2022年12月27日火曜日

「鷲田清一折々のことば」2561を読んで

2022年11月19日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2561では 理論物理学者・佐治春夫の随筆集『この星で生きる理由』から、次のことばが取り上げられて います。    過去は新しく、未来はなつかしいものなのか    もしれませんね。 一見矛盾するようなことばですが、その真意は、今が満たされた境遇でないと、人はつい過去 のせいにする。だが記憶はその時々の心情によって塗り替えられるものなので、過去の評価も これからの自分の身のふり方によって決まる。というものだそうです。 確かにそういう面もあるかもしれませんが、でも、過去の満たされない体験は、それと照らし 合わせて今の有難さを感じさせることもあるので、一概には言えないとも思います。 それよりもむしろ、将来の自分の体験の中で、今まで感じたことのない過去の自分の新しい面 を発見することが出来るとしたら、その方がずっとスリリングであると、私は思います。 そのような過去の自分の再発見を目指して、毎日を積極的に過ごして行けたらと思います。

2022年12月22日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2526を読んで

2022年10月14日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2526では NHKテレビの番組「プロフェッショナル」(9月30日放送)から、”ホルモンの神様”とも呼ばれる 焼肉職人・豊島雅信の次のことばが取り上げられています。   俺も放られたもんだから、ホルモンみてえな   もんだって。 幼くして事故で右手の指を失った豊島は、希望の就職もできず、失意のうちに実家の焼肉店を手伝 う中で、ある日、肉の部位のうちで用なしとされるホルモンが、自らと同じ境遇に思え、仕込みに 必死の工夫を重ねて、全国から客が訪れる伝説の人気店を作り上げたといいます。 私もこの番組を観て、強い感銘を受けました。彼は仕込みに試行錯誤を重ね、ホルモン各部位の 最良の下処理方法を見出し、しかも手間を惜しまずその処理方法を継続することによって、いつも 最良の状態の肉を客に提供します。その結果客は、他店では味わえない美味しい焼肉を食べること が出来て、大きな満足感を得るのです。 自らが天職と見定めた仕事に、体も厭わず、全生活をかけて取り組む豊島の姿に、本当の職人を見 る思いがしました。また彼は、毎日長時間のホルモン肉の下処理を行うだけではなく、店の便所 掃除も率先して行います。この行為は、来店してくれる客への感謝の現れとも感じました。 効率と合理性が優先される現代の社会で、仕事というものの原点を見る思いがしました。

2022年12月13日火曜日

長谷川智恵子著「「美」の巨匠たち」を読んで

当時著名な画廊である、日動画廊副社長として美術界で活躍していた著者による、洋の東西の 美術の巨匠へのインタビューをまとめた本です。 本書の出版が2010年で、しかもその元になる『素顔の巨匠たち』が1981年に刊行されているの で、本書に含まれるインタビューの大部分が、今から40年以上前に行われていることになり ます。 それ故、今現在から振り返ると、約半世紀前のインタビュー記事を読むことになり、恐らく 全てのインタビュー対象の美術家が最早鬼籍に入っていると思われますが、それぞれが美術界 において一時代を築いた芸術家であり、これだけの時を隔てて読むことに、かえって価値が あると感じられました。 さて本書を読み進めて行くと、登場する巨匠と呼ばれる各芸術家が、興味深い個性的な人物で あるのは言うに及ばず、インタビュアーである著者長谷川智恵子の魅力が、彼らのありのまま の姿を引き出すために、大きな力を発揮していると感じられました。 それほどに長谷川は、才色兼備の魅力的な女性で、また当時の美術界で影響力のある働きを して巨匠たちにも一目を置かれ、更には、美術への愛情と彼らへの敬意が相手にも伝わり、 インタビューの現場で本音を引き出すことに成功している、と思われました。 ただわずかな難点を挙げれば、彼女の対象芸術家への過剰な思い入れがイメージを限定して、 時としてインタビューを形にはめてしまっていると感じるところがありますが、いずれにして も、今は亡き巨匠たちの生の姿に触れられるという意味で、貴重な本であると思いました。 さて、それぞれの巨匠たちの具体的な印象は挙げるときりがないので、実際に本書を手に取っ てもらうということにして、全体を読んで感じたことを記しますと、まずこれはある意味当然 のことですが、インタビューに際して彼らが自分の作品を観てほしいと言うこと、またそれ ぞれの生き方として、職人気質であったり、破滅型であったり、自分のイメージを装う人物が いること、更には、本書に登場する数少ない日本画家東山魁夷の語ることは、明らかに内省的 な精神性において、他の西洋美術の巨匠たちとは異質であると感じられて、このあたりに東西 の文化の差異が現れていると思われ、大変興味深く感じました。 いずれにしても、期待した以上の充実した読書体験でした。

2022年12月6日火曜日

辺見庸著「自動起床装置」を読んで

1991年の第105回芥川賞受賞作です。それから30年以上の歳月が経過しているのに、決して古びて はいず、批評精神に富み、楽しく読みました。 まず、報道機関の宿直室が舞台であることが、私にとって意表を突いていました。正に、興味は あるけれど未知の世界なので、期待が膨らみました。 総合管理部深夜職員控室付きの、アルバイト職員である語り手水田満の業務は、宿直者の世話 一般、そして就寝中の希望者を指定の時刻に起こすことです。しかしこの「起こし」の業務が奥 深く、一筋縄ではいきません。人は、寝相も含め眠り方には色々な癖があり、寝つき、寝起きに も善し悪し諸相があります。そこで満らの重要な任務の一つは、寝起きの悪い宿直者をいかに気 持ち良く起こすかということになります。 ここまで読んで、自分の最近の就寝時の様子を振り返ると、身につまされるところがありました。 私の個人的なことながら、一昨年大腸がんの手術を受けて、S状結腸を一部切除したこともあって、 以降徐々に回復してきているとは言え、腸の調子が安定せず、それが睡眠にも影響していびきを かくことが多くなりました。 それが昨年、自宅の建て替えで小さい仮住まいに移ったこともあって、それに伴うストレスも重 なって、大いびきをかくようになり、間近で寝なければならない家族から苦情が起こったのです。 家人から注意されて、改めて自分の睡眠状態を意識すると、熟睡出来ていないことから、昼間も 注意力散漫になっていることに気づかされました。睡眠の重要性を思い知らされたところです。 さて、水田満の相棒に、起こし名人の小野寺聡がいます。彼は、寝起きの悪い宿直者に献身的に 寄り添い、ささやきかけるように声をかけることによって、心地よい目覚めを促します。事ここに 至って、著者は現代人のストレス過多、退行性を皮肉っているように思われます。 しかし、話は勿論そこでは終わりません。この会社の総合管理部は何と、「自動起床装置」を 試験的に導入することに」なります。この装置は、枕の下に設置された布袋が、タイマーに従って 間欠的に膨張、収縮を繰り返すことによって、就寝者を起こす仕組みで、試行の結果さしたる異論 もなく、導入が決定します。 小野寺は、起こし名人としての自負を打ち砕かれ、満共々この仕事を離れることになりますが、 ここでは機械が人に取って代わる何か味気ない未来と、人間の本能までが機械に制御される、人間 力の衰退への告発が感じられました。

2022年11月30日水曜日

白洲正子著「西行」を読んで

昭和61年4月号から昭和61年12月号までの間、「芸術新潮」に連載されたものをまとめた作品です。 ずっと本箱に眠っていたのが、この度自宅兼店舗を建て直し、そのための本棚の整理で再発見し、 ようやく読むことになった書籍です。 西行については、「願わくは花のしたにて春死なん・・・」の有名な歌こそ知っていますが、その 生涯や人となりはほとんど知らないので、当時この本を購入したのだと思います。また、日本の 文化に造詣の深い風流人である白洲正子が著者なら、この人物の深いところを知るのに打ってつけ であると、考えたのだと推察します。 さて、武士時代には格段身分が高い訳ではなく、23歳で出家して風流の道を歩んだ西行は、歴史の 表舞台という側面では、何ら際立った功績を残してはいません。しかし彼が詠んだ数々の名歌は、 文芸史上に燦然と輝いています。 当然白洲の西行探求は、彼の和歌を中心に据えたものとならざるを得ず、更にはその探求方法と して、彼女は実際に現地を訪れて彼の足跡を追う方法を、選んでいます。 それに従って読者も西行の足取りを追体験することになりますが、まず気づくことは、彼が表舞台 からはリタイヤしながら、それを全く遮断する訳ではなく、案外その影響関係の中に生きていたと 感じられることで、当時の出家が一般的にどのようなものであったか分かりませんが、少なくとも 彼の場合は、一心に仏道に帰依するというよりは、世間の煩いから一定の距離を置いて、ひたすら に感性を磨き、好きな歌の道を追求することが、仏の心に通じると感じていただろうことです。 この彼の一貫した信念を、白洲は数寄に徹した生涯と呼んでいるのだと思われます。 このように考えると西行の生涯において、多くの場合気の向く方角と見えるような移動を重ね、 各地に庵室を構えていることも、ただ風狂の赴くままと理解出来ますし、彼の謎に満ちた行動に 一定の整合性が生まれるようにも思われます。 しかし彼の傑出した人物たる所以は、これほどの作歌に徹した一生でありながら、いやそれ故に、 晩年にはより自由な境地に至り、天衣無縫の秀歌を生み出していることで、彼の生涯がある意味 日本人の精神的な理想を体現するものであると、改めて感じられました。 ただ、本書はあくまで白洲正子の解釈による西行の生涯であり、歌以外に文献の少ないこの人物に ついては、これからも色々な解釈が生まれる可能性があるに違いありません。それもまた、楽しみ ではあります。

2022年11月25日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2515を読んで

2022年10月2日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2515では 哲学者・鶴見俊輔の初期の論考「言葉のお守り的使用法について」(「思想の科学」創刊号) から、次のことばが取り上げられています。    言葉のお守り的使用の盛況は、合理的思索の    衰勢を意味する 鶴見は「自身の社会的立場を守るために、権勢をふるう人たちの価値観を表す言葉を自分の 上にかぶせるような言葉遣いを、「お守り的使用」」と呼んだそうです。例えば戦後なら 「民主」や「自由」など。 自分で考え、実践することを提唱した、いかにもこの哲学者らしい物言いだと思います。 何も難しく考えなくても、自分に引き付けてみれば、これはうなずけることだと思います。 例えば私なども、社会的なことを話題にする時、深く考えず「民主」や「自由」を錦の御旗 にして、いかにもそれが正当なことのように、語っていたことがあると思います。 これは、この「民主」や「自由」の概念が、私たちが実際に革命などを通して獲得したもの でなくて、敗戦後米国によって与えられたものであることも、大きく関係しているのではない かと、推察されます。だから私たちは、これらの言葉を載せれば支配的価値観から逸脱する こともなく、また、高尚な物言いが出来ていると感じるのではないでしょうか? でも鶴見の言うように、無自覚にこれらのキーワードを使っているうちは、真の自分固有の 思考にはならないでしょう。「民主」や「自由」とはそもそも何かということから、掘り下げ て行かなければならないのだと、思います。

2022年11月16日水曜日

富岡多恵子著「ひべるにあ島紀行」を読んで

著者のアイルランド旅行をモチーフにした、当地に没した「ガリヴァー旅行記」の作家スイフト の生涯に思いをはせながら綴った、思索的な小説です。 私は、アイルランドという国にも、スイフトにも明るくないので、本書がその前提の下に語り掛 ける物語の深い意味を、どれだけ理解出来たか分かりませんが、本書を読んでかえって、知識が 乏しい故の発見、驚きはあったと感じられました。 まず第一は、スイフトという人物の多面性について。彼は高位の聖職者であり、かつ作家でした。 それ故社会批評をはらむ彼の著作は、匿名で発表されざるを得ませんでした。「ガリヴァー旅行 記」でさえそうでした。 私は子供の頃に、児童読み物としてのそれしか読んだことがないので、本書を読んで、このファ ンタジーと思っていた物語の捉え方が変わりました。 それのみならず彼は、「ドレイピア書簡」という、当時アイルランドを搾取していたイングラン ドを痛烈に告発する書簡を発表して、イングランド当局ににらまれています。 どうして彼はこのような行動に出たのか?それは彼が、恐らく血縁の関係で結婚を阻まれた、 一人の女性との「激しい友情」とも関りがあると推察され、また、アイルランドの厳しい気候風 土に起因しているとも、思われます。 本書の著者富岡多恵子は、実際に現地に滞在して時空を超えた幻想の世界をさまよいながら、ス イフトの怒りや絶望の根源にあるものを、あぶり出そうとします。その過程がスリリングでした。 更には、、当時のアイルランドの貧困と窮状へのスイフトの憤りは頂点に達し、彼は貧困層の 多産する子供を、一層食材として供してはどうかという狂気じみた提案もしています。その皮肉 を突き抜けた提案を受けて、富岡の心は架空の国家ナパアイ国に飛び、幼児性愛のおぞましい現場 を幻視しますが、本書が書かれた当時のみならず、今現在でも繰り返される性的目的による児童 虐待の凄惨な事件は、私たちが目を背けたくなる人間のどうしようもない性を、示しているように 思われます。 決して結論が示されている訳ではありませんが、人が生きていくことのたとえようのない哀しみ、 しかし、それでも生きて行かなければならない現実が、肯定感を持って示されているように感じ ました。 またフィッシュマンズセーターのエピソードも、工芸というものの原点を示しているようで、印象 に残りました。

2022年11月11日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2495を読んで

2022年9月11日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2495では NHKテレビのドラマ「あなたのブツが、ここに」(脚本・櫻井剛、第8回)から、登場人物 の宅急便ベテラン社員の次のセリフが取り上げられています。    みんな生き残んのに必死なんや。数の問題ち    ゃうぞ。一個一個が切実なんや。 大量の荷物に音を上げた、シングルマザーの新米宅配員の愚痴に先輩が答えた言葉、だ そうです。 そうコロナ禍は、様々な仕事に携わる人々に、深刻な影響を及ぼしました。客足が途絶え 経営難に陥る飲食店。その他にも売り上げが極端に減って、先行きに危機感を持つ商工 業者、旅館観光業者が多数存在しました。 そうかと思うと、医療関係者は多忙を極め、前述の宅配業者なども過重労働に悲鳴を上げ たい人が多数いたことでしょう。 でもそれぞれがこの過酷な条件の中を必死に働く、いや生きるしかない。皆がそういう 思いであり、現在もそういう状況が続いている人が大勢いるでしょう。 私たちの店なども、コロナ以前の状況には遥か及ばず、このような状態がいつまで続くの かと、不安を感じることもあります。 でも先々の回復を信じて、今は歯を食いしばり皆で頑張って行くしかない。そのような 決意を新たにしている時に、上記の言葉は胸に刺さりました。

2022年11月5日土曜日

「鷲田清一折々のことば」2459を読んで

2022年8月5日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2459では 英国の思想家R・クルツナリックの『グッド・アンセスター』から、アパッチの格言の次の ことばが取り上げられています。    「我々は先祖から土地を受け継ぐのではな    い。子供たちから土地を借りるのだ』 この格言を引きながら、思想家は、私たちが「よき先祖」であったかを最終的に評価する のは、未来のすべての子供たちなのだ、と言います。 なかなか深い言葉であると思います。例えば環境問題が正にそう。 私たち現在の世代が環境破壊や汚染を進行させると、大きな被害を受けるのはつまり、未来 の世代です。 今現に地球温暖化による様々の悪い影響が、世界各地で確認されていますが、このまま環境 破壊が進むと最早取り返しのつかない状況に陥ることになります。そうなってしまってから 慌てても、対処のしようがありません。 結局未来の子供たちが、先祖である私たちの所業を嘆くことになってしまいます。現在を 生きる私たちは、自分たちの欲望や快適さ、経済効率を追求するだけではなく、持続可能性 に考慮することによって、未来の世代への目配りも忘れないようにしなければならないで しょう。 それは将来の人類への配慮だけではなく、地球環境を構成している全ての生き物への目配り であるべきです。 このことばを読んで、改めてそのことを強く感じました。

2022年10月24日月曜日

ルシア・ベルリン著「掃除婦のための手引書ールシア・ベルリン作品集ー」を読んで

無論、ルシア・ベルリンという作家の名は、本書で初めて知りました。そして、読後他の作家の小説 では味わえない、感触、読後感を受け取りました。しかしながら、それが何であるかは、一言で言い 表わせません。従って、書き記しながら、順を追って考えてみたいと思います。 まず、彼女の作品が自身の日常に題材を取りながら、極めて多面的であることが挙げられます。これ は彼女の複雑な生い立ちと、波乱に富む人生に起因します。彼女は1936年アラスカに生まれ、鉱山 技師であった父親の仕事の影響で、広大なアメリカ大陸の各地の鉱山町を転々としながら成長します。 母親はアルコール依存症で感情の起伏が激しく、父の第二次世界大戦での出征後は、母の実家で過ご すことになりますが、祖父は有能な歯科医でありながらアルコール依存症、叔父もまたそうである 環境で暮らすことになります。 父の帰郷後は南米に移住、貧困から一転召使付きのお屋敷での優雅な暮らしに変わり、ニューメキシ コ大学進学後在学中も含め3回の結婚をして4人の息子を設け、最終的に離婚後シングルマザーとして これらの息子を育てながら、学校教師、掃除婦、電話交換手、救命医療の看護助手などとして働き ましたが、自身もアルコール依存症で苦しむことになります。 経歴の説明が長くなりましたが、彼女の小説の魅力の核心は、正に彼女の人生にこそあります。つま り、この入り組んだ複雑な人生を色々な角度から切り取ることによって、多様性に富んだ小説が生ま れるのです。 次に、小説創作に当たり、彼女が自らの人生に向き合う姿勢がいかなるものであるかというと、まず あるがままを受け入れ素直であること、他人の苦しみに共感し偏見がないこと、そして人生を達観し ていること、が挙げられると思います。 このような執筆態度で作品を生み出すことによって、彼女の多面的な人生を題材にした小説は、広範 な領域での人間の普遍的な姿を描き出すに至っていると感じます。 そして何より、彼女の作品を輝かせているのは、文章がまとう独特のリズム、卑俗と高貴さが程よく 混ぜ合わされた表現法、即物性と詩情を併せ持つ比喩にあると感じました。 この小説を読み終えた者に、人生への肯定感と希望を与えてくれることも含め、続編が読みたくなり ました。

2022年10月14日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2481を読んで

2022年8月28日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2481では 台湾の作家李屏瑤の小説『向日性植物』から、次のことばが取り上げられています。    手に入ったものに無頓着なのに、失ったもの    がいつまでも記憶に残るというのは、人間の    性だ。 この言葉に添えて鷲田は、「人生の時々に、自分が何と出会い、何を得、何を捨てたかは、 ずっと後でしかわからない。ただ失ったものはすぐに気づき、取り返しのつかなさに うろたえる。」と続けています。 確かに、私たちは喪失に敏感で、今手に入れているものの有難味には鈍感な者でしょう。 そういうことは、枚挙にいとまがないと思います。失って初めて、その有難さに気づくと いうような・・・。 あるいは、失ったものはずっと余韻を残し、逆に得たものは直ぐに当たり前になってしまう。 私の今回の店舗兼自宅の建て替えにしても、失った古い家屋、その際整理をした大多数は がらくたの古い品々には、亡き祖父母や父母にまつわる記憶の堆積があり、今でも思い出す ともの寂しく、ひりひりとした感覚が蘇ります。 では新しく建てた建物については、完成した当座は達成感や、真新しさへの感激はありま したが、数か月経った今となれば、コロナ禍の影響も残り商売が軌道に乗っていないことも あって、負担感の方が強くなって来ました。 しかし、商売を継続するという目的で、十分に熟考した上でこのような決断をしたのですか ら、初心に帰り、もう一度真摯に仕事に向き合って行きたいと、決意を新たにしています。

2022年10月7日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2449を読んで

2022年7月26日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2449では 随筆家白洲正子の『美の遍歴』から、装丁家・評論家青山二郎の次のことばが取り上げられて います。    「人間は、思ったり、したり、できはしな    い」 白洲が青山に、「何々しようと思うけど、どうかしら」と訊いた時、帰ってきた答えだそうで す。 色々な解釈があると思いますが、これに続くのが、ある老人が家の前にゴミを捨てられて困る ので、そこに外灯を付け、美しい草花を植えたらぴたりと止んだ、という地方新聞の記事で、 それを読んだ白洲が思ったのが、「千の『思うこと』も、一つの小さな行為の前に、いかに むなしいか」ということなので、思うことより行動すること、それもただ闇雲に阻止しようと するのではなく、人の感性に訴えかけなければならない、ということでしょうか? 私は、思い続けることが物事の成就につながることもある、と思いますが、そこは美に魅せら れた生涯を送った白洲正子のこと、この言葉の受け取り方は一般的なことではなく、美を巡る 行為の普遍性、共感力の強さを語っているように感じました。

2022年9月30日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2413を読んで

2022年6月19日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」では 漫画家やなせたかしの『アンパンマンの遺書』から、次のことばが取り上げられています。    正義は或る日突然逆転する。    正義は信じがたい。 漫画家はアンパンマンの原点として、自らの軍隊生活と戦後の価値観の劇的な転換を体験して 感じた、上記のことばを挙げます。 確かに正義を振りかざす言説ほど、いかがわしいものはありません。例えば至近では、ウクラ イナ侵攻を巡るロシアのプーチン大統領の主張など。 あるいは、近頃のネットの言論では、ロシアのウクライナ侵略の原因として、ロシアの立場を 支持する物言いを初め、コロナワクチンを巡っても、陰謀論が渦巻いています。 私たちは何が正しく、何が間違っているか、冷静に客観的に判別する目を持つことが必要で しょう。そしてその際には、正義をかざすものはまず疑うべきでしょう。なぜなら、人は全能 の神ではなく、必ず誤るものだからです。 アンパンマンは完全無欠のヒーローではなく、敵役のバイキンマンも根っからの悪人ではあり ません。それ故にアンパンマンは闇雲に正義を振りかざすのではなく、弱い人に寄り添い、 ひもじい人には、パンで出来た自らの顔をちぎって与えるという自己犠牲を厭わないのでしょ う。 正義を疑うことは、今特に必要であると感じます。

2022年9月23日金曜日

浅羽道明著「星新一の思想 予見・冷笑・賢慮のひと」を読んで

我々の世代なら、誰もが通過儀礼のように体験したと感じられる、星新一のショートショート。そして、 最相葉月の初の本格的評伝「星新一 ー1001話をつくった人」で、作家自身が作品から与えるイメージ とはかなり違う、複雑な人生を生きた人であったことを知ったのでした。 しかし、それにしてもなお、今回初の本格的な作品論である本書を目の前にして、彼の諸作を系統立て て評論することが可能であるということに、驚きがありました。つまり、彼のショートショートは、 機知と意外性に富んだ設定、ストーリー展開で私たちを楽しませ、予想を超えた結末で期待を裏切り ませんが、読者にはおおむねそれぞれの作品が、完結した断片と受け取られるからです。 しかし本書を読み終えて、著者が星新一の夥しい作品群を総括して、現代の寓話と結論付けたことには、 納得させられるものがありました。これは著者の並外れた星新一愛と、精緻な作品の読み込みによって 初めて可能となったもので、その点には大いに敬意を表したいと思います。 またこのような星の作品評価が生まれる契機となったのは、作品発表から適宜な年月が経過したからと いうことも、忘れることが出来ません。なぜなら今日に至って、一見脈絡なく書き散らかされたように 見える作品たちが、現代を照らすずば抜けた予見性を有することが、明らかになったからです。 いわゆるインターネットの飛び交うIT社会の弊害、AI化の急激な進展に伴う人間疎外の問題、星の諸作 は今読むと、来るべき未来に警鐘を鳴らし、私たちが対処すべき課題を問いかけて来ます。その作品の 寓意性は、イソップ童話にも比して、人間の営為の核の普遍的なものを、浮かび上がらせているのでは ないでしょうか? こう考えると星新一には、父親の創業した製薬会社の社長を一時勤めながら、事業に失敗したという 負い目を感じさせる過去があり、作家になってからも、読者を飽きさせない商人的な資質を持ち続けた という本書の指摘から、彼の作品群は、読者の期待に応えたものの集積という側面があることが分かり ます。 つまり、星新一という卓越した理系の頭脳を有する人物が、読者の願望を集約したものとして創作した 夥しい諸作品が、結果として人間の普遍的なものを指し示すことになったという事実に、大変興味を 感じさせられました。 知的刺激に富む書でした。

2022年9月16日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2410を読んで

2022年6月16日付け朝日新聞朝刊、「「鷲田清一折々のことば」2410では 『伊勢物語』の最後に引かれる、歌人在原業平の次の歌が取り上げられています。    つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふ今    日とは思はざりしを これを現代語に訳すると、いつか最後に歩む道だとは前から聞いていたが、まさかそれが 昨日や今日だとは思いもしなかった、ということだそうです。 人は誰しも、必ず死を迎えるものですが、それがいつだかは分からない。しかしある日、 予期せぬ事故や病気を患い、思うように動けなくなったり、寝たきりになったり、そして 思いがけぬ時に、生が途絶えるということもままあるものです。 そういうことを、昔の人は無情と言ったのでしょうが、現代は医療技術の発達や社会環境 の安定によって、死というものが余計に見えにくくなって、それに伴い私たちも日常的に 意識することが少なくなって、その結果死を制御出来るもの、人生はある程度思い通りに 設計出来るもの、といった感覚を抱くようになっていると感じます。 しかし本質的に人間は生き物であって、死はいつ訪れるか分からない理不尽なもののはず です。私たちはその根本的な感覚を決して失わず、与えられた時間を精一杯生きるべきだ と思います。

2022年9月6日火曜日

ジョセフ・コンラッド著「ロード・ジム」を読んで

逞しく勇敢だが、筋を曲げることの出来ない、不器用な一人の男の行状を、壮大なスケールで描く 冒険譚です。 1900年前後に執筆された作品ですが、コンラッドは、小説家ではフィッツジェラルドやヘミング ウェイ、フォークナー、更にはエリオット、ジイド、ガルシア=マルケスなどに影響を与え、映画 界でもオーソン・ウェルズやヒッチコック、ワイダ、フランシス・コッポラといった錚々たる監督 が、彼に影響されて映画を制作したということで、本書を読んでも、以降の欧米の小説や映画の ヒーローの原型を見る思いがしました。 一般に物語のヒーローというものは、勇敢で屈強、勧善懲悪を貫く存在ではありますが、心に弱さ や闇を抱えているものです。それ故ストーリーに奥行きが生まれ、読者、観客は、その作品に感情 移入しやすくなります。本書の主人公ジムも、冒険者としての類まれな資質を持ちながら、極端に 自らの名誉を重んじるという性格によって、結局は破滅に導かれることになります。 その生涯は壮絶な悲劇とも言えますが、彼の生き方には一本真っ直ぐな筋が通っているという意味 で、読み終わった後に、読者は清々しい気分に包まれます。こういう読後感においても、この作品 は後続の先駆をなすと思われます。 さてこの小説のもう一つの魅力の柱は、冒険的場面の優れた情景描写です。インド洋から太平洋を 股にかける主人公の遍歴の中で、嵐を目前にして今まさに沈まんとする老朽船の描写の迫真の筆遣 い、東南アジアの島で展開される、現地人と侵入して来た白人のならず者グループとの血生臭い 戦闘を、手に汗握る場面として眼前に現出させる迫真の描写力には、感心させられました。この 部分においても、現代の冒険小説の先駆であると感じられました。 この小説では、ジムの後見人ともいえる、自らも船の船長であるチャールズ・マーロウが、ジム 本人や関係者から話を聞いたり、目にしたことを語り聞かせるという方法で、物語が進められます。 その方法によって、ジムの言動に客観的な視点が加えられ、あるいは、マーロウの彼に寄り添う 感情を通すことによって、ジムというヒーロー的人物の輪郭が、くっきりと浮かび上がるように 感じられます。 彼とは正反対の人間である私もやはり、ジムの人間的な欠点には、共感するものを感じました。

2022年8月30日火曜日

池上彰、佐藤優「激動日本左翼史 学生運動と過激派1960-1972」を読んで

池上彰と佐藤優の対談を通して、第二次世界大戦後の日本の左翼史を跡付ける、シリーズの二冊目 です。本書の中心テーマは、学生運動です。 まずその前史として、六十年安保闘争が描かれますが、当時私はまだ物心がついていなくて、この 政治運動は記憶にありません。 しかし労働組合員、学生を中心に、これほどまでに日米安全保障条約の改定阻止の機運が盛り上が ったことは、大多数の日本人が最早この条約を前提のようにして国際関係を考えている、現在の 状況と比較すると、隔世の感があります。 その当時は一定数以上の国民に米軍に対する拒否反応があったのか?あるいは、ソ連、中国の社会 主義を理想視する機運があったのか?前者については、大戦終結後まだ余り時を経ていないという 意味で、戦勝国米国に対する敗戦国の国民の屈折した複雑な心理は、間違いなくあったでしょうし、 後者については、現在の視点から見ると、ソ連崩壊を経て、社会主義の幻想から醒めてしまったと いうことはあるでしょう。 ただ私たちが、政治思想的な理想を信じなくなって、個人的利益に直結するものにしか興味を示さ なくなり、あるいは、最早その分野に全く無関心を装うようになった要因として、全体的な生活 水準の向上(今また貧富の格差が広がって来ていますが)や、社会の成熟化が第一にあげられると して、本書の主要テーマである学生運動の悲惨な形での挫折も、見過ごすことが出来ないと感じ ます。 さていよいよ、学生運動史です。大づかみに言うと、大学当局の横暴を糾弾したり、学生の権利 向上を働きかける形で、学生の自治組織が発展し、そこに左翼思想を信奉するセクトが絡んで、 大学自治だけではなく、政治思想をも発信する学生運動が盛り上がって行きます。 当初には思想的にも優れたものが生まれ、彼らの主張、行動は、一定の大衆の支持を得ていました が、次第に分裂して過激化し、内ゲバを繰り返し、ついには集団リンチ殺人、テロ行為を行うに 至り、国民から離反、急速に運動は衰えて行きます。この運動の挫折が、国民から政治思想的な 情熱を奪って行ったと思われます。 ではなぜこのようなことが起こったのか?運動推進者のエリート意識、独善、夢想癖、一般国民の 想いからの離脱などが挙げられると感じます。確かに現代という時代は、最早大上段に構えた思想 に人が動かされる時代ではないかも知れません。 しかし他方現代には、環境問題という緊急の課題があります。一人一人の人間が、当事者意識を 持てる運動の進め方が、更に強く求められていると感じます。

2022年8月25日木曜日

「鷲田清一折々のことば」2400を読んで

2022年6月5日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」では 解剖学者・養老孟司の随想「人生論」(「アステイオン」第96号)から、次のことばが取り上げ られています。    現代人は「仕方がない」が苦手である。何事    も思うようになるとなんとなく思っている風    情である。 そうです。実はほとんどのことが思うようにならず、自分の体さえままならないのに、私たちは 何でも思い通りになる、いやせめて、少しばかりはのぞみがかなうと考えている節があります。 勿論、大筋ではかなうこともある。でもそれは恣意的にかなうのではなく、流れの内でかなう ことになった、ということではないでしょうか? ではどうしてそのように考えるようになったのか?恐らくそれは、我々の生活レベルが上がり、 社会も安定して、大多数の人が、人生の既定のレールに乗れるようになって、そこを進むことが 当たり前と思うようになった。 あるいは教育においても、合理的な思考方法や機会の均等ということが盛んに奨励されて、我々 が願えば望みはかなえられる、という考え方が主流になったということ、と深く関係している ように思われます。 でも実はそれは幻想に過ぎず、本当は我々の望むことが手放しでかなえられることは、ほとんど ないのです。 このことを前提として、私たちは日々を過ごさなければならない。それは何も望みを捨てること ではなくて、かなわないのが当たり前、たまたまかなえば感謝しなければならない、ということ だと、私は思います。

2022年8月20日土曜日

井上光晴著「西海原子力発電所・輸送」を読んで

私の瀬戸内寂聴の文学への関心は、瀬戸内と井上光晴の親密な関係を描いた、光晴の子荒野の 著作を経て、光晴自身の小説へと行き着きまいた。 文学が結ぶ縁とは誠に面白いものだと改めて感じながら、本書はまた、執筆時の読書界の反響 とは異質の感慨を、今手に取る読者に与えます。 それはつまり、「西海原子力発電所」が将来起こり得る原発事故への不安を描く小説であり、 「輸送」は仮想の核廃棄物輸送事故を扱う作品だからで、今現在の私たちは、既に東日本大震災 による福島原子力発電所の取り返しのつかない大事故を、現実に経験しているからです。実際の 事故を目の当たりにした時、全ての虚構は吹き飛んでしまいます。 しかし、福島の事故があればこそ、この2作品は文芸文庫という形で再版されたのであり、著者 の井上もこの2作品の執筆当時、チェルノブイリの原発事故の影響を受けたと、語っています。 つまり、原子力発電がこれほどの危険性をはらみながら、私たちが長年に渡り原子力の平和利用 という美名の下に、見て見ぬふりをして来た欺瞞性を、早くもこの当時において、井上が小説と いう形で広く読者に訴えかけたという意味において、大きな意義があると感じます。 さて、そのようなことを前提に置いてこの2作品を見て行くと、「西海」では物語の舞台が九州 ということもあって、原子爆弾の被爆者による原発の危険性の認識と告発が描かれています。 これはある意味当然のことですが、原発の大事故後の現在から振り返ってみると、戦後の原発 推進政策は正に私たち被爆国の国民が、科学技術の発展による原発の安全性を盲目的に信じる ことによって、成り立って来たことが分かります。この小説はそのことを、私たちに改めて問い かけて来ると感じます。 「輸送」では核物質漏洩事故後の人々の日常生活の破綻と精神の崩壊が、生々しく描かれてい ますが、これに類する悲惨を我々はすでに、眼前にしています。 しかし事故の発生地域から離れた場所に居住している私たちにとっては、歳月を重ねると共に 事故の記憶を薄れさせる恐れがあります。その意味でも、この小説の当事者の内面を抉る切実 な記述は、貴重であると感じました。

2022年8月9日火曜日

稲垣栄洋著「生き物の死にざま」を読んで

各生物の生き様を、科学的知見に基づき分かりやすく記述する書物ですが、その人間的感情に寄り添う 独特の表現方法が、読後の余韻を残します。 例えば冒頭の「空が見えない最後 セミ」では、地中で長い年月の幼虫時代を過ごすも、地上に出て 成虫になってからは生き急ぐような短い生涯を閉じる、この昆虫が力尽きて地面に仰向きに転がる様を ”空が見えない最後”と記して、哀れさを誘います。 この昆虫は地中では木の根の養分を吸って長い時間をかけて滋養を養い、交尾という最終目的のために 地上に出て、目的を果たすと直ぐに命が尽きるという、客観的に見ると合理的な生涯を送るのですが、 この記述を読むと、読者はセミの一生を人生のはかなさと重ねざるを得ません。 また、「メスに食われながらも交尾をやめないオス カマキリ」では、体の大きなメスと交尾するため に文字通り命がけで近づくオスは、下手をするとメスに食べられてしまいますが、よしんば食われながら も交尾を止めないという、そして交尾中にオスを食べたメスは、通常の二倍以上の卵を産み、オスの死 も報われるといいます。 ここでは著者は、”何という執念だろう。何という壮絶な最後なのだろう。”と記して、子孫を残すこと に特化された生き様を読者に提示します。 「草食動物も肉食動物も最後は肉に シマウマとライオン」では、シマウマの赤ちゃんが肉食獣から身を 護るために生まれて数時間で立ち上がること、大人のシマウマでも油断したり、体が衰えると肉食動物 の餌食になり、彼らにとって天寿を全うする安楽な死はないということ。また他方ライオンも、狩りの 失敗が続けば飢え、犠牲となって真っ先に死ぬのは子供ライオンであり、狩りに携わりケガをしたメス ライオンは、やがて来る死を待つばかりになり、リーダーのオスライオンも、力が衰えれば若いオスに 群れを乗っ取られ、自分の子供を殺された上に、行き倒れとなって死を迎えざるを得ない、といいます。 著者は、”どう転んでも、最後は食われて死ぬ。それがシマウマの生き方”、”百獣の王であるライオン にとってさえも、安楽な死はない。王としての強さを失ったときが、ライオンにとって「死」なのである。 ”と記して、自然界の弱肉強食の厳しさを表現しています。 このように見て行くと、自然界の掟は何より子孫を残すことが優先され、大量に生まれることによって それを克服するものはあるものの、弱いものから失われて行くことが分かります。この現象は、自然淘汰 、進化の法則に合致するものです。 それに対して文明社会を築いた私たち人間は、ある程度までこの自然のくびきから、足を踏み出すことが 出来たと言えるでしょう。しかし高慢になって、この自然の摂理を歪めてはならないと、改めて思いまし た。

2022年8月3日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2386を読んで

2022年5月22日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2386では 能芸評論家・戸井田道三の『生きることに○×はない」から、次のことばが取り上げられて います。    自分を知っていると考えるのは自惚にすぎま    せん。……自信は自分が何を知らないかとい    うかたちで知っていることです。 人は年をある程度重ねると、自分のことはよく分かっていると過信しがちですが、なるほど 本当は、分かっていないというのが現実でしょう。 まず何より、自分の姿を外からの視線で見ることが出来ません。鏡に映っているのは、虚像 であって、真実の姿ではありません。なぜなら、見る時の気分次第で見え方が違うのです から。 これに限らず、自分がこういう性格だ、こういう場合やシチュエーションなら、こういう 行動をしがちだ、ということなども、気分のバイアスがかかっているに違いありませんし、 自分の嗜好を知っているということも、往々に他人からの評価によるところが大きいと、 感じます。 だから、自分は自分のことを本当は知らないという認識に達することが、自分に自信を持つ 早道なのでしょう。 その上で謙虚に人の意見に耳を傾け、客観性に照らして思考を巡らせ、慎重に行動すること が、自信を深めるために必要であると、感じます。

2022年7月26日火曜日

「鷲田清一 天眼 「はかる」ことができない?」を読んで

222年5月15日付け京都新聞朝刊「天眼」では、哲学者・鷲田清一が「「はかることができない?」 と題して、「思う・考える」を意味するフランス語のpenser(パンセ)が、「量る」「秤る」を 意味するラテン語penso(ペーンソー)からきているという指摘について、語っています。 これは、「はかる」が文化人類学者・川田順三によると、「比喩を用いて認知を拡大して行くやり 方」を意味し、たとえば、全体が量として不明なときに、なにか尺度とか目安になるものをあて がって全体を知ることだ、というのです。 そして、その目安になるものの一つが私たち自身の体であり、広げた掌や両手の幅、指先からひじ までの長さ、歩幅などであるということです。 つまり我々人間は、等身大の身体の尺度を使って、物事を考えるのであり、そうすることによって 初めて、実感を持って全体の意味を把握することが出来る、ということなのでしょう。 とかく近年は、電脳社会の進展によって、頭で考えることと身体が分離されてしまい、私たちは ネットの世界から絶え間なく流入して来る膨大な情報に、振り回され勝ちですが、やはり、身体 感覚で物事を考えるという習慣を、持ち続けるべきでしょう。 そして本稿でも鷲田が指摘しているように、今回のコロナ禍、ウクライナ侵攻という非常事態に、 我々が全体を見通すことが出来ないという戸惑い、得体のしれない焦燥感に囚われる中で、闇雲に 事態に翻弄されるのではなく、地道に自らの身体感覚に照らし合わせて、少しづつ行く末を模索 する姿勢が、必要なのではないでしょうか。

2022年7月20日水曜日

西村賢太著「苦役列車」を読んで

つい先日亡くなった、作家西村賢太の芥川賞受賞作「苦役列車」「落ちぶれて袖に涙のふり かかる」2作からなる、文庫本を読みました。 瀬戸内作品共々、作家が亡くなるなどのはっきりとした機会がなければ、普段から気になっ ている小説家の作品を読むことも出来ないのかと、自分のものぐささに飽きれたくなります。 さて西村の小説は、自身の荒れた人生を露悪的に描く私小説作品という評判をかねがね耳に して来ましたが、「苦役列車」は正にその典型的な作品と思われます。作家の分身である 主人公貫多は、彼の父親が強姦事件を引き起こしたために一家離散し、中学卒業で家を飛び 出し、安下宿に転がり込んで日雇い労働で糊口をしのぐも、怠け癖と風俗通いで常に金欠に 陥り、家賃滞納で下宿を転々とする、その刹那で絶望的な生活が赤裸々に描かれています。 私には経験をしたことのない世界で、物珍しさというものもありますが、しかし人生は一寸 先は闇、あるいは運命のいたずらによって、彼と同様の境遇に置かれた可能性がなかった はずではなく、そのような立場にある学歴はありませんが、知的観察力と思考力を有する 主人公が、どのように感じ、どのように行動するのかは、大変興味深く感じました。 本作では頑なに心を閉ざしていた貫多が、労働現場で同年輩の同僚日下部と出会うことから 物語が動き始めますが、話し相手が出来るということが、どれほど心の張りになるかという ことが実感され、心を動かされました。 人生に張り合いが出来ると勤労意欲も湧き、そうすると劣悪な労働環境の中でも、少しの 改善の可能性が見出せます。ままならぬ人生の中のわずかな救いが示されるようで、少し 心が和むのを感じました。 結局貫多は自らのひねくれた性格と、劣等感から日下部と袂を分かちますが、彼には普通の 人間の生活を憎みながらも、それに憧れるところがあります。その微妙な心理が、この斜め に構えた独特の小説の記述を生み出していると感じさせます。 ラストの、主人公が私小説作家藤澤清造の作品コピーを、人足作業ズボンの尻ポケットに 忍ばせているという描写は、実際に私小説作家となり、この作品で芥川賞を受賞する西村の 将来を暗示する結末となっていますが、彼の以降の作家としての成功を知る私には、この 小説のトーンからして、釈然としないものを感じました。本作の貫多はもっと既存の枠に 収まり切らない、破天荒な人間であり続けてほしかったと感じました。

2022年7月15日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2372を読んで

2022年5月7日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2372では 政治社会学者・栗原彬の『〈やさしさ〉の闘い』から、次のことばが取り上げられています。    その「余計な」行為は、何と人間の密度に充    ちていることでしょう。 例え病に臥せっていても、ドアのところまで医者を出迎えようとした哲学者・カント、作家・ オーウェルが伝える、死刑台に向かう時にふと水たまりを避けた死刑囚、無駄で無意味な行為 に見えようが、ここに人間の尊厳の極致があると、この政治社会学者は言います。 なるほど、日常においては往々に、一部の隙もない合理的な身振りや行動が、その人の評価を 決めるという場面がありますが、人間の価値はそれだけではなく、いやむしろ何気ない場面、 あるいはその人が苦境に陥っている場合において、彼がとる行動にこそ真価が現れる、という ことがあると思います。 それはそういう場面においては、その人の内面に蓄えられた核となる価値観が、現れ出て来る ということではないでしょうか。そしてそのような時に現れる行為、行動は、得てして客観的 には無価値なものが多いと、感じます。 つまり、人間の核となる価値観は、表面的な合理性を纏うものではなく、そのようなものを 突き抜けて湧き出て来る道徳性であり、倫理的なものであると思うからです。そしてこれらの 普遍的な価値は、合理性などを飛び越えた高みに存在するものであると、思うからです。

2022年7月7日木曜日

三浦清商店のリニューアルオープンについて

7月6日に、ようやく私たちの店三浦清商店をリニューアルオープンすることが出来ました。 母の死後相続手続きを進める過程で、おぼろげながら思い浮かんだ、町家の店舗の賃貸住宅併設 の店舗兼自宅への建て替えの構想は、その後私の手術、抗がん剤治療というブランクや、コロナ 禍による家業の売り上げの極端な減少という逆境を乗り越え、やっと現実のものとなりました。 私自身深い感慨を覚えると共に、そのような私を支えてくれた家族や従業員、そしてこの建設を 資金面と業者選択の段階からサポートして頂いた取引銀行の担当者の方、また実際の建築に当た り我々の要望を出来る限り取り入れて、建物を具体的な形にして頂いたハウスメーカーの営業と 設計担当者の方々には、感謝の気持ちでいっぱいです。 さていよいよ新店舗が出来上がり、私たちは再出発することのなったのですが、真価を問われる のはこれからです。まず私が目指すのは、賃貸収入は当てにせず店の売り上げだけで採算が取れ るようにすることで、そのためにはコロナ禍で落ち込んだ業績を何とか回復させなければなり ません。 それは容易なことではないと思いますが、しかし私は決して前途を悲観している訳ではなく、 我々の取り扱う白生地という商品の魅力と、帯揚げなどの一点からの誂え染めというオーダー 方法の魅力をアピールすることによって、十分可能であることと考えます。 とにかく、これらのことを達成するために、日々精進する所存です。これからも、どうぞよろ しくお願い申し上げます。

2022年6月20日月曜日

中島岳志著「思いがけず利他」を読んで

最近「利他」という言葉をよく耳にするようになりましたが、それだけ「利己」的な考え方や 行動が目立つようになったということでしょう。 なぜそうなったかを考えると、個人主義、合理主義的思考の浸透や、人々の生活に経済的にも 精神的にもゆとりがなくなり、自分が生きて行くだけで精一杯という気分になっていることが、 挙げられると思います。 確かに今の日本は、少子高齢化や地方の過疎化、国際比較の中での経済的地位の低下など、 停滞感に覆われているように感じられます。 しかし、物質的には恵まれない発展途上国の中にも、精神的には豊かな暮らしをしている人々 も存在することから推し量ると、我々日本人が利己的な考え方に囚われ勝ちである要因として、 精神的な要素が多いように思われます。 さて「利他」と一口に言っても、そのように考え行動することが実は難しいことに、本書で気 づかされます。 なるほどそのために「利他」という言葉が、嘘っぽい響きを持つように感じられることがある のかと、納得がゆきます。 つまり、一見「利他」的な行動が、見返りや打算を求めた途端に「利己」的な行為となり、 相手の立場や思いを考えず推し進めると、強要や自己満足に陥ってしまうからです。 本書では、古典落語『文七元結』を題材として、この「利他」のまとう微妙さを巧みに解説し ています。 則ち、零落した登場人物の長兵衛が、愛娘を担保に与えられた五十両を、見ず知らずの身投げ しようとしている若者文七に差し出す下り、名人落語家立川談志は、長兵衛が行った無謀な 行為の動機を、見返りを求めない「江戸っ子気質」と解釈して演じています。 そしてそこに、やがて大団円を迎えることになる、「利他」的行動の発動を見るのです。 つまり「利他」は、その行為が行われた時に生まれるのではなく、この行為が後に受け手に よってそのように受け取られた時に、初めて生じるのです。これは、言い得て妙であると思い ます。 この事実を踏まえて論は偶然と運命というテーマへと進み、偶然と必然の関係にも、「利他」 と同じ時制の差異の関係が成り立つと続きます。 つまり、行為が行われている時点では偶然の産物であるものが、後になって必然へと転化する ということです。 ここから人は、今与えられた現実を謙虚に受け止め、邪念を捨てて懸命に生きることが、将来 への可能性を広げることになります。 「今」を生きる意味を未来から贈与されるために、精一杯生きなければならないと説く、今日 私たちが置かれた状況の中で、勇気を与えてくれる好著です。

2022年6月13日月曜日

「鷲田清一折々のことば」2351を読んで

2022年4月16日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2351では 哲学者鶴見俊輔の『神話的時間」から、次のことばが取り上げられています。    老いることは、自分の付き合っている他人が    死ぬことなんです。他人の死を見送ることで    す。 私自身も高齢に達して、ようやくこのことが分かるようになって来た気がします。 両親の死、身近な年上の人の死、そして思いがけぬ友人の死。次第にそのような悲しみに 接する機会が増えて来ました。このような人々の死は、あたかも心身の一部分がえぐり 取られるような喪失感を伴います。上記のことばのように、大切なものを失うことは、 体力の低下にも似て、老いに通じるのかも知れません。 更に思い至るのは、直接には面識がある訳ではありませんが、テレビや映画で慣れ親しん だ芸能人やアナウンサーなどのメディア関係者、作品に親しんで来た作家や画家、そして 政治家、企業経営者と言った著名人の死です。 これらの人々の訃報は、私にとって自身の属する世界の構成物の一部が、すっぽりと抜け 落ちたような寂しさを味わわせ、共に共有して来た時代の空気が、最早過去のものになっ たような感慨を起こさせます。 身近な人々を失うこと、そして同時代を生きた影響力のある人々を亡くすことは、私たち の心を内部から、あるいは外側から、むしばんで行くのかも知れません。

2022年6月7日火曜日

「鷲田清一折々のことば」2338を読んで

2022年4月2日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2338では 文化人類学者・渡辺靖の随想「余白なき時代に」から、次のことばが取り上げられています。    デジタル時代の怖さというのは、デジタル技    術が私たちを支配することよりも、むしろ私    たち自らがデジタル化することにある この指摘は、なるほどと思わせます。私自身の最近のものの考え方を辿ってみても、直ぐに 分かりやすい答えを求めたり、明確な結果を求める傾向にあるように感じます。 それは、世の中がせちがらくなって、あるいはコロナ禍により生活にゆとりがなくなって、 また人と接触する機会も少なくなってそれぞれが孤立し、余裕を持ってものを考えることが 出来なくなったことも、確かに理由としてあると思います。 でも、デジタル化の進展によって、我々の思考方法が劇的に変わった、というのも大きいと 感じます。例えば、何か物事を調べるにしても、従来なら辞書で調べたり、そのことに詳しい 人に尋ねたりしていたものが、現在では携帯やパソコンで検索したら、直ぐに一定の答えが 得られます。このような環境にあると、私たちは知らず知らずのうちに、色々な物事に直ぐに 答えや結果を求めるようになる、のではないでしょうか? また、最近のニュースや出来事にしても、SNSの空間で直ぐに色々な評価や批判の声が寄せ られて、私たちは気づかないうちに、自分の思い込みでそれらの事象を短絡的に解釈して、 それで済ませてしまうということが、多分にあると感じます。 このような環境に慣れてしまうと、物事を広い視野や長いスタンスで深く掘り下げて考える ことや、他者の気持ちに寄り添って自らの言動を決めるようなゆとりがなくなって、無味乾燥 な世の中になって行くように感じます。 デジタル化の時代と言えども、そこから一定の距離を置いて、自分の立ち位置を定めるという ことも必要なのでしょう。

2022年5月31日火曜日

瀬戸内寂聴著「諧調は偽りなり 伊藤野枝と大杉栄」」を読んで

上記表題作品の後編です。この刊のトピックは言うまでもなく、憲兵大尉甘粕正彦による、大杉と 野枝、それにまだいたいけない甥の宗一の虐殺です。しかしその前に、直前の大杉のベルリンでの 国際アナーキスト大会出席のための外遊に、触れたいと思います。このエピソードは、まるで一編 のスパイ映画のようです。 アナーキストとして当局に厳しくマークされていた大杉は、簡単には海外に出られません。そこで 中国人留学生名義の旅券を取り寄せ、常に見張っている尾行を欺いた上、この人物に成り済まして まんまと出国に成功します。 また、当局の締め付けによって経済的に窮乏している彼が、当時莫大な海外旅行の費用を工面する のも大変なはずですが、仲間からのカンパのみならず、友人の作家有島武郎からまとまった金を借 りて用立てします。アナーキスト仲間の結束は固く、また彼らにシンパシーを感じる、有島のよう な資産家知識人も存在したのです。 上海経由でフランスのパリに着くと、この国に滞在する日本人の昔の友人を呼びよせ、モンマルトル の歓楽街で遊び暮らします。そうして、この国でも厳しいアナーキストの取り締まりをかいくぐって ベルリン行きを目指しますが、メーデーの集会で演説したことによって逮捕され、国外追放となって 日本に帰国します。 これら一連の彼の行動は、一見荒唐無稽なようですが、大杉の国際的なスケールの行動力や懐の深さ といった魅力を、良く表していると感じます。 さていよいよ大杉らの虐殺事件です。関東大震災後アナーキスト、朝鮮人たちが暴動を企てるという 流言飛語が飛び交う中で、大杉らが警察に連行され殺害、首謀者として甘粕が逮捕され、その供述に よって憲兵隊構内の井戸から、無残な姿の三人の遺体が発見されたというものです。 本書の記述は、この部分に至るまで躍動感に満ちていますが、ここから一転、歯に衣を着せたような 表現になります。それもそのはず、この事件については現在に至るまで、詳細が不明です。ただその 死亡鑑定書が発見されて、彼らが暴行を受けた後殺害されたことが、明らかになりました。彼らの 予防拘禁が故意に遅らされたことも含め、軍の組織的な犯行であったのでしょう。大杉はそれほどの 影響力のある人物として、国家権力に恐れられていたのでしょう。 「美は乱調にあり」から「諧調は偽りなり」まで全巻を読み終えて、我が国の軍国主義の暗黒の時代 の反逆者大杉栄の時代を画する八面六臂の活躍、仲間たちの熱い結束、そして何より野枝いてこその 大杉であったことを知りました。元来とかく女性は、男性の英雄的人物の陰に隠れがちであったにも 関わらず、彼女にも強い光を与えなければならないと思わせるほどに、伊藤野枝も確たる存在感を 有する人格だったのです。

2022年5月24日火曜日

「鷲田清一折々のことば」2331を読んで

2022年3月26日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2331では 詩人石垣りんの詩「花のことば」から、次のことばが取り上げられています。    昔々 立身出世という言葉がありました。    それはどういうことですか    意味はさっぱりわかりません 「咲いている花が 尚その上にお化粧することを考えた/そんな時代の言葉です。」と続き、 自分たちは「ひらく」ことで精一杯、また「散る」と詠じていのちを棄てる、そんな潔さ とも無縁と更に続きます。 決して遠からぬ昔、命を棄てる潔さが賛美された時代があり、ついこの間までは、立身出世 が至上の価値であるように考えられた時があったと感じます。 前者は戦乱に明け暮れた時代で、後者は高度経済成長に沸き返った時と重なります。そこから 今は曲がりなりにも平和の中で成熟を迎えた時代、低成長の中で豊かさを見つめ直す時、なの でしょう。 勿論これは今の時代を口当たり良く言った表現で、現実には少子高齢化、貧富の格差の拡大や 人間関係の希薄化による疎外感の増大という、大きな社会問題を抱えた時代状況ですが、でも 結局私たち一人一人の心の持ち方は、雑音や妄念を排し、自分自身が「ひらく」ことで精一杯 に生きることを目指すことではないか? そう考えて、このことばに惹かれました。

2022年5月16日月曜日

瀬戸内寂聴著「諧調は偽りなり(上) 伊藤野枝と大杉栄」を読んで

寡聞にして、「美は乱調にあり」の続編、「諧調は偽りなり」が、上下巻に分かれていることは 知りませんでした。まず、(上)から読み始めます。 本書では、神近市子が大杉に傷を負わせる「日蔭の茶屋事件」以降の大杉と野枝、この二人との 愛憎の四角関係にあった市子と保子、そして辻潤のその後の消息を中心に描いています。それは 取りも直さず、「大逆事件」以降の、国家権力の日本の社会主義運動弾圧の軌跡を描くことでも あります。 少し話が逸れますが、現在ロシアが隣国ウクライナに軍事侵攻し、ウクライナでは夥しい一般 国民が犠牲となり、国外への逃避が続いていると、連日ニュースで伝えられています。ロシア 国内でも、一方的な侵略に対して反対の世論もあるようですが、プーチン大統領は情報統制を 強めて、軍事行動の正当性を国民に信じ込ませようとしているようです。この情報操作という 部分が、本書で描かれている社会主義運動への国家の強権行使と重なり、時代を隔てても生々し い現実を見る思いがします。 さて、市子の大杉への刃傷事件を経て、かえって結びつきを強めた大杉と野枝は、次第に強まる 官権の締め付けの中で、住居を転々としながら三人の子供を設け、文字通り一心同体となって 非合法社会主義運動に邁進します。 その生き方は刹那的で無軌道、自分勝手で、周囲に迷惑をまき散らしているように見えますが、 なぜか憎めません。特に大杉は、周辺の人々に犠牲を強いながらも、そのうちの大多数に愛され、 その活動を野枝が全力で支えるという関係が成り立っています。 彼が愛される理由としては、その人柄によるところが大きいでしょう。そして思想統制が強まり 息苦しい当時の日本で、正に前面に立って抗う政治思想界の風雲児という位置づけで、周囲の 人々は熱い視線を送っていたと思われます。 大杉と野枝が運動を通して愛情と絆を深める中、保子は身を引き、市子は出獄後事件を忘れて 平穏な暮らしを求めようとします。しかし市子が、文筆で金を稼ぐことが出来る当時として先進 的な女性であったために、金づるとして当てにされて、運動からなかなか抜けることが出来な かったのは大いに皮肉です。彼女にも社会主義への共感が残っていたのでしょう。 辻潤も野枝を大杉に奪われる損な役割を担わされましたが、野枝を精神的に覚醒させた功績は大 きく、今日ではダダイストの文筆家として、大杉以上の評価を受けていると言います。彼自身の 思想を体現し、全うした生き方だったのでしょう。

2022年5月10日火曜日

ケネス・ブラナー監督映画「ベルファスト」を観て

本年度のアカデミー賞脚本賞受賞作品で、監督自身の自伝的映画です。 全編モノクロの画面で、回想的色彩が色濃く、シーンのあちこちに郷愁を誘う詩的な情景が 挟まれ、観客を追想の世界にいざないます。モノクロの抒情性を遺憾なく発揮した映画だと 感じました。 様々な人生経験を積んで、幼い主人公が成長して行く、お定まりのストーリーですが、ここ で特筆すべきは、プロテスタントとカトリックによる、北アイルランドの宗教紛争を赤裸々 に描いていることです。 昨日までは隣人として仲良く暮らしていた人々に対し、突如信じる宗教の違いを理由にして 徒党を組み、理不尽な暴力を振るうに至る。この蛮行には憤りを禁じ得ませんが、現在 ロシアとウクライナの間で行われている戦争でも、色々ないきさつはあるにしても、ロシア が突然隣国に有無を言わせず攻め入るという行動を目の当たりにして、人間には思想信条の 違いによって、一つ間違うとこのような行為に及ぶ危険性があるということを肝に銘じる べきだと、改めて感じました。 このような人間の不合理を描きながら、この映画が観客に希望を与えてくれるのは、その 紛争の最中にも冷静に物事を考え、理不尽な暴力や差別に組しない人々がいることで、特に 主人公の少年の母親が、まだ幼く善悪の判断が出来ないために、プロテスタント側の暴徒 に紛れて、打ち壊されたカトリック側の店舗からついつい商品を持ち出してしまった息子に、 その品を返すべきことを強く諭し、危険を省みず一緒に暴徒が略奪を続ける現場に戻るシー ンで、結局この行為のために母子は身の危険に陥ることになりますが、母親のいかなる場合 も決して悪をなしてはいけないという強い意志が、この少年の将来への確かな希望を示して いると感じました。 重いテーマを描きながら、観終えた後に清々しさの残る映画でした。

2022年5月3日火曜日

瀬戸内寂聴著「美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄」を読んで

本作と続編「諧調は偽りなり」と合わせて、伊藤野枝の短くも鮮烈な生涯を描いた、瀬戸内の 評伝小説の傑作を、まず本篇から読み始めました。 伊藤野枝については、アナーキスト大杉栄と共に、関東大震災の直後に憲兵隊に連行され、虐殺 されたという、いわゆる教科書的な知識しか私は持っていませんでしたが、本作を読んで、野枝 は決して単なる大杉の巻き添えとして殺された女性ではなく、男尊女卑に彩られた当時の日本 社会で、女性の地位向上に尽力した、傑出した人物であることを知りました。 本篇では野枝が大杉と恋に落ち、彼とその妻、もう一人の愛人神近市子との四角関係の縺れから、 嫉妬に狂う市子が大杉を刃物で刺す、「日陰の茶屋事件」までが描かれています。 読み終えてまず、とにかく面白く感じました。直情径行、思い立ったらとことんまで突き進む、 野枝の行動力が小気味よく、お世辞にも品行方正とは言えませんが、読む者は思わず応援したく なります。読者を惹きつけて止まない文体の名調子と合わせて、彼女をこれほど魅力的に造形 したのは、ひとえに筆者の力量によるところが大きいと感じました。直ぐに続編が読みたくなり ました。 虐殺事件も含めて、野枝が大杉と出会ってからのことが、我々一般人にも知られているところ ですが、本作で主に扱うそれ以前の彼女の経歴が、実は彼女の人格形成にとって重要であること が、よく理解出来ました。 つまり、それはダダイスト辻潤とのめぐり逢いです。野枝は、東京の高等女学校で教師であった 辻と出会い、卒業後郷里の九州で、親の決めた男と結婚しますが、直ぐに出奔して敬慕する辻の 家に転がり込み、同棲を始めます。その間彼は、当時としては開明的に、彼女に学問を施し、 女性としての自覚を芽生えさせ、女性解放運動の先駆であった平塚らいてうの「青鞜」編集部へ 送り出します。これらの経験を経て彼女は、社会運動の闘士となって行きます。このような辻の 献身なくして、社会運動家伊藤野枝は生まれなかったのです。 そう考えると後年、手塩にかけて育てた彼女が大杉に奪われることは、彼にとって痛恨の極みと 察せられますが、現代から振り返ってみると、これも運命だと感じざるを得ません。とにかく、 本作の中の彼女らは、身勝手ではありましたが、自分の使命を信じ、全身全霊で生きました。 その生き様は、あくまで清々しいと感じました。

2022年4月26日火曜日

「佐々木閑 現代のことば 煩悩とはなにか」を読んで

3月7日付け京都新聞朝刊「佐々木閑 現代のことば」では、「煩悩とはなにか」と題して、 花園大学教授・インド仏教学の筆者が、仏教の立場で現代における煩悩について語って います。 それによると、煩悩を現代の言葉で言うと「人が持つ悪しき本能」ということになり、 本能の支配から離れた新しい生き方を見出そうとするのが仏教の教えで、釈迦によるその 答えは、煩悩の根本をなすのは、世の中を自分中心に見て行こうとする誤った自我意識で、 少しでも煩悩を克服するためには、そこから遠ざからなければならない、ということ です。 確かに現代ほど、私も含め一般の人々の自我意識が強くなったことは、かつてなかったで しょう。それは民主主義教育ということにもつながっていますし、社会からそれぞれが 個人として自立することを求められていることとも、密接に関わっています。 しかしながら、なるほど現代社会を生きるためには、しっかりとした自我を持つことは 必要でしょうが、それがいたずらに個人の権利や自由ばかりに結びつくのではなく、それ に付随する公共性や義務、更には道徳心にも心を砕かなければならない、ということでは ないでしょうか? なかなか難しいことではありますが、私自身も心しなければならない、と改めて思います。

2022年4月22日金曜日

エマニュエル・トッド著「老人支配国家日本の危機」を読んで

国、地域ごとの家族システムの違いや、人口動態に着目する方法論によって、「ソ連崩壊」や 「米国発の金融危機」「アラブの春」等を予言した、フランスの歴史人口学者、家族人類学者 による、日本に向けた論考です。 まず私が感じたのは、家族システムや人口動態を分析することが、これほどまでに各国の社会 的特徴や政治政策を規定し、強いては国際社会の将来の動向を占うことにつながる、という ことです。 この方法論による、トッドの現在の日本社会の問題点に対する指摘は極めて明確で、「直系 家族(長子相続)」という日本の家族構造が少子化を生み出し、今や顕著になって来ている 少子高齢化による人口減少が、この国を衰退に導くと警告しています。 この「直系家族」の弊害は、日本のコロナ禍対策にも顕著に現れ、新型コロナ感染症が特に 高齢者に重い症状をもたらすことから、この家族制度の特徴である老人を敬うという傾向に よって、この国のコロナ対策が老人の健康を守るために、現役世代の経済活動を犠牲にする ことになり、日本が世界の先進国と比較しても、コロナ感染症による死者が少ないにも関わら ず、経済活動の再活性化の遅れがはっきりとしていると指摘します。 そしてこの国が抱える問題の改善策として、直系家族的な価値観の見直しの推進、子供の教育 費補助など少子化対策の充実、移民の受け入れ促進を挙げています。 また本書におけるトッドの日本への提言で、もう1点強いインパクトを与えるものは、核武装 の奨励です。これは、中国の台頭による現在の東アジアの緊迫した国際情勢の中で、この国は いつまでも、日米安全保障条約によるアメリカの核の傘に依存していることは出来ず、あえて 核武装することによって、主体的な国際関係を構築するべきである、という論です。 全体を読み終えて、その学識に基づくトッドの指摘、提言を極めて明晰で、我が国の抱える 問題の核心を突くところがある、と感じました。しかし、傾聴に値するのは言うまでもありま せんが、論から導く結果は、現実の日本人の心情からは極端すぎるとも、感じられました。 つまり、日本人の老人を敬う価値観は美点でもあり、社会的弱者に配慮したコロナ対策は、 この国の高い道徳心を現わしていると感じられます。また、実際に核被爆を体験した日本人に は、それが現在の国際関係からは合理的であっても、核武装は決して容認できず、それこそが 我々の優れた平和倫理観であると、感じます。 このような点を踏まえて、トッドの鋭く指摘する諸問題の改善点を見出すことが、急務でしょ う。

2022年4月19日火曜日

濱口竜介監督作品映画「ドライブ・マイ・カー」を観て

先日、アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞した、濱口監督の上記作品を京都シネマで観ました。 まず、映画館で映画を観るのは、コロナ禍もあって2年ぶりで、単なる映画鑑賞を超えて、本当に 貴重な、非日常の掛け替えのない時間に思われて、私たちがコロナ感染症によって失ったものの 大きさを、改めて感じさせられました。 さてこの映画は、人と人の心の通じ合うことの難しさと、しかしお互いが心を開いて向き合うこと が出来るならば、それは決して不可能なことではないということを、静かに、じっくりと語りかけ る作品で、決して声高に主張することはありませんが、観る者はその言わんとするところを自然に、 心に染み入るようにして受け取ることになります。 また、いたるところに、暗喩に満ちたシンボルとメッセージが散りばめられていて、ここでは映画 の題名ともつながる、主人公家福悠介の愛車赤いサーブについて考えてみたいと思います。 まだ妻を失ったことによる心の傷から立ち直れない悠介は、自家用車を運転しながら、亡くなった 妻が相手役のセリフを吹き込んだテープで、劇のセリフ回しを練習する習慣を続けていて、ある 演劇祭で演出家として呼ばれた時にも、宿泊場所から会場への往復の時間にその習慣を継続する ために、あえてその自動車で現地入りします。 しかし演劇祭側が交通トラブルを避けるために、その期間は指名した運転手に運転させることを 条件にしたために、悠介は止む負えず受け入れることになります。そして、彼と陰のある無口な 若い女性ドライバー渡利みさきとの、亡き妻の音声テープを聴きながらのドライブが始まります。 悠介の赤いサーブの車内は言うまでもなく、妻との思い出が詰まった空間で、そこに紛れ込んだ みさきは最初は部外者ではありますが、彼女に自らの心の傷ともつながる、心配りの行き届いた、 優れた運転テクニックがあるために、悠介とみさきの心は次第に通じ合うようになっていきます。 ラストでみさきが韓国のある土地で、このサーブを運転しながら日常生活を送っていることを示す シーン、彼女ははたしてこの車をもらい受けたのか、あるいは悠介と二人で異国の土地で暮らして いるのか、その答えは示されませんが、彼女が悠介と心を通わせていることだけは確かだと、感じ ました。

2022年4月13日水曜日

井上荒野著 「あちらにいる鬼」を読んで

「夏の終り」で、瀬戸内寂聴(晴美)の若かりし日の奔放な性体験を綴った小説を読んだ時、ふと、 このような不倫関係を彼女の相手の立場から見ると、一体どのような景色が開かれるだろうという、 少々不謹慎な好奇心を持ちました。そこで目に留まったのが、この小説です。 本作は、「夏の終り」に描かれた以降の、彼女と妻子ある作家井上光晴との恋愛関係、彼女の出家 を経ても続いた精神的なつながりを、井上の娘で作家の荒野が描いた小説です。 この小説で作者は、寂聴の分身であるみはる(寂光)と、光晴の妻の分身である笙子の交互の視点 を重ねることによって、物語を進めて行きます。この小説作法は、父親の不倫相手と母の関係を 娘の立場から描くためには、絶妙の距離を生み出していると感じます。 いやむしろ、本書の解説で作家川上弘美が語っているように、みはるという存在を置くことによっ て、作者の父母の不可思議な夫婦関係を娘の視点から解き明かすために、この小説が描かれたと 感じさせます。 井上光晴の小説は、私はまだ読んだことがないので、あくまでイメージの話になりますが、彼は 共産主義運動から出発して、貧しい人、虐げられた人を擁護する、誠実な作品を描いたと言われて います。反面、妻帯後も女性関係にはだらしなく、浮名を流すのは日常茶飯事であったそうです。 この小説では、そんな彼に対する妻の屈折した想いをあぶり出しています。 しかしもう一点忘れてはならないところは、この井上光晴と妻と瀬戸内寂聴(晴美)の三角関係に は、間違いなく文学の問題が介在していることです。この点が同じ三角関係でも、寂聴が「夏の終 り」で描いたころのものとは違う、より複雑で奥深い関係であるように私には思われます。 井上光晴と瀬戸内寂聴の関係は、瀬戸内が井上から小説指南を受けたところから始まりました。 そこから二人は肉体関係に進みますが、それは単に肉欲のみに突き動かされたものではなく、二人 の文学の影響関係にも深く関わるものであったように、私には思われます。 それ故彼女が出家した後も、二人の精神的なつながりは損なわれることはなく、光晴と単に夫婦間 の情愛だけではなしに、文学を介してつながっていた妻も、夫と寂聴の関係は許容することが出来 たのではないでしょうか? もしこの小説に、井上と妻と寂聴の文学を巡る関係がより深く描かれていたら、この作品は更に、 小説に取りつかれた人々の普遍的な物語になったのではないかと、思われてなりませんでした。

2022年4月5日火曜日

中沢新一著「アースダイバー神社編」を読んで

文化人類学者中沢のアースダイバーシリーズは、太古から現在に至る、日本の地形からそれぞれの 地域、場所で営まれて来た人間の社会活動、生活を跡付け、検証する、時空を超えた壮大なスケー ルの読み物で、私はいつも楽しく愛読して来ました。本書はその中でも、神社という日本人の精神 世界の源流を探究することを目指すもので、大きな期待を持ってページを開きました。 私自身特に、市街域ではない自然が残された場所の神社を訪れると、何かただならぬ気配を感じ たり、神秘的な気分に囚われることがあります。それ故神社というものは、人智を超えた特異な 自然の力が表されたところに建立されたものであるということを、おぼろげながら感じて来ました。 本書でも中沢は、代表的な各地の神社の成立史を辿って行きますが、神社の元となる聖地という ものの成立が、文字通り太古の昔にまで遡るものであることから、そのそれぞれの聖地の起源を 考えるということは、日本列島への縄文時代、弥生時代の大陸からの人類の流入について考える ことになります。 縄文時代に大陸から到達した人々はまだ稲作を知らず、狩猟採集の生活を中心としましたが、彼ら が神聖な場所と考える形の良い山があり、その手前に池や川などの豊富な水が存在する地点、豊な 森や巨大な岩を、建築物は造らずそのままの形で、信仰の対象としたといいます。つまり彼らは、 自らの生活スタイルも相まって、人間も自然の一部と考え、その規範の下に生活を営みました。 他方遅れて弥生時代に大陸からやって来たのは、稲作技術を携えた半農半漁の人々で、各地に定着 して、それぞれの場所で生活スタイルを変えながら、しかし稲作農業で余剰生産物を生み出すこと によって自然を改変し、自らの信仰対象の場所に建造物を建立しましたが、実は縄文人と弥生人は 同じ中国南部沿岸地域が起源で、それ故信仰対象のスタイルには共通点があり、縄文人の聖地が 地域によって差異はあるものの、弥生人の聖地ともなり、この重層性の上に、現在ある神社が形 作られたといいます。本書では今日の残る、それぞれの神社の縄文、弥生的な痕跡をも、検証して います。 一昔前には、日本人は単一民族であるということが大きな特徴であるように宣伝されましたが、 人類学を初め学術の発展によって、多様性の中から今日の日本が生まれたことが、次第に明らかに なりつつあります。日本人の同質性の長所は認識しつつも、これからは多様性にも目を向けるべき であるということを、本書は語っていると感じられました。

2022年3月29日火曜日

瀬戸内晴美著「夏の終り」を読んで

昨年の暮れに亡くなった作家で僧侶・瀬戸内寂聴師の小説は、ずっと以前から読みたいと思い ながら、機会を逃して来ました。彼女の訃報に触れて、ようやく手に取ることが出来ました。 さて本書を読む以前に、私が持っていた彼女に関する情報知識は、彼女が若い頃には性におい て奔放な女性であったこと、その自らの体験から着想した小説で文壇にデビューし、着実に 評価を高めながら僧侶となり、以降作家と宗教家の二足の草鞋で、幅広く活動したことです。 それ故これまで私が読んで来た彼女の文章は、新聞等に発表されたエッセー類で、それらは 僧侶になって以降の分別を踏まえた見識に基づく文章でした。 さて本書は、彼女が得度する以前の、夫子がありながら若い男の許に走り、その男と一度破局 した後妻子ある別の男と関係を持ちながら、元の男ともよりを戻し、関係を持つ男の妻共々 泥沼の四角関係に陥る、放縦な性体験に基づく連作短篇小説を収めたものです。 彼女の当時の行動は、今日でも確かに倫理的には許されないものでしょう。ましてや現在より 性的関係への規範意識が格段に強かったあの頃には、彼女の実際の行動のみならず、それを 描いた小説にも、相当厳しい批判を向ける人々もあったと思われますし、実際にそれを耳に したこともあります。 しかし今日これらの小説を読んでみると、特に創作の世界では性的倫理観は放縦なほど自由に なっているので、何らセンセーショナルなものは感じられません。それ故色眼鏡なしで、主人 公や登場人物の心の動きを追うことが出来ると感じられました。 さて本書を読んでの私の感想は、そこに描かれているのはほぼ彼女と思しき若い主人公の、 社会的に弱い立場にある、あるいは窮地に陥っている男へ向ける過剰な愛情が、あまりにも 一方的、自分勝手で、それにいいように翻弄される男たちの姿が、ある種滑稽でさえあること です。 ある意味精神的に自立した女性である彼女が、弱っている甘えたな男を助け励まそうとしなが ら、自分の愛情が過剰であるために、かえって相手の男を弄んでいる図、と言えるかも知れま せん。 そしてそのような構図が、これらの作品の発表当時、男中心の日本社会に拒否反応を生み出し たのでしょう。ただ著者が僧侶としても多大な功績を遺した今日読んでみると、彼女が弱い 立場の人々を溢れる愛情を持って救済するためには、自身が僧侶として精神を陶冶することが 必要であったのではないかと、思えて来ます。 このような創作時との差異を想像する読書も、また味があると感じました。

2022年3月25日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2308を読んで

2022年3月2日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2308では 詩人・思想家吉本隆明の語り下ろし『真贋』から、次のことばが取り上げられています。    人を見る上でもっとも大事なことを挙げるとす    れば…その人の生きることのモチーフがど    こにあるかということのほうだと言える 吉本は、人間にとって大切なものは、例えば「誠実」のような多くの人が大切と思うもの だろうけれど、実際にはそれになかなか近づくことが出来ない、でもどうして近づけない のかということを考え続けることが重要で、それを人生のテーマあるいはモチーフと呼ぶ、 と語っているそうです。 私たち人間は、なかなか理想に近づくことが出来ません。でもそれで諦めてしまって、 近づく努力を放棄するのでは、堕落に向かうだけで、自分を向上させることにはなりま せん。 だから、少しでも自分をあるべき姿に近づけたいと思ったら、なぜ近づけないのかを常に 考え続けることが必要でしょう。それが彼の言うところのテーマであり、モチーフで、 その人のそれを知ったら、どれほどの人物か分かる、ということなのでしょう。 私も勿論、理想やあるべき姿からは程遠い人間ですが、少なくとも、向上心や心を磨く 気概を持ち続けることが出来ればと、思っています。

2022年3月18日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2305を読んで

2022年2月27日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」では マルセル・カルネ監督の映画『天井桟敷の人々』のジャック・プレヴェール(脚本)のセリフ から、次のことばが取り上げられています。   去るのは簡単よ 去れば思い出は美化される    戻れば思い出がよみがえる 夫と愛人の逢瀬を目撃した妻が、立ち去るこの女性に放ったことば、ということです。 まぁ、大概去って行くものが、かっこよく見えるものです。私がまず連想するなら、映画『 シェーン』で、馬に乗って立ち去る主人公に、少年が「シェーン、カムバック!」と叫ぶ シーン。 でも、残された者は、これからも現実と立ち向かい、地道に生きて行かなければなりません。 私の思いからいくと、商売を続けて行くために、店舗を上階に賃貸マンションを併設した建物 に建て替えることを決断した、という場面が思い浮かびます。 古い店舗のまま残して、将来は静かに消え去るか、それとも、先祖から受け継いだ京町家を 思い切って壊して、商売の可能性を追求するために、今どきの建物にすることを決断するか。 結局私は後者を選び、かっこ悪くても、店の継続の可能性にかけることにしました。今は覚悟 も決まり、新店舗の完成を期して、コロナ禍の中、泥臭く商売に邁進するのみです。

2022年3月15日火曜日

呉座勇一著「頼朝と義時 武家政権の誕生」を読んで

鎌倉時代における武家政権の誕生は、我が国の歴史上の一大転換点です。それ故、時代劇や歴史小説 でもよく取り上げられますが、私がこの時期の出来事を実相としてどれだけ把握しているかは、大い に心もとなく感じます。そこで折しも、今年のNHKの大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放映されている こともあり、綿密な資料の読み込みによる歴史解釈で定評のある、歴史学者の著者のこの本を読んで みることにしました。 本書によると、朝廷から武家へ権力が移行し、幕府という武家政権が確立するためには、源頼朝と 北条義時という二人の傑出した政治家が必要であった、ということです。頼朝は、周知のように源氏 嫡流の出自でありながら、父義朝の失脚によって流人の立場になり、それにもかかわらず源氏の再興 を期して立ち上がり、隆盛を極めた平家を亡ぼし、鎌倉幕府を打ち立て初代将軍になります。その 過程においては、まず東国で地盤を固めるために、協力者を集めながら敵対者と戦を繰り返し、また 源氏の棟梁という立場を確立し、兄弟の優れた武将の力を借りて、遂には平家を亡ぼすに至ります。 彼のカリスマ性、権謀術数に長けたところ、冷静沈着さや慎重さ、そして恐らく人を動かす人間的 魅力と運が、この偉業を成し遂げさせたと感じます。 しかし彼はその反面、若い頃に流人の辛酸をなめたために、なかなか人を信じることが出来ず、その 結果、一時は彼の手足となって働いた兄弟たちを粛清し、晩年は孤独を強いられ、血筋の後継者も 少ないことから、直系の将軍は早くに跡絶えることになります。 それに対して義時は、頼朝の妻政子の兄弟として生まれ、彼に引き立てられて有力な腹心の部下と なり、頼朝亡き後には、次第に影響力を増して、遂には後継将軍の決定にも力を及ぼすようになり、 承久の乱を経て武家政権を確立、更には、北条氏が永く執権として幕府内で権勢を振るう基盤を作り ます。 彼も、師頼朝に習い、冷静沈着で権謀術数に長け、その上自身が表舞台には立たず、陰で操るシス テムを作り上げたことが、一族での幕府内の影響力を永く維持する原動力となったと、推察されます。 本書を読んで行くと、正に謀略と武力抗争が時の権力を決定する、荒々しい社会の趨勢に驚かされ ますが、その陰に隠れて日常の庶民の生活があり、地道な経済活動も行われていたことも、忘れては ならないでしょう。頼朝も義時も、本来は自分たちの理想の社会の建設を目指して、行動していたと 信じたいと思います。

2022年3月12日土曜日

「隠岐さや香のまったりアカデミア 100年前はひと昔?」を読んで

2022年2月17日付け朝日新聞朝刊文化面、「隠岐さや香のまったりアカデミア」では、「100 年前はひと昔?」と題して、科学史家の筆者が、もし各国の政府が約100年前のスペイン風邪 の猛威を参考にして、今回のコロナ禍に対処することが出来たら、もっと被害を抑えることが 出来たかもしれない、と語っています。 それによると、先進国の政府は感染症の脅威が最早去ったかのように考え、医療を含めた公共 サービスのコスト削減に熱心であったために、コロナ禍での病院、保健所の対応が後手に回り、 研究者の側にも、基礎的な感染症研究を時代遅れのように捉える空気があり、市場のニーズに 合う応用研究に頭脳もカネも集まりがちであったために対策が遅れた、というのです。 確かに現代社会では、市場の要請という経済的な物差しが優先的に取り扱われ、その結果非常 に短い時間軸で物事が考えられて、長期的な視野が失われがちになるように感じられます。 例えば今回の事態の他にも、感染症研究だけではなく、様々な分野の学問研究において、目先 の研究成果や経済性が優先されるあまりに、基礎的な研究がおろそかにされて、その結果将来 的に重大な発見や革新的な発明が少なくなって、学問研究が先細りする恐れがあることが言わ れて来ました。 現代に生きる我々にとって、コスト優先ということは経済的な原則ではありますが、それだけ ではなく、短期的には無駄であるけれども、将来のために費やす努力、目先の損に目をつぶる ゆとり、というものが大切であることを、今回のコロナ禍は、我々に示してくれているのでは ないでしょうか。

2022年3月5日土曜日

「鷲田清一折々のことば」2282を読んで

2022年2月3日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2282では 前衛美術家で、かの太陽の塔の制作者、岡本太郎の『太郎に訊け!岡本太郎流爆発人生相談』 から、次のことばが取り上げられています。    人間はその数だけ、それぞれ、その姿のまま    誇らしくなければならないんだ。 私は彼の太陽の塔が好きで、彼こそは他の日本人には見られない、スケールの大きな芸術家で あると思っています。この言葉は、いかにも彼らしい言葉。彼の芸術の根本を貫く言葉(思想) だと感じます。 そして元来人間はそうあるべきであり、そうあることを理想とすべきであると思います。しかる に私たちは、どんどん各個人を差異化し、優劣の序列をつけて差別化して来たと感じます。 なるほど人間には競争心があって、互いが競うことによって、それぞれのスキルが向上して来た 側面があります。でもそれは、それぞれの分野や狭い部分でのことであるべきで、そのことに よってその人間の全体が評価されるべきではないですし、そのことによって人の優劣が決められ るべきではないと思います。 しかるに現代では、社会的地位や富裕の度合い、所属企業、出身大学、学業成績など、外面的な 評価基準で人の優劣を決めるということが、益々当たり前になっているように感じます。 そのようにして人物を評定すれば分かりやすいし、手っ取り早いということでしょう。でも、 人間の価値はそれだけで決められるものではない。その基準からは外れたところに、美点を有し ている人は、いくらでもいます。 増してや人間は、それぞれの固有の資質の中に他より優れたものを有しているはずで、周囲から もそれが認められ、本人もそのことを自覚して、自分を誇らしく思えることが、理想であると 思います。 現実にはなかなか難しいことですが、少なくとも、岡本太郎の芸術がその理想を指示してくれる ことこそ、掛け替えのないことだと感じます。

2022年3月1日火曜日

和田洋一著「新島襄」を読んで

同支社中学、高校、大学出身の私は、授業、礼拝等で、校祖新島の話を数多く聞かされて 来ましたし、その他にも彼の伝記を読み、ドラマを観て来ました。しかし本書は私にとって、 彼の生涯を辿る上で最も感銘を受けた書物であり、この本を読むことによって、新島が同志 社の学校教育に託したものの意味を、初めて理解したように感じました。 無論そのように感じられたのは、すでに私に、彼の経歴や言動に対するある程度以上の蓄積 があったからに違いありません。だが同時に、例えば同志社で語られる新島のエピソードや、 教えは半ば神格化されているところがあり、またその他に接した伝記やドラマは、彼を興味 本位に描いたり、俗物的に描いたりしていると、感じられるところがありました。 その点本書は、同志社の内部事情にも詳しい筆者が、新島という傑出した人物の生涯を、 資料に則して欠点も含め、公正に描いているところに価値があると思います。そしてその 視点が、私に彼の生き方への共感を呼び起こしたのだと感じます。 新島の鎖国の禁を破っての日本脱出や、日本最初のキリスト教教育に基づく、私立英学校の 設立の決意といった大きなエピソードは別にして、本書に記された彼の考え方や行動の中で、 私が共感を覚えたのは、彼が滞米中には日本新政府の資金援助を拒み、帰国後も役人になる ことを断って、一貫して在野の立場で学校設立を目指したことで、それは彼がキリスト教の 伝道者の資格を持ち、キリスト教団及びアメリカの篤志家の資金援助で、活動を行ったこと と深く関係しますが、まだキリスト教への反発が激しかった当時の日本で、公の力を借りず、 終始変わることのない教育方針を貫いたことに、彼の意志の強さ、宗教的信念を感じます。 そしてこのような経緯で設立された同支社が、現在でも多少ブルジョア的な気質と公の力に おもねらない独立心を有していると感じられるのは、新島の気質によるところが大きいで しょう。 そうして生涯を学校設立に賭して、志半ばで倒れた彼の遺言に、生徒を尊重し、形にはめず 伸びやかに教育し、教育機関として惰性に陥ることのないこととありますが、私の学生時代 にはこの自由な校風に甘え、とかく怠惰な学校生活を送ったという反省はあるものの、人生 も終盤に差し掛かって、新島精神は確かに、私の中に息づいていると感じられることに、 つながっているに違いありません。

2022年2月25日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2280を読んで

2022年2月1日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2280では 朝日新聞「ひと」欄(1月21日朝刊)から、元中日ドラゴンズの名投手・山本昌の次のことば が取り上げられています。    でも、僕は知っているだけで、できていなか    った 入団5年目、修業で米国にだされ、派遣先の球団職員から告げられたアドバイスに、最初は そんなことはとっくに知っていると思っていたのが、実は本当には体得していなかったことに 思い至り、それから投球術に開眼したと、彼は語っているそうです。 誰しも、知識としては知っていると思っていることが、実際には真の意味で理解してはいな かったと、後に気づくことがあるものだと思います。 本当の意味で物事を知ることは、体験に基づかなければならないのだと感じます。だから色々 なことを体験し、実践することによって、真の意味の知識は獲得されて行くのだと思います。 それは何も肉体的実践によるものとは限らず、例えば勉学にしても、ただ丸暗記するだけでは なく、その知識を応用したり、あるいは間違った答えを気づきによって更新することの繰り 返しから、だんだんと身に付いていくのだと思います。 このように、実践、行動、主体的な学びを、実用的な知識につなげて行ければと、感じます。

2022年2月18日金曜日

「鷲田清一折々のことば」2274を読んで

2022年1月26日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2274では 作家・坂口安吾の評論「恋愛論」から、次のことばが取り上げられています。    ほんとうのことというものは、ほんとうすぎ    るから、私はきらいだ。 ここでは、人は死んだらそれまでとかの、「あたりまえすぎる」ことを言ってどうなる か、ということが語られているそうです。 確かに、当たり前過ぎることは、それなりの真理を含んでいますが、でもそう言って しまうと限定されて、それ以上の広がりがないように感じます。 それよりも、他の可能性を信じて、試行錯誤を続けたり、思い切って飛び込む方が、 遣り甲斐があり、ずっと楽しいと思います。 でも現実は、そんなに甘くないのも事実。あんまり楽観的に突き進むと、きっと痛い目 に遭ったり、取り返しのつかないことになります。 ですから、要は上手くバランスを取ること。この言で行くと、ほんとうのことも念頭に 置きつつ、可能性も信じてチャレンジするということではないでしょうか? そして年が若いということは、それだけ常識より可能性の方に比重を置いて、行動出来 るということだと思います。 私などは、そろそろ老境に差し掛かっているので、常識に少し多い目に軸足を置かなけ ればならないのでしょうが、でももう少し、非常識なチャレンジもやってみたいなとは、 密かに思っています。

2022年2月15日火曜日

レイチェル・カーソン著「沈黙の春」を読んで

化学薬品による、環境破壊を告発した伝説的名著です。いつかは読もうと思いながら、ようやく 読み終えました。 まず私にとって驚くべきは、1962年という早い時期に、本書が著されたことです。この時期は、 日本では高度経済成長のただ中で、東京オリンピックの2年前、当時小学生であった私の記憶 では、母の郷里の滋賀県の農村部で夏休みを過ごした時に、時間を指定して家屋内に留まるよう 有線放送のアナウンスがあり、窓ガラス越しに見ていると、周囲一体にヘリコプターによる農薬 散布が実施されて、飛んでいるトンボが酩酊状態で窓ガラスに激突する、忘れられない場面を 目撃しました。しかしその当時は無論、その事の重大さに全く、思い及びませんでした。 この頃のアメリカは、日本に比べて遥かに先進の地で、従って、化学薬品による汚染問題も懸念 されつつあったと想像されますが、未だ深刻な事態に至っているという一般の認識は乏しく、 それ故、カーソンの声高な告発は、重大であったと推測されます。今本書を読むと、その主張の 主意は至極もっともで、なぜ当時の人々は、その弊害に思い至らなかったのかと、歯がゆく感じ ます。 でもこれは、後世の人間の傲慢な感想というもので、人類は経験を積み、失敗を繰り返して知識 を蓄積し、事態を改善して行ったと言えます。しかし、化学薬品による環境破壊は、出来るだけ 速やかに解消されるべき重要な問題で、それだけにカーソンの告発には、大きな価値があるの です。 人間が危険な化学薬品を積極的に使用する要因として、カーソンは2つのことを挙げています。 1つは、皮肉なことに、皆がもっと良い、楽な生活を求めるため、もう1つは、私たちの経済の 一部、並びに生活様式が、このような恐ろしい薬品の製造や販売を要求するためです。この適確 な指摘は、人間の業、並びに資本主義的生産様式の弊害をあぶり出します。 また、昆虫防除に化学薬品を使い出してから、人間が見落としている2つの重大なこととして、 1つは、自然そのものの行うコントロールこそ、害虫駆除に本当の効果があること、もう1つは、 ひとたび環境抵抗が弱まると、ある種の昆虫は、爆発的な増殖を示すことを挙げています。 この指摘などは、現在地球の環境保全のために提唱されている、SDGSのスローガンともつながる ものです。正に、時代を経ても、色あせない名著です。

2022年2月9日水曜日

辻村深月著「琥珀の夏」を読んで

辻村深月の作品を読むのは、初めてです。カルトと思しい閉鎖的な教育団体の過去の行状を 通して、私たちの社会の在り様を問う重いテーマにも関わらず、一気に読ませるストーリー テラーとしての才気は、流石です。 しかしテーマが壮大なだけに、キャラクター設定や話の運びの細部の違和感や、物語の終わ りに、まだ問題が解決されていないようなもやもやが残る物足りなさはありましたが、私 たちの幼少体験と記憶を巡る問題、そして教育の理想について、大いに考えさせられる小説 でした。 ミステリー仕立てでもあったため種明かしは避けますが、物語の発端は、かつてこの団体の 子供たちが集団生活を行っていた施設の敷地跡で、少女の白骨遺体が見つかったことです。 その事件の解明に、自らも小学生の時その施設での短期合宿を体験した女性弁護士・法子が 係わって行くことになるのですが、当然の成り行きとして、当時の記憶を遡ることから話は 進んで行きます。 さてこの団体の教育理念は、子供は親から切り離されて集団生活をし、先生の指導の下自主 的に問答という話し合いを繰り返して生活方針を決め、考え方を深めて行きます。私もかつ て子供の集団生活と専門の教育者による教育が理想的な環境を生み出す、という言説に触れ たことがあります。その時にも、親から切り離される子供は果たして幸せなのか、という 疑問を感じました。この小説も正に、この問題が重い影を落とします。 即ち、小学生の時短期合宿に参加した法子は、この教育方針にある種の理想を見て、そこで 垣間見た合宿生活を送る内部の子供に、親愛の情を抱きます。しかし実際に内部で暮らす 子供は、この団体が不祥事を起こしたこともあって、孤立を深めて行きます。 子供の生育には、出来ることなら肉親の愛情を持った見守りが、必要なのではないか?また 教育には理想は大切ですが、それだけに囚われるのは弊害も大きいのではないか?ましてや それを指導する大人も生身の人間であるから、なおさらです。 主人公法子は、殺人を疑われるかつての内部の友達夏美の心を開くことによって、この団体 の過ちを明らかにすると共に、夏美の心に救いをもたらします。それはとりもなおさず、 法子の記憶をも、闇の中から救い出すことになります。

2022年2月1日火曜日

「鷲田清一折々のことば」2267を読んで

2022年1月19日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2267では 作家・姜信子との往復書簡『忘却の野に春を想う』から、歴史社会学者・山内明美の次の ことばが取り上げられています。    季節の暮らしをしてみること、それがきっと    人間の骨格をつくっていくんだ 私も現在、店舗兼自宅の建て替えのために、マンションで仮住まいをしていて、このことば の語るところの意味を、痛切にかみしめています。 私の元住まいは、京町家であったために、老朽化して隙間風が吹き込み、敷地内で建物が 分散して建っていたいたために、冬寒く、仕事をするにも、生活するにも、決して効率的で も便利でもありませんでした。 その代わり、所々にある坪庭や建具の夏、冬に向けての交換が、季節の移ろいを感じさせて くれましたし、行事に即した設えの準備、床の間の掛け軸の交換、店の前や土間、庭や離れ の掃除などの日々の雑務が、日常を過ごしている実感を与えてくれました。 ところがマンション住まいでは、これらのことを感じたり、したりする暇や必要が全くなく、 何か生きているという実感がとても希薄なのです。 慣れればおしまい、かえって負担が少なく、楽である、と言えばそれまでですが、私には これらの諸々がなくなることがとても寂しく、張り合いがなくなるように感じられてなりま せん。 そしてこのような季節の感覚や雑務が、これまでは確実に、私という人間を形作ってきたと 思うのです。新しい家が出来たら、前とはかなり住まい方が変わりますが、どのように折り 合いを付けて行くか、それがもっぱら、現在の懸念材料の一つです。

2022年1月29日土曜日

「鷲田清一折々のことば」2258を読んで

2022年1月10日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2258では 作家ジャン=ジャック・リュブリナの『哲学教師ジャンケレヴィッチ』から、この作家の の哲学の師であるジャンケレヴィッチの次のことばが取り上げられています。    秩序が暴力であるというのは、まさに自らの    正体を隠して人々を安心させ、優しく、静か    に、陰険に麻酔を注入しているからだ。 秩序に暴力が潜むということは、今回のコロナ禍でも、端的に示されたと感じます。 なぜなら、新型コロナウイルスが蔓延し、国民に行動制限が求められた時、国家や行政機関 が果たして、どのような方法でこれを働きかけたかということによって、国民の自由度や 社会秩序への意識が計られ、国家が秩序を維持するために取る強権的な姿勢の度合いが分か ると、感じるからです。 民主主義的な国家の、コロナ感染症に対する国民への働きかけを比較しても、報道で見る 限り例えばヨーロッパでは、初期の段階でマスクの着用やロックダウンが、罰則を伴って 強力に実施されましたが、コロナ禍が続く中で、ワクチン接種が進むに伴って、マスクの 着用義務や飲食店の営業制限は、早い段階で解除されたように感じられました。 これは、国民の行動制限について、国家が短期間に集中して実施し、その後は国民の自由意志 を尊重しようという方針で、取り組んでいるということの現れではないかと、思われました。 つまり、秩序維持のために、素早く強権を発動して、その後速やかに国民の自由意志にゆだ ねるというスタンスを取ったように感じました。 それに対して日本では、最初はなかなかお願いという方法でしか行動制限がかけられず対策が 後手に回り、しかしその後同調圧力が強い国民性もあって、行動制限が比較的良く守られて、 他国に比べて新型コロナ感染者数も、少な目に推移しているように感じられました。 このように、国民性や個人の自由に対する意識等によって、各国の対策や国民の受け止め方 には差異がありますが、新型コロナ感染症の蔓延という非常事態において、社会秩序の維持 にはある程度の強制、つまり隠れた暴力が必要ということでしょう。 このことは、強権的な体制の国家においてより端的に示され、そのような国においては、今回 の感染症がより制御されていることからも明らかでしょう。私たちはこの事実を前提として、 秩序について考えなければならないのでしょう。

2022年1月25日火曜日

福岡伸一著「生命海流 GALAPAGOS」を読んで

ダーウィンが『進化論』の端緒をつかんだガラパゴスは、自然科学好きには一度は行って みたい場所です。しかもその魅力溢れる場所を、かの『動的平衡』の福岡伸一先生が訪れ て、探検記を著すとなると、これは是非読まずにはいられなくなります。 さて、先生の目を通して見るガラパゴスは、やはり魅力に満ちています。しかし単なる 旅行記とは違うところは、先生が冷静で客観的な科学者の視点を持ち合わせていることで、 そのおかげで本書も、凡百の観光書と趣を異にしています。 まずその記述の中の、ダーウィンのガラパゴス諸島訪問時のビーグル号の航路を、出来る だけ再現するために先生が乗船した、マーベル号での日常生活に目を向けると、厳格な 環境保護規制とこの島々の地理的条件により、諸島を巡る船舶のサイズは自ずと制限され ていて、それゆえに先生は、都会生活では考えられない窮屈で不便な生活を、強いられる ことになります。 これも探検の一側面、その制限された船内生活の中で、専属料理人の美味しい食事に疲れ を癒され、そして何より、ガラパゴスの圧倒的な自然の姿に感動させられ、知的好奇心を 掻き立てられます。そのコントラストをなす記述が、心地よかったです。 ガラパゴスの自然環境と、その中に生息する他の地域とは極端に異なる生物について、 我々一般人は進化の袋小路、成れの果てのイメージを持っています。いわゆる携帯電話の ガラパゴス化という言い方が、そのことを端的に表しています。 しかし福岡先生の科学的知見によると、詳述は避けますが、この島々は生物進化の最前線 の場所で、今まさに進行している進化が、手に取るように見えるといいます。この記述も、 この場所の魅力を余すところなく伝えています。 最後に私の一番印象に残っているのは、最終章サンティアゴ島の章で先生が語る、ガラパ ゴスの動物が人間を恐れないことの理由の見解で、先生は、ガラパゴスの動物はその生存 環境に外敵が少なく、余裕を持って生活出来るために、動物が本来持っている、生命と しての知的好奇心が前面に押し出されているためではないか、と語っている部分です。 この記述は、福岡先生自身の生命への信頼と共感を私たちに伝えると共に、生命活動の 本質を現わしているように、私には感じられました。

2022年1月19日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2234を読んで

2021年12月16日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2234では フランスの哲学者ミッシェル・セールの『五感』から、次のことばが取り上げられています。    唇のまわりに、文化が横たわっている。 考えるとは、ものごとを吟味すること、つまり味わい分けることで、そもそもホモ・サピエンス は、語源をたどれば「味わう人」を意味するそうです。 このことは、浅学にして知りませんでしたが、確かに人間の五感の中でも、味覚は視覚と共に 最も日常生活の中で、自覚的に働いている感覚であるように感じられます。 そして視覚は、目の前の情景が意識しなくても、勝手に眼球の中に飛び込んでくるのに対して、 味覚は私たちが意識的に口に運んだものを味わうという点で、能動的な感覚であると、感じ ます。 だからそれだけ、危険なものを飲み込まないためにも、慎重な善悪、良否の判断を要求される 感覚であると思います。そしてそれ故に、味わうことは考えることなのだと、この文章を読んで 感じました。 我々は仕事や、日々の暮らしの中で、ついつい直感的に、あるいは先入観や惰性で、ものごとの 善し悪しや、些細な決定事項を判断することがあり、その結果後で考えると、もっと良い評価や 選択の方法があったのではないかと、自省させられることがあります。 そういう点でも、ものを口に入れて味わうように、いつも慎重に物事を評価、判断することが 必要であると、反省させられました。

2022年1月12日水曜日

「鷲田清一折々のことば」2222を読んで

2021年12月3日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2222では 元ドイツ初の女性首相アンゲラ・メルケルの講演集『わたしの信仰』から、次のことばが 取り上げられています。    謙虚とは無気力の謂いではなく、無限を知った    ことから生まれるポジティブで、希望に溢れ    て生を形成する感覚です。 私も、謙虚であるということは、非常に大切であると考えていて、信念の人であると思わ れるこの元ドイツの女性首相から、このことばが出たことに、感銘を受けました。 というのは、人が謙虚であるということは、自分の考えに固執せず、更には過ちを素直に 認めることによって、柔軟で外に開かれた感覚や思考法を身に付けることであり、そう することによって初めて、誤りのない正しい判断や選択が出来る、と感じるからです。 あるいは、謙虚な態度や言葉遣いで人に接するということは、相手を尊重することになり、 相手からもこちらに、敬意を持った対応を引き出すことが出来ます。そうすれば、互いに より踏み込んだ関係を築きやすい、とも感じるのです。 但し、謙虚が卑屈に転化してしまうと、それは限りない譲歩や自己嫌悪、自信の喪失に 自らを追い込んでしまうので、そこは注意しなければならない、と思います。 要するに謙虚であるとは、自分自身には信念や自信を持ちながら、他者に敬意を持って 相手の話を聞き、物事に向き合うことであると、私は思います。

2022年1月8日土曜日

吉本隆明著「夏目漱石を読む」を読んで

私が本書を読むきっかけになったのは、私も折に触れれて読んで来た漱石の作品を、吉本が どのように読み解くのかを、知りたいと思ったからです。そして実際に読み終えて、私が 漱石の一連の作品を読む中で感じた、わだかまり、ジレンマへの一つの解を与えられたと いう意味において、十分期待に応えるものがあったと感じました。 それは漱石の小説の中に頻出する、親しい男性二人と一人の女性を巡る三角関係に関わる ことで、その典型を示す後期の作品「こころ」では、主人公先生が、同じ下宿に一緒に暮ら す親友Kが下宿の女主人の娘に恋情を抱いていることを知りながら、結果的に彼を出し抜い て、その娘との結婚の約束を女主人と結んでしまう場面で、元から娘に好意を持ったのは 先生が先で、そのことを告げないままにKから彼女が好きだという告白を聞き、かえって 自分はKに打ち明けられなくなって、挙句に抜け駆けをして、その後自殺したKに対して一生 涯、罪の意識を抱くことになる、というものです。 この筋を読んで私は、なぜ先生はKの告白を聞いた時、自分もこの娘が好きであることを 相手に告げられなかったのかと、大変じれったさを感じました。また先生が下宿の女主人に 娘との結婚の許可をもらうまでには、幾度もKにことの経緯を話す機会がありました。更に はこの事件をきっかけに、数十年後先生が自らの命を絶つことも、不可解でした。 それに対して、漱石がこのようなストーリー展開を生み出す前提として、吉本は、漱石が 幼少期に二度も里子に出されるという、過酷な人生体験をしたこと、そのような幼児体験も 起因となって、パラノイア体質を抱えていたこと、を挙げています。 そして漱石の描くこのような男女の三角関係の特徴が、西洋の小説に描かれる三角関係と 著しく異なるところに、明治以降の急速な近代化によってもたらされた、日本人の自我の 形成の特殊性が端的に示される、と語っています。 この日本人の自我形成の不完全さや、個人の意識の確立の不十分さは、今日に至る日本人 の気質の欠点を示すものでもあり、それゆえ、そういう問題をすでに明治時代に題材と した漱石が、今なお多くの人々に読み継がれる要因かも知れません。

2022年1月4日火曜日

「鷲田清一折々のことば」2236を読んで

2021年12月18日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2236では 孔子の『論語』巻第一・爲政第二から、次のことばが取り上げられています。    不知爲不知、 是知也、 訳すと「知らないことは知らないこととする、それが知るということだ」ということだ そうです。 知らないことを、わざと知ったかぶりすることは言うに及ばず、知らないという自覚や 認識がないことに気づくことも、大いに知の世界を広げてくれる。 考えてみれば、ある物事を深く知るということは、まだ十分には知らないということに 気づくことの繰り返しではないか?私にはそう思えて来ます。 まず、初歩的なことを知り、それからまだ少しのことを知っているに過ぎないことに 気づき、更にそこから先を知って、そこでなお自分の知識が生半可なものであることを 自覚して、より深く知ろうとするというように・・・。 つまり、物事を知るためには、対象に謙虚に向き合わなければならず、それなくして 知識の深まりはない、ということです。 つまり、偏狭にならず、物事を大枠で捉えようとする、客観的で寛容な思考態度と、 自分の知識の乏しさや限界に対して謙虚である思考姿勢が、本人の知ることへの意欲を 高め、知識、知恵を深めるのではないでしょうか? 私はこのように考え、自分の知を鍛えるということに、取り組んで行きたいと思います。