2023年1月26日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2565を読んで

2022年11月23日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」では 歌人正岡子規の『正岡子規ベースボール文集』から、次のことばが取り上げられています。    ベースボールにはただの一個の球(ボール)あるのみ。そ    して球は常に防者の手にあり。 正岡子規は、大の野球好きだったそうです。でも、「球は常に防者の手にあり。」という 着眼点には、目からうろこの気持ちがしました。 確かに、サッカー、バスケットボール、ラグビー、アメリカンフットボールなど、他の大半 の球技では、攻撃側が球を支配して防御側を攻めます(従って、ボールを所持する側が入れ 替わったら、攻守が逆転します)。しかし野球では、ボールを手にするのは終始一貫して 守る側です。 また、攻撃側が得点を挙げるためには、防御側の手の届かないところに打球を放つなど、 相手の守りを阻止することが必要になります。つまり、球を所持した守備側の通常の防御を 破綻させることが、得点につながるのです。 即ち、このような直接的ではなく、回りくどいルールの中で、選手や観客をボールそのもの に集中させるシステムに、野球の醍醐味があるのではないでしょうか。 このことばを読んで、そんなことを考えました。

2023年1月19日木曜日

入江曜子著「貴妃は毒殺されたか 皇帝溥儀と関東軍参謀吉岡の謎」を読んで

大日本帝国の傀儡国家満州国の建国と崩壊は、加害側の日本国にその後生を受けた人間である私に とっても、今なお苦く、しかし興味を惹かれる歴史的事象です。 本書は、第二次世界大戦終結後、日本の戦争責任を問う極東国際軍事裁判(東京裁判)で、原告側 証人として出廷した元満州国皇帝溥儀の、日本軍部の満州での専横の象徴として、満州国に派遣 されていた関東軍参謀兼満州国皇帝付吉岡安直中将が、日本に批判的であった皇帝側室譚玉齢を 謀殺したという証言を巡り、著者が当時の資料の精読と共に、関係者へのインタビューを重ね、 吉岡の汚名を晴らし、歴史的真実を明らかにしようとする書です。 例によって、私の旧宅の本箱から出て来た本で、20年以上前に発行されている書籍なので、今読ん で私が抱く感慨と、発刊当時の人々の受け止め方には齟齬があると推察されますが、あくまで現在 の私の思いに則して、感想を記してみたいと思います。 さて、歴史上の出来事を語る場合にも、当事者は、本人の見解や自分に都合の良い解釈を用いて、 語ることが多いと思われます。特に崩壊時における皇帝溥儀の立場からすると、祖国中国への裏切 り行為に対する後ろめたさや、自らが責任を追求されることを忌避するために、全責任を日本軍に 転嫁しようとし、東京裁判当時、ソ連に抑留されて所在不明であった吉岡中将がその標的となって、 責任を全て負わされることとなったことは、十分に考えられることです。 また、日満親交の象徴として、溥儀の弟溥傑に嫁いだ日本華族の令嬢浩が、その回想記の中で、 戦前は日満の、戦後は日中の友好活動における自らの存在価値を高めるために行った記述が、結果 として日本軍部の皇帝に一番近い存在であった吉岡を、貶めることになったことも理解出来ます。 従って本書の記述が、この本が刊行された当時において、吉岡が受けていた不当な非難を是正する 点において、一定以上の意味があったと思われますし、また私が知らなかった満州国崩壊後溥儀の 日本亡命を阻止しようとする動きが、軍部内にあった可能性への言及も、印象に残りました。 しかし他方、今現在からの視点から見ると、本書は、日本軍部の中国での非道の所業を不当に低く 描き、歴史的公正を装いながら、特定の人物をことさら高く評価し、逆にある特定の人物の人間性 を、執拗に非難しているように感じられます。 発刊当時読者が受けた感慨は分かりませんが、私はその部分に少し違和感を覚えました。

2023年1月9日月曜日

高橋たか子著「怒りの子」を読んで

著者の作品を読むのは初めてで、しかも、この著者について何の予備知識もありません。私の家の 建て替えに伴い本箱を整理していて、埋もれていた本を中心に、新築完成後の7月から読書している ので、2~30年前に刊行された本を読んでいることになります。それはそれで、新鮮で楽しいと感じ ています。 この作品は、舞台が私の生まれてから暮らす京都なので、従って30年余り前のこの町を描いている ことになります。だから、今現在とはまとう雰囲気が違うところもあり、しかし、私自身が幼少期 からこの町で育つ中で感じて来たこと、あるいは、その当時には気づきませんでしたが、この本で 描かれることによって、ああそうであったかと思い起こすことが確かにあると、感じました。 それは古い町で、小さい家が狭いところに立て込んでいるために、因習に縛られる部分や、親密さ と警戒感、対抗心がないまぜになった、複雑な人間関係が支配していることです。この感覚は、 実際にそこに住んでいる地元民にはある意味免疫が出来て、あまり意識もしなくなっているのです が、部外者で突然にそこに放り込まれた人間には、あたかも魔窟に一人佇む心地かも知れません。 その意味で一昔前、京都の街中に他地方から嫁入りする女性は苦労すると言われたのも、頷ける気 がします。 さてこの本の主人公美央子も、地方から出て来て、京都の得体のしれなさに飲み込まれてしまった 1人です。彼女は、この町で専門学校に通いながらも、人生の目標が見出せなくて、結婚願望を目的 とはき違えて、親戚筋の年配の独身男性に好意を寄せるも、振り返ってもらえず、自暴自棄になって 殺人を犯します。 このストーリーは、よくある青春の蹉跌を描いた小説とも言えますが、被害者が京都の市井の醜い 部分を体現するような存在であり、美央子が絡みつくそれを断ち切ろうとして、悲劇が起こったとこ ろに、人間の普遍的な性の深淵を描く重厚さがあります。 また美央子が憧れる、この町で逞しく暮らす親戚の初子が、具体的に語られる訳ではありませんが、 キリスト教の信仰を持っていることは、著者が魂の平穏のために必要なものとして暗示したかった ことかも知れませんし、殺人事件の後美央子が、この事件の原因が不可抗力とも解釈できる状況の 中で、あえて罪を認め、服役中に初子の「愛」という言葉を回想する場面には、彼女に許しが訪れ ることを示唆しているとも思われます。