2021年4月30日金曜日

「福岡伸一のドリトル的平衡」を読んで

2021年4月29日付け朝日新聞朝刊「福岡伸一のドリトル的平衡」では、本紙に現在「新・ ドリトル先生物語」を連載している生物学者の筆者が、なぜこの物語を連載するに至った かについてのエッセーを寄せています。 その文章によると福岡は、昨年早春の自らのガラパゴス探検の折に、ピュシス(ギリシャ 語でありのままの自然を意味する)とロゴス(同、言葉、論理、あるいは人間を人間たら しめた思考)のあいだに揺れる人間の進化について、今一度見つめ直したいと思った、と 述べています。そしてそのアイデアが、彼にとって初めてのフィクションである、「新・ ドリトル先生物語」の執筆へのつながったと言うのです。 つまり、ここで言う人間のピュシスは、生、性、病、死の恣意性から本来的に逃れられ ないということで、ロゴスは、人間がその力によって、社会、都市、文明を作り、世界の 全てを制御下におきたいと希求するようになったことを指します。すなわち人間は、この 相矛盾する力に翻弄されながら、進化を遂げて来た、と言うのです。 私も幼い時からロフティングの「ドリトル先生物語」を愛読しており、また福岡の「動的 平衡」にも強い感銘を受けたので、この「新・ドリトル先生物語」の連載は、大きな期待 を持って読み続けています。 また、上述のピュシス、ロゴスという矛盾する属性に翻弄されながら、歴史を刻んで来た 人間の在り様が、正にそのことによって高度な文明を築きながら今なお、生きる上での 様々な問題を抱える私たちの姿に重なっていると私自身感じて来たので、正に時宜を得た 問題提起だと思われます。 「新・ドリトル先生物語」への期待が、ますます高まって来ました。

2021年4月27日火曜日

私の大腸がん闘病記⑤

下剤の服用を続けることで、次第に排泄される固形物が少なくなり、最終的には水様の ものだけが出るようになって来ました。それがほぼ透明になり、看護師さんに確認して もらって、オーケーが出れば終了です。 後はベッドに横になって、手術の時間が来るのを待つばかりです。しかしこの段階になっ て、いよいよ緊張が高まって来ました。手術の前に麻酔の処置が施される時には、痛む のだろうかとか、手術中は全く痛みを感じないのだろうかとか、麻酔が切れた後どれほど 痛むのかなど、主に痛みに対する不安が、心の中に暗雲のように広がって来ました。 この時、予めウオークマンに録音しておいた、グレン・グールド演奏のゴールドベルク 変奏曲を聴きました。美しく静謐な旋律が胸に染み入り、徐々に心が落ち着いて行くのを 感じました。これほどに、音楽に救われたのは、初めての体験だと思いました。 いよいよその時が来て、お呼びがかかり、車椅子に乗って手術室に向かいました。そこは 大きな空間の中に、手術室が幾室も整然と並んでいてー記憶がおぼろげですが、恐らく 10室ぐらいはあったと思いますー、これだけ一度に手術が出来るのだと感心したのが、 最初に抱いた感慨でした。 その中の私の手術が行われる手術室の手前で、病室付きの看護師さんから、先ほど挨拶を 受けた麻酔担当の看護師さんに引き継がれて、彼女の案内で室内に入りました。内部は 照明器具の下に、手術台以外は医療機器が整然と並べられた、無駄なものが一切ない無機 的な空間で、あこれは、テレビの医療ドラマで見た通りだなと、戸惑う自分を冷静に眺め るもう一人の自分がいるように、感じました。

2021年4月24日土曜日

「青地伯水 現代のことば ジローとピカソ」を読んで

2021年4月21日付け京都新聞夕刊「青地伯水 現代のことば」では、京都府立大学教授で 欧米言語文化ドイツ専攻の筆者が、「ジローとピカソ」と題して、60歳代のピカソの年若い 愛人フランソワーズ・ジローが語ったこととして、アンリ・マティスがピカソに送ったニュ ーギニア先住民が樹木状のシダから彫り出した大きな彫像のエピソードに触れ、若き日の ピカソがアフリカの仮面やオブジェを「周囲の敵意に満ちた未知の力と自分たちの間を取り 持つ一種の仲介物」と気付き、絵画とは「このよそよそしい敵意に満ちた世界と私たちの 間の仲介物として存在する呪術のひとつの形」と悟った、ことについて記しています。 私は、このピカソの芸術に対する捉え方を読んで、現代芸術につながる先験的な絵画観を、 彼こそが形作ったのだと感じました。 それまでの絵画観は、宗教画であり、歴史画であり、風景画、肖像画、静物画であっても、 画家にとって、あくまで描いたものをどう見せるかが目的であり、その作品を観た人が思想 的にどう捉えるかに、責任を持つものではなっかた、と思われます。つまり、画家が作品と 鑑賞者の間を取り持つ意識はなかったのではないか、ということです。 しかしピカソは上記の言葉で、芸術は世界と人をつなぐ仲介物であるべきだと、語ってい ます。このことは、芸術家は作品を創造することいよって、人がこの生きにくい世の中を 渡って行くためのよりどころの一つとなるべきであるということを、語っていることになり ます。つまり彼は、近代化と共に人々の自意識が高まり、疎外感が広がることによる社会的 要請もあって、自らの作品の社会的使命に、自覚的であったと言えると思うのです。 彼以降、芸術というもののまとう役割も、変容したのだと感じました。

2021年4月20日火曜日

私の大腸がん闘病記④

いよいよ摘出手術のために入院しました。約10日前後の予定です。入院して病室のベッドに 落ち着くまでは、直前にも入院しているのでスムーズでした。手術に際して、病室の担当の 看護師さん、麻酔科の看護師さん、執刀医からの説明があり、準備に取り掛かります。 面白かったのは、へそのごまを取り除くところ。大腸の手術のためには、これが必要だそう で、看護師さんが綿棒状のもので、きれいに取り除いてくれました。私は、この時点では 精神的にもまだ余裕があって、その看護師さんに「子供の頃、へそのごまを取ってはいけ ないと、親に注意されたものです。」と、軽口を叩いていました。 また、病院内の口腔歯科にも、行きました。これは手術中に、口腔内に酸素注入のための管 を挿入されるそうで、その時に歯が折れて挿入の妨げにならないように、予めチェックして おくためだそうです。私の歯は特段異常がないということでしたが、こんなことまで調べ られるのかと、徐々に手術への緊張感が高まって来ました。 更には、手術中に履くようにと、足先からふくらはぎにかけてを覆うきつい靴下状のサポー ターも渡されました。これは、手術中には長時間体を動かすことができないので、足の血管 に血栓が出来ることがあり、それを防ぐためのもの、ということです。手術が終わった後も 残しておいて、飛行機に搭乗する時など、エコノミークラス症候群を防ぐために、履いても いいよと、アドバイスをもらいました。 それから、手術の下準備として、大腸内をきれいにするための、下剤の服用が始まりました。

2021年4月16日金曜日

半藤一利著「昭和史 1926~1945」を読んで

先般亡くなった作家の代表作の一つで、授業形式の語り下ろしで分かりやすく記された、 「昭和史」シリーズの戦前、戦中編です。 綿密な資料の渉猟と関係者への取材によって、当時の息遣いが直に伝わってくるほどに、 しかし終始一貫した冷静な視点で、この国のかつて来た道を跡付ける力作です。 戦前、戦中の昭和史については、私たちは学校の歴史教科書でも習い、大まかな流れは すでに知っている訳ですが、それぞれの歴史的事件、事柄が起こる原因の詳細、背景、 因果関係は、歴史の授業が駆け足で進められたこともあって、理解出来ている部分が 限定的であると、感じて来ました。 その意味でもこの「昭和史 戦前、戦中編」は、私がかつて習った以降の新しい知見も 含めて、我が国が歩んだ歴史を徹底的に検証し、後に残すべき教訓も導き出そうとする、 意欲的な歴史書です。 さて周知のように、この時代の日本の歴史は、失敗の歴史でもありました。どうしてこの ような取り返しのつかない事態が、引き起こされたのか?これが本書の大きい主題です。 開戦から敗戦に至る経緯の本書の記述の中で、私がまず注目したのは、天皇の役割に ついて。敗戦以前の天皇は、日本の国家元首でしたが、彼がこの戦争でどのような役割 を果たしたかは、私が切実に興味を惹かれる部分でした。 本書の記述に沿って見て行くと、国家元首で軍の最高司令官であった天皇は、国益を 中心に考えながらも、軍事行動を出来るだけ控えるべきであると、考えていたように 思われます。 しかし、不利な軍事社会情勢が意図的に耳に入れられなかったこと、統治するとも命令 はせずの方針から、結局軍部、時勢に引きずられ、無謀な戦争への突入を許したと、 思われます。ただ敗戦受託の時にのみ、彼の決断は、日本をそれ以上の無意味な被害 から救った、と考えられます。 それに対して軍部は、その独断的でその場限りの無責任な体質から、勝ち目のない戦争 を推し進め、国の崩壊を招きました。更には、軍部を押しとどめることが出来ない政治家 、マスコミに煽られた国民の熱狂が、戦争を加速させました。 本書の結びの章で半藤は、日本人の気質に照らしながら、この戦争から得た教訓を記して います。第一に、国民的熱狂を作ってはいけない。その熱狂に流されてはいけない。 第二に、最大の危機において、日本は抽象的な観念論を好み、具体的で理性的な方法論を 検討しない。第三に、軍の参謀本部や軍令部に見られる、小集団エリート主義の弊害。 第四に、国際社会の中の位置づけを、客観的に把握していなかったこと。第五に、何かが 起こった時に、対処療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想を取る。 現代にも通じる、教訓に満ちた書です。

2021年4月12日月曜日

私の大腸がん闘病記③

大腸の内視鏡検査で採取した、腫瘍の組織はやはり悪性であることが判明し、入院して摘出 することが決まりました。 まず最初に、大腸内の小腸寄りにある小さい腫瘍を、3日間入院して内視鏡で切除、その折 に後ほど摘出するS字結腸にある悪性の腫瘍の位置にマークを付け、外科手術をしやすく するということでした。 内視鏡による腫瘍切除のための3日間の入院は、泊りがけで前回の検査と変わらない処置を 受けるようなもので、こちらの心づもりもある程度出来ていたので、比較的余裕を持って 無事終えることが出来ました。ただ処置後には、内視鏡で行ったとはいえ、大腸内の組織を 切除したので、下腹部にしばらく違和感が残りました。 その後、消化器内科から外科に担当が代わり、担当医兼手術の執刀医が紹介されて、以降 その先生が私を診察することになりました。まず家族も同席の上、病状、手術の内容、術後 の一般的な経過等について、詳しい説明がありました。 そこで示された内容は、私の症状が比較的初期に発見された大腸がんであることから、摘出 手術を受ければ完治する可能性が高いこと。しかし手術というものは、実際にはふたを開け てみないと分からない部分があるので、ことのほか病状が進行していたり、また手術に よって体に予想外の悪影響が出ることもあるので、最善の処置は尽くすが、そのことはあら かじめ承知してほしいというものでした。いやがうえにも、緊張感が高まりました。 こうしていよいよ、私の大腸がん摘出手術が始まることになりました。

2021年4月9日金曜日

舟木享著「死の病いと生の哲学」を読んで

哲学者が癌に冒され、その闘病生活において、死と生と病について巡らせた思索を、徒然に 記した書です。 私は正に彼の後を追うように、同じ大腸癌の手術、抗癌剤治療を受けた身なので、生々しく 切実な想いを持って、本書を読み終えました。私自身は、著者のように豊富な哲学の学識が ある訳ではなく、自分の病の状況を彼ほど的確に考察出来はしませんが、彼の思索に深く 共感する部分もあり、また、自分とは感じ方が違うと思った部分も、ありました。 まず共感する箇所としては、人は「健康な人の国」と「病気の人の国」のいずれかに属し、 後者に属する者が、死と生について真摯で根本的な思考をすることが出来るという部分で、 私自身の感覚としても、癌の発見によって、唐突に病人の境遇に突き落とされ、術後の鋭い 痛み、再発防止のための抗癌剤治療による継続的な肉体的苦痛に耐えながら、今まで考えも しなかった自らの死の現場を、リアリティーを持って思い浮かべた時、死というものが私に とって、ずっと身近なものになったと実感したのです。 私は今現在まだ、あるいはこれから先も、著者のように死生についての深い考察に至るかは 分かりませんが、少なくともこれから残された人生において、自らの行動や思考が、死に よって規定されることは避けられないと感じました。これこそが私にとっての、癌を患う ことによる、思考の劇的転換であると思います。 逆に著者と感じ方が違うと思った箇所は、恐らく著者と私の病状の重篤度の違いもあるので しょうが、私の癌は医師の見立てを信じる限り、完治が可能なもので、私自身その希望を 持って治療を受け、従って医師の治療方針にも信頼を寄せています。 他方著者は、治療中に他の部位の癌が発見されたこともあって、治療方針に不信を抱いて いるところがあります。この違いは、著者の孤独感や人間不審を深めていると感じられ ます。この部分についてはあくまで、置かれた状況の違いやそれによる感じ方の違いが 大きく作用し、私にしても病状が変化すれば、著者の感じ方に近づくかも知れません。 ただ病というものが、ともすれば人間を絶望に陥れ、治癒以外でそれを癒してくれるもの は、現代社会では、人と人の絆と信頼感しかないのだろうと、改めて感じさせられました。

2021年4月6日火曜日

私の大腸がん闘病記②

7月に入って、また病院からもう大腸の検査は受けられましたか、という確認の通知が来た ので、コロナウイルス感染症が一時よりは落ち着いて来たこともあり、ようやくその病院 で、検査を受ける気になりました。 それでも、実際に異常があるはずはないと、内心高をくくっていて、気休めで受けるよう な心持ちでした。 病院に行って消化器内科を受診すると、大腸の内視鏡検査を受けるように言われ、検査 までの段取りの説明がありました。それによると、大腸に内視鏡を入れるためには、まず 大腸内に溜まっている、食べかすなどの老廃物を全て取り除かなければならず、そのため 検査前日から下剤を繰り返し飲んで排便を促し、最終的には大腸の内部が空の状態になる ようにする、ということでした。 私は以前に、人間ドックで胃の内視鏡検査を受けたことがあり、その場合は事前に取り 立てて準備の必要はなかったので、大腸の内視鏡検査は、随分手間がかかるものだなと いう感慨を覚えたことを、今でも思い出します。 さて実際の大腸の内視鏡検査は、肛門からチューブ状の機器を挿入されるのですが、それ が腸内を移動する時には多少の違和感があるにしても、事前に想像したほど痛みや不快感 はありませんでした。 私自身も、モニターで内視鏡が捉える大腸内の映像を確認しながら、検査は進みましたが、 まず小腸寄りの大腸の部分でポリープが見つかり、これは後日また内視鏡で切除しようと いうことになりました。 しかしこれだけならまだ良かったのですが、内視鏡が肛門に近いS字結腸に差し掛かった 時、検査の担当医の操作の手が止まり、これは悪性かも知れないから組織を取って調べて みようと、言われました。その時担当医が思わず漏らした「残念」という言葉が、今でも 心に残っています。

2021年4月2日金曜日

貴志祐介著「我々は、みな孤独である」を読んで

書名に惹きつけられて、貴志祐介の小説を今回初めて読みました。 ホラー小説の名手ということで、過激な残酷描写には、少したじろぐところがありました が、そこは練達の筆さばき、躊躇う気持ちも片方にありながら、先を知りたい衝動にぐい ぐい引っ張られて、気が付けば読了していました。 むしろ、良識を尊重すべきであると思っている私が、このような小説に魅力を感じること に、複雑な思いが残りました。しかし、それだけ面白い小説である、ということなので しょう。 主人公の探偵茶畑徹朗(ちゃばたけてつろう)は、大切な顧客である大企業会長の依頼人 から、前世の自分を殺害した犯人を捜し出せ、との依頼を受けます。そしてその犯人は、 依頼人が見た前世の夢の登場人物の中にいる、というのです。 全く荒唐無稽な話ですが、茶畑には、自身の事務所の金を持ち逃げされた上に、麻薬取引 のトラブルで追われている元従業員のために、幼馴染の冷酷非道なヤクザに金を要求され ているという止むを得ない事情があって、この依頼を引き受けざるを得ません。 以降、前世の記憶の中の犯人捜しと、前述のヤクザと同じく元従業員を追う、メキシコの 国際的麻薬組織の凶悪なメンバーたちとの息詰まる絡まりの中で、物語は進んで行きます。 更には、前世の犯人捜しという雲をつかむような探偵劇のキーパーソンとして、霊能者 賀茂禮子の存在が重要になって来ます。彼女の託宣を通して茶畑は、宇宙的真実という 目くるめく禁断の世界に入って行きます。 ミステリーのようでホラー、オカルトの要素も含む、ある種混沌とした雰囲気をまとう 小説ですが、ここで語られる真実というものを、著者が並々ならぬ情熱を持って物語の中 で構築して行くゆえに、読者はあたかも、そのような事実もあり得るかも知れないという、 感慨を覚えます。 ましてや我々人間は、科学技術の発展によって、宇宙の真理に近づきつつあるという自負 を持ちながら、実際には、自身が宇宙の摂理の中のいかなる存在であるか、また、霊とは 何か、輪廻転生は存在するのか、といった形而上の問題には、まだまだ答えを見出せない でいます。 そのような人智の及ばぬ世界に、しばし心を誘われるという意味でも、一級の娯楽小説 であると感じました。