2017年7月28日金曜日

細見美術館「驚きの明治工藝」を観て

我が国の明治期以降の近代美術については、洋画、日本画の展覧会は折に触れて
催され、現代でも人気のある絵画も多く存在します。しかし工芸については、今まで
あまり紹介されることがなく、従って私も、あまり注目することがありませんでした。
その明治期の工芸品の秀作を展観する展覧会が開催されるということで、足を運び
ました。

まず驚かされたのは、本展の展示品が全て、台湾の宋培安という一人のコレクターに
よって蒐集されたものであるということで、明治期の我が国の工芸品が輸出を主眼に
制作されたことの証左でもありますが、江戸期の日本絵画をまとまった形で蒐集した
外国人コレクター同様に、異国の地に我が国の美術品をこよなく愛する人々が存在
することを、嬉しく思いました。

さて本展の第1章写実の追求ーまるで本物のようにーの最初に展示されているのは、
自在置物という作品たちで、これは鉄、銀などの金属を加工して動物、昆虫などを
制作し、一見本物と見まがうような外見を有し、しかも部品の組み合わせ方などに
工夫を凝らし、様々なポーズを取ることが可能なように作り出された置物です。

質感は金属でありながら、あまりにも本物そっくりなので驚かされますが、例えば蛇の
置物は、とぐろを巻き、鎌首を持ち上げる姿態や、体をくねらせ今まさに前進しようと
しているポーズを取ることが出来ます。本展では会期中に展示替えならぬポーズ替え
を行って、この様子を分かりやすく示すといいます。

また自在置物のもう一つの特徴は、実在の生き物だけではなく、龍、鯱の架空の
生き物も制作されていることで、これらの作品は精巧であるだけに、ロマンやユーモア
を感じさせてくれます。

自在置物を制作するための高度な技術が、江戸期以前の甲冑制作などの技術の
蓄積によって培われたことは、この明治期の工芸品が伝統の継承の上に生み出された
ことを示し、またそれ以前の工芸品の制作者にはあまり写実の意識がなかったという
事実は、自在置物が明治以降に西洋から流入して来た価値観に強く影響を受けている
ことを示しているでしょう。これらの工芸品は、我が国の明治期に生まれるべくして
生まれた作品だと、感じました。

他に写実と繊細さを兼ね備えた木彫作品。また第2章技巧を凝らすーどこまでやるの、
ここまでやるかーでは、陶芸、七宝、金工、漆芸などに微に入り細を穿つ技が認められ、
さらに天鵞絨友禅では、伝統技法に西洋的な美意識を融合させようとする工夫を、感じ
ました。

私の工芸観をある意味で転換させる、驚きの連続でした。
                                      (2016年12月11日記)

2017年7月26日水曜日

鷲田清一「折々のことば」819を読んで

2017年7月21日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」819では
フランスの美学者ミケル・デュフレンヌの「眼と耳」から、次のことばが取り上げられて
います。

 耳と眼はいずれも・・・・・流儀は異なっているにしても、距離をおいた触覚の器官で
 ある。

このことばを読んで、私は何か腑に落ちるようなものを感じました。

というのは、ただ漫然とものを見たり、音を聞いたりする場合にはそんな感覚は生じ
ないけれど、例えば心を集中させて音楽を聴いていたり、絵画に見入っている時など
には、聴くということ、観るということが、直に対象に触れているように感じられる
ことがあるからです。

しかし悲しいかな我に返ると、その対象との間には厳然たる距離が存在して、こんな
に肌に触るように、手で輪郭をなぞるように分かったつもりでいたのに、その対象が
急に遠ざかるようなもどかしさに囚われることがあります。

この微妙な感覚を、上記のことばは端的に表現しているのではないでしょうか?

私たちの周囲を取り巻く大気は目には見えず、手に触れる感触もないので、我々は
往々に他の人に対しても、ものに対しても、孤立して、あるいは独立して地球上に
存在しているように感じるけれども、大気圏外から遠望してみれば、地球という惑星の
表面で大気のヴェールに包まれて寄り添うように存在している・・・。

そのような生存環境の中で、大気の間を自在に行き交う音や光を媒介として、私たちは
他者とつながり、ものを認識して日々を過ごしているのではないか?そして時として、
感動したり、美しいものを目にして忘我の境地に至った折に、私と対象を隔てる距離は
在って無いように感じられるのかもしれません。

この科学的な、しかし詩的なことばを読んで、そんなことを夢想しました。

2017年7月24日月曜日

「福岡伸一の動的平衡 外来種一番迷惑なのは・・・」を読んで

2017年7月20日付け朝日新聞朝刊、「福岡伸一の動的平衡」では
「外来種一番迷惑なのは・・・」と題して、最近の特に外来種のムシを巡るマスコミの
過熱報道について、福岡伸一らしい科学的知見に裏打ちされた、ウイットに富んだ
コメントを記しています。

確かに市井の人々にとって、ムシというもの自体が往々に不気味で、しかも今までこの国に
存在しなかった新手の毒ムシが現れるとつい身構えてしまい、その上マスコミが騒ぎ立てる
となると、私たちもさらに不安が増幅されるということになるのでしょう。

考えてみれば、近代以降国際的な人の交流が飛躍的に盛んになって、動物からムシ、植物
まで、色々な生物が外来種として我が国に進出し、野生化しています。

思い当たるだけでも、ヌートリア、アライグマ、アカミミガメ(ミドリガメ)、ウシガエル、
ブラックバス、セイタカアワダチソウなど・・・。そう言えばどの種も、固有の生態系を損なう
生物として、大なり小なり忌避されているように感じられます。

なるほど外来種は、天敵もいない状態で突然進出して来て、もしこの国の環境に適応する
ならば必然、飛躍的に数を増やすことになり、旧来生息する生き物を圧迫して、その結果
生態系を歪めることになるのでしょう。

そして、外来生物を持ち込んで生態系を改変する原因を作るのは、大抵の場合他でもない、
我々地球の生態系の頂点に君臨する人間ということになります。これについても福岡が
警句を発する通りです。

でも一方、交通の発達によって地球がこれだけ狭くなれば、不可抗力によって外来種の
侵入を防げないという場合も生じるとも、考えられます。ある程度の部分は、必然的な
環境の変化なのかもしれません。

しかし我々が注意すべきは、人間の目先の欲望や目的の達成のために、人為的に
生態系を歪めるような外来種の持ち込みは止めなければいけない、ということでしょう。
この点については、環境教育も重要であると思います。

2017年7月21日金曜日

二宮敦人著「最後の秘境 東京藝大」を読んで

一般にはあまり知られていない、東京藝大とはどんな所で、そこで学ぶ学生は如何なる
人々であるかを紹介する本です。

私は白生地の販売に携わっており、常日頃から芸大、美大の染織系の学部、学科の
先生、学生さんとは身近に接しているので、相対的にこれらの人々が決して特別な存在
ではなく、自らの創作、与えられた課題に真摯に取り組む、しかし普段の顔は一般と何ら
変わらない人々という印象を持っています。

とは言え、東京藝大は我が国唯一の国立芸術大学で、その歴史的経緯からも美術教育
の権威と見なされているので、一体それがどんな所か好奇心に突き動かされて、本書を
手に取りました。

まず興味深かったのは、同じ藝大でも美校と音校で学内の雰囲気も、先生、学生の気質
も、まったく性格を異にするということで、言うまでもなく、それぞれ美術と音楽を学ぶ訳
ですが、考えてみれば、芸術と一括りにするには両者は余りにも表現方法が違い、また
各々の存在の意味においても、自ずから学び、習熟するための方法が異なってくるので
しょう。

つまり美術分野においては、学生は創作のための基礎は先生に学ぶにしても、その次の
段階では新しい発想や、独自の表現方法の確立が求められるのであり、それだけに校風
として自由さに価値が置かれることになります。

それに対して音楽分野では、学生時代には楽器の演奏技術の習熟が大前提で、教員と
生徒との関係はより徒弟的となり、自由より規律が重んじられることになるのでしょう。

このある意味カラーの異なる両者が一つの大学として統合されているところが、面白く
感じられました。

本書は大部分が美校、音校の学生へのインタビューで構成されていますが、それらの声
を聴いて感じるのは、彼らが芸術を学ぶことを志し、藝大に進学した動機はそれぞれ
異なるにしても、彼らは意識するしないに関わらずものを作り、音楽で表現することを通し
て、自らが何者であるかを深く探究したいと、強く望んでいるということです。

音楽や美術が、人類の進化の過程の比較的初期に獲得された表現手段であるなら、
芸術系の大学に進む学生は、もしかしたら自らの心の声に耳を傾ける傾向の強い人々
かもしれない、そんなことを感じさせられました。

東京藝大では「藝祭」などの催しを通して、ある種気風の違う美校と音校の学生の交流を
促進する、取り組みも行われているといいます。芸術的創造の可能性を広げるという
意味で、この大学ならではの有意義な企画と感じました。

2017年7月19日水曜日

鷲田清一「折々のことば」817を読んで

2017年7月19日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」817では
政治思想史家尾原宏之の「娯楽番組を創った男」から、次のことばが取り上げられて
います。

 大衆が見たがるものを提供しているのは、大衆自身である。

戦後、NHKで伝説的人気を博することになる娯楽番組を立ち上げた、丸山鐵雄
(政治学者丸山眞男の兄)の奮闘を評する中のことばだそうです。

大衆の総体としての行動は、一見危なっかしいようでいて、実は絶妙にバランスの
とれたものであることが、往々に見受けられるように感じます。

選挙における行動然り、世論調査然り、一躍脚光を浴びるものや人の人気の移り
変わり然り。

いずれも、事前には予測が不可能なように思われても、結果としてはバランス感覚に
優れた選択が行われたり、時宜にかなった妥当な数値が出たり、後々振り返ると
その一時の人気が時流に相応しいものであったと、思い当たったりすることがよくあり
ます。

これらの現象を見ていると、大衆というものは無意識の集合としての英知を備えた
ものとさえ、思われてきます。勿論、扇動された大衆の暴走ということは歴史的に
繰り返されて来て、私たち一人一人は、そのような状況に陥った時にこそ冷静な
判断が出来る自己を磨かなければならないのだと、感じます。でも、日常における
大衆の思考の手堅さは、もっと尊重されていいと、私は思います。

決して際物や刹那的ではなく、多くの人々に末永く愛される品物を提供し続けること、
私たちの店が目指すべき指針です。

2017年7月17日月曜日

「2017たついけ浴衣まつり」に参加して

7月16日の祇園祭前祭の宵山に、「2017たついけ浴衣まつり」が開催されました。

私たち町つくり委員はスタッフとして、午後4時に会場の京都国際マンガミュージアム
龍池自治連合会会議室に集合しましたが、午後3時ぐらいから降り始めたあいにくの
雨が止みそうで止まず、晴天の場合の屋外のグラウンド、あるいは雨天の場合の
AVホール、どちらを主会場として催しを実施するか、難しい判断を迫られました。

結局、開催時間の午後6時にはまだ完全には止まないだろうという判断で、主な催しは
AVホール、御所南小学校の児童の鷹山グッズ、ちまきの販売、役行者山の護摩木の
受付、似顔絵コーナーは館内フロアー、体育振興会のかき氷コーナーのみグラウンド
という形でスタートすることになりました。

出鼻をくじかれた開始となりましたが、かき氷コーナーは雨の中でもかなりの行列が
出来、AVホールでは太鼓の勇壮な響きを先鞭として、ミュージアムで人気のヤッサン
一座の紙芝居へと進むと、ホール内で飲食屋台も設けられていることもあり、多くの
家族連れが集まりました。TAIKO-LABの和太鼓演奏に続いて行われた、祇園篠笛
倶楽部の実演では、私も初めて聞く、小粋で華やぎがありながら、上品な音色を楽しむ
ことが出来、八坂神社が周辺の花街とも深くつながることを、思い起こさせてくれました。

鷹山グッズ、ちまきの販売コーナーは、グラウンドから屋内に変更されたこともあり、
来店客が少ないのではないかと心配されましたが、児童たちのちまき売りの独特の
掛け声の懸命の唱和や、京都外国語大学の学生たちのバックアップの甲斐もあって、
関係者を中心にそこそこの数を販売することが出来ました。御池中学校の生徒有志も、
館内の清掃に協力してくれました。

午後7時30分ごろにはようやく雨も上がり、鷹山のお囃子の一般体験と演奏は、
グラウンドで実施することが出来ました。宵闇に包まれ始めた祇園祭宵山の夕べ、
お囃子が響き渡って、祭り気分がいやが上にも盛り上がりました。

晴天には恵まれず、やや消化不良の感は否めませんが、とにかく無事に終了出来た
ことが何よりであったと思います。

2017年7月14日金曜日

京都国立近代美術館「技を極める ヴァンクリーフ&アーベル ハイジュエリーと日本の工芸」を観て

フランスを代表するハイジュエリーメゾンのヴァンクリーフ&アーベルのジュエリー作品と、
日本の優れた工芸作品を比較展示し、それぞれの「技」の粋を浮かび上がらせようとする
展覧会です。私は特別に宝飾品に興味がある訳ではありませんが、「技」を見せるという
趣旨に惹かれて、会場を訪れました。

第1セクションでは、横長の広い展示室の中央ほぼ一杯を占める、長いガラス製の展示
ケースに、「バンクリーフ&アーベルの歴史」と題して、メゾン創設期から各時代の
代表的なジュエリー作品が時系列に沿って並べられて、正に壮観です!

上質の宝石、貴金属がふんだんに使われ、洗練されたデザインと技巧の粋を凝らせて、
作品をいかに美しく魅力的なものにするかに、職人の全神経が集中されていると感じさせ
ます。

年代順に展示ケースを覗き込みながら進む鑑賞者の足が、ため息と共につい滞り勝ちに
なって、私の訪れた休日の午前中には、待ち時間が30分ほどになっていました。展覧会場
でこんなに熱気に満ちた雰囲気にお目にかかるのは初めてで、これこそが美術作品とは
また違う、宝飾品の魔力なのかも知れません。

第2セクションでは、「技を極める」と題して、ヴァンクリーフ&アーベルの中期までの
ジュエリー作品と、それに呼応する日本の主に明治、大正期の工芸作品が、比較し易い
ように並列的に展示されています。

光り輝く宝飾作品と、一見地味なものも多い日本の工芸作品の比較は、工芸作品に分が
悪いようにも思われますが、そこはさすが超絶技巧と西洋でもてはやされた作品の系譜
に連なるものだけあって、まず七宝や陶芸の作品は宝飾と遜色ない光輝を放ち、金工、
漆芸、牙彫、刺繍はじっと見ると、繊細な技の粋を凝縮させた表現に感銘を受けます。

素材の宿命から、輝きの持続という部分では劣るところもありますが、それぞれの
影響関係と共に、洋の東西、優れた工芸品に優劣のつけ難さを感じました。

第3セクションでは、「文化の融合と未来」と題して、現在に至るヴァンクリーフ&アーベル
のジュエリー作品と、日本の重要無形文化財保持者などの一線で活躍する作家の現代
工芸作品をセンス良く配列して、展示しています。

これらの作品を観ると、ジュエリーの現代的洗練は言うに及ばず、日本の工芸はより
ファッション性、作家性を重視する方向に進んでいるように感じられます。

ヴァンクリーフ&アーベルがメゾンのブランド力を優先して、技を継承しながらも、職人の
無名性を維持しているのに対して、用途や文化的背景、顧客層の相違からか、東西の
工芸が違う方向に進んでいることは、興味深く思います。

美しく魅力的な宝飾品を沢山観て、幸福感に浸ると共に、工芸における職人性についても
考えさせられる、展覧会でした。



2017年7月12日水曜日

湊かなえ著「リバース」講談社文庫を読んで

本作が原作の藤原竜也主演の連続ドラマを初回から見て、すっかり気に入ってしまった
ので、原作も読んでみることにしました。

湊かなえは、作品が映画化されて大ヒットするなどの人気作家で、一度読んでみたいと
思って来ましたが、何か身近に感じ過ぎて機会を逃して来ました。ドラマと比較して読む
という格好の口実が出来て、心置きなく手にした次第です。

ドラマと原作との違いから述べると、ドラマは長丁場を移り気な視聴者に飽きられること
なく乗り切るために、原作にはないキーとなる登場人物を作り出し、あるいは主人公の
友人たちの現在の日常生活の描写にふくらみを持たせるために、関係する人物を付け
加えるなど、原作より物語の舞台を広げ、その結果時事的な関心にもつながる社会性を
帯びた作品となっています。

また原作の終わり以降のストーリーもいくらか描き出して、主人公の以後の人生の輪郭を
よりはっきりとさせています。ドラマはドラマで良く出来ていて、十分に満足しました。

それに対して原作は、主人公の心をより深く掘り下げる物語になっています。私も少年期
から青年期には、自意識は強いのに自分に自信が持てず、劣等感に苛まれ鬱屈した
人生を送っていたので、主人公の深瀬に共感できるところがありました。

彼は大学を出て、可もなく不可もない社会人生活を送っていますが、自分にはもったい
ない恋人を得たことを切っ掛けとして、大学時代に唯一の親友と信じる広沢を、ある
忌まわしい事故で失った記憶を呼び覚まされることになります。

この時点で重要なのは、ゼミ仲間の旅行で広沢が多少酒を飲んでいたにも係わらず、
悪天候の中車を運転する羽目に陥り、あげく事故で命を落とす直接の原因を作ったのは
自分ではないという深瀬の確信で、ゼミ仲間全員で示し合わせて事故の原因を隠している
という後ろめてさはあっても、それ故「深瀬和久は人殺しだ」という告発文を目の前にして、
その送り主を特定するために、広沢がどのような人間で、亡くなるまでにどんな人生を
歩んだかを、彼が調べることになります。

深瀬にとって広沢の生い立ち、交友関係、どんなものの考え方をしていたかを調べる
ことは、自らの内面や生き方を省みることになり、その結果彼は、これからの人生に自信を
持って立ち向かう根拠を見出せそうになります・・・・。

物語は二転三転、ミステリーらしいスリリングな展開に読者はドキッとさせられますが、度肝
を抜かれても違和感のないストーリーは作者の才気を感じさせ、対照的に深瀬のしっかりと
した心理描写は、読者の共感を呼びます。

また湊かなえの作品を読みたくなりました。

2017年7月9日日曜日

鷲田清一「折々のことば」805を読んで

2017年7月6日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」805では
作家森まゆみの「子規の音」から、正岡子規の母の次のことばが取り上げられています。

 のぼさん、のぼさん・・・・・・サア、もう一遍痛いというてお見

のぼさんは言わずと知れた、子規の幼名から生まれた愛称です。彼は「病牀六尺」では
脊椎カリエスという死の病に侵されながら、常に冷静で、客観的な視点を失わない見事な
随想を残していますが、実際の闘病生活は激痛を伴う過酷なものであったといいます。

その闘病生活を支えた母親の献身、苦悩はいかばかりのものであったでしょうか?

しかしこの母親は、やっと苦痛から解放された息子にこう語り掛けます。この言葉には、
子規が病を患ってからの母の悲しみも、憤りも、諦念も、全てを飲み込む万感の思いが
詰まっているのでしょう。

立場はまったく逆ですが、私も心臓に欠陥を持つ高齢の母が、先般その副次的な影響で
腸の病に倒れ、一時は死を覚悟しながら少しづつ持ち直し、そうかと思うとまた心臓の
具合が悪くなって体調が低下するといった先の見えない状況を経て、ようやく老健施設
からの帰宅の目途が立った状態で振り返ってみると、子規の母親の気持ちが幾分分かる
ような気がします。

というのは、母が苦痛に顔をゆがめ、あるいは息苦しく血の気の引いた顔色をしている
時には、一刻も早く楽にしてあげたいと心から感じ、しかし一時落ち着くと、やはりどの
ような状態でも少しでも長く自分の傍らにいて欲しいと願います。そのような両極端の範囲
の内でも、母の病状の些細な変化によって、私の心は千々に揺れ動いたのです。

もしかすると人を介護、あるいは看護するということは、される側のみならずする側にとって
も、心が救われることなのかも知れません。

2017年7月7日金曜日

ラグビー現イングランド代表監督エディ・ジョーンズの提言を読んで

2017年7月1日付け朝日新聞夕刊には、前回のラグビーワールドカップで日本代表を
率いて旋風を巻き起こし、現在はイングランド代表監督として2年後のワールドカップ
で優勝を目指すエディ・ジョーンズ氏が、ラグビーの指導者として培った勝負に対する
ポリシーを、読者に提言する記事が記載されています。一読して、単にスポーツの勝敗
に限らない、私たちの人生にも通じる話として、感銘を受けました。

まず彼は、敗北を味わった時に大切なのは、目標を再び明確にし、パニックにならない
ことである、次に何をすべきかに集中することである、と語ります。私たちは何か失敗を
犯した時、人生がうまくいかない時、まず気落ちしてしまって、そこからどんどん状況を
悪い方向に考えて、その結果負のスパイラルに陥り、なかなか立ち直れないことがあり
ます。

しかし彼の言うように、結果を悔やんだり、自分では対処できないことを悩んでも、少しも
状況を改善することは出来ません。それならば、反省は必要としても気分をさっと切り替
え、自分の力で出来ることから取り組む、それが最善の方策でしょう。つまりその結果に
対して自力で改善出来るポイントを見出すことがこの場合の創造性であり、それを迷わず
遂行するポジティブさが求められるのでしょう。言うは易く行うは難しとしても、積極的で
上手な気分転換が必要であるという点は、私自身がこれから生きて行く上でも、有益な
ヒントをもらったと感じました。

次に今年の6カ国対抗戦でのイタリアが、過去の戦績からもまったく歯が立たない、彼の
率いるイングランドに対して取った、勝利を放棄して大敗を阻止しようとするように見える
戦術に対しての彼の苦言は、スポーツにおけるどんなに不利な状況でもあきらめず、
最善を尽くす必要性を情熱的に語っています。この信念が、前回のワールドカップでの
あの日本の活躍を支えたのでしょう。我々の人生でも逆境にさらされた時、自身を鼓舞
するための指針となると感じました。

2017年7月5日水曜日

龍池町つくり委員会 42

7月4日に、第60回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

冒頭中谷委員長より、御所南小学校の学区集会で「たついけカルタ」にちなみ、蛸薬師
町の紹介を行った等の報告があり、本日のメインの間近に迫った「たついけ浴衣祭り」の
タイムスケジュール、役割分担について森委員より説明がありました。

7月16日当日のプログラム(予定)は、18:00 和太鼓の音を皮切りに、中谷委員長の
主催者挨拶でオープニング、マンガミュージアム似顔絵担当者の似顔絵コーナーは
18:00~20:30、ヤッサン一座の紙芝居は18:00~18:30、和太鼓演奏は18:40~19:15、
鷹山のお囃子が19:30~20:30、出店は18:00~20:30、鷹山グッズ販売、ミュージアム
による飲食屋台コーナー、龍池体育振興会による、浴衣来場者及び中学生以下の子供
へのかき氷の無料提供が用意され、20:30に龍池自治連合会の挨拶をもって閉会します。

スタッフは16:40に集合、17:00よりグラウンドのテント設営、テーブル、椅子の準備など
を行います。続いて、手伝いに来てくれる御所南小学校の児童、御池中学校の生徒の
フォロー、その他人員整理、誘導、警備なども担当します。20:30終了後、後片付けを
して、21:00解散予定です。この日私もスタッフの名札を頂いて、開幕の気分が高まって
来ました。

なお荒天は中止で、小雨、もしくは途中降雨の場合はAVホールで実施します。

京都外大の秋の企画は、まだ詳細は決まっていませんが、南先生より大まかな説明が
あり、学区民に郊外学舎の存在をもっと知ってもらうために、山科、大原での在りし日の
活動を記録した写真を集めて、コメント、メッセージを付けて展示する催しを行うこと。
さらに薬祭りにちなみ、二条通を学生が歩き、取材して、出来れば将来的には高瀬川から
二条通、二条城周辺の当時の政庁とつながる歴史を掘り起こしたい、という構想を語られ
ました。

7月24日から29日まで朝7:20から行う恒例のラジオ体操では、29日に杉林さんがカルタ
取りを実施されるということです。

2017年7月2日日曜日

鷲田清一「折々のことば」793を読んで

2017年6月24日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」793では
刃物店主・研究家土田昇の「職人の近代」から、次のことばが取り上げられています。

 上手な職人が使用した道具というものは美しく残るものです。

私の日々の悉皆業務で接する職人さんたちは、大抵自らで工夫した道具を使用し、
あるいは既存の道具でも大切に使っています。

それは言うまでもなく、道具がその職人が技術を発揮するための欠かせない手段
であり、自身の身体の一部とでも言ってもいいものだからでしょう。

具体的に述べると、染色補正の職人は、自らで工夫をした補正剤や刷毛などの用具
を使い、生地に付着した汚れや染みの具合に応じてそれらを使い分けて、欠点を
直します。いろいろな症状に対応して、依頼者の要望に答えるのが、腕の良い職人
ということになります。

引き染の職人は、自分が使用する染料を吟味し、染め刷毛も用いる色別、形や
大きさなど各種を揃えて染色を行います。また生地をピンと伸ばして染料を引きやすく
するために、生地裏に幾本も渡す伸子も色別に使い分け、また使用した後には、
次回使用する時に生地に染料が付着しないように洗います。気温や湿度によって
微妙に変わる発色などを考慮しながら、依頼者の求める色にむらなく染め上げるのが
腕の良い職人です。

まだまだ例を挙げると切りがありませんが、腕の良い職人は自らの仕事にプライドを
持ち、それに応じて道具を大切にしています。そのような職人仕事が何時までも失われ
ないことを、私は心から願っています。