2022年4月26日火曜日

「佐々木閑 現代のことば 煩悩とはなにか」を読んで

3月7日付け京都新聞朝刊「佐々木閑 現代のことば」では、「煩悩とはなにか」と題して、 花園大学教授・インド仏教学の筆者が、仏教の立場で現代における煩悩について語って います。 それによると、煩悩を現代の言葉で言うと「人が持つ悪しき本能」ということになり、 本能の支配から離れた新しい生き方を見出そうとするのが仏教の教えで、釈迦によるその 答えは、煩悩の根本をなすのは、世の中を自分中心に見て行こうとする誤った自我意識で、 少しでも煩悩を克服するためには、そこから遠ざからなければならない、ということ です。 確かに現代ほど、私も含め一般の人々の自我意識が強くなったことは、かつてなかったで しょう。それは民主主義教育ということにもつながっていますし、社会からそれぞれが 個人として自立することを求められていることとも、密接に関わっています。 しかしながら、なるほど現代社会を生きるためには、しっかりとした自我を持つことは 必要でしょうが、それがいたずらに個人の権利や自由ばかりに結びつくのではなく、それ に付随する公共性や義務、更には道徳心にも心を砕かなければならない、ということでは ないでしょうか? なかなか難しいことではありますが、私自身も心しなければならない、と改めて思います。

2022年4月22日金曜日

エマニュエル・トッド著「老人支配国家日本の危機」を読んで

国、地域ごとの家族システムの違いや、人口動態に着目する方法論によって、「ソ連崩壊」や 「米国発の金融危機」「アラブの春」等を予言した、フランスの歴史人口学者、家族人類学者 による、日本に向けた論考です。 まず私が感じたのは、家族システムや人口動態を分析することが、これほどまでに各国の社会 的特徴や政治政策を規定し、強いては国際社会の将来の動向を占うことにつながる、という ことです。 この方法論による、トッドの現在の日本社会の問題点に対する指摘は極めて明確で、「直系 家族(長子相続)」という日本の家族構造が少子化を生み出し、今や顕著になって来ている 少子高齢化による人口減少が、この国を衰退に導くと警告しています。 この「直系家族」の弊害は、日本のコロナ禍対策にも顕著に現れ、新型コロナ感染症が特に 高齢者に重い症状をもたらすことから、この家族制度の特徴である老人を敬うという傾向に よって、この国のコロナ対策が老人の健康を守るために、現役世代の経済活動を犠牲にする ことになり、日本が世界の先進国と比較しても、コロナ感染症による死者が少ないにも関わら ず、経済活動の再活性化の遅れがはっきりとしていると指摘します。 そしてこの国が抱える問題の改善策として、直系家族的な価値観の見直しの推進、子供の教育 費補助など少子化対策の充実、移民の受け入れ促進を挙げています。 また本書におけるトッドの日本への提言で、もう1点強いインパクトを与えるものは、核武装 の奨励です。これは、中国の台頭による現在の東アジアの緊迫した国際情勢の中で、この国は いつまでも、日米安全保障条約によるアメリカの核の傘に依存していることは出来ず、あえて 核武装することによって、主体的な国際関係を構築するべきである、という論です。 全体を読み終えて、その学識に基づくトッドの指摘、提言を極めて明晰で、我が国の抱える 問題の核心を突くところがある、と感じました。しかし、傾聴に値するのは言うまでもありま せんが、論から導く結果は、現実の日本人の心情からは極端すぎるとも、感じられました。 つまり、日本人の老人を敬う価値観は美点でもあり、社会的弱者に配慮したコロナ対策は、 この国の高い道徳心を現わしていると感じられます。また、実際に核被爆を体験した日本人に は、それが現在の国際関係からは合理的であっても、核武装は決して容認できず、それこそが 我々の優れた平和倫理観であると、感じます。 このような点を踏まえて、トッドの鋭く指摘する諸問題の改善点を見出すことが、急務でしょ う。

2022年4月19日火曜日

濱口竜介監督作品映画「ドライブ・マイ・カー」を観て

先日、アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞した、濱口監督の上記作品を京都シネマで観ました。 まず、映画館で映画を観るのは、コロナ禍もあって2年ぶりで、単なる映画鑑賞を超えて、本当に 貴重な、非日常の掛け替えのない時間に思われて、私たちがコロナ感染症によって失ったものの 大きさを、改めて感じさせられました。 さてこの映画は、人と人の心の通じ合うことの難しさと、しかしお互いが心を開いて向き合うこと が出来るならば、それは決して不可能なことではないということを、静かに、じっくりと語りかけ る作品で、決して声高に主張することはありませんが、観る者はその言わんとするところを自然に、 心に染み入るようにして受け取ることになります。 また、いたるところに、暗喩に満ちたシンボルとメッセージが散りばめられていて、ここでは映画 の題名ともつながる、主人公家福悠介の愛車赤いサーブについて考えてみたいと思います。 まだ妻を失ったことによる心の傷から立ち直れない悠介は、自家用車を運転しながら、亡くなった 妻が相手役のセリフを吹き込んだテープで、劇のセリフ回しを練習する習慣を続けていて、ある 演劇祭で演出家として呼ばれた時にも、宿泊場所から会場への往復の時間にその習慣を継続する ために、あえてその自動車で現地入りします。 しかし演劇祭側が交通トラブルを避けるために、その期間は指名した運転手に運転させることを 条件にしたために、悠介は止む負えず受け入れることになります。そして、彼と陰のある無口な 若い女性ドライバー渡利みさきとの、亡き妻の音声テープを聴きながらのドライブが始まります。 悠介の赤いサーブの車内は言うまでもなく、妻との思い出が詰まった空間で、そこに紛れ込んだ みさきは最初は部外者ではありますが、彼女に自らの心の傷ともつながる、心配りの行き届いた、 優れた運転テクニックがあるために、悠介とみさきの心は次第に通じ合うようになっていきます。 ラストでみさきが韓国のある土地で、このサーブを運転しながら日常生活を送っていることを示す シーン、彼女ははたしてこの車をもらい受けたのか、あるいは悠介と二人で異国の土地で暮らして いるのか、その答えは示されませんが、彼女が悠介と心を通わせていることだけは確かだと、感じ ました。

2022年4月13日水曜日

井上荒野著 「あちらにいる鬼」を読んで

「夏の終り」で、瀬戸内寂聴(晴美)の若かりし日の奔放な性体験を綴った小説を読んだ時、ふと、 このような不倫関係を彼女の相手の立場から見ると、一体どのような景色が開かれるだろうという、 少々不謹慎な好奇心を持ちました。そこで目に留まったのが、この小説です。 本作は、「夏の終り」に描かれた以降の、彼女と妻子ある作家井上光晴との恋愛関係、彼女の出家 を経ても続いた精神的なつながりを、井上の娘で作家の荒野が描いた小説です。 この小説で作者は、寂聴の分身であるみはる(寂光)と、光晴の妻の分身である笙子の交互の視点 を重ねることによって、物語を進めて行きます。この小説作法は、父親の不倫相手と母の関係を 娘の立場から描くためには、絶妙の距離を生み出していると感じます。 いやむしろ、本書の解説で作家川上弘美が語っているように、みはるという存在を置くことによっ て、作者の父母の不可思議な夫婦関係を娘の視点から解き明かすために、この小説が描かれたと 感じさせます。 井上光晴の小説は、私はまだ読んだことがないので、あくまでイメージの話になりますが、彼は 共産主義運動から出発して、貧しい人、虐げられた人を擁護する、誠実な作品を描いたと言われて います。反面、妻帯後も女性関係にはだらしなく、浮名を流すのは日常茶飯事であったそうです。 この小説では、そんな彼に対する妻の屈折した想いをあぶり出しています。 しかしもう一点忘れてはならないところは、この井上光晴と妻と瀬戸内寂聴(晴美)の三角関係に は、間違いなく文学の問題が介在していることです。この点が同じ三角関係でも、寂聴が「夏の終 り」で描いたころのものとは違う、より複雑で奥深い関係であるように私には思われます。 井上光晴と瀬戸内寂聴の関係は、瀬戸内が井上から小説指南を受けたところから始まりました。 そこから二人は肉体関係に進みますが、それは単に肉欲のみに突き動かされたものではなく、二人 の文学の影響関係にも深く関わるものであったように、私には思われます。 それ故彼女が出家した後も、二人の精神的なつながりは損なわれることはなく、光晴と単に夫婦間 の情愛だけではなしに、文学を介してつながっていた妻も、夫と寂聴の関係は許容することが出来 たのではないでしょうか? もしこの小説に、井上と妻と寂聴の文学を巡る関係がより深く描かれていたら、この作品は更に、 小説に取りつかれた人々の普遍的な物語になったのではないかと、思われてなりませんでした。

2022年4月5日火曜日

中沢新一著「アースダイバー神社編」を読んで

文化人類学者中沢のアースダイバーシリーズは、太古から現在に至る、日本の地形からそれぞれの 地域、場所で営まれて来た人間の社会活動、生活を跡付け、検証する、時空を超えた壮大なスケー ルの読み物で、私はいつも楽しく愛読して来ました。本書はその中でも、神社という日本人の精神 世界の源流を探究することを目指すもので、大きな期待を持ってページを開きました。 私自身特に、市街域ではない自然が残された場所の神社を訪れると、何かただならぬ気配を感じ たり、神秘的な気分に囚われることがあります。それ故神社というものは、人智を超えた特異な 自然の力が表されたところに建立されたものであるということを、おぼろげながら感じて来ました。 本書でも中沢は、代表的な各地の神社の成立史を辿って行きますが、神社の元となる聖地という ものの成立が、文字通り太古の昔にまで遡るものであることから、そのそれぞれの聖地の起源を 考えるということは、日本列島への縄文時代、弥生時代の大陸からの人類の流入について考える ことになります。 縄文時代に大陸から到達した人々はまだ稲作を知らず、狩猟採集の生活を中心としましたが、彼ら が神聖な場所と考える形の良い山があり、その手前に池や川などの豊富な水が存在する地点、豊な 森や巨大な岩を、建築物は造らずそのままの形で、信仰の対象としたといいます。つまり彼らは、 自らの生活スタイルも相まって、人間も自然の一部と考え、その規範の下に生活を営みました。 他方遅れて弥生時代に大陸からやって来たのは、稲作技術を携えた半農半漁の人々で、各地に定着 して、それぞれの場所で生活スタイルを変えながら、しかし稲作農業で余剰生産物を生み出すこと によって自然を改変し、自らの信仰対象の場所に建造物を建立しましたが、実は縄文人と弥生人は 同じ中国南部沿岸地域が起源で、それ故信仰対象のスタイルには共通点があり、縄文人の聖地が 地域によって差異はあるものの、弥生人の聖地ともなり、この重層性の上に、現在ある神社が形 作られたといいます。本書では今日の残る、それぞれの神社の縄文、弥生的な痕跡をも、検証して います。 一昔前には、日本人は単一民族であるということが大きな特徴であるように宣伝されましたが、 人類学を初め学術の発展によって、多様性の中から今日の日本が生まれたことが、次第に明らかに なりつつあります。日本人の同質性の長所は認識しつつも、これからは多様性にも目を向けるべき であるということを、本書は語っていると感じられました。