2016年2月26日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第百回)に、いよいよ修行に訪れた禅寺を去る日、宗助がとうとう悟りを得る
ことが出来なかった自らの参禅体験を振り返る、次の文章があります。
「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。
要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人で
あった。」
ゆるやかに淡々と話が進んで来た、この作品のクライマックスシーンで
あると、私は感じました。
安井の出現という幻影に怯えて、彼は現実を逃避してともかくの安息を得ようと、
禅寺に逃げ込みました。しかし近代的な懐疑や、自我に邪魔をされて、悟りの
端緒さえつかむことが出来ませんでした。
修行を始めてからの彼は、宜道の恩義に報いるためにも、何とか悟りを
開こうと焦っていました。その思いは、予め決められた山を下りる日が近づくに
つれて、彼を責め立てました。
しかし、ついにその日がやって来た時、宗助は自身の来し方、行く末を、
あたかも高い山から鳥瞰するような透徹した目を獲得するに至りました。それに
従って自らの性分、立場を、ある種の諦めを持って受け入れる余裕を獲得する
ことになったのです。
これも彼にとっての一種の悟りではないか、私はそのように感じました。
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