2022年1月8日土曜日

吉本隆明著「夏目漱石を読む」を読んで

私が本書を読むきっかけになったのは、私も折に触れれて読んで来た漱石の作品を、吉本が どのように読み解くのかを、知りたいと思ったからです。そして実際に読み終えて、私が 漱石の一連の作品を読む中で感じた、わだかまり、ジレンマへの一つの解を与えられたと いう意味において、十分期待に応えるものがあったと感じました。 それは漱石の小説の中に頻出する、親しい男性二人と一人の女性を巡る三角関係に関わる ことで、その典型を示す後期の作品「こころ」では、主人公先生が、同じ下宿に一緒に暮ら す親友Kが下宿の女主人の娘に恋情を抱いていることを知りながら、結果的に彼を出し抜い て、その娘との結婚の約束を女主人と結んでしまう場面で、元から娘に好意を持ったのは 先生が先で、そのことを告げないままにKから彼女が好きだという告白を聞き、かえって 自分はKに打ち明けられなくなって、挙句に抜け駆けをして、その後自殺したKに対して一生 涯、罪の意識を抱くことになる、というものです。 この筋を読んで私は、なぜ先生はKの告白を聞いた時、自分もこの娘が好きであることを 相手に告げられなかったのかと、大変じれったさを感じました。また先生が下宿の女主人に 娘との結婚の許可をもらうまでには、幾度もKにことの経緯を話す機会がありました。更に はこの事件をきっかけに、数十年後先生が自らの命を絶つことも、不可解でした。 それに対して、漱石がこのようなストーリー展開を生み出す前提として、吉本は、漱石が 幼少期に二度も里子に出されるという、過酷な人生体験をしたこと、そのような幼児体験も 起因となって、パラノイア体質を抱えていたこと、を挙げています。 そして漱石の描くこのような男女の三角関係の特徴が、西洋の小説に描かれる三角関係と 著しく異なるところに、明治以降の急速な近代化によってもたらされた、日本人の自我の 形成の特殊性が端的に示される、と語っています。 この日本人の自我形成の不完全さや、個人の意識の確立の不十分さは、今日に至る日本人 の気質の欠点を示すものでもあり、それゆえ、そういう問題をすでに明治時代に題材と した漱石が、今なお多くの人々に読み継がれる要因かも知れません。

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