるということは単調で、代わり映えのしないものでしょう。

朝に目覚めて朝食を取り、午前中の仕事をして昼食を済ませ、午後の仕事に取り
掛かって夕食、自分のプライベートな時間を持って入浴して就寝、日常生活で
最大公約数として思い浮かぶのは、まずこんなところです。

このような生活を規則正しく繰り返せるのが、基本的に恵まれているということなの
でしょうが、勿論私たちはそれだけでは満足できません。

だから人生の節目をなす大きなイベント、例えば進学、就職、結婚などがあるとも
いえるのですが、それらがその人の生き方をある程度方向づけるとしても、決して
それだけで人生が充実していたとは、確信出来ないはずです。

ではどうすれば、最終的に「自分の人生が楽しかった」と感じることが出来るかと
いえば、私は恐らく社会の中の色々なものに好奇心を持ち続けて、ポジティブな
気持ちでそれらに関わり続けることが出来れば、最後に人生は充実していたと
感じることが出来るのではないかと、今は思っています。

つまり気持ちの持ち方こそが大切。私自身そのようでありたいと、感じています。

2019年6月5日水曜日

松栄堂 薫習館「エミリ・ディキンスンの世界展」を観て

昨年にオープンした香の老舗松栄堂のお香の体験施設薫習館で、詩人エミリ・
ディキンスンの企画展が開催されているということで、私の家の近くにあるその施設
が気になっていたこともあって、訪れてみました。

ディキンスンの詩については、今まで全く知りませんでしたが、彼女が生涯ほぼ無名
でこつこつと詩を書き貯め、死後にその詩の素晴らしさが広く認められ、後世の詩人
たちに大きな影響を与えたことを、この展示で知りました。

その詩についても展示された断片を読むと、繊細で、匂い立つ、珠玉の言葉の連なり
がイメージされて、アメリカ文化の深層にある慎ましやかで良質な部分を、代表する
詩人なのだろうと感じさせられました。

上記薫習館のロビーで催されるささやかな展観でしたが、その場に流れるお香の香り
も含めて、エミリ・ディキンスンという詩人に相応しい空間であると、感じました。

さて薫習館のお香の魅力を広く紹介する常設展示も興味深く、私はお香の製造工程
のミニチュア模型を見てから、天井から吊り下げられた、3つのそれぞれに違う香りで
充たされた白い箱に、頭から潜り込んで香りの差異を楽しむ「かおりBOX」、白い柱に
設置されたラッパに鼻を近づけ、手元のポンプを押すことで、お香の代表的な原材料
の香りを嗅ぎ分ける「香りの柱」などを、面白く体験しました。

普段自宅の仏壇で何気なく使っている線香の香りの奥深さを知り、また原材料のお香
の香りには、日頃使っている線香の匂いの中に含まれる、ほのかな痕跡といったもの
も感じ取れて、記憶にもつながる新鮮な香りの体験が出来たと、感じました。

2019年6月2日日曜日

鷲田清一「折々のことば」1477を読んで

2019年5月30日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1477では
フランスのブルターニュ地方でよく使われる言い回しとして、次のことばが取り上げ
られています。

  ブルターニュでは太陽はいつも雲の上にある

ブルターニュ地方の実際の気候風土や歴史のことは知りませんが、色々な地方での
人の営みに当てはまることばだと感じ、心に残りました。

雲の上にある太陽は直接には見ることは出来ないけれど、雲の層の厚さによって、
雲がどんよりと陰気に重々しく見えたり、逆に温かく軽やかに見えたりする。

厚い雲に覆われている時には、その上に太陽があることはなかなか想像出来ません
が、でも上記のことばを繰り返し使っていたら、雲の上の太陽の存在を信じ、自身の
心を励ますことが出来るかも知れません。

あるいは、層が薄く明るい雲に覆われている時には、間もなく太陽が顔を出すかも
知れないと期待が膨らみ、ここでもうひと頑張りと踏ん張りがきくかもしれないで
しょう。

上記のことばは一見、自分たちの置かれた環境を自嘲しながら、それでいて生きて
いる土地に愛着と誇りを持っているということを、言い表しているように感じられます。

そのような自らの暮らしと土地への愛情が、その地特有の文化を育むのではないか
と、このことばを読んで感じました。