2022年5月31日火曜日

瀬戸内寂聴著「諧調は偽りなり 伊藤野枝と大杉栄」」を読んで

上記表題作品の後編です。この刊のトピックは言うまでもなく、憲兵大尉甘粕正彦による、大杉と 野枝、それにまだいたいけない甥の宗一の虐殺です。しかしその前に、直前の大杉のベルリンでの 国際アナーキスト大会出席のための外遊に、触れたいと思います。このエピソードは、まるで一編 のスパイ映画のようです。 アナーキストとして当局に厳しくマークされていた大杉は、簡単には海外に出られません。そこで 中国人留学生名義の旅券を取り寄せ、常に見張っている尾行を欺いた上、この人物に成り済まして まんまと出国に成功します。 また、当局の締め付けによって経済的に窮乏している彼が、当時莫大な海外旅行の費用を工面する のも大変なはずですが、仲間からのカンパのみならず、友人の作家有島武郎からまとまった金を借 りて用立てします。アナーキスト仲間の結束は固く、また彼らにシンパシーを感じる、有島のよう な資産家知識人も存在したのです。 上海経由でフランスのパリに着くと、この国に滞在する日本人の昔の友人を呼びよせ、モンマルトル の歓楽街で遊び暮らします。そうして、この国でも厳しいアナーキストの取り締まりをかいくぐって ベルリン行きを目指しますが、メーデーの集会で演説したことによって逮捕され、国外追放となって 日本に帰国します。 これら一連の彼の行動は、一見荒唐無稽なようですが、大杉の国際的なスケールの行動力や懐の深さ といった魅力を、良く表していると感じます。 さていよいよ大杉らの虐殺事件です。関東大震災後アナーキスト、朝鮮人たちが暴動を企てるという 流言飛語が飛び交う中で、大杉らが警察に連行され殺害、首謀者として甘粕が逮捕され、その供述に よって憲兵隊構内の井戸から、無残な姿の三人の遺体が発見されたというものです。 本書の記述は、この部分に至るまで躍動感に満ちていますが、ここから一転、歯に衣を着せたような 表現になります。それもそのはず、この事件については現在に至るまで、詳細が不明です。ただその 死亡鑑定書が発見されて、彼らが暴行を受けた後殺害されたことが、明らかになりました。彼らの 予防拘禁が故意に遅らされたことも含め、軍の組織的な犯行であったのでしょう。大杉はそれほどの 影響力のある人物として、国家権力に恐れられていたのでしょう。 「美は乱調にあり」から「諧調は偽りなり」まで全巻を読み終えて、我が国の軍国主義の暗黒の時代 の反逆者大杉栄の時代を画する八面六臂の活躍、仲間たちの熱い結束、そして何より野枝いてこその 大杉であったことを知りました。元来とかく女性は、男性の英雄的人物の陰に隠れがちであったにも 関わらず、彼女にも強い光を与えなければならないと思わせるほどに、伊藤野枝も確たる存在感を 有する人格だったのです。

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