2020年7月10日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1850を読んで

2020年6月19日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1850では
岡村幸宣の『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌2011-2016』から、
「原爆の図」を鑑賞した人が感想帖に記した、次のことばを取り上げています。

  「彼らの仕事は恐怖を芸術と祈りに変える人
  間の力の証明です」

私も初めて「原爆の図」を観た時、同様の感慨に囚われました。

実際に観るまでは、原爆の惨禍を眼前で繰り広げる絵画を目にすることに、少し躊躇
がありました。しかし、改めてこの絵の前にたたずむと、描かれている情景は、もし現実
にそういう体験をしたら、激しい衝撃を受けるに違いないのに、どこか静かに哀しみを
訴えかけて来るような、あるいは、人間の愚行を糾弾しながら、その先への希望の
可能性を希求するような、表面的な激しさよりも、底に潜む穏やかさを感じ取ることに
なったのです。

これこそが、創造芸術の力と言えるのでしょうか。例えばこの情景が写真で撮影されて
いたら、それが優れた写真家による作品であっても、そこから鑑賞者が感じ取るものは、
更に直接的で、衝撃的なものとなったと、思われます。

つまり絵画は、画家の心を通して十分に咀嚼した上で描き上げられるゆえに、また、
ましてや「原爆の図」においては、丸木夫妻の共同作業で描き出されているゆえに、
二人の思いが絡み合って、滲み出すような情感と共に、客観的な批評性も、獲得する
に至っているのではないでしょうか?

戦争の惨禍を描いた絵画では、私はこの作品に比肩しうるものとして、ピカソの
「ゲルニカ」を思い浮かべます。この記念碑的な作品も、戦争の悲惨を余すところなく
描きながら、作品自体としては鑑賞者に感動を与え、静かに反戦を訴えかけます。
優れた芸術は、現実を赤裸々に見せる以上のものを、観る者に示してくれるのだと、
改めて感じました。

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