2015年1月31日土曜日

BSプレミアム「もうひとつのニュー・シネマ・パラダイス」を観て

1月28日夜9時からBSプレミアムで放送された、ドキュメンタリー番組
「もうひとつのニュー・シネマ・パラダイス」を観ました。

この番組は、アカデミー外国映画賞を受賞したジュゼッペ・トルナトーレ
監督の自伝的名作、「ニュー・シネマ・パラダイス」がどのようにして
誕生したかを、監督自身と共に彼の出身地で映画の舞台でもある
シチリア島を訪ねることによって、解き明かそうと試みるドキュメンタリー
です。

「ニュー・シネマ・パラダイス」という名前を聞くだけで、愛くるしい少年
トトの生き生きとした笑顔がよみがえって来ますが、やはりこの映画の
魅力の源泉となるのは、懐かしい温もりに包まれたシチリアのたたずまい
です。

監督が実際の撮影地に選んだのは、シチリアの中でも古き良き面影を
色濃く残した街でした。撮影後二十年以上が経過しているのに、今
映し出される辺りの様子も、往時と変わらぬように感じられます。

しかも、映画の中で重要な役割を果たす場所、トトと老映画技師が
交流する映画館は、なんと、この街の広場の一角に巧妙なセットで
作り上げられたのでした!撮影地本来の魅力と監督の頭の中で
作り出された情景が見事に組み合わされて、この映画の一種
ユートピア的な世界が出来上がっていることが分かりました。

もう一つ印象に残ったのは、監督が大人になったトト役の男性と再会する
場面、その男性は映画界から離れて、家業で生計を立てている
そうですが、監督の映画に出演したことを後悔していないかとの質問に、
男性が自身にとって誇りとなる思い出である、という趣旨の返答をする
シーンです。監督が映画に携わる人々に、深い愛情と心遣いを持つ人で
あることが伝わって来ました。

久々に、心温まるドキュメンタリー番組を観た気ちがしました。

2015年1月29日木曜日

漱石「三四郎」の中の、写真の例えについて

2015年1月26日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第七十八回)に、与次郎に貸した金が返ってこないので、下宿代の
支払いに窮した三四郎が、与次郎の指示通り美禰子に借りに行くか
どうか思案するうちに、彼女の自分への好意を憶測する次の記述が
あります。

「しかし、どう想像しても、自分に都合の好い光景ばかり出て来る。
それでいて、実際は甚だ疑わしい。丁度汚ない所を綺麗な写真に
取って眺めているような気がする。写真は写真としてどこまでも本当に
違ないが、実物の汚ない事も争われないと一般で、同じでなければ
ならぬはずの二つが決して一致しない。」

この表現は、現代の世情と比較して興味深いと感じました。この当時に
イメージされているのは、写真館で撮影するような写真だと推測され
ます。写した写真に修整が加えられて、実物よりきれいに見えるように
仕上がった写真です。

このような写真ももちろん、節目節目の記念として価値のあるもの
ですが、他方、現代の私たちが写真というとまず思い浮かべるのは、
デジタルカメラで撮った手軽な写真でしょう。

撮影が簡単であり、なおかつ即興的でありのままが写る。そう考えると
「三四郎」の中の写真の比喩には違和感が生じます。彼我の時代の
隔たりに、納得させられる場面です。

ただ、写真はリアリティーを切り取るといっても、現実にはカメラマンが
自分の思惟で、撮りたいものを撮りたいように撮るものでもあります。
こう思い至ると、漱石は後の世の写真の動向を見通していたので
しょうか?これはいくらなんでも、贔屓の引き倒しですか?

2015年1月26日月曜日

フィクションとノンフィクション

とりとめのない会話の中で、フィクションとノンフィクションについての
次のような話題が出て、少し考えさせられました。

 
 「英語ってちょっと分かりにくいところがあるね。だって例えば、
  架空の話をフィクションと言って、実際の話なのにノンをつけて
  ノンフィクションなんて言うんだから・・・」

まず最初に、時代は変わったな、と感じました。私の若い頃には、
文学と言えば真っ先にフィクション、ノンフィクションは伝記などを
除いて、余り話題にならなかったと記憶します。

それよりずっと以前の物語や説話、詩歌にしても、事実に虚構が
混じるのは当たり前、というより第一フィクションとノンフィクションの
区別がなかったのでしょうが、つまりフィクションこそが、文学の
特性だったと思われます。

その事情は英語圏でも変わらず、だからあえて事実に則した
文学作品は、ノンフィクションと呼ばれるのでしょう。

しかし私たちの現代社会では、何でも現実的で利便性が高く、
その上合理的なものが尊ばれ、いきおい読み物においても、
即物的な感性に訴えかける、ノンフィクションが重宝されるのだと、
私は推測します。

もちろんノンフィクションにも素晴らしい作品があり、特に最近は
作者が実際に身の危険を省みず、体当たりの体験をして、その
経験を読みごたえのある読み物に仕上げる、素晴らしい作品が
多く生み出されています。

しかしフィクションにも、即効性はなくとも、登場人物の心のひだに
分け入り、人とは何か、その生み出す社会とはいかなるものかを、
その技法を用いなければ表現することが出来ない方法で、見事に
描き出す作品がやはり存在します。

読書好きの私としては、これからも優れたフィクションと
ノンフィクションを万遍なく読んでいきたいと、改めて思いました。

2015年1月23日金曜日

漱石「三四郎」における、活字の威力の考察について

2015年1月20日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第七十四回)に、三四郎が蕎麦屋で小耳にはさむ高等学校の
生徒たちのうわさ話から、与次郎が発表した論文の反響をつぶさに
感じた時の感慨を記する、次の文章があります。

「三四郎は傍にいてなるほどと感心した。与次郎が「偉大なる暗闇」を
書くはずである。[文芸時評]の売れ高の少いのは当人の自白した通り
であるのに、麗々しく彼のいわゆる大論文を掲げて得意がるのは、
虚栄心の満足以外に何のためになるだろうと疑っていたが、これで
見ると活版の勢力はやはり大したものである。与次郎の主張する通り、
一言でも半句でもいわない方が損である。人の評判はこんな所から揚り、
またこんな所から落ちると思うと、筆を執るものの責任が恐ろしくなって、
三四郎は蕎麦屋を出た。」

今ならさしずめ、インターネット上の書き込みによって、その対象の
評判が急激に上がり下がりすることのようなものでしょうか?ことに
近ごろは、一つの非難の指摘があっという間に広がって、悪評が
満ち溢れるというような場面を、よく目にするように感じます。

何でも合理的なことを最善とする電脳社会のせちがらさ、そう言って
しまえば身も蓋もありませんが、もちろん間違ったことはいけないけれど、
もう少し寛容であっても良いような場合も、しばしば見受けられるように
思います。

特にネット上では、発信者が匿名であることにより、その発信内容が
放縦であったり、センセーショナルな嗜好に傾くことが多く見受けられる
ように感じます。

上記の「三四郎」の文章を読むと、漱石が小説家として、文章を公に
発表する人間の責任を、人一倍強く自覚していたことが分かる気が
します。

2015年1月21日水曜日

リチャード・リンクレイター監督「6才のボクが大人になるまで」を観て

6才の少年が18才になり巣立つまでを、実際に12年の歳月をかけて
撮り上げた映画というふれこみに心ひかれて、映画館へと向かい
ました。

従来の映画は撮影期間の制約もあって、例えば少年の成長物語
ならば、一人の俳優が主人公の各年代を演じるか、あるいはそれが
不自然な場合には、幼少時と成長後で役者を代えて演じられるのが
普通です。

しかしこれは、考えてみれば、映画の中で物語の虚構に、年月経過を
表現するための俳優の肉体上の虚構を重ねることになり、たとえ
それが巧妙に演じられていても、観客にとっては往々に、作品の
リアリティーが損なわれると感じる要因になってはいないでしょうか?

それゆえでしょう、この映画で試みられた各役柄の俳優を一年に一度
集め、実際の時間の経過に並行して撮影を進めるという制作方法は、
主人公の成長をリアリティーを持ってごく自然に表現するだけではなく、
人間の生きる時間というものの掛け替えのなさを、描き出すことに
成功していると感じました。

映画の中でまず印象に残るのは、主人公の母親に愛想をつかされる
夢想家の父親の存在で、彼は最初定職に就かない遊び人、父としての
役割を放棄しているように感じさせますが、離婚後は定期的に
面会する子供たちの良き遊び相手、相談相手になります。

対照的なのは、母の二度目の結婚相手である大学教授で、
アルコールに溺れ、高圧的に子供らを支配しようとします。時が人を
変えること、また外面で人を評価することが出来ないことを示している
ように思われます。

また一人で子育てをしながら大学に通い、大学教員になった母親は、
自己実現を子供の養育に優先し、子供に対して冷淡な母と思わせる
ところもありますが、主人公が18才で独立する時の母の号泣は、
子育ての歳月の中での彼女の心の葛藤を、表しているように感じられ
ました。

そして子供にとっては波乱の年月を心に蓄えた主人公は、希望に満ちた
新たな人生を歩み始めます。この映画は静かな人間賛歌でもあります。




2015年1月18日日曜日

漱石「三四郎」における、広田先生の偽善家と露悪家説について

2015年1月14日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第71回)に、三四郎の、自分は母のいうことを聞いて早く結婚すべきか
という質問に対して、広田先生が答える次の言葉があります。

「御母さんのいう事はなるべく聞いて上げるがよい。・・・・われわれの
書生をしている頃には、する事為す事一として他を離れた事はなかった。
凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。
それを一口にいうと教育を受けるものが悉く偽善家であった。その偽善が
社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸漸自己本位を
思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎて
しまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。・・・・」

現代の私たちの社会では、ますます身につまされる現象です。その当時
でも、小説の中でこのような問題が語られたということは、自己本位は
明治時代から徐々に我々の心に浸透して行ったのかもしれません。

しかし漱石はこの小説の中でも、本音で人に対するという意味で、
露悪家も必ずしも悪いものではないというように語っています。
また建前を優先する偽善的なものが、嘗て、人びとに一つの価値を
強要する、息苦しい社会環境を生じさせたのかもしれません。

戦後、民主主義教育と共に、自分の意志をはっきりと表明することが
奨励されるようになったようですが、それにつれて我々は、自己本位の
度を強めて来たようにも感じられます。

要は、建前ではない公共意識、倫理観を養うことが必要なのではないで
しょうか?

2015年1月14日水曜日

龍池町つくり委員会 12

2015年1月13日、第30回龍池町つくり委員会が開催されました。

最初に、町つくりに係わる学区内の近況として、委員長から報告が
あり、内容は学区内に新築されるマンションの地元町内会向けの
説明会についてでした。

その報告から話題は、新しく入居されるマンション住民を、如何に
スムーズに地域の自治会活動に引き入れるかということに広がり、
すでにマンションが多く建っている町内に住む委員から、学区の
会則、連合会が提供出来るサービスの説明、またそのマンションが
建つ町内の町則、そしてその町内の防災マップ等をマンション業者、
新入居者に提供するなど、既存の地域住民の方から、地域を理解して
もらうための働きかけをもっとすべきである、という提案がありました。

私たちの多くは、旧来の居住地域に、新しくマンションが建つとい
ことに戸惑いもあり、えてして新しい入居者を特別視して、こちらから
壁を作っていたきらいがあると思われます。先進的な地域の取り組み
などを参考に、こちらから歩み寄る努力をすることの必要性を感じ
させられました。

町つくり委員会の手助けをして頂いていた、京都外国語大学の
南ゼミの四回生の学生さんが、就職等でゼミ活動を離れるということで、
お別れの挨拶を頂きました。

彼らの行動力、視点は私たちには新鮮で、委員会活動においても
随分励みとさせて頂きました。有難うございました。また新年度の
学生さんに、若い力が引き継がれることを楽しみにしています。

1月25日(日)、京都国際マンガミュージアムにおいて、「新春きもの
茶話会」が開催されます。この催しは、初めての人に実際に着物を着て
もらって、お茶や散策を楽しみ、記念撮影も行おうというものです。私は
残念ながら参加出来ませんが、会の成功を切に願っています。

2015年1月11日日曜日

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ上ー天正少年使節と世界帝国」を読んで

戦国時代末期、キリスト教を信仰する四人の少年(クアトロ・ラガッツィ)
使節が、遠くキリスト教の本場ヨーロッパを訪ねたという史実は、
江戸時代以降の世界に閉ざされた日本を、通史においてまずイメージ
する私たちにとって、新鮮な驚きです。

そのような感興から本書を手に取りましたが、読み進めるうちに、従来
学校教育の影響もあって、日本史、世界史をそれぞれ別個の時の流れ
として把握していたものが、両者が現在と比べればはなはだ頼りない
絆ではあっても、有機的に結び付いていた当たり前の事実に、今更
ながら驚かされます。

我が国における戦国時代は、ヨーロッパにおいても、ルネッサンスの
光芒のかたわらに宗教改革が起こり、新興国家ポルトガル、スペインが
その反動としてカトリックの世界流布、また広い交易の場を求めて勇躍
海外進出を試みる大航海時代の到来と、波瀾万丈の時代だったのです。

私たちは、ポルトガル、スペインの海外進出というと、すぐに中南米に
おける容赦ない侵略を思い浮かべますが、当時日本を訪れた宣教師
には、現地人への敬意と誠実な布教の意志があったように見受け
られます。

これは、ヨーロッパ側から見た地理的条件や相手国の環境の相違、
あるいは本国の軍事戦略上の位置づけの差異、などが複雑に
絡み合った結果の落差でしょうが、やはり最も重要なことは、訪れた
宣教師の資質に尽きるのではないかと、文章を追いながら感じました。

それゆえに、当時のキリスト教の布教活動は、私が想像していた以上に
開明的で献身的です。それを受け入れる側も、為政者へと上り詰めよう
とする信長は、その鋭い実利的な嗅覚から、キリスト教を自らの覇権
拡大に利用しようとしましたが、宣教師の布教の最初の拠点であった
九州では、貧しい民は彼らの慈愛に満ちた救済活動に本当の信仰を
得て、キリスト教禁教後も隠れキリシタンとなって、信仰を頑なに守る
人びとが多く存在し、天正少年使節をヨーロッパに送ることになる
キリシタン三大名も、信仰に入るきっかけは違えど、終生堅く信仰を
守ったと言われます。

さて上巻は、そのような背景を持つ少年使節の一行が、いよいよ
ヨーロッパに上陸し、カトリックの本山バチカンに向かうところで
終わります。

2015年1月7日水曜日

二条城と船岡温泉

話は前後しますが、昨年暮れに、来日された知人のドイツ人夫妻に、
半日ほど京都案内をすることになり、日本の庭園に興味があると
いうことで、まず二条城、龍安寺、続いて風呂好きでもあるようなので、
船岡山南麓の船岡温泉に行って来ました。

二条城は、年末ということで、残念ながら二の丸御殿の内部を見学する
ことは出来ませんでしたが、手入れの行き届いた広々とした庭園が
素晴らしく、また修理が完成した唐破風造りの唐門の、金色の飾り金具と、
精緻な彫刻に施された鮮やかな彩色のコントラストが美しく、往古の
栄華を思い起こさせるような、華やいだ気分を味わうことが出来ました。

次に、龍安寺の有名な石庭でしばし黙想し、辺りが暗くなり始め、
冷え込みも厳しくなって来てから船岡温泉に向かいます。

私も実は初めて訪れるので、どんなところか期待をもって建物の正面に
佇むと、この銭湯の入り口も堂々とした唐破風造り、格調ある建物です。

国の登録有形文化財に指定されているそうで、脱衣場天井には立派な
鞍馬天狗の彫刻があり、壁面のマジョリカタイルもレトロな華やぎを
醸します。

浴室はそれほど広くはないのですが、サウナ室やジェット風呂、電気風呂、
薬湯、水風呂、露天風呂等の浴槽が効率よく配置され、いろいろな風呂を
楽しめます。

特に露天風呂は、もうすっかり暗くなっていたので、周りの様子は判然と
しませんが、桧の浴槽の湯の温もりと、顔をなでる外気の冷たさの
かげんが心地よく、お客さんも私もすっかり気に入って、ついつい長湯して
しまいました。

また、是非行ってみたいと思います。

2015年1月3日土曜日

雪の伏見稲荷大社へ初詣

元旦の午後、恒例の初詣に伏見稲荷大社へと向かいました。

空はどんよりと曇り、冷え込んでいましたが、早く正月の一つの行事を
終えようと地下鉄に乗り込みます。

乗り継いだ京阪電車を伏見稲荷駅で降りると、白いものがちらついて
来ました。

本殿前で参拝の順番を待つ人混みに並んだ時には、急に雪の降り方が
激しくなって来ました。

せっかくお参りしたので、参拝を終えて稲荷山へと登って行きます。その間
雪は間断なく降り続き、見る間に一面は銀世界となって来ました。

お稲荷さんで、雪に遭遇するのは初めての体験です。白く雪化粧した夥しい
鳥居の連なりは幻想性をいや増し、異界の入り口の雰囲気を際立たせます。

中腹の、ことごとく梢に雪を頂いた木々に囲まれた池には、鉛色に沈んだ
静かな水面に、一つがいの鴨が悠然と泳ぎ、まるで水墨画の世界のようです。

参道の少し開けた所、山内社に設けられた祭壇に赤々と燃えるろうそくの
炎の群れは、降り続ける白い雪とコントラストをなして、鮮やかさと神秘性を
際立たせます。

雪はさらに激しくなって、凍てついた坂に足元が覚束なくなって来たので、
そろそろ潮どきと思って引き返して来ましたが、寒さに震えながらも、
正月早々思わぬ忘れがたい体験をすることが出来ました。

2015年1月2日金曜日

お正月のしつらい

昨12月31日、店のお正月のしつらいが終わりました。

私たちの店では、1月1日から3日まで飾り付けをします。

まず店先の掃除をしてから、各年でローテーションする伝来の段通
三枚一組を畳の上に敷き、同じく昔から使用している金屏風一双を
飾ります。右の屏風の前に、台の上に敷きものをしき、三宝さんを置いて、
紅白の重ね紙の上に裏白、二段の重ね餅、昆布、串柿、橙を乗せた
「鏡餅」をしつらえます。前方横には、小さな干支にちなんだ置物も
添えます。

左の屏風の前には正月の生け花、去年からは近くの花屋さんが作る
竹の筒に松、菊、葉牡丹、千両、さらに今年は小ぶりの黄色い蘭を
添えたアレンジフラワーを飾りました。

昔日は正月三元日も、ご近所の方や、親戚、仕入先の人びとが、年始の
挨拶のためにひっきりなしに訪れ、私たちは花弁餅と昆布茶でもてなした
ものですが、近ごろはそういう習慣もすっかりすたれ、この三日間に店を
訪ねて来る人も、本当にまれになりました。

それではせっかく、お正月のしつらいをしても結局意味がない、という
ことになりますが、私はやっぱり、しつらいは出来る限り続けたいと思って
います。

というのは、新しい年を迎えるに当たり、店先を飾ることによって過ぎ
去った年との間に明確な区切りをつけ、また店を新年の一時華やかに
することによって、これからの一年への決意を新たにしたいのです。

そんな思いもあって、毎年飾り付けが終わると、何かすがすがしい気分に
なります。