2015年2月27日金曜日

オイゲン・ヘリゲル述「日本の弓術」を読んで

およそ90年前、日本に招かれたドイツ人哲学者が、5年間の我が国滞在中
日本の文化を深く学ぶため、我が国の伝統武術の一つである弓術の
習得に真剣に取り組み、帰国後ドイツ人の聴衆のために行った講演の
記録の翻訳です。

昭和十六年に早くも岩波書店より刊行され、西洋人が弓という手段をもって、
日本の伝統的精神修行を実践した経過の誠実な記述として、大きな反響を
呼んだといいます。

書店のロングセラーのコーナーでたまたま見つけて手にしましたが、
ヘイゲルの体験から100年近くを隔てて読んでみると、西洋人の目から見た
日本の伝統武術という視点だけではなく、我が国古来の精神世界、価値観が
失われつつある今日の私たちの社会にあって、なくしたものを再発見する
という新たな視点も、大変興味深いものとして立ち上がって来るように感じ
られました。

彼が弓術を始めるにあたりまず驚かされたのは、それを習得するための
目的と手段であったといいます。というのは、西洋にももちろん弓は存在
しますが、彼の生きていた時代のその道具は、旧来の武器という性格を
離れてスポーツとして楽しまれていたのです。

それゆえ彼は日本の弓術にあっても、競技に勝つために技術を修めるものに
違いないと、考えていました。しかしヘイゲルの師匠が彼に伝えた弓術の
目的は、精神を鍛えることであり、道を究めることであったのです。そこから
カルチャー・ギャップに直面した彼の悪戦苦闘が始まります。

目的が練習による技巧の習得ではないということで、第一に彼が求められた
のは、邪念を捨ててひたすら無心になるということでした。力に頼らず、呼吸に
合わせて自然に弓を引き、矢が放たれるべき時に無意識のうちに、流れの
ままに放たれる。師匠は彼にそのように説き、ただ弓を引き絞り、放つ動作を
繰り返させたのです。

ヘイゲルは懸命に師匠の教えに従おうとしますが、的の前に立って矢を射る
段階になって、最後に大きな壁に突き当たります。つまり彼の心から、どうしても
的に命中させたいという意識が抜けないのです。

しかし、とうとう彼の訴えを受けての師匠の闇の中での試技を目の当たりにして、
的は眼中になく、心を集中して無念無想で弓を引き、自然に放つことによって
結果として的に当たる心のありかたを会得するのです。

あくまで、合理性やスピードを究極の目標とする今日の社会に生きる私にとって、
このようなものの考え方は、この上なく新鮮に感じられました。

2015年2月24日火曜日

漱石「三四郎」の中の、肖像画に描かれる美禰子を見ての三四郎の感慨

2015年2月20日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第九十六回)に、原口さんが美禰子をモデルに肖像画を描く様子を
間近に見て、三四郎が抱いた感慨を記する次の文章があります。

「静なものに封じ込められた美禰子は全く動かない。団扇を翳して立った
姿そのままが既に画である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を
写しているのではない。不思議に奥行のある画から、精出して、その奥行
だけを落して、普通の画に美禰子を描き直しているのである。
にもかかわらず第二の美禰子は、この静さのうちに、次第と第一に
近づいて来る。三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に
触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。その時間が
画家の意識にさえ上らないほど従順しく経つに従って、第二の美禰子が
漸く追付いて来る。もう少しで双方がぴたりと出合って一つに収まるという
所で、時の流れが急に向を換えて永久の中に注いでしまう。」

芸術がまさに生まれつつある瞬間を見事に描写した、美しい文章であると
感じました。私はこの言葉を追っていて、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」
の中の、ゴーシュが動物たちに見守られて楽器を習得する過程の表現を、
すぐに思い浮かべました。

芸術に造詣が深い人、あるいは、芸術家と親交があってそのような現場を
目撃出来る人、さらには、その瞬間を心で受け止めることが出来るだけの
鋭敏な感受性を持ち合わせている人、そんな限られた人でなければ、
とてもこのような表現を生み出すことは出来ないでしょう。

漱石も、自らが傑出した小説家であるのみならず、他の芸術分野に対しても
並々ならぬ感性を有していたことが、この文章からうかがえると思いました。

2015年2月22日日曜日

漱石「三四郎」の中の、新聞報道に例えた世相の考察

2015年2月18日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第九十四回)に、広田先生の宅に先客として訪れていた柔道の
学士の男が、自らが中学校の教員を辞めた経緯と窮状を語るのを
聞いても、聞き手の先生と三四郎が一向に、真に同情する気に
ならない心の有り様を考察して、三四郎が感慨を述べる次の記述が
あります。

「なぜというと、現代人は事実を好むが、事実に伴う情操は切棄る
習慣である。切棄なければならないほど世間が切迫しているのだから
仕方がない。その証拠には新聞を見ると分かる。新聞の社会記事は
十の九まで悲劇である。けれども我々はこの悲劇を悲劇として味わう
余裕がない。ただ事実の報道として読むだけである。」

漱石はこの例えに仮託して、当時の人々の他人への無関心と薄情を
嘆いて見せているのでしょう。では、現代の私たちの社会ではどうで
しょうか?

高度資本主義の発達と、核家族化に伴って、他者は無論、家族との絆も
ますます希薄になって来ています。グローバル化や情報社会化で、
私たちを取り巻く世間はずい分と広がったようで、実は個々の心に
防御のための厚い壁を作っているようにも見えます。

そのような世相では、新聞報道はどのように受け取られているのでしょう。
私たちは、あまりにも目まぐるしく変化する社会の動きに振り回され、
また、許容量を超えた情報の洪水に、じっくりと物事を考える余裕を失って
いるようにも感じます。

その結果として、目新しくインパクトのある記事(情報)を求め、なおさら
あたふたとする。どうやら漱石の時代より、さらに症状は進行している
ようです。

2015年2月20日金曜日

アゴタ・クリストフ著「悪童日記」を読んで

第二次世界大戦前後の戦渦と、激動する社会情勢に翻弄される人々を
題材とした小説は数多ありますが、この作品は、読む者に極めて特殊な
印象と読後感をもたらす小説です。

本作の主人公である双子の少年は最初、戦闘の次第に激しくなる
都会から、田舎で孤独に暮らす底意地の悪そうな母方の祖母に、無理矢理
預けられるいたいけな少年たちとして登場しますが、彼らが同年輩の普通の
少年と著しく特徴を異にするのは、彼らが並の大人を軽々と凌駕する冷徹で
鋭利な頭脳、何事にも動じない強靭な意志と行動力を持っているからです。

しかも彼らは、一般の道徳観念には縛られない特殊の倫理観で、一貫して
任務を遂行します。その姿は清々しくさえあります。

そしてさらに重要なのは、彼らがまるで二人が一つに合体したかのような
存在であること、一人一人が目的のために互いを肉体的、精神的に鍛え、
高め合いながら、またあらゆる困難に直面して一方が他方を守り、他方が
一方を補い、統一した考え方の下、一体となって行動することです。

この超然とした二人が次第にしたたかさを増し、ついには、どんな社会情勢
にも脅かされない存在者となって、過酷な戦争に振り回された挙句、我欲に
突き動かされ、あるいは自暴自棄に陥る銃後の人々の愚行を、一心同体の
視点で冷徹に見つめます。

本書では牧師、軍人、刑事が、特権的な立場の隠れ蓑をはがされて痴態を
露呈し、反対に日頃虐げられる貧しく被差別的な人々が、その境遇は
かえって悲惨さを増す中においても、自分自身の置かれた立場に対して
忠実に生きる人間として、ある種の親愛の情をもって描かれます。

それはあたかも大きな戦争のうねりの中で、大国に翻弄される著者の母国
ハンガリーの姿の写し鏡であるかのように、私には感じられました。

小国の立場から、あの世界大戦の実体を見事に描き切った、秀作です。

2015年2月18日水曜日

漱石「三四郎」における、三四郎が貸した三十円の値打ちについて

2015年2月16日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第九十二回)に、三四郎が母に無心した三十円の使途について、その
金を彼女が野々宮さんに託し、本人に直接確かめてくれるようにとの
依頼を受けて、野々宮さんが三四郎に問いただす会話の中に、三十円の
値打ちを巡る次のやり取りがあります。

「なに、心配する事はありませんよ。何でもない事なんだから。ただ
御母さんは、田舎の相場で、金の価値を付けるから、三十円が大変重く
なるんだね。何でも三十円あると、四人の家族が半年食って行けると
書いてあったが、そんなものかな、君」と聞いた。

「そうすると、月に五円の割りだから、一人前一円二十五銭に当る。
それを三十日に割り付けると、四銭ばかりだがーいくら田舎でも少し
安過るようだな」と野々宮さんが計算を立てた。

三四郎も後悔する暇がなくなって、自分の知っている田舎生活の有様を
色々話して聞かした。その中には宮籠という慣例もあった。三四郎の
家では、年に一度ずつ村全体へ十円寄附する事になっている。その
時には六十戸から一人ずつ出て、その六十人が、仕事を休んで、村の
御宮へ寄って、朝から晩まで、酒を飲みつづけに飲んで、御馳走を食い
つづけに食うんだという。

これらの記述が、その当時の都会と田舎の生活の落差、さらには、
其の頃にはまだ田舎には形をとどめていたであろう、村社会のハレと
ケを巡る習俗の名残りを活写していて、とても面白く感じました。

私は時々、近代化した現代の社会とそれ以前の社会に、大きな文化的な
隔たりが存在するように感じることがあります。しかしそれが具体的にどの
ようなものなのかを、なかなか実感することは出来ません。

このような文章を読んでいると、今よりも生老病死が身近な上に、
貨幣経済は未成熟であり、日々の生活の中で、人びとが喜怒哀楽を
全身で発散していた村社会が見えるような気がします。

2015年2月12日木曜日

私たちの店の、染め加工のポリシーについて

私たちの店は私の祖父の代に、広幅の白山紬を中心に商う、白生地の
専門店として産声を上げました。

当時は主に関西以西で、結納の時などの贈答に使用する家紋入りの
風呂敷用として、各巾の白山紬の白生地の需要が多くあり、
風呂敷という性格上、一枚づつを必要とする和装業界の顧客の
要望にも応えるために、カットして一枚単位から販売していました。

このような白生地の卸、切り売りの業態の店は、その当時は京都に
何軒かあったようです。

父の代になって、各種、各巾の絹の白生地に和装業界だけではなく、
工芸家や染色教室、洋装業界などから多様な需要が生まれて、
取り扱う生地のバリエーションが増えて行きました。

私の代になって、和装離れが顕著になり、染織などの工芸に興味を
持つ人も以前から比べてグッと少なくなり、それに伴い白生地の
需要も細って行きました。

そのような折、帯揚を白生地から一枚づつ、好みの色に染めて
もらえないかという要請がお客さまよりあり、それ以前にも着物用の
反物などを染屋さんに染めてもらうことはあったので、その方に
相談したところ時節柄引き受けて頂き、今日に至っています。

今ではそのような経緯で、好みの帯揚を一枚から求められる店という
イメージが定着していますが、ただ私たちは白生地の販売が原点
なので、染上り品を販売するのではなく、あくまで白生地をお好みの
色に誂え染めするということに、これからもこだわって行きたいと
思います。

2015年2月10日火曜日

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ下ー天正少年使節と世界帝国」を読んで

しかし何という運命の悪戯、境遇の落差でしょう!九州のキリシタン大名を
始め、信徒たちの期待を集めて出発し、ヨーロッパのカトリック社会で
盛大な歓待を受け、バチカンで法王に祝福された少年使節たちが、8年後
日本に帰還した時には、キリスト教を巡る我が国の社会環境は、180度
変貌していたのです。

織田信長に代わり天下人となった豊臣秀吉は、キリシタン弾圧へと方針を
大きく転換します。その流れの中で帰国した少年使節でしたが、以降、
時代の趨勢を押し止めることは出来ず、徳川家康が正式の禁令を出して、
キリシタンへの弾圧は苛烈を極めるのです。

当時の我が国の政権の、キリスト教に対する対応方針の劇的変化は、
無論、為政者の資質によるところが大きいのですが、世界的に見ても
国内事情においても、社会環境の急激な変化を反映するものである
ことを、本書は教えてくれます。

つまり、いち早く世界進出を成し遂げて隆盛を極めたカトリック国、
スペイン、ポルトガルの覇権は、次第に新教国、オランダ、イギリスに
取って代わられ、日本との交易においても、オランダが自らの有利な
地位を獲得する手段として、宗教を利用して植民地化を謀るカトリック国の
危険性を時の為政者に吹き込んだこと。国内的にも、天下統一を達成した
為政者は、自らを頂点とする封建体制の維持のために、外部勢力の
影響や内部の異分子を、極力排除しようと努めたのです。

徳川の治世の長い鎖国時代を、近年再評価する傾向もありますが、
国際社会の中での開放度、人民の思想信教の自由という観点から見れば、
その直前の時代より著しく後退した社会であったのです。そしてその残滓は、
今日の私たちの社会にも、なお影を落としているように思われます。

2015年2月8日日曜日

龍池町つくり委員会 13

2月3日に、第31回龍池町つくり委員会が開催されました。

協議事項としてまず、先日実施された「新春着物茶話会」の結果報告が
行われました。

参加人数は17名でしたが、ただし参加者は旧来からの地区住民関連、
京都外大関係者、委員会メンバーで、残念ながら新規の申し込み者は
ありませんでした。

しかし、参加された方々には大変好評で、着物という今日では非日常の
衣装を着用しての茶話会が、忘れられない特別な体験となったという
感想が多く聞かれました。

龍池学区は和装業界と縁の深い地区なので、着物の魅力を地区住民に
もっと知ってもらうという意味でも、このような茶話会を継続して実施
出来たらという意見や、新規に参加しようとする場合に、まだまだ参加の
ためのステップが高いので、参加を募る方法を工夫しなければいけない
という意見が出ました。

次に27年度の事業計画案として茶話会関連では、近所同士の助け合い
「近助(きんじょ)」をテーマとした、地域防災につながる催し、また、
間もなく学区内にNHK京都放送局の会館がオープンするので、それに
ちなんだ催しの実施を働き掛けることが出来ないかという提案が
ありました。

さらに、学区民に地域をより良く知ってもらうための、ハンドブックの制作を
進めるということも決定されました。

最後に、京都外大の南先生より、先の大震災からの東北の復興状況を
見ても、ここに来て地域コミュニティーが健在な地区の復興が、他より
すみやかに進んでいるようだという興味深いお話があって、コミュニティー
再構築の必要性を痛感しました。

2015年2月6日金曜日

漱石「三四郎」の中の、晴れがましい会の受付をする三四郎のいでたちについて

2015年2月4日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第八十五回)に、与次郎に乗せられて、彼と一緒に精養軒の会の
受付を勤めた三四郎が、自らの身なりについての感慨を述べる
次の文章があります。

「その時三四郎は黒い紬の羽織を着た。この羽織は、三輪田の
お光さんの御母さんが織ってくれたのを、紋付きに染めて、お光さんが
縫い上げたものだと、母の手紙に長い説明がある。」

「三四郎はこの出で立ちで、与次郎と二人で精養軒の玄関に立っていた。
与次郎の説明によると、御客はこうして迎えるべきものだそうだ。
三四郎はそんな事とは知らなかった。第一自分が御客のつもりでいた。
こうなると、紬の羽織では何だか安っぽい受附の気がする。制服を着て
来れば善かったと思った。」

和装業に携わる私としては、こんな記述が気になります。あれこの時代、
紬の黒紋付きより大学生の制服の方が正装だったのか!もちろん、
少しくだけた素材の紬ではありますが、黒紋付きの羽織ですから、今の
慣習では十分に正装だと感じるのですが・・・

そういえば現代でも、正式なお茶会では紬の着用は控えるべきという
ことなので、私の認識がやはり間違っているのかもしれません。

しかし、和装離れが進んだ今の社会の一般的な感覚では、着物を着る
ということが、何か改まった特別なことと感じられます。

時々お客さまから、ちょっと晴れがましい席で、紋付きの色無地着物を
着用してもおかしくはないかと相談を受けるのですが、場にもよりますが
今の世の中、着物を着る事自体が先方に儀礼を示すことなので、非礼では
ないと思いますと、お答えすることにしています。

着物の時代も、ずい分遠くなりにけりということでしょう。

2015年2月3日火曜日

ジャン=ピエール・ジュネ監督 映画「天才スピヴェット」を観て

「アメリ」のジュネ監督による、ラルフ・ラーセンの小説「T.S.スピヴェット君
傑作集」の実写映画化作品です。一見有り得ない天才科学少年と奇妙な
家族の織りなす荒唐無稽なお話ですが、実は普遍的な家族の喪失から
再生への軌跡を描く物語です。

T.S.スピヴェットは天才的な頭脳を持つ少年ですが、モンタナの片田舎に
時代遅れのカウボーイの父、昆虫学者の母、女優志望の姉、そして父の
血をもっとも引き継ぎ、家族に愛されている彼の双子の弟と暮らして
います。

彼の常軌を逸する才能は、周囲の人びとは無論、家族にさえなかなか
理解されませんが、各々の個性を尊重する家庭で、それなりに充実した
日々を送っていました。

しかし銃の暴発事故で目の前で最愛の弟を失った彼は、以降家族の
心がばらばらになって行くのを感じ、自らも弟の死を防げなかった
罪の意識に苛まれて、折しも自身の投稿論文が、権威あるスミソニアン
学術協会が最も優れた発明家に授与するベアード賞に選ばれたという
知らせを受けて、親に内緒で大きなカバンを抱え、協会のあるワシントン
まで大陸横断の無銭旅行に出ます・・・

都会にうごめく大人のエゴイズムをチクリと風刺しながら、少年の大胆な
行動によって、家族それぞれが掛け替えのない一員を失ったことにより、
無意識のうちに心を閉ざしていたことに気づかされる。

各々の個性が突出した奇想天外な家族の普通とは違う喪失感と、誰もが
納得できる絆の再生のドラマを共存させることによって、ジュネ監督は
現代社会における家族のありかたの一つの理想を、追求しているように
思われます。