2016年3月31日木曜日

相国寺承天閣美術館「岩澤重夫展ー日本の心を風景に描くー(後期)」を観て

岩澤重夫は日展出品作品をよく観た画家で、私の記憶では2000年頃から
会場の日本画の展示室に赴くと、自然に彼の作品を目で捜すようになって
いたと、思います。

山塊を流れ落ちる滝が印象的で、私が注目し始めるまで、あまたの展示作品に
埋もれて気が付かなかったのは、その頃より彼が、長い画業の中で晩期に至り
ながらなお新境地を開いたと、了解していたことを思い出します。

その岩澤重夫の展覧会が承天閣美術館で開催されると知り、訪ねました。

この美術館は相国寺山内にあり、私が訪れるのは伊藤若冲展以来2回目ですが、
その時は大変な盛況で、観客が美術館の館内から境内まであふれて、山内の
佇まいを見回す余裕もありませんでした。

しかし今回は、私が訪れた時には鑑賞者もまばらで、ゆっくりと境内を見て歩く
ことが出来ました。

私は大学時代を、この相国寺に隣接する同志社大学今出川キャンパスで過ごし
ましたが、今改めて訪ねてみると、都会のただ中にこのような清閑な空間があり、
すぐ目と鼻の先には京都御苑の緑も広がることから、京都が文化環境において
恵まれた地であること、そのような地域に学び舎があったことに、感慨を新たに
しました。

さて岩澤重夫は日展出品作しか観たことがなく、興味を持って会場を巡ると、
画業の予想外の多様さに驚かされました。

師が堂本印象ということで、若い頃の作品には抽象性の高いものも見受けられ
ます。特に、キュビスムやレジェの影響を受けた作品が印象に残りました。

これらの作品は、一見晩年の代名詞ともいえる滝の風景画と180度違うように
感じられますが、実は若い時代のキュビスムの試行が、山塊や樹木、落下する
水の、これまでの日本画には見られなかった存在感の際立つ立体的な描写に
結実して、彼の画業を大成させたのではないか?観ているうちにこんな思いが
浮かんで来ました。

また同様に、最晩年の作、鹿苑寺(金閣寺)客殿の襖絵は、こちらは滝の風景画と
がらりと趣を異にして、余白を多く取った中に可憐な紅白梅と抽象的な桜を
あっさりと描いたものと、墨とプラチナ箔で山水の輪郭だけを描いたもので構成
されていますが、これらも若き日に抽象表現で磨いた技が集大成として最後に
花開いた姿と、感じさせられました。

一通り観終えて、岩澤重夫は若き日からの絵画への挑戦を見事に完遂した、
幸福な画家であったという思いを、強くしました。


2016年3月28日月曜日

加賀玉糸紬の白生地について

先日ある博物館より依頼を受けた、展示物の制作を請け負う業者の方が、
出土した古代の剣を展示するにあたり、それに付着していた絹生地の断片を
復元するための広幅の白生地を探しているということで、三浦清商店にご来店
されました。

お問い合わせの電話の時点では、糸の太い、なおかつフラットな生地ということ
なので、塩瀬の広幅をお勧めしていましたが、ご来店時に付着した布の写真を
見せて頂くと、塩瀬のように目が詰まった織組織のものではなく、もっと素朴な
表情を有する生地でした。

それで以前に、古代の染色を研究する専門家の方が、東大寺創建にまつわる
記念祭が奈良で開催されるに合わせて、当時の衣装を復元するために、この
生地が現存する織物の中では往時のものによく似ていると言って、当店の
白山紬をご購入頂いたことを思い出して、白山紬よりさらに織表面に表情が
ある玉糸紬をお勧めしました。

白山紬は現在では、経糸が生糸、緯糸が双子の蚕の繭から作る玉糸で
織られていて、緯糸に太さの不均一な糸が使用されるので、織物表面の横
だけに節がある生地となっています。

それに対して玉糸紬は、経糸、緯糸に玉糸を使用しているので、それだけ
織るのに手間はかかりますが、縦横に節があって、表情のある生地になります。
かつての白山紬はこの玉糸紬に近いもので、それゆえ特に現在でも玉糸紬の
風合いを好まれる染色家の方があって、当店ではこの紬の広幅を別織して
います。

今回のお客さまも、結局この紬を使って頂くことになって、満足げな表情を
しておられたので、私としてもほっとしました。

2016年3月25日金曜日

京都文化博物館「創立70周年記念 京都工芸美術作家協会展」を観て

京都工芸美術作家協会は、京都を中心に活動する工芸美術作家の会派を
超えた作家団体ということで、その70周年記念展が京都文化博物館で
開催され、ご招待も頂いたので観に行って来ました。

私が観つけている染織を中心に、会場を巡ったのですが、この展覧会は
上述のように、日頃は別々の会派に属して作品発表を行っている各々の
作家が、一堂に会して作品を展示しているということで、作家の作品傾向の
比較を通してそれぞれの会派の特色が明らかになったり、あるいは、他の
会派の作家作品への対抗意識から、特定の作家の作品に、良い意味での
化学反応と言っていいような意外性が生まれるところなどが、興味深く感じ
られます。

例えば、日展系の作家作品は総じてアート的な感覚を重視する、奔放で
大胆な傾向が見られ、対して伝統工芸系は制作技術を優先する手堅く、
硬質な印象を受けます。また新匠工芸会系は実際の需要に則して
デザイン性の重視や、時々の嗜好に敏感であるように感じられました。

その上で、ある作家は日頃染色パネルの平面作品で発表している同じ
制作技法で、今展では着物作品を発表して、新たな魅力を発散させて
いたり、同じパネル作品でも日頃の傾向に一ひねりを加えて、違う趣を
演出していたり、あるいは、色使いなどに常とは違う遊び心が垣間見える
など、他流試合を観る楽しみがありました。

ともかく、京都の工芸美術の多様さ、層の厚さを改めて確認させてくれる
展観でした。

2016年3月23日水曜日

漱石「夢十夜」第八夜を読んで

2016年3月18日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「夢十夜」108年ぶり連載
第八夜では、床屋を訪れた主人公が、何とも不思議な体験をします。

「自分は茫然としてこの女の顔と十円札を見詰めていた。すると耳の元で
白い男が大きな声で「洗いましょう」といった。丁度うまい折だから、椅子から
立ち上がるや否や、帳場格子の方を振り返って見た。けれども格子のうち
には女も札も何にも見えなかった。」

夢の中らしく、超現実的な光景です。まるでデ・キリコやバルテュスの
シュルレアリスム絵画を眺めているような、不思議な気分が味わえます。

考えてみると、鏡とは私たちの身近にありながら、何かの拍子に不可解な、
あるいは不気味な気配を感じさせる存在です。

鏡の像はありのままを映しているのに、覗き込んでいる我々の感覚としては、
左右逆に認識される。そこに謎めいたものが、生まれるのでしょうか?

また鏡は、その枠内に存在するものは余すことなく忠実に映し出すけれども、
その枠からちょっとでも外れたものは、全く映さない。それを見ようとすれば、
鏡を覗く人間が視点をずらして、無理に窺うように視線を向けなければ
なりません。

そしてその行為にも、自ずと限界があります。だからこの主人公のように、
床屋で椅子から身動き出来ない時に、鏡から確認出来る範囲の外で、何か
気になることが起こっていたら、さぞ気掛かりなことでしょう。

人間のふとした心の綾を描いた、面白い短編です。

2016年3月20日日曜日

鷲田清一「折々のことば」341を読んで

2016年3月16日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」341では
正岡子規の「病牀六尺」から、次のことばが取り上げられています。

 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。

子規がそのように語る時、その言葉には随分説得力があります。彼は、重い
脊椎カリエスで病床に伏しながらも、死の数日前まで、驚くほどの冷静さと、
客観的な視点で、自身が関心を持つ様々な事象について、随想を残しました。

「病牀六尺」は読んでいて、彼の置かれた状況を推測すると、その並外れた
精神力、生への執着に、震撼とさせられます。

でもその感慨は、無論誤解を招かないように言えば、見苦しさに対するような
ものではなく、逆に達観した潔さ、清々しさを催させるものです。つまり、運命を
ねじ伏せ、死をも蹴散らそうとしているかのよう、とでも言いましょうか。

そのために子規は、驚異的な食欲を示したといわれます。もちろん親の介護も
経験した今の私には、彼が重病人にも関わらずそのような健啖家で、わがままを
尽くし、世話をする家族に随分負担を強いたことを考え合わせると、彼の負の
部分にも思いを致さずにはいられません。

しかしそれでも、この死という人間の運命をある意味突き抜けた彼のことばが、
私たちの心に確かに刻印されて、つらい時や、苦しい時に、勇気を与えて
くれるに違いないと感じさせられます。人の生き様を反映した重いことばは、
そのような力を持つのでしょう。

2016年3月17日木曜日

漱石「夢十夜」第五夜を読んで

2016年3月15日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「夢十夜」108年ぶり連載
第五夜に、主人公の囚われた古代の戦士に一目会うために、懸命に白馬を
駆る愛する女が、突然の悲劇に見舞われる様子を記する、次の文章が
あります。

「こけこっこうと鶏がまた一声鳴いた。 
 女はあっといって、緊めた手綱を一度に緩めた。馬は諸膝を折る。乗った
人と共に真向へ前へのめった。岩の下は深い淵であった。」

まるでシュールレアリスムの不条理映画を観ているかのように感じさせる、
短編です。

映像が目の前に浮かんで来るような臨場感があり、そして突然断ち切る
ごとくに物語が終わる。

実際の夢も往々に、そんな結末を迎えるものだけれども、私は話のなりゆき
から、戦士と愛する女の涙ながらの抱擁を望んでいたのかもしれません。

結末には見事に裏切られましたが、そこから様々に想像される’その後’に
対する余韻が立ち上がって来ました。

いわく、もし死後の世界があるのなら、男と女はすぐにあの世で巡り合う
ことが出来る。ここで女が死んだことは無駄ではない。

だがそんなものは決して存在しないなら、戦士は女の不実を恨み、女は
戦士に会えない無念を心に秘めて息絶えることになる。

しかし女を乗せた白馬の蹄の跡が岩に刻み付けられている間は、彼女を
陥れた天探女が敵であるとは、結局はこの戦士は死を免れるのか?

謎は多いけれども、魅力的な短編です。
 

2016年3月15日火曜日

辻邦生著「嵯峨野名月記」を読んで

豊臣から徳川へと政権が移る激動の慶長年間末期に、京都で王朝風の優雅な
木活字版本、いわゆる嵯峨本の制作に力を尽くした、角倉了以の子素庵、
本阿弥光悦、俵屋宗達の魂の遍歴と触れ合いを、三者の独白体の詩的な文章で
綴った書です。

若い頃の著者の「背教者ユリアヌス」に熱狂した私が、いつか読もうと買い置いて
いた本を、丁度琳派400年で光悦、宗達、の作品を多く観る機会があったことを
契機として、三十数年ぶりに本棚から取り出して読み始めたものです。

まず、これも今日ではほとんど見かけなくなった外箱から本を抜き出すと、渋い
茶色の紬様の布地で装丁され、背には美しい銀の文字で、作品名、著者名が印字
されていて、生地の販売に携わる私としては、大いに感激しました。手に持った
時の感触を大切にする本、書の内容が材質的な面にまで装丁に反映されている
丁寧な作りの本を、近頃はなかなか目にすることがないので、合理化という意味
での出版文化の移り行きを改めて思いました。

さて本書が扱う時期は、武家が激しく覇権を争う時代でしたが、同時に都では
経済の発展によって町衆が力を付け、それを背景として華やかな文化が花開く
時代でもありました。

本書の主人公の一人である光悦は、家業が刀剣の研磨、鑑定であるだけに、
武家との交流も深く、覇権の変転に強い影響を受けることになりますが、人生経験
を通して世の荒波を俯瞰する視点を獲得するに至り、それがひいては嵯峨本を制作
するための美意識、流麗な書体を完成させることになります。

宗達は平家納経経典装飾画」の修復に携わることによって、あるものをそのままに
描くのではなく、心に起こる感興を絵として表現するすべを身に付け、嵯峨本の
優美を根底から支える料紙下絵を完成させるに至ります。

素庵は父了以から継承すべき偉大な事業と自らの学問への情熱の間に、常に
引き裂かれながら、書籍への執着を形にするかのように嵯峨本刊行に取り組みます。

本書はあくまで、著者辻邦生が造形したこの美に取り付かれた三人の姿ではあります
が、折しも彼らの残した素晴らしい作品を観ていると、時代背景も踏まえて、このような
精神的なドラマが展開された可能性を十分に実感させます。

それは優れた芸術作品が観る者に雄弁に語り掛けることの証左であり、その語り
掛けるものをこのような優美な物語に形作る、著者の筆力であると言えるでしょう。

2016年3月13日日曜日

鷲田清一「折々のことば」336を読んで

2016年3月11日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」336に
八木重吉の詩編「秋の瞳」の中の、「雲」という短詩のことばが取り上げ
られています。

 くものある日 くもは かなしい
 くものない日 そらは さびしい

ちょうど東日本大震災の発生から5年が経ったその日の、「折々のことば」です。


私は若い時には折に触れて空を見上げて、浮かぶ雲に自らの心境を重ねたり、
天上に展開される折々の景色に情緒をかきたてられたり、したものでした。

その頃のことを思い返すと、澄み渡った青空に一片だけ浮かぶ、かわいらしく、
頼りなげな雲は、往々にしばらく見ているうちに忽然と姿を消してしまって、私は
人生のはかなさや、大自然の中での人という存在のちっぽけさを、感じさせられ
ました。

でも雲一つない、一面に晴れ渡った青空を見ていると、逆にどこかに、かすかでも
雲の痕跡はないかと、目で捜している自分に気づくことがありました。

大自然の人智を超えた、有無を言わせぬ荘厳さ、雄大さ、その中では生命という
存在は、所詮はかないものだけれども、そこに確かにあることによって、もしそれが
存在しなければ冷徹一辺倒の世界に、何らかの温もりを与えているのではないか?

このことばを読んで、そんなことを考えました。







2016年3月10日木曜日

漱石「夢十夜」第一夜を読んで

2016年3月9日から、朝日新聞朝刊で夏目漱石「夢十夜」108年ぶり連載が
スタートしました。この作品は、「こんな夢を見た。」で始まる十篇の短編から
成る小品で、のっけの第一夜より、私は作品世界に引き込まれました。

「と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、
ふっくらと瓣を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ
遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。
自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花瓣に接吻した。」

発表当時の新聞への連載順としては、「三四郎」「それから」そして「こころ」
へと連なる、それぞれの片りんを彷彿とさせるところのある短編です。

というのは、「三四郎」の広田先生の夢に通底するロマンチックな詩情があり、
「それから」の代助と三千代の恋情の交歓をつなぐのと同じ、白い百合が
登場し、「こころ」の先生の墓参を連想させなくもない、死者の見守りが
行われるからです。

もしかしたら、夢という形で、漱石の小説創作のためのヒントの見つけ方が、
提示されているのかもしれません。

私は百年後白百合として再生する女は、美への憧憬の象徴であるに
違いないと感じました。決して容易には手にすることが出来ないもので
あっても、永遠に近い時間焦がれ、忍従をもって信じ、待ち続ける時、
再び美はその相貌を現せてくれることがある。それは創作者としての
漱石の固く信じるところではではなかったか、と私は思うのです。


2016年3月8日火曜日

小栗康平監督 映画「FOUJITA」を観て

芸術の国フランスでエコール・ド・パリの画家として人気を博し、一転戦時下の
日本に帰国して、「戦争協力画」を描く中心的画家として絵筆を振るった、
藤田嗣治(レオナール・フジタ)のそれぞれの時代を描く、日仏合作映画です。

小栗康平監督の映画を観るのは、実に名作「泥の河」以来です。「泥の河」でも
監督は決して声高には語らず、主人公の少年を中心として、その時代を生きる
人々の情感の流れ出るままに任せるのですが、本作でも主人公藤田は、
寡黙に一種喧騒と狂気の時代に身をゆだねているようです。

私は以前から藤田に興味があり、回顧展を観たり、評伝を読んだりしている
ので、彼の生涯については、ある程度の予備知識を持っているつもりで
いました。

しかし本作では、時々の彼の心の有り様を描くことを極力抑制しているので、
主人公になかなか感情移入することが出来ませんでした。その戸惑いは終始
あって、結局中途半端な心の状態のまま映画は終わりました。

それでは監督の描きたかったものは何かと、その全編随所にちりばめられた
美しい映像から推し量ると、情景のコントラストがことさら強調されていることに
気づかされます。

パリの場末のうらぶれた、しかし情緒ある佇まいと、日本の農村地帯の山水画を
思わせる情景。パリの室内空間のシックで落ち着いた彩りと、日本の田舎家の
温かい闇に満たされた空間が、囲炉裏の火に仄かに浮かび上がる情景。

あるいは、パリの藤田主催のパーティーでの、仲間がとりどりに奇抜な仮装を
して騒ぎまわることによって生じる幻想的なシーンと、戦時下日本の農家に
寄宿する彼が幻視する、キツネの映像の登場するシーン。

つまりそれぞれの地で、彼は自分の絵が認められるためなら、絵の技量の
向上は言うに及ばず、その場に相応しい人間になり切るところがあり、それゆえ
文化環境がまったく異なる地でも、画家としての才能を開花させることが出来た
のではないか?

しかしその代償として、彼はアイデンティティーの喪失に苦悩することになります。
そんな藤田の姿が浮かび上がって来るように感じられます。

しかも彼を画家として、そのように振舞う決意を固めさせた原点は、彼が
クリュニー中世美術館で観た「貴婦人と一角獣」のタペストリーで、そのヨーロッパ
美術の圧倒的な存在感と完璧さが、彼をしてその地で身を立てるためには
それまでの自分の全てを捨て去らなければならないと、覚悟させたのだと感じ
ました。

少々うがった見方かもしれませんが、この映画の主人公にそのような姿を重ね
合わせました。

2016年3月6日日曜日

漱石「門」を読み終えて

朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」の105年ぶり連載は、3月3日付け(第104回)で
終わりました。

劇的な物語の展開もなく、終始ゆったりとしたペースで話が進み、主人公たちの
心に少しの波風が立って、根本的な解決には至らないまでも、とにかく一応の
落ち着きを取り戻し、元の鞘に収まった。読み終えてそんなイメージが残りました。

しかしこの小説が私の心を捉えるのは、誰の人生にも大なり小なりの物語があり、
それにつれて喜怒哀楽に心をかき乱されながら、それでもなお生き続けなければ
ならないという真実を、含蓄のある、滋味あふれる文章で描き出しているからだと、
思います。

私は「門」を読み終わった時、ついつい、先に連載された「こころ」と比較してしまい
ました。というのは、「門」の主人公宗助も「こころ」の先生も、同じく女性を巡って
友人を裏切るからで、前者が友人への罪の意識に苛まれながらも生き続ける
ことを選び、後者がついに良心の呵責に耐えきれず、自ら死を選ぶという結末が、
そっれぞれの作品のトーンを決定しているように感じるからです。

それぞれの小説が執筆された時期は前後するのですが、私は「こころ」を読んだ時、
先生の心の動きと行動は、余りにも理不尽と感じました。しかし宗助の安井を
巡る動揺には、人生はままならないものという意味で共感を覚えました。

漱石は、自分の思うようにならない人生というものの意味を突き詰めて行って、
先生の潔癖すぎる境地に至ったのか?あるいは、彼の生きた明治という時代の
帰結が、先生の自裁という結末を求めたのか?

私にはよく分かりませんが、少なくともこの二作品を読むことによって、人生という
ものに対する思いが、深まったように感じました。

2016年3月4日金曜日

漱石「門」における、禅寺を辞去するにあたっての宗助の感慨

2016年2月26日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第百回)に、いよいよ修行に訪れた禅寺を去る日、宗助がとうとう悟りを得る
ことが出来なかった自らの参禅体験を振り返る、次の文章があります。

「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。
要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人で
あった。」

ゆるやかに淡々と話が進んで来た、この作品のクライマックスシーンで
あると、私は感じました。

安井の出現という幻影に怯えて、彼は現実を逃避してともかくの安息を得ようと、
禅寺に逃げ込みました。しかし近代的な懐疑や、自我に邪魔をされて、悟りの
端緒さえつかむことが出来ませんでした。

修行を始めてからの彼は、宜道の恩義に報いるためにも、何とか悟りを
開こうと焦っていました。その思いは、予め決められた山を下りる日が近づくに
つれて、彼を責め立てました。

しかし、ついにその日がやって来た時、宗助は自身の来し方、行く末を、
あたかも高い山から鳥瞰するような透徹した目を獲得するに至りました。それに
従って自らの性分、立場を、ある種の諦めを持って受け入れる余裕を獲得する
ことになったのです。

これも彼にとっての一種の悟りではないか、私はそのように感じました。

2016年3月2日水曜日

龍池町つくり委員会 26

3月1日に、第44回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

今回は、2月28日に開催された杉林さんのカルタプロジェクト「マンガ家さんと
一緒にカルタをつくろう」の結果報告を踏まえて、話し合われました。

私は残念ながら参加出来なかったのですが、当日は子供約30名、関係の
大人を含めると約50名の方に集まっていただいたということです。

この催しで子供たちが色を塗ったカルタは近々完成し、当委員会でもこれから
活用出来るということですが、プロジェクトはこれで終了するのではなく、
カルタを描くマンガ家の方々も含め、よりカルタの内容を充実させるために、
カルタの題材となる場所や対象を訪問、あるいは見聞して、より完成度の
高いものにして行こうということが、確認されました。

またカルタに描かれた場所を、実際にカルタを制作する子供たちと訪れたり、
内容を実感させるための体験をしてもらうなど、スタンプラリーとジョイントした
催しも企画したらどうかという提案も、杉林さんから出されました。

この催しへの参加者を募る手段として、今回初めて広報誌土曜塾と中京新聞に
案内の記事を掲載依頼したのですが、予想以上に反響が大きかったので、
今後も折に触れて活用しようということで、全員のの意見が一致しました。カルタ
プロジェクトは、さらなる広がりが期待されます。

2015年度の活動はこれで終了して、2016年度の計画は、4月に大原学舎での
花見、夏には鷹山囃子方の方々の協力を得て、浴衣を着て祇園祭を楽しむ
企画、秋にはスタンプラリー、お正月はきもの茶話会と、行事の大枠が
ほぼ確定しました。