2022年6月7日火曜日
「鷲田清一折々のことば」2338を読んで
2022年4月2日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2338では
文化人類学者・渡辺靖の随想「余白なき時代に」から、次のことばが取り上げられています。
デジタル時代の怖さというのは、デジタル技
術が私たちを支配することよりも、むしろ私
たち自らがデジタル化することにある
この指摘は、なるほどと思わせます。私自身の最近のものの考え方を辿ってみても、直ぐに
分かりやすい答えを求めたり、明確な結果を求める傾向にあるように感じます。
それは、世の中がせちがらくなって、あるいはコロナ禍により生活にゆとりがなくなって、
また人と接触する機会も少なくなってそれぞれが孤立し、余裕を持ってものを考えることが
出来なくなったことも、確かに理由としてあると思います。
でも、デジタル化の進展によって、我々の思考方法が劇的に変わった、というのも大きいと
感じます。例えば、何か物事を調べるにしても、従来なら辞書で調べたり、そのことに詳しい
人に尋ねたりしていたものが、現在では携帯やパソコンで検索したら、直ぐに一定の答えが
得られます。このような環境にあると、私たちは知らず知らずのうちに、色々な物事に直ぐに
答えや結果を求めるようになる、のではないでしょうか?
また、最近のニュースや出来事にしても、SNSの空間で直ぐに色々な評価や批判の声が寄せ
られて、私たちは気づかないうちに、自分の思い込みでそれらの事象を短絡的に解釈して、
それで済ませてしまうということが、多分にあると感じます。
このような環境に慣れてしまうと、物事を広い視野や長いスタンスで深く掘り下げて考える
ことや、他者の気持ちに寄り添って自らの言動を決めるようなゆとりがなくなって、無味乾燥
な世の中になって行くように感じます。
デジタル化の時代と言えども、そこから一定の距離を置いて、自分の立ち位置を定めるという
ことも必要なのでしょう。
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