2022年8月30日火曜日

池上彰、佐藤優「激動日本左翼史 学生運動と過激派1960-1972」を読んで

池上彰と佐藤優の対談を通して、第二次世界大戦後の日本の左翼史を跡付ける、シリーズの二冊目 です。本書の中心テーマは、学生運動です。 まずその前史として、六十年安保闘争が描かれますが、当時私はまだ物心がついていなくて、この 政治運動は記憶にありません。 しかし労働組合員、学生を中心に、これほどまでに日米安全保障条約の改定阻止の機運が盛り上が ったことは、大多数の日本人が最早この条約を前提のようにして国際関係を考えている、現在の 状況と比較すると、隔世の感があります。 その当時は一定数以上の国民に米軍に対する拒否反応があったのか?あるいは、ソ連、中国の社会 主義を理想視する機運があったのか?前者については、大戦終結後まだ余り時を経ていないという 意味で、戦勝国米国に対する敗戦国の国民の屈折した複雑な心理は、間違いなくあったでしょうし、 後者については、現在の視点から見ると、ソ連崩壊を経て、社会主義の幻想から醒めてしまったと いうことはあるでしょう。 ただ私たちが、政治思想的な理想を信じなくなって、個人的利益に直結するものにしか興味を示さ なくなり、あるいは、最早その分野に全く無関心を装うようになった要因として、全体的な生活 水準の向上(今また貧富の格差が広がって来ていますが)や、社会の成熟化が第一にあげられると して、本書の主要テーマである学生運動の悲惨な形での挫折も、見過ごすことが出来ないと感じ ます。 さていよいよ、学生運動史です。大づかみに言うと、大学当局の横暴を糾弾したり、学生の権利 向上を働きかける形で、学生の自治組織が発展し、そこに左翼思想を信奉するセクトが絡んで、 大学自治だけではなく、政治思想をも発信する学生運動が盛り上がって行きます。 当初には思想的にも優れたものが生まれ、彼らの主張、行動は、一定の大衆の支持を得ていました が、次第に分裂して過激化し、内ゲバを繰り返し、ついには集団リンチ殺人、テロ行為を行うに 至り、国民から離反、急速に運動は衰えて行きます。この運動の挫折が、国民から政治思想的な 情熱を奪って行ったと思われます。 ではなぜこのようなことが起こったのか?運動推進者のエリート意識、独善、夢想癖、一般国民の 想いからの離脱などが挙げられると感じます。確かに現代という時代は、最早大上段に構えた思想 に人が動かされる時代ではないかも知れません。 しかし他方現代には、環境問題という緊急の課題があります。一人一人の人間が、当事者意識を 持てる運動の進め方が、更に強く求められていると感じます。

2022年8月25日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2400を読んで

2022年6月5日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」では 解剖学者・養老孟司の随想「人生論」(「アステイオン」第96号)から、次のことばが取り上げ られています。    現代人は「仕方がない」が苦手である。何事    も思うようになるとなんとなく思っている風    情である。 そうです。実はほとんどのことが思うようにならず、自分の体さえままならないのに、私たちは 何でも思い通りになる、いやせめて、少しばかりはのぞみがかなうと考えている節があります。 勿論、大筋ではかなうこともある。でもそれは恣意的にかなうのではなく、流れの内でかなう ことになった、ということではないでしょうか? ではどうしてそのように考えるようになったのか?恐らくそれは、我々の生活レベルが上がり、 社会も安定して、大多数の人が、人生の既定のレールに乗れるようになって、そこを進むことが 当たり前と思うようになった。 あるいは教育においても、合理的な思考方法や機会の均等ということが盛んに奨励されて、我々 が願えば望みはかなえられる、という考え方が主流になったということ、と深く関係している ように思われます。 でも実はそれは幻想に過ぎず、本当は我々の望むことが手放しでかなえられることは、ほとんど ないのです。 このことを前提として、私たちは日々を過ごさなければならない。それは何も望みを捨てること ではなくて、かなわないのが当たり前、たまたまかなえば感謝しなければならない、ということ だと、私は思います。

2022年8月20日土曜日

井上光晴著「西海原子力発電所・輸送」を読んで

私の瀬戸内寂聴の文学への関心は、瀬戸内と井上光晴の親密な関係を描いた、光晴の子荒野の 著作を経て、光晴自身の小説へと行き着きまいた。 文学が結ぶ縁とは誠に面白いものだと改めて感じながら、本書はまた、執筆時の読書界の反響 とは異質の感慨を、今手に取る読者に与えます。 それはつまり、「西海原子力発電所」が将来起こり得る原発事故への不安を描く小説であり、 「輸送」は仮想の核廃棄物輸送事故を扱う作品だからで、今現在の私たちは、既に東日本大震災 による福島原子力発電所の取り返しのつかない大事故を、現実に経験しているからです。実際の 事故を目の当たりにした時、全ての虚構は吹き飛んでしまいます。 しかし、福島の事故があればこそ、この2作品は文芸文庫という形で再版されたのであり、著者 の井上もこの2作品の執筆当時、チェルノブイリの原発事故の影響を受けたと、語っています。 つまり、原子力発電がこれほどの危険性をはらみながら、私たちが長年に渡り原子力の平和利用 という美名の下に、見て見ぬふりをして来た欺瞞性を、早くもこの当時において、井上が小説と いう形で広く読者に訴えかけたという意味において、大きな意義があると感じます。 さて、そのようなことを前提に置いてこの2作品を見て行くと、「西海」では物語の舞台が九州 ということもあって、原子爆弾の被爆者による原発の危険性の認識と告発が描かれています。 これはある意味当然のことですが、原発の大事故後の現在から振り返ってみると、戦後の原発 推進政策は正に私たち被爆国の国民が、科学技術の発展による原発の安全性を盲目的に信じる ことによって、成り立って来たことが分かります。この小説はそのことを、私たちに改めて問い かけて来ると感じます。 「輸送」では核物質漏洩事故後の人々の日常生活の破綻と精神の崩壊が、生々しく描かれてい ますが、これに類する悲惨を我々はすでに、眼前にしています。 しかし事故の発生地域から離れた場所に居住している私たちにとっては、歳月を重ねると共に 事故の記憶を薄れさせる恐れがあります。その意味でも、この小説の当事者の内面を抉る切実 な記述は、貴重であると感じました。

2022年8月9日火曜日

稲垣栄洋著「生き物の死にざま」を読んで

各生物の生き様を、科学的知見に基づき分かりやすく記述する書物ですが、その人間的感情に寄り添う 独特の表現方法が、読後の余韻を残します。 例えば冒頭の「空が見えない最後 セミ」では、地中で長い年月の幼虫時代を過ごすも、地上に出て 成虫になってからは生き急ぐような短い生涯を閉じる、この昆虫が力尽きて地面に仰向きに転がる様を ”空が見えない最後”と記して、哀れさを誘います。 この昆虫は地中では木の根の養分を吸って長い時間をかけて滋養を養い、交尾という最終目的のために 地上に出て、目的を果たすと直ぐに命が尽きるという、客観的に見ると合理的な生涯を送るのですが、 この記述を読むと、読者はセミの一生を人生のはかなさと重ねざるを得ません。 また、「メスに食われながらも交尾をやめないオス カマキリ」では、体の大きなメスと交尾するため に文字通り命がけで近づくオスは、下手をするとメスに食べられてしまいますが、よしんば食われながら も交尾を止めないという、そして交尾中にオスを食べたメスは、通常の二倍以上の卵を産み、オスの死 も報われるといいます。 ここでは著者は、”何という執念だろう。何という壮絶な最後なのだろう。”と記して、子孫を残すこと に特化された生き様を読者に提示します。 「草食動物も肉食動物も最後は肉に シマウマとライオン」では、シマウマの赤ちゃんが肉食獣から身を 護るために生まれて数時間で立ち上がること、大人のシマウマでも油断したり、体が衰えると肉食動物 の餌食になり、彼らにとって天寿を全うする安楽な死はないということ。また他方ライオンも、狩りの 失敗が続けば飢え、犠牲となって真っ先に死ぬのは子供ライオンであり、狩りに携わりケガをしたメス ライオンは、やがて来る死を待つばかりになり、リーダーのオスライオンも、力が衰えれば若いオスに 群れを乗っ取られ、自分の子供を殺された上に、行き倒れとなって死を迎えざるを得ない、といいます。 著者は、”どう転んでも、最後は食われて死ぬ。それがシマウマの生き方”、”百獣の王であるライオン にとってさえも、安楽な死はない。王としての強さを失ったときが、ライオンにとって「死」なのである。 ”と記して、自然界の弱肉強食の厳しさを表現しています。 このように見て行くと、自然界の掟は何より子孫を残すことが優先され、大量に生まれることによって それを克服するものはあるものの、弱いものから失われて行くことが分かります。この現象は、自然淘汰 、進化の法則に合致するものです。 それに対して文明社会を築いた私たち人間は、ある程度までこの自然のくびきから、足を踏み出すことが 出来たと言えるでしょう。しかし高慢になって、この自然の摂理を歪めてはならないと、改めて思いまし た。

2022年8月3日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2386を読んで

2022年5月22日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2386では 能芸評論家・戸井田道三の『生きることに○×はない」から、次のことばが取り上げられて います。    自分を知っていると考えるのは自惚にすぎま    せん。……自信は自分が何を知らないかとい    うかたちで知っていることです。 人は年をある程度重ねると、自分のことはよく分かっていると過信しがちですが、なるほど 本当は、分かっていないというのが現実でしょう。 まず何より、自分の姿を外からの視線で見ることが出来ません。鏡に映っているのは、虚像 であって、真実の姿ではありません。なぜなら、見る時の気分次第で見え方が違うのです から。 これに限らず、自分がこういう性格だ、こういう場合やシチュエーションなら、こういう 行動をしがちだ、ということなども、気分のバイアスがかかっているに違いありませんし、 自分の嗜好を知っているということも、往々に他人からの評価によるところが大きいと、 感じます。 だから、自分は自分のことを本当は知らないという認識に達することが、自分に自信を持つ 早道なのでしょう。 その上で謙虚に人の意見に耳を傾け、客観性に照らして思考を巡らせ、慎重に行動すること が、自信を深めるために必要であると、感じます。