2016年3月16日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」341では
正岡子規の「病牀六尺」から、次のことばが取り上げられています。
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。
子規がそのように語る時、その言葉には随分説得力があります。彼は、重い
脊椎カリエスで病床に伏しながらも、死の数日前まで、驚くほどの冷静さと、
客観的な視点で、自身が関心を持つ様々な事象について、随想を残しました。
「病牀六尺」は読んでいて、彼の置かれた状況を推測すると、その並外れた
精神力、生への執着に、震撼とさせられます。
でもその感慨は、無論誤解を招かないように言えば、見苦しさに対するような
ものではなく、逆に達観した潔さ、清々しさを催させるものです。つまり、運命を
ねじ伏せ、死をも蹴散らそうとしているかのよう、とでも言いましょうか。
そのために子規は、驚異的な食欲を示したといわれます。もちろん親の介護も
経験した今の私には、彼が重病人にも関わらずそのような健啖家で、わがままを
尽くし、世話をする家族に随分負担を強いたことを考え合わせると、彼の負の
部分にも思いを致さずにはいられません。
しかしそれでも、この死という人間の運命をある意味突き抜けた彼のことばが、
私たちの心に確かに刻印されて、つらい時や、苦しい時に、勇気を与えて
くれるに違いないと感じさせられます。人の生き様を反映した重いことばは、
そのような力を持つのでしょう。
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