2015年1月29日木曜日

漱石「三四郎」の中の、写真の例えについて

2015年1月26日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第七十八回)に、与次郎に貸した金が返ってこないので、下宿代の
支払いに窮した三四郎が、与次郎の指示通り美禰子に借りに行くか
どうか思案するうちに、彼女の自分への好意を憶測する次の記述が
あります。

「しかし、どう想像しても、自分に都合の好い光景ばかり出て来る。
それでいて、実際は甚だ疑わしい。丁度汚ない所を綺麗な写真に
取って眺めているような気がする。写真は写真としてどこまでも本当に
違ないが、実物の汚ない事も争われないと一般で、同じでなければ
ならぬはずの二つが決して一致しない。」

この表現は、現代の世情と比較して興味深いと感じました。この当時に
イメージされているのは、写真館で撮影するような写真だと推測され
ます。写した写真に修整が加えられて、実物よりきれいに見えるように
仕上がった写真です。

このような写真ももちろん、節目節目の記念として価値のあるもの
ですが、他方、現代の私たちが写真というとまず思い浮かべるのは、
デジタルカメラで撮った手軽な写真でしょう。

撮影が簡単であり、なおかつ即興的でありのままが写る。そう考えると
「三四郎」の中の写真の比喩には違和感が生じます。彼我の時代の
隔たりに、納得させられる場面です。

ただ、写真はリアリティーを切り取るといっても、現実にはカメラマンが
自分の思惟で、撮りたいものを撮りたいように撮るものでもあります。
こう思い至ると、漱石は後の世の写真の動向を見通していたので
しょうか?これはいくらなんでも、贔屓の引き倒しですか?

0 件のコメント:

コメントを投稿