2022年4月13日水曜日

井上荒野著 「あちらにいる鬼」を読んで

「夏の終り」で、瀬戸内寂聴(晴美)の若かりし日の奔放な性体験を綴った小説を読んだ時、ふと、 このような不倫関係を彼女の相手の立場から見ると、一体どのような景色が開かれるだろうという、 少々不謹慎な好奇心を持ちました。そこで目に留まったのが、この小説です。 本作は、「夏の終り」に描かれた以降の、彼女と妻子ある作家井上光晴との恋愛関係、彼女の出家 を経ても続いた精神的なつながりを、井上の娘で作家の荒野が描いた小説です。 この小説で作者は、寂聴の分身であるみはる(寂光)と、光晴の妻の分身である笙子の交互の視点 を重ねることによって、物語を進めて行きます。この小説作法は、父親の不倫相手と母の関係を 娘の立場から描くためには、絶妙の距離を生み出していると感じます。 いやむしろ、本書の解説で作家川上弘美が語っているように、みはるという存在を置くことによっ て、作者の父母の不可思議な夫婦関係を娘の視点から解き明かすために、この小説が描かれたと 感じさせます。 井上光晴の小説は、私はまだ読んだことがないので、あくまでイメージの話になりますが、彼は 共産主義運動から出発して、貧しい人、虐げられた人を擁護する、誠実な作品を描いたと言われて います。反面、妻帯後も女性関係にはだらしなく、浮名を流すのは日常茶飯事であったそうです。 この小説では、そんな彼に対する妻の屈折した想いをあぶり出しています。 しかしもう一点忘れてはならないところは、この井上光晴と妻と瀬戸内寂聴(晴美)の三角関係に は、間違いなく文学の問題が介在していることです。この点が同じ三角関係でも、寂聴が「夏の終 り」で描いたころのものとは違う、より複雑で奥深い関係であるように私には思われます。 井上光晴と瀬戸内寂聴の関係は、瀬戸内が井上から小説指南を受けたところから始まりました。 そこから二人は肉体関係に進みますが、それは単に肉欲のみに突き動かされたものではなく、二人 の文学の影響関係にも深く関わるものであったように、私には思われます。 それ故彼女が出家した後も、二人の精神的なつながりは損なわれることはなく、光晴と単に夫婦間 の情愛だけではなしに、文学を介してつながっていた妻も、夫と寂聴の関係は許容することが出来 たのではないでしょうか? もしこの小説に、井上と妻と寂聴の文学を巡る関係がより深く描かれていたら、この作品は更に、 小説に取りつかれた人々の普遍的な物語になったのではないかと、思われてなりませんでした。

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