2022年1月29日土曜日

「鷲田清一折々のことば」2258を読んで

2022年1月10日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2258では 作家ジャン=ジャック・リュブリナの『哲学教師ジャンケレヴィッチ』から、この作家の の哲学の師であるジャンケレヴィッチの次のことばが取り上げられています。    秩序が暴力であるというのは、まさに自らの    正体を隠して人々を安心させ、優しく、静か    に、陰険に麻酔を注入しているからだ。 秩序に暴力が潜むということは、今回のコロナ禍でも、端的に示されたと感じます。 なぜなら、新型コロナウイルスが蔓延し、国民に行動制限が求められた時、国家や行政機関 が果たして、どのような方法でこれを働きかけたかということによって、国民の自由度や 社会秩序への意識が計られ、国家が秩序を維持するために取る強権的な姿勢の度合いが分か ると、感じるからです。 民主主義的な国家の、コロナ感染症に対する国民への働きかけを比較しても、報道で見る 限り例えばヨーロッパでは、初期の段階でマスクの着用やロックダウンが、罰則を伴って 強力に実施されましたが、コロナ禍が続く中で、ワクチン接種が進むに伴って、マスクの 着用義務や飲食店の営業制限は、早い段階で解除されたように感じられました。 これは、国民の行動制限について、国家が短期間に集中して実施し、その後は国民の自由意志 を尊重しようという方針で、取り組んでいるということの現れではないかと、思われました。 つまり、秩序維持のために、素早く強権を発動して、その後速やかに国民の自由意志にゆだ ねるというスタンスを取ったように感じました。 それに対して日本では、最初はなかなかお願いという方法でしか行動制限がかけられず対策が 後手に回り、しかしその後同調圧力が強い国民性もあって、行動制限が比較的良く守られて、 他国に比べて新型コロナ感染者数も、少な目に推移しているように感じられました。 このように、国民性や個人の自由に対する意識等によって、各国の対策や国民の受け止め方 には差異がありますが、新型コロナ感染症の蔓延という非常事態において、社会秩序の維持 にはある程度の強制、つまり隠れた暴力が必要ということでしょう。 このことは、強権的な体制の国家においてより端的に示され、そのような国においては、今回 の感染症がより制御されていることからも明らかでしょう。私たちはこの事実を前提として、 秩序について考えなければならないのでしょう。

2022年1月25日火曜日

福岡伸一著「生命海流 GALAPAGOS」を読んで

ダーウィンが『進化論』の端緒をつかんだガラパゴスは、自然科学好きには一度は行って みたい場所です。しかもその魅力溢れる場所を、かの『動的平衡』の福岡伸一先生が訪れ て、探検記を著すとなると、これは是非読まずにはいられなくなります。 さて、先生の目を通して見るガラパゴスは、やはり魅力に満ちています。しかし単なる 旅行記とは違うところは、先生が冷静で客観的な科学者の視点を持ち合わせていることで、 そのおかげで本書も、凡百の観光書と趣を異にしています。 まずその記述の中の、ダーウィンのガラパゴス諸島訪問時のビーグル号の航路を、出来る だけ再現するために先生が乗船した、マーベル号での日常生活に目を向けると、厳格な 環境保護規制とこの島々の地理的条件により、諸島を巡る船舶のサイズは自ずと制限され ていて、それゆえに先生は、都会生活では考えられない窮屈で不便な生活を、強いられる ことになります。 これも探検の一側面、その制限された船内生活の中で、専属料理人の美味しい食事に疲れ を癒され、そして何より、ガラパゴスの圧倒的な自然の姿に感動させられ、知的好奇心を 掻き立てられます。そのコントラストをなす記述が、心地よかったです。 ガラパゴスの自然環境と、その中に生息する他の地域とは極端に異なる生物について、 我々一般人は進化の袋小路、成れの果てのイメージを持っています。いわゆる携帯電話の ガラパゴス化という言い方が、そのことを端的に表しています。 しかし福岡先生の科学的知見によると、詳述は避けますが、この島々は生物進化の最前線 の場所で、今まさに進行している進化が、手に取るように見えるといいます。この記述も、 この場所の魅力を余すところなく伝えています。 最後に私の一番印象に残っているのは、最終章サンティアゴ島の章で先生が語る、ガラパ ゴスの動物が人間を恐れないことの理由の見解で、先生は、ガラパゴスの動物はその生存 環境に外敵が少なく、余裕を持って生活出来るために、動物が本来持っている、生命と しての知的好奇心が前面に押し出されているためではないか、と語っている部分です。 この記述は、福岡先生自身の生命への信頼と共感を私たちに伝えると共に、生命活動の 本質を現わしているように、私には感じられました。

2022年1月19日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2234を読んで

2021年12月16日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2234では フランスの哲学者ミッシェル・セールの『五感』から、次のことばが取り上げられています。    唇のまわりに、文化が横たわっている。 考えるとは、ものごとを吟味すること、つまり味わい分けることで、そもそもホモ・サピエンス は、語源をたどれば「味わう人」を意味するそうです。 このことは、浅学にして知りませんでしたが、確かに人間の五感の中でも、味覚は視覚と共に 最も日常生活の中で、自覚的に働いている感覚であるように感じられます。 そして視覚は、目の前の情景が意識しなくても、勝手に眼球の中に飛び込んでくるのに対して、 味覚は私たちが意識的に口に運んだものを味わうという点で、能動的な感覚であると、感じ ます。 だからそれだけ、危険なものを飲み込まないためにも、慎重な善悪、良否の判断を要求される 感覚であると思います。そしてそれ故に、味わうことは考えることなのだと、この文章を読んで 感じました。 我々は仕事や、日々の暮らしの中で、ついつい直感的に、あるいは先入観や惰性で、ものごとの 善し悪しや、些細な決定事項を判断することがあり、その結果後で考えると、もっと良い評価や 選択の方法があったのではないかと、自省させられることがあります。 そういう点でも、ものを口に入れて味わうように、いつも慎重に物事を評価、判断することが 必要であると、反省させられました。

2022年1月12日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2222を読んで

2021年12月3日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2222では 元ドイツ初の女性首相アンゲラ・メルケルの講演集『わたしの信仰』から、次のことばが 取り上げられています。    謙虚とは無気力の謂いではなく、無限を知った    ことから生まれるポジティブで、希望に溢れ    て生を形成する感覚です。 私も、謙虚であるということは、非常に大切であると考えていて、信念の人であると思わ れるこの元ドイツの女性首相から、このことばが出たことに、感銘を受けました。 というのは、人が謙虚であるということは、自分の考えに固執せず、更には過ちを素直に 認めることによって、柔軟で外に開かれた感覚や思考法を身に付けることであり、そう することによって初めて、誤りのない正しい判断や選択が出来る、と感じるからです。 あるいは、謙虚な態度や言葉遣いで人に接するということは、相手を尊重することになり、 相手からもこちらに、敬意を持った対応を引き出すことが出来ます。そうすれば、互いに より踏み込んだ関係を築きやすい、とも感じるのです。 但し、謙虚が卑屈に転化してしまうと、それは限りない譲歩や自己嫌悪、自信の喪失に 自らを追い込んでしまうので、そこは注意しなければならない、と思います。 要するに謙虚であるとは、自分自身には信念や自信を持ちながら、他者に敬意を持って 相手の話を聞き、物事に向き合うことであると、私は思います。

2022年1月8日土曜日

吉本隆明著「夏目漱石を読む」を読んで

私が本書を読むきっかけになったのは、私も折に触れれて読んで来た漱石の作品を、吉本が どのように読み解くのかを、知りたいと思ったからです。そして実際に読み終えて、私が 漱石の一連の作品を読む中で感じた、わだかまり、ジレンマへの一つの解を与えられたと いう意味において、十分期待に応えるものがあったと感じました。 それは漱石の小説の中に頻出する、親しい男性二人と一人の女性を巡る三角関係に関わる ことで、その典型を示す後期の作品「こころ」では、主人公先生が、同じ下宿に一緒に暮ら す親友Kが下宿の女主人の娘に恋情を抱いていることを知りながら、結果的に彼を出し抜い て、その娘との結婚の約束を女主人と結んでしまう場面で、元から娘に好意を持ったのは 先生が先で、そのことを告げないままにKから彼女が好きだという告白を聞き、かえって 自分はKに打ち明けられなくなって、挙句に抜け駆けをして、その後自殺したKに対して一生 涯、罪の意識を抱くことになる、というものです。 この筋を読んで私は、なぜ先生はKの告白を聞いた時、自分もこの娘が好きであることを 相手に告げられなかったのかと、大変じれったさを感じました。また先生が下宿の女主人に 娘との結婚の許可をもらうまでには、幾度もKにことの経緯を話す機会がありました。更に はこの事件をきっかけに、数十年後先生が自らの命を絶つことも、不可解でした。 それに対して、漱石がこのようなストーリー展開を生み出す前提として、吉本は、漱石が 幼少期に二度も里子に出されるという、過酷な人生体験をしたこと、そのような幼児体験も 起因となって、パラノイア体質を抱えていたこと、を挙げています。 そして漱石の描くこのような男女の三角関係の特徴が、西洋の小説に描かれる三角関係と 著しく異なるところに、明治以降の急速な近代化によってもたらされた、日本人の自我の 形成の特殊性が端的に示される、と語っています。 この日本人の自我形成の不完全さや、個人の意識の確立の不十分さは、今日に至る日本人 の気質の欠点を示すものでもあり、それゆえ、そういう問題をすでに明治時代に題材と した漱石が、今なお多くの人々に読み継がれる要因かも知れません。

2022年1月4日火曜日

「鷲田清一折々のことば」2236を読んで

2021年12月18日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2236では 孔子の『論語』巻第一・爲政第二から、次のことばが取り上げられています。    不知爲不知、 是知也、 訳すと「知らないことは知らないこととする、それが知るということだ」ということだ そうです。 知らないことを、わざと知ったかぶりすることは言うに及ばず、知らないという自覚や 認識がないことに気づくことも、大いに知の世界を広げてくれる。 考えてみれば、ある物事を深く知るということは、まだ十分には知らないということに 気づくことの繰り返しではないか?私にはそう思えて来ます。 まず、初歩的なことを知り、それからまだ少しのことを知っているに過ぎないことに 気づき、更にそこから先を知って、そこでなお自分の知識が生半可なものであることを 自覚して、より深く知ろうとするというように・・・。 つまり、物事を知るためには、対象に謙虚に向き合わなければならず、それなくして 知識の深まりはない、ということです。 つまり、偏狭にならず、物事を大枠で捉えようとする、客観的で寛容な思考態度と、 自分の知識の乏しさや限界に対して謙虚である思考姿勢が、本人の知ることへの意欲を 高め、知識、知恵を深めるのではないでしょうか? 私はこのように考え、自分の知を鍛えるということに、取り組んで行きたいと思います。