2021年1月30日土曜日

「後藤正文の朝からロック 陰謀論者を疎外するより」を読んで

2021年1月20日付け朝日新聞朝刊、「後藤正文の朝からロック」では、「陰謀論者を疎外する よりも」と題して、「地球は球体ではなく平面だ」という説を信じる人たちに迫った「ビハ インド・カーブ」という映画を観た筆者が、地球平面説を信じる人々を単に陰謀論者とかた ずけて排斥するのではなく、彼らという存在も組み入れた社会の形を考えるべきだとこの 映画の中で語る、物理学者たちの見解に接して、社会の分断や拒絶ではなく、対話と包摂の 可能性を諦めずに考える必要があるという思いに至ったと、述べています。 先日のアメリカの大統領選挙での、共和党支持者と民主党支持者の激しい対立からも明らか なように、昨今では社会の分断ということが大きな問題になって来ています。 特にアメリカでは、前大統領が分断を煽るような主張を繰り返し、その支持者が陰謀論とも 結び付いて、社会の中に大きな亀裂を生み出したようにも、感じられます。 しかし、このような事態になったのには、アメリカの社会に恵まれない環境に置かれたり、 不満を抱く人々が多く存在し、そのような人々の受け皿として、前回の大統領選挙で前大統領 が選ばれたという背景があり、大統領が交代したからといって、状況が直ぐに改善する訳では ありません。 この分断を解消するためには、上記の物理学者たちが言うように、極端な異説を唱える人々 をも取り込むような形での、発展的で融和的な解決法が必要でしょう。 私たちの社会でも、コロナ禍で更に明らかになった、貧富の格差の拡大や、世代間の意識の 隔たり等による考え方、意見の違いを乗り越えて、異論をも包摂する形で、より多くの人々に とって納得の行く社会を生み出すことが必要でしょう。

2021年1月26日火曜日

アンデシュ・ハンセン著「スマホ脳」を読んで

スウェーデン人精神科医による、スマートホンがいかに人間の脳に悪影響を及ぼすかを解説 した書です。 考えてみれば、十数年の前には、世間にスマホがこれほど普及するとは思いもよらず、まして や、自分自身が肌身離さず携帯しているなど、夢にも考えませんでした。 しかし使い始めてみると、その利便性は画期的で、知らず知らずのうちにその機能にすっかり 依存して、今では無くてはならないものになっています。 だがそれゆえに、便利なものにはそれに見合う弊害があり得るという疑念に、薄々気づきなが らも、現実の効能に頼り切って、そんな疑問はすっかりなおざりにして来ました。 さて、そして本書です。著者の主張が分かりやすく私たちの頭に入って来る第一の理由は、 原始時代に遡って人間の脳の発達過程を検証し、その進化の過程で獲得した脳の機能が、現在 最先端のIT技術の粋であるスマホの機能と、いかにして齟齬をきたすかを論理的に語っている からです。 即ち、人間の脳は本来狩猟採集生活に適合するように発達し、その根本構造は現在も変わって いません。しかし現代人の生活は、その頃とすっかり変わってしまい、ただでさえストレスが 溜まりやすいのに、それに輪をかけてスマホの体験を伴わない夥しい情報を垂れ流し、しかも それを視覚に訴えかける刺激的な光で表示する機能は、人間の脳を混乱させます。 ましてや、スマホに付随するSNSの機能は、その商業戦略上も利用者の好奇心や承認願望、自己 顕示欲を間断なく刺激し、その結果依存症や集中力の欠如、情緒不安定、果てはうつ症状を 生み出します。 分かりやすく、説得力がある第二の理由は、上記の説明を裏付ける実際の複数の実験結果が 丁寧に示されていることです。これによって読者は、否応なく厳しい現実に直面させられます。 ともかく、スマホが人間の脳に与える悪影響は自明のことで、特に子供、若い世代は、その 使用に十分留意しなければなりません。 また本書は、スマホの弊害を和らげる具体的な方法にも、言及しています。幼い子供には スマホを持たせない。1日の使用時間に制限をかけて、また心身を健やかに保つために、一定 以上の運動をする。 最後に、人間の脳の進化過程から著者が導き出した、人間は常に不安を抱く生き物であり、 より良く生きるためには心身を健全にして、不安と上手く付き合って行くことが必要である という結論も、納得を持って心に受け止められました。

2021年1月22日金曜日

鷲田清一「折々のことば」2055を読んで

2021年1月1日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」2055では 俳優松重豊の随想・短篇小説集『空洞の中身』から、次のことばが取り上げられています。    芝居の最中に台詞が出て来ないという恐怖。    これは役者が死ぬまでうなされ続ける日常的    な悪夢の代表なんじゃないかな。 私は役者ではないので、この恐怖を切実に感じ取ることが出来るとは思えませんが、ただ、 若い頃に能楽の仕舞を稽古していて、時々舞台にも立ったので、ある程度の実感はありま す。素人の私にとっても、舞台で台詞や仕草を忘れたらどうしようというのは、大きな 不安の種だったのです。 でもプロの役者にとっては、真剣に舞台に取り組んでいるゆえの、台詞を失念することの 恐怖なのでしょうから、この緊張感ややり遂げた後の達成感は、より増幅され、それが演者 にとっての舞台の魅力にもつながっているのだと、推測されます。 この言葉を読んで、私たち市井の平凡な人間も、日常の中にその時にしかない瞬間を生き、 それを全力で全うしたいという感覚を持つことが出来れば、更に人生も充実したものになる のではないかと、感じさせられました。

2021年1月19日火曜日

ミヒャエル・エンデ著「モモ」を読んで

かねてより読みたいと思っていた、「モモ」をようやく読むことが出来ました。予想通り 児童向け小説の体裁を取りながら、大人の読書にも十分に耐える名作でした。 時間泥棒の不気味な男たちと戦う、みなしごの不思議な少女モモの物語を通して、「時間」 とは何かを問う物語ですが、この命題は現代社会において、益々重要になって来ていると 感じられます。 つまり、私たちの暮らす現代社会では、この小説が執筆された当時より、更に加速度的に 時間的余裕が失われて行っているからです。 これはよく考えると、大変不思議なことです。なぜなら、私たちは交通手段の発達によっ て、飛躍的に速く遠隔地に到着出来るようになりました。国内各地は言うに及ばず、地球 の裏側さえ一日以内で到着可能で、他惑星への移動も視野に入って来ています。 あるいは、情報通信技術の発展によって、地球横断的な通信が簡単に行えるようになり、 離れて生活する人間同士の意思疎通が、リアルタイムで計れるようになりました。 これらの科学技術の発達は、私たちに一定時間内に出来ることを、かつてでは考えられ ないほど、増大させてはずです。 また私たちの平均寿命も、医療技術の発達、豊かな食生活によって、かなり伸長しました。 このことは、私たち個々が一生涯に使用することの出来る時間を、目に見えて増加させる ことになったはずです。 しかし現実の自分の生活を振り返ってみると、私たちは以前に比べて更に、時間が足り なくなり、忙しくなったと、感じられます。これは一体どうしたことでしょう? この理由を考えるヒントとして、時間と言うものに、急き立てられれば更に速く経過し、 逆に心を落ち着ければ、ゆったりと流れると感じられる性質があることが、挙げられると 私は思います。 つまり、資本主義社会における科学技術の発達は、私たちに経済的豊かさや利便性の向上 をもたらしましたが、その反面、人々の心から精神的余裕を失わせ、疎外感や満ち足り ない思いを、増大させることになったのです。 「モモ」は、社会的風潮や価値観にとらわれない、精神的に自立した一人の自由な少女の 勇気ある行動を通して、私たち人間一人一人が時間というものの貴重さを自覚し、大切に 扱うことの必要性を、語りかける小説です。 それは即ち、私たちが如何に生きるべきかを説く物語でもあります。

2021年1月14日木曜日

「後藤正文の朝からロック 「人間中心」に急がされて」を読んで

2020年12月30日付け朝日新聞朝刊、「後藤正文の朝からロック」では、「「人間中心」に 急がされて」と題して、筆者がコロナ禍のこの1年間で、自粛期間中の時間を、気味が 悪いほどに静かで、ゆったりとしていたように感じ、自粛による様々な損失を取り戻そう と活動を再開した途端に、時計の針が勢いよく動き始めて、気が付けば年の瀬が目の前に あった、という経験を通して、彼が感じたこの二つの時間の速度の差について、考察して います。 それによると、今日の経済活動というものが、利潤の追求を至上の目的としており、利益 を得るために一層働くことを我々に求め、その結果我々の体感する時間が加速度的に早く なって行く。 それに対して、彼が昨年よく聴いた、信仰に基づく音楽などは、経済成長という名の加速 を願う人間の欲望を諫めながら、一人ひとりの存在を肯定してくれるように感じられ、 時間もゆったりと流れるように思われた。 そして彼は、祈りのような感覚を、自分の活動のすべてに行き渡らせたいと思った、と 結論づけます。 確かに時間というものは不思議なもので、何かにせかされたり、集中している時は、あっ という間に経過し、暇を持て余したり、心がくつろいでいる時には、ゆっくりと流れて 行くように感じられます。 筆者の言うように、せかされて物事を行うことは、一般的に良い結果をもたらしませんし、 心に余裕を持って事に当たる方が、満足のいく結果を生み出すといえるでしょう。特に 昨今は、私たちの社会では資本主義の進展によって、益々物事にせかされる環境に我々が 置かれているという状況になって来ているので、一度立ち止まって自身を見つめ直すこと は大切だと感じます。

2021年1月11日月曜日

ポン・ジュノ監督映画「パラサイト 半地下の家族」テレビ地上波放映を観て

第72回カンヌ国際映画祭で韓国映画初のパルムドール受賞、第92回アカデミー賞で非英語 作品初の作品賞受賞と、世評高いこの映画がテレビ地上波放映されたので、早速観てみ ました。 韓国では都会の貧しい人々の住居を象徴するらしい、ビルの半地下で暮らすキム家の4人 家族が、悪知恵を働かせて、裕福なパク家に家庭教師、運転手、家政婦として次々に入り 込む序盤の展開は、小悪党が金持ちを騙す悪漢物語のようで小気味よく、観る者もキム家 の人々の嘘がばれないかとはらはらしながら、ストーリーをついつい追ってしまいます。 ところが後半、追い出したはずの元家政婦の再訪から、パク家の人々も知らない邸宅の 地下室に、元家政婦の借金取りに追われる夫が隠れ住んでいることが判明してから、物語 は暗転し、キム家の人々も自らの策略のために、過酷な状況に突き落とされることになり ます。 この映画は起承転結のはっきりとした、分かりやすいストーリー展開でありながら、決し て感傷的にはならずに、韓国社会における貧しい人々の悲惨な状況、他方裕福な人々の 贅沢な暮らしや、貧しい人への理解のなさといった社会問題を、ユーモアを織り交ぜて 巧みに描き、それでいて家族の情愛もたっぷりと描き込むなど、脚本の素晴らしさが目に つきました。勿論、一貫して緊張感を失わせない監督の演出の巧みさ、主要俳優陣の演技 のうまさも、特筆に値します。 また、私のような韓国人以外の鑑賞者としては、彼らの民族性やものの考え方、感情の 起伏といったところまで感じさせてくれる、私たちの隣国理解を助けてくれるような、 決して内向きではない、発信力のある優れた映画だと思いました。

2021年1月8日金曜日

中沢新一著「野生の科学」を読んで

私は、中沢新一の著書を読むと、心が広く、融通無碍に開かれる気持ちがして、心地よく 感じます。しかし浅学にして、その理由はあまり分かりません。でも、これも読書の醍醐 味の一つだと思います。 今回の「野生の科学」の意味にしても、私はどこまで理解しているのか、大変心もとない 状況です。しかし幸いにして、最近読んだ2冊の本が、この言葉を理解するのにヒントを 与えてくれる気がします。1冊は、鶴見俊輔「限界芸術論」、もう1冊は、白井聡「武器と しての「資本論」」です。 前記の書で鶴見は、限界芸術を非専門的芸術家によって作成され、同じく非専門家によって 享受される芸術と定義し、その一つである各地に残る手仕事を、民芸運動を介して推奨した、 柳宗悦の例を取り上げています。 一方本書「Ⅱ知のフォーブ」の第6章『民藝を初期化する』で中沢は、同じく柳の民芸運動 を取り上げ、柳が心酔した手仕事の核心、「無心」と「用」の再認識の必要性を説いていま す。即ち、手仕事の民芸品が魅力的であるのは、作為なく無心で作られているからで、しか も日用品としての機能性を有しているからである。これらの品の美質は、今日の資本主義的 大量生産品には見出せないものである、というのです。 他方、白井はその著書において、マルクス経済学の観点から、資本主義というシステムに 内在する、全てのものを商品化し、余剰価値(利潤)を追求することを至上の目的とする 性質が、今日の息苦しい社会環境を生み出している、と主張しています。 鶴見と白井の両書を参考にして、中沢が科学全般(経済学も含む)に「野生の科学」を取り 込むことの必要性を提唱している意味を、私なりに読み解いてみると、人間の肥大化した 客観的意識が生み出した、従来の科学の限界、矛盾が明らかになった今日、私たちは、本来 人間の内面に存する心の声(野生の思考)をも考慮に入れた、新しい科学を創造することの 必要性を迫られている、ということではないでしょうか? 最後に本書に付録として掲載されている文章『「自然史過程」について』の中で、吉本隆明 が生前最後のインタビューの中で、原発擁護論を語ったことへの、中沢の吉本への敬意を 失わない反論の中で、印象的な言葉を挙げておきたいと思います。 即ち、原子核技術は、生態圏的自然の秩序を逸脱したエネルギー現象であり、失敗したモダ ン科学の象徴である。

2021年1月5日火曜日

鷲田清一「折々のことば」2026を読んで

2020年12月18日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」2026では 仏文学者渡辺一夫の随筆集『五つの証言』から、次のことばが取り上げられています。    「自己批判」を自らせぬ人は「寛容」にはな    り切れないし、「寛容」の何たるかを知らぬ    人は「自己批判」を他人に強要する。 そもそも人間というものは、自らの尺度でしか他者を評価することが出来ないので、人を 許すためには、自分にも欠点があり、完璧ではないので、その人の失敗や欠陥をあえて あげつらうことは出来ない、という認識を持つことが必要なのでしょう。 このように他者への「寛容」は、必ず自身への客観的な評価や、それに伴う反省を前提と しなければ、成り立たないでしょう。 そして、そのような「自己批判」をしたことがない人は、逆に自分を棚に上げて、他者に 厳しくそれを求めることとなり、結果「寛容」など吹き飛んでしまうのでしょう。 昨今のネット上の匿名の激しい他者批判、メディアを賑わわせる、過失を犯した芸能人へ の容赦ない糾弾には、そのような側面があると感じられます。 失敗が許されない社会は、ますます窮屈になる。ただでさえ、コロナ禍でささくれ立つ 心に、塩を擦り込むことにもなりかねません。 このような時だからこそ私たちは、自省を込めて自らの言動を振り返り、他者への「寛容」 を育みたいものです。

2021年1月2日土曜日

大野和基(編)「コロナ後の世界」文春新書を読んで

コロナ後の世界はどうなるのか、と名打った、世界の知性6人(ジャレット・ダイヤモンド、ポール・ クルーグマン、マックス・テグマーク、スティーブン・ピンカー、スコット・キャロウェイ)への 緊急インタビューをまとめた書です。 昨年初春に瞬く間に世界に広がり、各国に多くの感染者と死者を生み出した、コロナウイルス感染症 は未だ終息の目途が立たず、根本的な治療法も見つかっていないので、これからも長く我々人類は、 この感染症と向き合って行かなければならない可能性が、高まっています。 そして海外、国内移動も含めて、人と人との直接の接触を出来るだけ減らすことが、この感染症の 最良の防御法であることから、経済、社会活動が極端に制限されるなど、従来とは違う生活スタイル を生み出すことが、求められていると言えます。 このような事態に直面して、私たちは如何にパンデミック以降の世界をイメージし、対処して行く べきであるのか?これは切実な問題です。 さて本書で各人の語るところを読むと、コロナ後の世界というのは、何も特段新しい兆候が派生する のではなく、かねてから指摘、予測されていた問題点、傾向がより顕在化して、解決すべき課題と して浮かび上がって来ているように感じられます。 例えば、新型コロナウイルスの中国武漢での発生自体が、人間と野生生物の密な接触という環境問題 に、その拡大は、独裁的な国家による情報統制に深く関わっていると思われますし、あるいは経済 活動において、人と人の接触を減らすことは、リモートワークや、通信販売の普及といった、デジ タル技術の更なる向上につながると思われます。 また最近の著しい発達によって、脅威論も生まれて来ている、AI技術の利用法や、いかなる倫理観 やコンセプトで、この技術を運用するかということも、具体的に解決すべき課題となって来ます。 更には我が国に限っても、人口減少を補う方法として、女性、高齢者、外国人の就労促進が、喫急の 課題として挙げられます。 いずれにしても、我々の社会が突然のコロナ禍に襲われたと言えども、私たちは感染リスクを減らす 方策を取りながらも、そでに顕在化し始めていた課題に、決して悲観的にはならず、前向きに取り 組むべきではないか?本書を読んで、そう強く感じました。