2020年7月31日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1883を読んで

2020年7月23日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1883では
独立研究者・森田真生との対談「未来をつくる言葉を語ろう」から、情報学者・ドミニク
・チェンの次のことばが取り上げられています。

   遺言って、実際に書いてみると悲観的な内容
   にならないんですね。

これは私にとって、今まで考えもしなかった視点からのことばなので、我ながらはっと
しました。

確かに人は、自身の亡き後に残された肉親、後継者の未来の姿を想像する時、その
人々が幸福に過ごしていることを願うに違いありません。逆にもし、自分の後を継ぐ
人の不幸を願っているならば、それほどさみしく、悲しいことはないでしょう。

更には、自分がいない未来の視点から、今現在を生きる自らを振り返ってみる時、
今日の自分の考え方や行動が、果たして未来の人々にとって有益であるか、彼らに
将来負担を強いるものではないか、という問いかけも、自ずと生まれて来るはずです。

例えば今日の環境問題が、今の我々には緊急の課題となかなか実感出来なくても、
未来の人々にとっては、生活環境をも脅かされかねない、深刻な問題である、という
ように。

上記のことばを読んで、すでに還暦を過ぎた私も、そろそろ次代の人々を念頭に、
これからの自身の生き方を考えて行かなければならないと、感じました。

2020年7月27日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1877を読んで

2020年7月17日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1877では
多業種の人々が日々を綴った『仕事本 私たちの緊急事態宣言』から、惣菜店店主
の次のことばが取り上げられています。

   「地味なことは打たれ強い』

近所の居酒屋の大半が休業する中、‟お酒の飲める惣菜屋”を営む夫婦は、テイク
アウトでしのぎ、別の店のそれを買って助けもするそうです。

私たちの店も、和装品という今や不要不急の趣味品を扱うだけに、ご多分に漏れず
ご来店のお客様、電話等での注文の激減に苦しんでいます。このような事態に
なって、私たちが扱う商品が本当にコロナ禍後も必要とされるものなのか、自問自答
する日々でもあります。

しかし他方、このような状況においても、どうしても必要であるということで、従来の
お客様から注文を頂いたり、探している商品について色々なところをあったうえで、
ようやく私たちの店で見つけたという新規のお客様の反応があった時など、この商売
を続けていることに、勇気を与えられることもあります。

そのような事例を受けて、私たちの店の特色は、和装品の中でも各種各巾の白生地
の切り売りを含む販売と、他には例の少ない特殊な形態の商品を扱っていることなの
で、必要の絶対量は少なくとも、確実に求める人は存在すると、意を強くすることも
あります。

このコロナ禍は、いつ終息するかも分かりませんが、とにかく、必要とされるものを
こつこつと販売し続けたいと、思います。

2020年7月25日土曜日

佐川美術館「歌川広重展」「山下清の東海道五十三次」を観て

新型コロナウイルス感染症による、緊急事態宣言明け後初の他府県移動で、滋賀県
の佐川美術館に行って来ました。ほぼ6か月以上ぶりに眼下に、この県の象徴である
豊かな青い水をたたえた琵琶湖を望み、改めて長かった自粛の日々をかみしめました。

まず、「歌川広重展」ですが、これほどまとまった広重の作品を観るのは初めてで、特
に、彼の浮世絵版画の代名詞である、「東海道五拾三次」と「五十三次名所図会」の
全作品が並列して展示してあって、その全容を十分にうかがい知ることが出来ました。

この展示によって感じたことは、「五拾十三次」の方が「名所図会」に比べて、より各々
の描く場所に接近して、そこで生活する人々、旅をする人々を含む情景を、庶民目線
で事細かに、秀逸に描きあげていることで、その結果鑑賞者も一緒に旅をしているよう
な旅情を味わうことが出来ることです。それに比べて、「名所図会」はもっと俯瞰的な
視点で描かれていて、各々の地形的特色は表されていると感じますが、広重らしさと
いう意味でも、「五拾三次」の方が数段優れていると、感じました。

更には、五十三次の全ての場所が55枚の版画によって描きあげられているということ
で、歴史資料的にも当時の人々の生活、習慣、風俗を詳細に知ることが出来、また
両方の作品を比較しながら観ることで、その頃の東海道の宿場町の地理的な分布も、
実感を持って把握することが出来ました。

あるいは、五十三次にとどまらず、「名所江戸百景」では広重の平面を立体的に表現
する構図、技巧のすばらしさ、その他色々なジャンルでの縦横な活躍や、肉筆の高い
技能も知ることが出来て、さながら広重芸術の全容を観る思いがしました。

一方「山下清の東海道五十三次」では、このシリーズは本来彼の得意なちぎり絵で
企画されながら、途中で彼が病で倒れたためにペン画原画が残され、その後その作品
も失われたために、原画に忠実な版画作品での展示ですが、本来の彼のペン画の気
の遠くなるような作業である、丹念な点描のタッチも残され、味わい深い作品となって
います。

この各々の作品には、それを描いた時々の彼の独特の言い回しの言葉も添えられて
いて、山下の純朴で温かい人柄を彷彿とさせると共に、この旅の彼の息遣いも伝わる
ようです。また、色彩の施されない作品であることによって、日ごろは見落としがちな
彼の構図の知的で洗練された特色をうかがい知ることが出来て、彼の芸術の新たな
一面を観る思いがしました。

2020年7月21日火曜日

「賠償金毎月受け取り容認」の新聞記事を読んで

2020年7月10日付け朝日新聞朝刊、1面の上記見出しの記事を読んで、感じるところ
がありましたので、以下に記します。

まず、記事の前文を記してみます。

 交通事故で障害が残った被害者が将来得られるはずだった収入を賠償金と
して保険会社から受け取る場合、実際の取り分が大きく減る一括払いではな
く、取り分が減らないよう毎月受け取る形でもよいか。この点が争われた訴
訟の上告審判決で、最高裁第一小法廷(小池裕裁判長)は9日、一、二審判
決を支持し、被害者側の意向に沿って毎月受け取ることを認めた。一括払い
を求めた保険会社側の敗訴が確定した。

以上です。

この裁判の背景は、従来保険会社は、交通事故で障害を負った被害者に賠償金を
支払う場合、障害の度合い、年齢などからその被害者が将来得られるはずの収入を
算定し、一時金という形で一括で支払うことになっているそうで、その場合、将来の
利息分として算定額の半分以上差し引かれることもあったそうです。

この裁判を争った被害者の場合、事故当時4歳で、市道に飛び出して大型トラックに
はねられ、重い脳機能障害が残ったそうで、一緒に訴えた両親は、その子供が将来
生きて行く上で必要になる、毎月受け取る形の賠償金を求めたそうです。

私がこの記事に感銘を受けたのは、私も自動車を運転し任意保険にも加入している
ので、万一事故を起こした場合に、その保険で賠償金を支払うという心づもりはある
ものの、被害者側にとって賠償金を受け取る方法が慣行でこのように限定されている
ことを知らず、また被害者の立場によっては、この受け取り方では著しい不利益が
あることを、全く考慮に入れていなかったため、この裁判記事で目を開かれると共に、
法律や慣行の瑕疵は、被害を受けた人のために、常に改善されなければならないと、
改めて感じたからです。

私は素人ながらこの記事で、法律の運用のきめ細かい配慮の必要性を実感し、是非
書き留めておきたいと、思ったのでした。

2020年7月18日土曜日

鷲田清一「折々のことば」1868を読んで

2020年7月7日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1868では
17世紀フランスの公爵、ラ・ロシュフコーの『ラ・ロシュフコー箴言集』から、次のことば
が取り上げられています。

   情熱のある最も朴訥な人が、情熱のない最も
   雄弁な人よりもよく相手を承服させる

私は、仕事においても、その他の活動においても、よく商品の内容や自分の意志、
考え方を、お客さまや相手に伝えようとして、それが先方に十分納得の行くように、
上手く伝わっているのか、おぼつかなく感じることがあります。

何かもどかしいような、意を尽くし切れていないような、そんな時には、雄弁で立て板
に水のように話をすることが出来る人に、ある種羨望を感じることがあります。

しかし上記のことばのように、得てして弁の立つ人の話は、表面的な言葉を弄する
にとどまったり、変に情熱を感じさせず冷めていたり、同じ内容を繰り返すばかりで
あったりすることが、しばしば見受けられます。

そのような見聞から、私は、話が上手くなることは半ばあきらめ、むしろそれよりも
話す内容を整理して、先方に伝わりやすいように準備をし、また心を込めて伝える
ことに専念するよう心掛けることによって、見かけよりも実質でコミュニケーション
を図ろうと、思うようになりました。

そのため、相変わらず私の話はぎこちなく、我ながらスマートでないと感じることも
ありますが、内容や意志を伝えることを最優先に、これからも誠実に取り組んで行き
たいと考えています。

2020年7月14日火曜日

カフカ著「変身」新潮文庫を読んで

何年ぶりかさえ忘れましたが、再読です。先日、「絶望名人カフカの人生論」を読んで、
改めてカフカが読みたくなりましたが、まず手に取ったのがこの本でした。

初めて読んだ時には、グレーゴル・ザムザが突然虫になったという書き出しが衝撃で、
なぜそうなったかという説明もなく、また家族や周囲の人々も、その事実をすんなり
受け入れているところが不可解で、決して長くはないこの小説を、釈然としないまま
読み終えた記憶が残っています。

今回の読書では、「絶望名人・・・」でカフカが日記に自身に対して否定的な記述を多く
残していることが分かっているので、彼が自分の分身でもあるグレーゴルを、象徴的
な存在としての虫に変身させるのも理由のないことではないと、感じられました。

しかし、その変身の仕方があまりにも唐突で、しかも変身を遂げてからの物語の記述
も、沈着冷静な饒舌体で筋が進んで行くので、読者は悪夢の中にいて、一刻も早く
抜け出したい感覚に囚われます。

この小説は、カフカの素直な心情の吐露、魂の叫びから生まれたものなのかも知れま
せん。

しかしこの絶望的な物語にまだ救いが認められるのは、異形の存在である主人公の
グレーゴルと、家族の関係性においてです。彼の父は、変身した彼に憤慨し、忌み
嫌うようですが、見捨てることは出来ないと、考えています。母は、彼の姿を恐れて
いますが、間接的には気遣っています。そして妹は、彼におびえながらも、彼の世話
をしようとします。

またグレーゴルも、結局は家族にとって不利益になってしまいますが、働き手の彼を
失ったためにやむを得ず、自宅に置いた間借り人たちの家族への横柄な態度に腹を
立てて、彼らを追い出しにかかります。

つまり、最後には経済的にも、物理的にも立ち行かなくなるとは言え、家庭に異形の
ものを抱えながら、家族はその存在も含めて、暮らしを成り立たせようと努力するの
です。そこには間違いなく、家族愛があります。

また、この小説を現代の視点から見ると、介護の問題を扱った物語と思われて来ます。
家の中に介護の必要な存在を抱えて、いかにして家庭を成り立たせて行くのか?これ
は、優れて現代的な問題です。

この点について、この小説から与えられるヒントは、もしグレーゴルと家族に何らかの
コミュニケーションを取り合う手段があれば、結果はもっと良い方向に進んだかも知れ
ない、ということです。結局私はこの小説を、家族間のコミュニケーションの取りづらさ
を描いた小説と、感じました。

2020年7月10日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1850を読んで

2020年6月19日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1850では
岡村幸宣の『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌2011-2016』から、
「原爆の図」を鑑賞した人が感想帖に記した、次のことばを取り上げています。

  「彼らの仕事は恐怖を芸術と祈りに変える人
  間の力の証明です」

私も初めて「原爆の図」を観た時、同様の感慨に囚われました。

実際に観るまでは、原爆の惨禍を眼前で繰り広げる絵画を目にすることに、少し躊躇
がありました。しかし、改めてこの絵の前にたたずむと、描かれている情景は、もし現実
にそういう体験をしたら、激しい衝撃を受けるに違いないのに、どこか静かに哀しみを
訴えかけて来るような、あるいは、人間の愚行を糾弾しながら、その先への希望の
可能性を希求するような、表面的な激しさよりも、底に潜む穏やかさを感じ取ることに
なったのです。

これこそが、創造芸術の力と言えるのでしょうか。例えばこの情景が写真で撮影されて
いたら、それが優れた写真家による作品であっても、そこから鑑賞者が感じ取るものは、
更に直接的で、衝撃的なものとなったと、思われます。

つまり絵画は、画家の心を通して十分に咀嚼した上で描き上げられるゆえに、また、
ましてや「原爆の図」においては、丸木夫妻の共同作業で描き出されているゆえに、
二人の思いが絡み合って、滲み出すような情感と共に、客観的な批評性も、獲得する
に至っているのではないでしょうか?

戦争の惨禍を描いた絵画では、私はこの作品に比肩しうるものとして、ピカソの
「ゲルニカ」を思い浮かべます。この記念碑的な作品も、戦争の悲惨を余すところなく
描きながら、作品自体としては鑑賞者に感動を与え、静かに反戦を訴えかけます。
優れた芸術は、現実を赤裸々に見せる以上のものを、観る者に示してくれるのだと、
改めて感じました。

2020年7月6日月曜日

「伊藤亜紗の利他学事始め 「とぼけたうつわ」の妙」を読んで

2020年6月18日付け朝日新聞朝刊、「伊藤亜紗の利他学事始め」では、「とぼけた
うつわの妙」と題して、益子焼の人間国宝・島岡達三の「形がとぼけていて釉の
調子もよく、花など一輪さして楽しめる」という言葉から、うつわという料理や花を
受けることを前提に作られる本質的に利他的な存在にとって、「形がとぼける」とは
どういうことかと、考察しています。

その島岡の言によると、件の言葉は、湯タンポとして作られた筒状の陶器を、一輪
挿しとして転用する場面で登場するので、目的を狙いきれていない、ある種の
不完全さを積極的に評価する意味ではないかと、伊藤は推測しています。

更には、禅僧のジョアン・ハリファックスが利他を論じながら、和泉式部の歌「かく
ばかり風はふけども板の間もあはぬは月の影さへぞ洩る」を引用して解説する、
家がしっかりしていれば風や雨は防げるけれど、月の光も差し込まなくなってしまう。
この壊れた屋根こそが利他であるという言葉を受け、押し付けるような共感よりも、
適度なとぼけがあるところのほうが、入っていける、と利他の効用を説いています。

引用が長くなってしまいましたが、この「とぼける」とは、日本人の感性に添うものの
在り方として、絶妙の言葉であると感じました。私たちは、日用に使うものとして、
一部の隙もなく完全なものより、少し緩んだところがあるものの方に、親しみを覚え
る傾向があると感じます。

それはどういうことかと言うと、完璧でなく余裕があるものに、安心感を抱く、という
ことではないでしょうか?つまり、ここでいう利他は、拒絶して来るものではなく、
共感出来るものに、癒しを与えられる、ということだと思います。

これは人間関係にも当てはまり、勿論失敗ばかりする人は論外ですが、一部の
隙もなく、完璧に物事を運ぶ切れ者より、ちょっととぼけたところもある、親しみの
もてる人に、好感を持つということは、ままあると感じます。

これもその相手に、こちらを受け入れる心のゆとりがあると、受け取れるからでは
ないでしょうか?

2020年7月3日金曜日

京都国立近代美術館「チェコ・デザイン100年の旅」を観て

新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言明け、国公立では2館目の美術館
訪問です。

まず、今回の展覧会がそれほど話題性が高くはなく、混みあわないことが想定され
ているのか、事前予約制ではなく、適当な間隔をあけて並んでチケットを購入し、
検温後入場という段取りで、会場に入ることが出来ました。

また、チケット購入待ちの時間に、「京都市新型コロナあんしん追跡サービス登録
のお願い」のチラシが配られ、そこに印刷されているQRコードからメールアドレス等
を登録すると、来館者から新型コロナ感染者が出た場合に、通知メールが送信され
るサービスが行われている、ということでした。

さて、本展の内容ですが、チェコはボヘミアグラスに象徴されるような、伝統的に
工芸美術が盛んな土地柄で、この展覧会は、主にチェコ国立工芸美術館の優れ
たコレクションを展示することによって、近代100年のこの国の工芸の歴史を通覧
出来る催しとなっています。

この展覧会を観て私の印象に残ったのは、まずチェコが当時のヨーロッパ文化の
中心であった、フランス、オーストリアの美術思潮をいち早く取り入れ、工芸美術に
応用したことで、例えばキュビスムの影響を受け、金属の結晶こそが最も均整の
取れた美しい形であるという考え方の下に制作された、黄鉄鉱の結晶を模した陶器
の小物入れの完成度の高さには、思わず見入ってしまいました。

また、食器類をはじめそのデザイン、造形は相対的に、機能性に優れているだけ
ではなく、手作りのぬくもりを感じさせ、人が用いる製品が本来持つべき、使う人が
愛着を感じることが出来る要素を、ふんだんに有していると、感じました。

私たちの暮らす現代社会では、高度工業化の進展に伴って次第に失われつつある、
日用品のデザインのあるべき姿を、もう一度思い起こさせてくれる展覧会でした。