2020年7月6日月曜日

「伊藤亜紗の利他学事始め 「とぼけたうつわ」の妙」を読んで

2020年6月18日付け朝日新聞朝刊、「伊藤亜紗の利他学事始め」では、「とぼけた
うつわの妙」と題して、益子焼の人間国宝・島岡達三の「形がとぼけていて釉の
調子もよく、花など一輪さして楽しめる」という言葉から、うつわという料理や花を
受けることを前提に作られる本質的に利他的な存在にとって、「形がとぼける」とは
どういうことかと、考察しています。

その島岡の言によると、件の言葉は、湯タンポとして作られた筒状の陶器を、一輪
挿しとして転用する場面で登場するので、目的を狙いきれていない、ある種の
不完全さを積極的に評価する意味ではないかと、伊藤は推測しています。

更には、禅僧のジョアン・ハリファックスが利他を論じながら、和泉式部の歌「かく
ばかり風はふけども板の間もあはぬは月の影さへぞ洩る」を引用して解説する、
家がしっかりしていれば風や雨は防げるけれど、月の光も差し込まなくなってしまう。
この壊れた屋根こそが利他であるという言葉を受け、押し付けるような共感よりも、
適度なとぼけがあるところのほうが、入っていける、と利他の効用を説いています。

引用が長くなってしまいましたが、この「とぼける」とは、日本人の感性に添うものの
在り方として、絶妙の言葉であると感じました。私たちは、日用に使うものとして、
一部の隙もなく完全なものより、少し緩んだところがあるものの方に、親しみを覚え
る傾向があると感じます。

それはどういうことかと言うと、完璧でなく余裕があるものに、安心感を抱く、という
ことではないでしょうか?つまり、ここでいう利他は、拒絶して来るものではなく、
共感出来るものに、癒しを与えられる、ということだと思います。

これは人間関係にも当てはまり、勿論失敗ばかりする人は論外ですが、一部の
隙もなく、完璧に物事を運ぶ切れ者より、ちょっととぼけたところもある、親しみの
もてる人に、好感を持つということは、ままあると感じます。

これもその相手に、こちらを受け入れる心のゆとりがあると、受け取れるからでは
ないでしょうか?

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